2010年10月30日土曜日

わからぬなら黙れ

「わからぬなら黙れ」

という感じがしたので、数日黙ってみた

全休先生の昔の記事で、自力の1階、他力の2階 というような話が書かれていたことがあったのだが、1F をしっかりしないと、2F にはあがれんのだ というような話で、1Fの自力宗派がしっかりせんから、他力宗派の真宗が自力もやらにゃならん とか書いてあったように思う

慧海はまだまだ自力

自力たって、何かできてる訳じゃない
できやしないけど、何かしなきゃどうにもならない
だからやる

それだけの話

わかった人には、他力がわかるようだ
他力を感じれるまでは、自力の世界をがんばるしかない

中途半端に自分の思い通りにはならない事を知ったので、
昔のように自己実現とか言って、自分創造はもうできない

適当に逃げて、得意な仕事をさらっとやって、思いを放置する訓練でみにつけた、思いにのまれない感覚を処世術に面倒な仕事もそれなりにこなす
あとは趣味の時間と酒飲み時間で日々をすごす

そんな堕落生活を送っているのだから、自力の極みもわからんだろう

それでも、自分をみながら生活するしか ないのだよ

真理なんて、なにもわかりゃしないけど
自分の中にある勝手にうごくものを勝手にさせとくこともできんのだよ

足跡くらいは追い続けていかないとね

2010年10月26日火曜日

仏を妄想しないように読む

全休先生の「仏が見ておられる」に
一念とは一瞬の体験であり、信心を得るとは智慧が生ずることです。智慧とは煩悩が見える眼であり、むこう側からこちら側を見る眼で、凡夫に属する眼ではありません。憶念とはわたしを見る仏の眼の中にわたしがいるということであり、わたしの眼でわたしを見るのではない。よって、わたしが仏を忘れようと、仏はいつもわたしを見ておられます。
とあった

を、これは慧海への回答か?なんて思ったりしつつも、
この手の言葉は読み手の力量を問われているように思える

何が力量かというと、仏を妄想しないで読めるか という意味での話だ

仏の眼とは?
仏はいつもわたしをみておられるとは?

そのまま読めば、自分の外に仏なるものを想像し、
その仏の眼の話をしているように読めてしまうだろう
それでは、仏道ではなく外道となってしまうのだそうだ

じゃどう読むのだろうか
先生の過去の記事にあるように、仏を智慧と読むことで、「仏の眼」とは「智慧の眼」と読みかえられる
じゃ、智慧がいつも私をみてる というのはなんじゃらほい?
それは、その上の行にあるように「智慧とは煩悩が見える眼」と書いてあるのだから、「煩悩が見える眼はいつもわたしをみている」ということになるんだろう
じゃ、仏は何をみているのか…そりゃ、煩悩の見える眼でみえる私とは煩悩以外にないではないかw
煩悩とは、三毒やら分別知やらと読み替えられる訳で、端的に言えば慧海のような凡夫以下のヤツの心のことなであり、ああ、慧海のことか! とか思ったあなたの事だ!w

そうするとなんだ、「わたしが仏を忘れようと…」ってことは、自我としての私が煩悩を見る眼を忘れようとも…ってことになってだなぁ… これまた先生の過去記事にあるように、見られる私(自我?)から見る私(真我?)になるってことで、私が私を見るのではなく、私が私を見るのだ って言葉は一緒じゃん!w

信心の獲てないヤツは仏道を語る資格がないんで、
そろそろ黙っとけつ~こった

まぁ油断無く自分の心をみておけ って事しかできんのだよ!
今の慧海には私の目で私の心を油断無くみるしかないってこった

慧海のあたまにゃ、
仏に逢うては仏を殺せ 祖に逢うては祖を殺せ だ!



…やっと届いた、わが名を称えよ を読みながら聞法しようっと

2010年10月25日月曜日

知らない事が腹立たしい

昨日の記事を書いたあとに気が付いた

既にそのモノが欲しいのではなく、そのモノを期待通りに入手できない事に執着している自分の頭があった

仕事をしていて問題が発生した場合、問題を解決させる方策があればそれを実施してみて結果をみればいいと考えられる。しかし、その問題をどうやって解決させるかがまったく思い当たらないとなると、その問題は何が問題であるかから理解してからじゃないと問題解決作業に入れないのだ

よく上司とかには、余計な事を考えないで問題となっている現象を回避させるように仕事をしろといわれたのだが、1足りないから1足した みたいな対応は問題を解決したことにならないと思っているので納得がいかないのだ

で、物欲の話に戻すと

どこのお店でも同じ商品を同じ値段でしか買えないのなら悩まない
世の主婦の方々が、近所数箇所のスーパーの品質と値段に悩むのは
同じものが同じ値段でうっていないからだろう
そこに、損得の感情がのり、時間と労力はタダという感覚から
数件のスーパーをはしごして、肉と野菜を別々にかったりするのだ
この場合、どこのスーパーに行けばよい というのが解決方法だが
このスーパー情報がないと求めるモノを獲る事がむずかしい

慧海の物欲もにたようなもの

わが名を称えよ は そもそも売ってない
そういう売ってないもの 売り切れているものを買うとなると
定期的に情報検索をしなければならない
情報がみつからないと、長い時間ネットであれこれと
宝探しをすることになる

他にもPCやら家電やらの機械類は、特価商品がでる
それを探すしかないのだが、これもタイミング
機械類は、そもそもの規格がわからないとドレを買えばいいかがわからないので、それを勉強してからじゃないと、判断ができない
なので買う前に勉強しなきゃイケない
そんな中、安い! という商品がでたりすると、あせるのだ

最近は携帯電話を買ったりもしたので、これまた悩む
携帯はプランやら買換えやらで値段が全然違うし、メーカ色もそれぞれ違う
ミスれば2年縛りがまっているのだから、余計に悩む
長年つかうメリットがなくなった最近の携帯なので、2年毎に継続するか、他社切り替えするかを悩まないといけないのだ

ドコモはSIMのロックをなくす とかいううわさもあったので、端末とSIMを分けて考えられるようになるのかもしれないが…

そんなわけで、知らない状態で世間様のお得情報に振り回されて、あわあわ と踊ってしまったが、段々わかってきたら、手を打てそうなので落ち着きだしてきた

慧海は、分別の虜だなぁ

ところで、慧海の わが名を称えよ が届かない…
23日に発送し、一両日中に届くだろう というのだから今日位にきてるかとおもったのだが… 明日には着てくれるだろう…
わからない ということは不安である ということ
わかろうとしなけりゃ、不安はなくなるのになぁ

2010年10月24日日曜日

物欲が止まらない

欲しいモノができると、頭の中はいつも大騒ぎだ
いかにして得をしようかと頭はその事ばかり考える
手に入れたら手に入れたで、期待と違っていたりして
また大騒ぎだ
認知的不協和を解消させるため、あれやこれやとまた考える

欲する心を相手にしなければ、とても楽なのに…

わかっているのに、一度欲しくなると止まらない

今買うのが安いのか?
一ヶ月まったら値が下がるのか?
それとも在庫がなくなって逆に値があがるのか?
ドコで買うのが一番安いのか?
どこにその情報がある??

そんな事ばかり考えて、段々と
今動かないと損をするんじゃないか?
って気になり、何故それが欲しいのかじゃなく
どう買うかが問題になってくる
目的と手段を取り違えてしまう
それどころか、正気すら失ってくる事すらある
手に入れるまでは落ち着いて過ごせない

これは実際の買い物の話ばかりではない
評価であったり、機会であったり、改善状態であったり…

だんだん強迫性障害の状態に近くなっていく


僕が手に入れるべきものは、向こうからやってくる
向こうからやってこなかったのなら、必要のないもの

そう考えて過ごしていた時期は実に楽だった

世の中は、何かにとらわれたら最後
自分で抜け出すまで生死をくりかえす…

2010年10月23日土曜日

聞法は大事

全休先生の記事「無念無想で生きている」の
わたしたちが“自分”だと思っている思いや感情は自動機械のように自然に湧いてくるのであり、「全くわれわれが考えてやっていることではない」。自然に湧いてくるのだから、わたしの努力の結果でもなければ、自由意志で起こしたわけでもない。わたしたちは自由意志というものをかつて一度も起こしたことがなく、「人間というものは本当は無念無想で生きているのである」。仏になろうとしなくとも、そのままの仏なのです。
という言葉があった
ああ、宿業 ってことだな などと、知識として認識し、そして、
苦しい時にはこの宿業感にホっとした覚えすらある

なのに、先日読んだ時には、なにか認めたくないような、寂しいような、抵抗してみたくなるような、そんな感覚があって、それ自体もまた、認めたくないような気分だった

その翌日、「すでに救われている」で
宗教はすべての者を平等に救うという。なにかを信ずることで、あるいは特殊な経験を得たものだけが救われるのではなくて、すでに誰もが救われている、そのことに気づきなさいと教えます。あらためて救いを求めようとする、それが迷いというもので、求めることをやめれば、その瞬間が浄土の真っ只中です。

求める人の苦悩の滑稽さは、あたかも、道路の真ん中で腹ばいになって「溺れる、溺れる」と騒いでいる人のようです。「どこに水があるの、立ち上がりなさい」と教えてあげるのですが、気づいて立ち上がる人はほとんどいない。もし気づけば、その滑稽さに大笑いする違いない。
の記事をみて、ああ、そうか となんかすっきりした気になった
その日は地に足が着いているような、そんな感覚を強く感じた
さらに、「無念無想で生きている」の記事をみてもすんなりと、そうだな と思ったりするという、僕の立ち位置みたいなのが変わるような言葉だった

やっぱり全部自分の中での出来事なんだよね
しっかり地に足つけて、余計な妄想を交えず、ちゃんと見よう

救われた という部分が慧海にはイマイチ薄いが、地に堕ちて、やっと自分の足で立つことを知った
自分の足で立ち、自分の五感で感じることに意識を向ける事で、五感の知ることにどう妄想が入ってくるかを知った
そして、自分の妄想に乗っからないでいるにはどうしていればよいかを知った
これがわかっただけで、世の中を過ごすにはずいぶんと楽になる

残念な事に、知ったことは、よく忘れるw
慧海は3ヶ月ほど聞法を怠けた
結果、自分で感じたことすら忘れた

アレやらコレやらが欲しいとか、暇だけど新しい仕事すんのがめんどいな とかそんなことばかり考えてたり、あれやこれやとやることが溜まって、追われるように片付けていたりするのも、同じようにふわふわと地に足をつけずに日々を過ごす事になっている
そして、なんとなくアセアセ イライラとした日をおくるのだ

この記事をみて、ああ、そうだった と思い出したという感じだ 


「内観の念仏」の記事に
自分の心をよく観察して、いっときも油断なく観察できるようになれば、やがて、見られる心があなたなのではなく、見る眼があなたになる、そういう転換が起こるでしょう。
とあった
ブログ立ち上げ時の記事なんで引用させてもらっては無かったが、
この記事は実に慧海のような初心者向きな言葉だと思う
こうなるまで、何をしろ と書いてあるからだ

とはいっても、実際にやれるかは別
もちろん頑張ってみるのだが、油断無く観察がドンドンできなくなっていっている

観察する事に慣れというのがあるのかな?

元々油断無い観察ができていないが、感情のヤバそうなものだけは自動アラートが出るくらいの観察が最初の頃とちがって、強く意識することなくできている
逆に、観察している事を忘れる

車の運転で、ドコをみるか を意識してた最初の頃から、意識しないで色々みることができるのと同じような感じではあるが、頭が勝手に動いているという事なので、無自覚でいることをやめるべく観察してたはずが、また無自覚になるという事になって、本末転倒な状態なのだ

釈尊の教えが正しいかは実践してみて苦が減れば正しい と言う言葉を読んだことがある
であれば、実践した結果、楽になった部分はまちがっちゃいないんだろう

そのあたりも観察しつつ、地に足をつけていきてきたいものだな


こうやって、全休先生の言葉をよんでは、自分の事を振り返る
慧海にとってはこれが聞法の一部なので
あとは、日々?寝ながら?? 自分の心と体の声をきくだけ


新しいブログのエディタはイマイチだな…
入力領域が狭いからかな?
ちょっと運用方法も検討しよ…

2010年10月21日木曜日

色合い変えましたよ!

会社の元同僚が、新しいブログのタンポポブログを見た後に
白い画面みると目がおかしくなる!
とクレームがつきましたw

ええ、わかりましたよ!

と、いうことでバック変えました

これでどうですか?


今後、リアルでのブログの質問、苦情等は、酒飲みながらに限定ですよ!w
さぁ飲みに行かない同僚はどうされますか?w
なんなら、コメント書いてもらってもいいですよ!w

病んでなくなった人向けには、会社で話すネタでもないわけですしね

古本ゲットだぜ?

「わが名を称えよ」をよみたくて、なんどか検索していたのですが、
古本がみつかならいでいました

今日もふと思い出して調べたら…ありました!

・わが名を称えよ
・櫛谷宗則 編
・カバー・帯付 四六判 美本 使用感なし
・1989
・1.00
・2,500
・柏樹社

1500円位の本だったようですが…いたしかたないですね
まぁ使用感なし ってことでよしとしましょう

早速申し込んではみましたが、まだ入手できたかはわからないです
兵庫から送ってくるようですので、送料とかも付くんでしょうね…

楽天で月末まで限定の1000ポイントがあるので、
楽天ブックスでも1冊本を買おうかと思っているのですが…
コレという一冊にきめられませんね

全休先生のお勧め本の順番だと、浄土三部教の真実 が最初のようですが
蓮如の本も気になるけど、コレは図書館にあったのでまずは借りてみよう
かと思ってます
〈定本〉歎異抄も読んでないですね…

わかりもしないのに何冊もの仏書を読むより、1冊を何度もよんでみたいと
思ってますが…その1冊がこまります…

他にもあれやこれやと欲しいものがあって…

さてさて、どうしましょう

2010年10月19日火曜日

やめやめ!

4年目という事、新しいブログという事で、語調をデスマス調に変えて記事をかいてきた
慧海にとって、デスマス調は社会生活を送るときに使う言葉だ
先輩はもちろん、後輩でもデスマス調であったり、フレンドリーな言葉を使っている
慧海にとって、そこには一線があり、そしてデスマス調は外に向けた言葉なのだ

今回、ブログをデスマス調で書いていることで、自然と”発信”的な言葉となっている
気分的にも、スタンス的にも”発信”なのだ
”発信”しようとすれば、いい事を書こうと思うというのもあるが、
内から外に向かう思考の流れになっていた。
心の観察をしようっていう慧海のブログは基本、表面から奥底へという外から
内への思考の流れになっていたはずだ

その際にしようする言葉は慧海にとってはデスマス調であってはならんのだ
デスマス調は仮面のついた言葉であり、自己を監視しながら世間で過ごす言葉だ
心からでてくる言葉、素で考える言葉は世間体を気にしたり、
相手にどう受け取られるかをを気にした言葉ではないのだ
仕事の際もそうだが、考えるときはどこまでも、自己との対話であり
問いの連続でしかない
そこに発信という要素はない

ここ数回の観察記事は、思考が全然内側にはいってこなかった
感覚的には苦しさのない、迷いや疑問をそこに記している
だから、記事を書きながらも気づきがない
ある意味、アノ記事は全休先生に失礼だ と感じた

全休先生のブログは今は相互リンクを受け付けていないとのことだ
そんな中で、最初から(リニューアルしたから日付が違うが)リンクをして頂けて
いるのに、なんと失礼なことだろう…

認められたい そういう欲求が強くある
これは、慧海の甘えである

昔の上司のおかげで会社においては、その欲求はだいぶ薄まった
ブログにおいては、まだまだその心が残っていた
仏様が私をどうみるかではなく、全休先生は私をどうみるか という事が気になる
ということだ

苦しい時は必死だった
今は苦しさが気になるほどでもないのので、日々の観察が軽い
全休先生のところにリンクが張られた「自営業」さんの記事を読んだら
そこには慧海と同じように道を求める人の姿があった

何をしているんだ俺は…

知ったかぶって、きれいな言葉を並べる必要なんてない
慈悲の無い慧海がやることじゃない
急ぎ仏になること これ以外になにがあるというのか…

まとめようと思っていた うつ の話とかは、要望があった時に書くとしよう

つ~こって

まだまだ愚痴を記録しつづけるとしましょうかね~

2010年10月17日日曜日

答えを頂きました!

全休先生の「トラウマと父親の思い出 (4)」にはこうありました
  悩みは決して外から来るものではなく、自分の心から湧くものである。
  それ故に、その悩みの原因を見る必要があるのですが、
  それは自分の目によっては、容易に見られるものではない。 

  (松原致遠著『わが名を称えよ』97ページ) 

自分の眼を自分の眼で見ることができないように、自分の心を自分の眼で見ることは出来ない。仏の眼(信心)を頂いて、見させていただくしか方法はないのでしょう。見るとは、離れて観察することですから、自分の心がつくる世界を離れなければなりません。すなわち、自分の心を離れた処(さとりの世界=浄土)から、自分の心のつくる世界(迷いの世界=穢土)を見るのです。それゆえ、自分の心を離れた処へ出ることを“往生”と言うのです。

あれ?「頭に湧いてくる思いをとらえて、いいとか悪いとかいう評価をいっさいしないで、ただ見ているだけ」を続けるても、その悩みの原因はみえないし、自分の目によってもみれないですね…

っていう疑問がでたあたりで、

「憶念の念仏」では、全休先生の「仏はわたしをどう見ておられるのだろうか」の念仏をする事が
善導の「衆生仏を憶念すれば仏もまた衆生を憶念したまう」の言葉の通り、仏の眼から見た自分が見えた瞬間、あなたは自分の心を離れるでしょう。仏があなたのことをどう見ておられるか、それが解れば、あなたも仏です。
ということであり、答えということになるんでしょうね

慧海の理解で内観の念仏を勝手にまとめると…

1.自分の心を観察すること
  → ろんな思い、感情、気分が次から次と湧き水のように湧いているのに気づきます
2.頭に湧いてくる思いをとらえて、いいとか悪いとかいう評価をいっさいしないで、
  ただ見ているだけにします
  → 悩みの原因まではみえてこないようです
3.「仏はわたしをどう見ておられるのだろうか」と憶念の念仏 をする
  → 自分の心を離れて、仏となる… 悩みの原因もみえてくるのでしょう…

ということになるかと思います


ちなみに、慧海は2の半ばで迷子になっている状態です
慧海にとって、悩みの原因をみるには、自分の記憶やら心やらの声を引っ張りだすことで、慧海の本心や過去に植えつけた自動思考に気づくことで、だいたいが解決してしまったからです

慧海の体験した不思議体験の一つの影響で、慧海の頭には、慧海の現状は慧海の心(記憶と妄想)で作り上げてきた勝手な世界での結果だという認識があります。慧海の外に慧海が認識している世界はないのです。

たとえば、慧海の認識の中には他人の心というものがありません。自分の心と同じように他人にもあるだろうと慧海が思っているという事だけがあります。そんな慧海の心すら、慧海が作り上げているのですから…

今の慧海は慧海の世界から抜け出ていません
どこまでいっても、慧海の世界が続いていることだけが今の認識です
ダメダメなことに、今の慧海では
「仏はわたしをどう見ておられるのだろうか…と慧海は感じるか」
となってしまうような気すらします…または妄想が補ってしまうか…

慧海の五感や意識を超えたところにあるものに気づくまではダメなのか…
それとも、今この感じているものが、慧海のものでない事に気づくまでは…

不思議体験と知識が、慧海に素直さをけずっていく…そんな気すらしてきますw

2010年10月16日土曜日

逃げられない目

慧海が見上げる空、慧海が見つめる先に、想像の目をみる事があります
慧海をみるその目は慧海自身の心の奥底までもみる目です

本尊を見つめていた後、就寝した際にまぶたの裏に本尊の絵が残ってました
それをそのままみているうちに、本尊を見ている慧海と慧海をみている本尊が入れ替わったような感覚になりました。幽体離脱ってこういう感じ?っていうような
慧海がみる本尊の視線でみる慧海…それを見る慧海…

ああ、こりゃ弥陀仏から逃げられないはずだわ…

どっか別のところに弥陀仏がいて慧海をみてるんじゃなく、
今みてるこの目は慧海の目だもの…
自分からどう頑張ったって逃げたり隠れたりできないものなぁ…
その時にそう感じて、軽く脱力感と笑いがあったのを覚えています
翌日会社で忙しくするまでは、目の先にず~っと目がありました

これは過去記事にも書いた内容です。イツのことだったかは覚えてませんがw

なにやらやっていれば、ちょっと不思議な感覚体験なんて、よくある事ですよ
仏の眼とはこれか? これが悟りなんか? なんて思ったりもしましたが、思考の中から出てもいないし、宇宙と一体にもならないし、どっか別のところにも行かないし、なにも特別なことはないし、さらに、いつのまにか苦しみの渦中に入ってたりもしたので、やっぱりタダの不思議体験だった と思います

残念なことです

でも、その目がある間は、心が穏やかな感じがしますよ
逃げられないから、いい子にしている みたいなものかもしれませんし、もがきようもないので、脱力しますし、自分で自分を認めて、降参するしかないわけですし…そんな目です

大抵は、意識しないとでてこない目ですが、先日、会社の天井を見上げた瞬間に突然目を感じてドキっとしました。この目からは逃げられないかったんだっけ… ふと思い出して、なんとなくニヤっとしてしまった慧海でした。(それで思い出してこんな記事かいてます)
ここ最近、ちょくちょくその目にみられては、降参させられてますw

先日、博物館で阿弥陀像をみたら、八方にらみといって、常にこっちをみているようなつくりをしていました。弥陀仏は常に私をみているぞ という表現がここにされているのだな と感じて関心しましたw
その目をみながら懺悔してたら、たぶん慧海と同じ意識感覚になるんじゃないですかね?
…実際に同じような体験をした人(たしか真宗門徒)の記事を読んだ事がありますw


慧海の体験していることは、こんな感じの主観的で自力的な感じのものばかりですが、近いうちに、不思議体験自慢の記事を再度かいて、不思議体験でどんな事に気づいたのかを書いてみたいですね

2010年10月15日金曜日

やっぱり迷い

全休先生の「無分別智」と言う記事にこうありました

 内観の念仏をすすめています。内観とは自分の心を観察することで、禅宗などでいう瞑想(戒定慧の定)と同じことです。少しでも心を観察することができるようになると、いろんな思い、感情、気分が次から次と湧き水のように湧いているのに気づきます。胃が胃液を分泌するように頭という臓器は生理現象として思いを分泌するのです。ふだんは無自覚に生きていますから、いままでは気づかなかっただけです。まずは気づくだけでも大変な進歩です。気づいたら、次は、頭に湧いてくる思いをとらえて、いいとか悪いとかいう評価をいっさいしないで、ただ見ているだけの練習です。これが内観の念仏ですが、なかなか出来そうで出来ません。
そして、「宗祖の信心を疑う」と言う記事にこうありました
 信心の智慧とは“煩悩が見える”ということですから、いただいた智慧で見せていただいた煩悩(愛欲と名利)を親鸞はここで告白しているのです。これが「定聚のかずにいることを」喜ぶということです。信心(の智慧)のない人にはわからない。
慧海にわからない所の答えがこれであり、慧海のようなモノへのご指導であろうと思います

当然、これも頭でわかろうとしてもダメなのですよ

迷えば迷うほど、疑いが深くなります
疑えば疑うほど、頭に湧いてくる思いをみているだけにしていられなくなります

頭に湧いてくる思いと煩悩は一緒なのか?
煩悩をただ見ていられるようになったらどうなるんだ?
煩悩を見るだけでいたら、ある日「定聚のかずにいることを」喜ぶ状態になれるのか?
このままで自分は往生できるのか?

こんな疑問ばかりが頭に湧いてきている慧海ですが、この疑問が既に思いに分別をつけているということなのでしょうね…

疑問を捨てるぞ、もう迷わないぞ と決意して疑問が捨てられるわけじゃありません。慧海が知っていることは、疑問に感じている今、迷っている今を、ただ見て、ただ感じる事をするしかない ということだけです。
この疑問の答えは教えてもらえるものではないと感じているし、迷っているのは、智慧がなく、不安だからなんだろう ということも感じています。なので、この問題は往生しないかぎり、ず~っとつきまとうものだと感じています。往生して、智慧を得たら、安心をえて、疑問もなくなる という 裏表みたいなものなんじゃないでしょうか?
だから、どうしたら往生できるんだよ! とやっぱり堂々巡りをするわけです

困ったものです

2010年10月13日水曜日

知識があってもダメなんだ

慧海はブッディストではあるが、いまだ仏がなんたるかを知りません
信心悟りの智慧がこの身には宿っていないからでしょう

それでも楽になろうと、色々と知識ばかり入れてはわかった気になる生活をしています
すこしばかりの自己観察と、あれやこれやと知恵をいれる
そうすると、理屈だけが学べるんですよ
だって、一番大事な事は言葉になんかできないんですからw

最近では、知っていることだけを色々な言葉で何度も確認する
そんなことしかできてないんです
困りました…

そうやって、大事なところを理解できていないまま、
わかった人の言葉をみて、そういうものかと思うようになって虚しくするのは、
心理学を勉強して心を強くしようとしているのとかわらないのでしょう

そっち方面でなら、無駄に理屈をこねることだけができるようになってしまいました

心理学本やらビジネス書を読んで、自分の考えを理想的な姿にしていこうと
する事は、努力すれば誰でもできることのように思えます
実際にやってみて成功したという人もいるでしょう
でも、それは多分、本の中から違う気づきがあったからだと思います
物事の捉え方を自分の意思で変えるのは難しいんですよ
でも、物事に接する心の立ち居地みたいなものは、意外と簡単にかえられます
本にあるノウハウを学ぶのではなく、そこにある別のものが気づけば
心の置き所が変わります
気づいた分だけは楽になります

それは、仏書でも近いんじゃないですかね?

こうすればよい、ああすればよい そんな事ばかり学び、そんな事ばかり
考えていても、分別を超えたところは理解できないのだと、やはり知識では
わかっているのですけどね… この場合、知識は毒にしかならない とかききます

知識の先ではなく、努力の先でもない、何かを超えたところにある感覚 

あきらめて、苦悩の世界で過ごすしかできないのだろう なんて思いつつ
やはり苦悩の前ではあきらめられなかったりするのですよ

ただただ迷う そんな慧海です

2010年10月12日火曜日

失敗は大事

慧海は眼ができてない未熟者なので、気が付くとよからぬことになったりします
そして、失敗をしてしまいます

そりゃ、失敗なんてしたくないですよ
でも、そんな失敗をしたときだけは、しっかり自分の心と向き合えたりします
うまくいっている時は過信しているので、振り返ったりしないものですものね

自分の心をみていると、慧海は慢の煩悩の強さを感じます
無駄に高いプライドってヤツです
そんな慢の煩悩がいつまでも元気でいられると、他人の言葉を素直に聞くことすら
できなくなるし、他人を認めることもできなくなります
多分、この煩悩の裏にある慧海自身の認められたいという欲求があるのでしょう

先日、以前の上司の上司と話をしていた際に、
「お前は細かく指示をされて仕事をするのが嫌いで、苦手だが、
 お前をうまく使ってくれる上司の下で好き勝手やれる時に成果をだす
 そして、お前は周りにもっと大きなことができることを認めてもらいたがっている」
というようなことを指摘された事がありました

まさにそうなのですよ
部長以上の役職者だった方ですが、こんな平社員のことをよく理解してくれてるなぁと
今更ながら、もっと色々とご指導いただくんだった と思いました

その方から、会社で泣き研と呼ばれる研修に出られた事があるという話を
聞いたことがありました

僕ら人間は生きているうちに色々なことを学んで、素直に物事をみることができなく
なってきます
子供の頃のような素直な心で物事をみることにより、社会人としてステップアップ
しましょう というような研修なんですが、自分の子供の頃の記憶をふりかえったり、
親、兄弟とのかかわり方を振り返ったり、自分でみる自分や自分は他人をどうみるか
自分をみる他人は自分をどうみているか という事を作文したりと、
子供の頃から今までの自分をおさらいして、自分で作り上げた自分像を破壊するような
そんな感じの研修で、泣いてしまう人が多いので泣き研と呼ばれているそうです

この内容を聞いた時におもったのは、内観道場をセミナーっぽくしたものというイメージが
わきました
内観道場もこの研修も受けたわけじゃないので確かなことはいえませんが、
自分で自分の過去を見つめ直すという事は外から自分をみるのと近いのかもしれません
「今」の自分を「今」の自分が見つめるのは、「今」の自分がどれかがわからなくなります
みているのが自分か、考え事をしているのが自分か…
そしてすぐ脱線してしまい、自分を見失います
どうしたらよいか… それは慧海には答えられない話なので口を閉じるとしましょう

慧海は、なぜ心のソコから「ごめんなさい」がちゃんと言えないのか…
そのあたりを子供の頃の記憶をたどりながら、慧海の心の声をきいてみたいと思います

2010年10月8日金曜日

オクトーバフェスト!

先日、横浜のオクトーバフェスト に行ってきました

1杯1000円、1500円という値段ではあるものの、日ごろ飲む国産ビールとは
まったく違うのですよ

何が違うって…まず味が違うし、香りも違う
国産の地ビールでおいしいと感じたものばかりが売っている
そんな感じな訳です

ベルギービールを飲んだ時も、ビールってうまいナァ って思いましたが、
ドイツはドイツでやっぱりうまい訳です
とはいっても、輸入ビール意外にも、ドイツ的な製法の国産ビールもあるわけで…
日ごろ飲むことができないだけで、知らないところにおいしいビールがあるのですねw

あまりにもおいしかったので、この休みの間に再度横浜進出してきます!

5月に日比谷公園でオクトーバフェスト ってことでお祭りしてたらしいんですが、
今年の5月はビールのむ気温でもなかったし、5月にOctoberって言われても…って感じで
まったく関心をもっていませんでした

来年は日比谷にも出かけそうです・・・

今年の麦の収穫に感謝!!w

2010年10月6日水曜日

[再]慧海説 鬱との付き合い方1補

大事な事を書き忘れてました
 
治せる、治せない という話があるといことは、
 
「私は病気である」
 
という認識が先になければいけません
 
こと、鬱病等でいえば…
 
「私は精神異常者である」
 
という認識をもつという事に他なりません
 
脳の病気だとか、心の風邪だとかいって鬱病に対する嫌悪感のようなものや
精神科への抵抗を減らそうとしているのだとは思いますが、実際問題
我々鬱病患者は、自分の判断が既に一般的な判断ではなくなっている訳だし
普通じゃ理由にならない、調子が悪い ということで会社を休んだりしている訳です
 
我々の上司には対して人事部門からは、健常者とは違う扱い 
というのが明確に言い渡されています
下手な事して、自殺でもされても困るし…とか色々と理由があって、会社に残っている
訳ですが、実際問題として、仕事がまともに出来ていなかったりもします
本人がどれだけ仕事で頑張っているか関係なく、実は人事からは
「毎日会社にきているかをみろ」と我々の上司にはお触れがでていたりするのです
 
僕は良くなった
 
なんて思っているのは自分だけ
まわりは異常者としての評価をしています
そんな評価も含めて、自分が異常であることを受け入れましょう
 
そこがなければ、治す という事が始まりません
自分が正常だと思っていたら、何も治そうという気にはなりませんよね?
 
認知のゆがみやら、自殺念慮やら、普通だと思って生活していた頃には
無かったことがきっとあるはずです
辛いかもしれません
認めたくないかもしれません
でも、我々は異常なんです
 
それを認めて、はじめてまともになり始めるのです
 
勇気をもってください
自分の眼をひらいてください
そして、自分の足でたちあがってください
 
私は異常者である
だから治すのだ と
 
慧海説 鬱との付き合い方 1 補 終わり

2010年10月5日火曜日

【再】慧海説 鬱との付き合い方1 

慧海説 鬱との付き合い方 1 
 
1回目の内容は 「鬱病は治せます!」 という事について書きたいと思います
 
治ります ではなく、治せます であるところがポイントです
 
そして、ここでは鬱病…”病気”と限定して表現しまてます
慧海が治せますと表現している鬱病を、あえて限定させていただくと、
「抗鬱剤を服用しない状態」とさせて頂きます
そして、もう二度と抗鬱剤のお世話にならないようにする事をこの一連の記事の
目的とします
 
 
SSRIやら三環系やらの抗鬱剤を服用しないという意味では、
パニック障害や強迫性障害も同様だろうと考えてます
 
詳しくは後日書きますが、これらの薬で脳の状態を一時的にバランスを整えても
思考がいつまでも鬱病になろうとする状態であれば、薬の服用は完了しないからです
 
アドラー心理学が特に顕著ですが、心身症(鬱病含む)はあなたが望んだ、
病気になっているというのも、たしかにあるのです
特に、長い間心身症を患っているいる人には、心身症が治ってはいけない
心理的理由が隠れている場合があるのです
 
心理学者は色々と理由をつけてるみたいですが、簡単にいえば、拘りやら執着やら
思い込みやらといった、自分の内面に起因して現在の状況になっているんです
 
だからその内面の滞り…思考のクセに気づけば、鬱病の症状に呑まれなくなり
結果的に、抗鬱剤のお世話にならなくなる → 鬱病が治った ということになります
 
とはいっても、抗鬱剤を減らす判断をあなたが勝手にしてはいけませんよ
ちゃんと主治医の指示にしたがってください
医師によっては、抗鬱剤の服用をず~っと続けるように指示する事もあるようです
そのへんは、治したいという意思をもって、主治医とよく話しをしてみてください
今はまだ早いとか、あせるなとかのアドバイスを頂きながら、治療に専念しましょう
 
 
ほかならぬ自分の頭と体のことです
自分でなんとかしなきゃ、なんともならないんですよ
 
といったところで、一回目を終了とします
次回は、その自分でなんとかせにゃならん ということについて
もう少し書いてみたいと思います
 
 
あなたがあなたを救う為に、慧海の経験談がなにかのお役に立てる事を
お祈りしております
 
慧海説 鬱との付き合い方 1 終わり

2010年10月4日月曜日

【再】 慧海説 鬱との付き合い方序

抗鬱剤の服用が終了して丸2年がたちました
今でも鬱状態が無い訳ではないが、鬱状態自体は誰にでもあるもの
基本的には気力やら頭の使い方やらは復職前の頭にまでは戻っている感じです
とりあえず治った という見方をして、慧海の実践してきた事をまとめてみます
 
どこまで書けるかわからないけど、
このブログをみた、同病者の助けになる事を祈って…
 
~~~~~
慧海説 鬱との付き合い方 序
 
初回は、まず目次の意味も含めて、以下の4点をご理解頂きたいと思います
次回以降、この1~4について記事を書いてみたいと思います
 
 
1.鬱病は治せます!
  (たぶんパニック、強迫性障害も同様です)
 
2.鬱病は医者が治してくれるものではなく、自分で治すんです
 
3.鬱病は、たしかに脳の病気かもしれませんが、
  脳が病気になったのは、自分の日ごろの思考と行動
  に問題があったんです
 
4.日ごろの思考と行動を変えるための、知識とトレーニング
  を得れば、日々が普通に過ごせるようになり、鬱病が治ります
  (鬱気質を変えるのではなく、共に過ごせるようにします)
 
 
「ああ、なるほど、そうだね」
って思われた方は、既に病んでない方かもしれません
もちろん、この4つの内容を今の時点では納得できないという方もいるかと思います
そういう方でも、ご理解いただけるように書いていければいいな と思いますし
そうだね と理解はされているのに、未だ抗鬱剤が手放せない方にも参考になるような
事が書ければと思います。
 
特に4の知識とトレーニングについて、できるだけ効果のあった方法と
慧海が体験&ききかじった、認知行動療法の失敗ケースも書いてみたいと思います
 
 
とはいっても、あなたを救うのは、慧海ではなく、あなた自身です
 
 
あなたがあなたを救う為に、慧海の経験談がなにかのお役に立てる事を
お祈りしております
 
慧海説 鬱との付き合い方 序 終わり

2010年10月3日日曜日

引っ越してきました

WindowsLiveSpaceが閉鎖するので、こちらに引っ越してきました
釋 慧海(しゃく えかい) と申します

 WLSでは「慧海の西を求める旅の記録」というタイトルで
仏法を学びつつ、鬱病での休職から復職し無事に働けるようになるまでの
日々の苦悩と迷いと堕落と気づいた事を書き連ねてきました

未だ神経性?の高血圧があるので、通院生活ではありますが、
鬱病からは脱却し、2度と同じ状態にならない様、日々気を付けながら生活しています

鬱病で休職している時に、心理学と仏教を本やネットで学び、
2007年9月23日に、お手つきの寺である真宗大谷派得信寺にて帰敬式を受け
慧海という法名にて真宗門徒として、具体的に信心獲得に向けての生活を始めました

具体的には、リンクにある、全休先生(当時は濁川先生)と鬱陶しい亭主師のページにある
言葉を読み、自らを振り返り、書いてあることを書いてあるとおりにどう実践するかを
試行錯誤し… 未だ、コレという体感なく、東の岸で西への白い道を見つけられずにいます
// そのへんに関心があるかたは、リンクにある過去ブログをごらんください

これから書くであろう記事も仏教の話をメインに、鬱等の心身症の話と、
タダの日記を予定しております

読まれる方にとって、面白みがあるものではないと思いますが
ご縁がありましたらしばらくの間、お付き合いよろしくお願いいたします

南無阿弥陀仏