2011年12月31日土曜日

今年もお世話になりました

今年も本日で終わりです

ココ最近は、ブログを書頻度が減っているだけでなく
ネットをさまよう事もなくなってしまいました

見るサイトはいつも一緒で、そこだけみて終わり
そんな感じです

日々色々とありますが、なんとなくいきています
無自覚に、快楽と怠惰に呑まれて生活しているからでしょうね

ゲームが楽しい、友人との酒飲みが楽しい
読書が楽しい、声明の練習が楽しい
もちろん、アニメも楽しんでますよw

楽しい事ばかりだけど、なんだかメンドクサイ

毎日がメンドクサイ
生きるのがメンドクサイ
考えるのがメンドクサイ
外界の刺激がメンドクサイ

いろんなことに反応している自分がメンドクサイ

メンドクサイ毎日を、ごまかしながら怠惰に送っているのが
この年末の慧海でした


今年も色々な人にお世話になりました

全休先生、亭主師の記事には毎年のことながらお世話になっています
今年は得信寺住職やお寺のIさん他お寺の皆さんにもお世話になりました
メールやら飲み会やらで多々お世話になっている、
友人同僚のM氏、O氏、S氏、T君

お客さんになっても親しくしてくれるG猫氏
G猫氏のPSPがきっかけで、今年後半は生活サイクルが変わったよw


地震があった
義父が他界した
体調がひどくなった
鬱になる前に経験したような事が多々あった
似たようなことを追体験しつつ、なんとかやりすごせた


こんな感じで少しずつ昔の「普通」にもどっていくのでしょう
きっと、それが元々慧海に掛かっていた縁によるものなんだと思います

慧海が望もうと望まなかろうと、そういう流れになっていくんです
いろんな人のお世話になりながら、生かされていくんだと思います


こんな感じの慧海ですが、来年もよろしくお願いいたします


南無阿弥陀仏

2011年12月10日土曜日

ブログ存続の危機?w

自然のままに苦悩して、苛立って、考えて、ぼ~っとして、煩悩の林に遊んで…
それをただ感じつつ今をすごしつているのが慧海の日常だ

その場その場ではなんか考えたりしているんだが、
その思考をどんどん捨ててっちゃうから、残ってない
「感情とお勘定は別」なので、できるお勘定だけすましてしまうと
感情とそれにまつわる思考はどっかにいってしまう

今まで慧海の苦悩の愚痴を書き続けたブログなのに、
苦悩が保持されていないので、その愚痴がなかなか記事にできないのだ

わからない、どうしたらいいんだ、これでいいのか

昨年まではず~っとそんな事ばかり考え、思考と感覚を色々としてみた
あるところからは、感覚の違いもわからず、それどころか鈍くなる
思考は学んだり気づいた理論が繰り返されるだけだった
色々やって、わからなくなって、にげて、欲に呑まれて苦しんで
で、やっぱりなんかしないとと思考と感覚をいじってみて…

その繰り返しは2年位だろうか…記事をよみかえせばわかるんだがw

そして今年の地震に端を発して、色々おかしくなって…全部捨てた
頭の中で死んだ これも記事にかいた

これが思考として最後にやったことだろう
その後はただ勝手になるようになっていっている
どう勝手になっていったかは記事に書いてない
気が付いたら御任せするだけになっていた

思いつきの言葉でそのあたりの説明を書くこともできるが、
慧海にとっては無意味なんで書いてない

記憶にあるのは、一時期、慧海に見えるものが全部仮のモノにみえていた
どれもこれも、あの世にもっていけるものじゃないなぁ
いつか消えてくものにみえるし、他人と自分も大差なくみえていた

で、今は自然のままにほっぽりっぱなしに生きている
先の記事で、「行けているだろう」と書いたが、実の所よくわからない
でも、先はあっても戻るところがないから「行っちゃった」と思う次第だ
だれかに、お前はマダだ と言われても、そうなんですか 困りましたねぇ
としか思わないし、お前はこっちに来たといわれても、
ああ、やっぱり来ちゃってたんですか どうしましょうとしか思わないだろう

行く事しか考えてなかったんで、行っちゃったらどうしたらいいかは
考えてなかったのだ

慧海にとって、心の観察=聞法=念仏で、常に念仏以外の何も知らん
なので説法もできん
全休先生と、亭主師の記事を読んで、自分の心の声をききなされ
それだけw

まぁ今のまましばらくは日々の出来事を書くだけかな~

このブログは自分の為に書き続ける という方針のブログだからね
あとは、心の観察で見えた、どうでもいい話とか書くかな~

2011年12月4日日曜日

門徒講座11

今回で年内の門徒講座は終了
序を含めて12回だったが、全部出席したことになる

皆勤賞はでなかったけど、法然親鸞展のチケットもらったり
750回忌の記念品もらたりもしたし、真宗聖典ももらった
浄土三部経はしばらく借りた状態でもらったわけではないが…

11回目の門徒講座は、龍樹の2回目
高僧和讃をみながらの説明だった
本日の住職は調子が良かったようで、約2時間ペース良く話しをされていた

この1年、何を学んだという事は殆どかいてこなかった
知識という意味では、細かくは色々としった
・本師の反対語は人師である
・龍樹は釈尊入滅から600年後あたりに生まれた
・正信偈の各章の区分け
なんてあたりだが、一番学んだのは、学ぶ姿勢だろうか

自分の考えと違うものは間違っていると思ってしまうものだが、
その違う考えの中から学んでいくのだということを知ったきがする
どんな人の説でも学ぶ事ができる という事を住職が言っていたか
きっと、違いがあれば、問いとなったり、自分の慢心をみたりと色々だろう

だんだん、自分の論を口にすることもできなくなってくる
なにが良いとか悪いとかわからないのだから、意見をいうのではなく
意見を聞くしかできないのだろう と思うのだ

といいながらも、ついつい自己主張してしまい、反省するのだが…


亭主師の11/30の記事「行けている」にある、自分が行けているのか
と、いうことは慧海はずっときになっていた
行けたらわかる という記事はずっと前からあったが、
ず~っとよくわからなかった
だから誰かに、行けたんだね って言ってもらえればいいと思う所があった
行けてないのに、行けてるフリをしてもわかる と一言にあるのだから
わかっているなら、行けてるとか、まだまだ とか教えてくれればいいのにと

でも、それも言えなくなってくるのかもしれない と最近は思う

今は慧海は行けているのだと思う
上はまだまだあるのだろう ということはあるが、行っちゃったんだと思う
でも、気づいた物事であれば、1、2年前とそんなに変わらない
その頃に誰かに「行けたねぇ」と言われてたら、そこで止まったのかもしれない
きっとそういう事が一杯ある

今の感覚になるまでに、多くの人に世話になり、迷惑をかけた
きっとこれからも世話になり、迷惑をかけるのだろう
他人が救われねば、自分は救われないというのが大乗の思想だというが、
自分が救われねばやはり他人に何かなんてできないと慧海は感じる

慧海は救われて、苦悩がみれるようになった
じゃ、他人を救えるかと言われると・・・慧海は何もできない
そういう世話になった人を救うなんてできないのだ
慧海にできるのは、しっかり苦悩しろと言い、お勧めのサイトを教える位だ
他人を救うのは慧海じゃない、それは、その彼の中の佛の仕事だ
慧海にできるのは、ただ聞くだけ


すこし前から慧海はカウンセリングに興味がある
他人の話をただ聞くということは難しい
カウンセリングという事を勉強して、ただ聞くという技術を勉強してみたい
ちゃんと聞いて、その彼が自分の佛の声をきく時まで応援してみたい

寺に通ったせいか、そんなふうに考えるようになった


今月は18日が年末のお磨きで、忘年会もあるそうだ
その日が最後のお寺さん通いだろうなぁ

2011年11月20日日曜日

俺が正義だ!?

慧海は、気が付けば自分が正しくて周りがバカだという思考に入っている
バカだと思っているヤツから、非難されると腹がたつ
腹が立って、気分が悪くなってようやく気づく

バカは慧海だ と

それに気づくと、バカだと思っていたヤツもどうでもよくなる
彼も大変だナァ なんておもってみたり…

正義は我になし!w

2011年11月15日火曜日

MZX-WNH ファーム1.31はNG!

7年ほど使っていたルータが壊れた

夜、家内がノートPCを使おうと思ったらネットにつながらなくなっていた
で、調べたところルータっぽい事がわかった
試行錯誤してみた結果、プロバイダに接続できず、IPがとれていないっぽい

しょうがないので、ルータをチェンジする事にした

昨年、無線LAN化したくて無線LANルータを買っていたのだが、
いままでの有線ルータの設定が生きているのでAPモードで使っていたのがあるのだ

その無線ルータはPLANEXのMZX-WNH

安い分、自動接続の機能とかはイマイチで、自動設定は使えなかった
いくつか適当に設定すること30分。何回かいじって、無事接続した
手動でDHCPのダミーMACアドレスと、DNSの設定だけにした感じだ
これだけなのに、余計な事して時間をくってしまった

さらに、そこで終了にしておけばよかったのだが、
ついファームのアップデートをしようなどと思ってしまった

PLANEXのサイトからファイルをもってきて、ぱぱっとUPをしたまでは良かった

その後、ファームのチェックまではできたが、その後から管理画面が動かない
再起動ではダメで、設定値初期化をして管理画面がでるようになった
しかし、再度DNS等を設定するとまた止まる
あれやこれやと1時間以上いじってわからず、直接モデムとつなげて
ネット検索したところ… 価格.comで同じ現象の人がいた
http://bbs.kakaku.com/bbs/K0000010667/

1.29もしくは1.28でならうまく動くようなので、
http://www.planex.co.jp/support/download/router/mzk-wnh/fw_old.shtml
から落として、ファームを下げた

と、いうところで、無事接続できるようになった


メーカ関係で働いているので、ファームを上げて障害になったケースよりも
ファームをあげないで障害になったケースの方がおおいイメージがあった
とはいっても、安定稼動してればむやみにUPはしない…
ソフトはバージョンUPして障害になることの方がおおいw

やはり、安定稼動している場合はいじらない方がよいらしい
不安定さを解消すると書かれているファームが不安定になる事もあるのだと、
思い知らされた…

なんだかんだと、3時間近く試行錯誤していたようだ
いらぬ勉強に時間をつかって、モンハンする時間がなくなってしまった…

追記:
1.29も安定せず、接続が切れたりすることが多々あった
1.28に下げたら接続もきれなくなった

2011年11月7日月曜日

門徒講座10

昨日、門徒講座の11月分があった
正信偈の説明の2回目ということで、龍樹のお話

住職は空とかの話を婦人会の皆様に説明しようと頑張ってましたよ
自分の中でなんとなくでも理解するということと、それを人に伝える
ということは、求められる理解度に大きな差がある
実に難しい事だよねぇ
最近になって、人に説明したり、人に薦めたりすることが
できなくなった慧海としては、住職のご苦労をただ眺めているw

真宗では龍樹でも「中論」ではなく「十住毘婆沙論」が主だ
十住毘婆沙論は「華厳経」の十地品の註釈書だそうだ
三宝依文も「華厳経」らしいし…う~ん華厳経読んでみたい…

「十住毘婆沙論」龍樹本人の作では無いという説もあるのだが…
それをいったらお経も釈尊じゃないものだらけだろうからねぇw
無量寿経とか阿弥陀経だって…ねぇw
まともに、お経の成立年表をみてみたいなぁ


今回の勉強会用に住職が調べた際のプリントに、
真宗における空についての記事があった

浄土とは、空性の世界を表現しているとか、
阿弥陀仏とは空をあらわしている

なんて書き方がされていた
慧海の理解もそういう方向なんだが、熱心な門徒さんにそういう事いうと
怒られそうな気がする。特にお西の人とか・・・ね

そんなことを学んで講座が終わり、その後、Iさんに声明の指導をしてもらった
正信偈のポイントとか、同朋奉賛式の念仏・和讃のポイントと、
実は一度もちゃんときいたことのない、三淘(みつゆり)
の初重を教えて頂いた

節は聞いて自習するしかないが、息継ぎとか止めとかのポイントが
わかると聞くにも聞きやすいきがする
記号だけみてても、音が違うようにしかきこえないのだから
音優先きくしかない
「¬」 と書いてあっても「-」にしかきこえないとか…


浄土三部経、正信偈、念仏、和讃等が、得度の試験にでるのだそうだ
勤行集は全部できるようにしておく方がよいらしい

急ぐ必要もないので、ゆっくりやってみようかと…
得度したからといって何もかわらんし…
信心獲得と得度は別物だし、教師資格も別物だと感じてる
教師試験までは考えてないが、得度したら教師も…とか薦められて
受け始めたりして…教師試験の教科書はけっこうおもしろかったし…


次回の講座で年内の講座は終了
出席すれば、皆勤賞!w
講座の後に時間があれば声明の勉強会だなぁ
一ヶ月たって忘れました、とは言えないので勉強しないとなぁ~w
来年にはきっと、浄土三部経を読もうとかいいだすのかも・・・

2011年10月29日土曜日

しばらく酒が呑めない

血圧が高くて、薬が強くなった
その薬が効き始めてきた事は前回書いた

結果…酒を呑むと血圧が急に下がって、フラフラするようになる
酒で効果が強くでちゃう薬なんで、そのせいなんだろう

生中2杯で、帰宅途中にはフワフワした酔っ払い感覚で目が回った
家について血圧をはかると、下が70とかになっていた。上もそれなりに低い
翌日病院に行く予定でAM休したのだが、気絶したかのように眠っていたらしい
首の痛みやら頭の痛みやらを感じはしたが、外界の音もよくわからず、
12時間ほど落ちるように眠ってしまった

病院に行ったが、血圧が下がりすぎている訳じゃないので
服用を続けるように言われた
まだまだ、薬と血圧が下がった状態に慣れるまでフワフワした
感じが続くのだろう

今日も、酒を呑まなくても、酔っ払っている感じがする
だるく、眠く、集中力がでない
まるで、鬱状態だ

そんな状態なんで、酒を呑んだら倒れるか、気絶しそうな感じだ


金曜は、予定があって、慧海だけ酒抜きで呑みにいってみた
サイゼリアでワイン1.5ℓとソフトドリンクバーw
酒抜きだともたないかと思ったが、全然問題なかった

酒飲みからすると、下戸をさそっちゃ悪いと思うし、
割り勘にするのも悪いとも思うんで、呑みにさそわない
でも、実際に飲まない呑みをしてみたが、
呑めなくて気になるのは最初だけw
あとは、普通にジュース等で楽しく時間をすごした

酒よりも飲む量がおおかったかもしれない
刺激がないから、酒よりもペースが速いのだろう
そう考えるとしばらくは、ドリンクバーのある店で飲み会だなw


こんな体調じゃ、呑みだけじゃなく、仕事もできやしない


ちなみに、主治医からは「運動をしなさい」といわれた
運動して血圧が下がれば…下がりすぎる状態になれば薬がやめられる
散歩も最近はしてなかったし、ちょっと歩くとするかな~
とりあえず、今日は2kmほど走ってみた・・・なぜか昔より苦しくなく走れた…

慧海の体は慧海でなんとかするしかないよねぇ~

2011年10月23日日曜日

まるでガソリンのようだ

9月に面倒な仕事をやることになって一ヶ月がたった
頂上は越えたので、あとはちゃんと下山すればいいんだが、
イライラとして仕事してたから、血圧がヤバく、薬が強くなった

3桁数字の3段を毎日何回もみてたら、今日、通り過ぎたガソリンスタンド
の値段までもが血圧にみえてくる

最近はガソリンが高いので、あそこまではひどくないが…
ハイオク並みの上と、軽油並みの下と脈…

こんな数字をみたら、今は笑いたくなるだろうw
148
109
98

こんな数字に近いものは、たまに見る
165
120
105

もちろん血圧の話で値段の話じゃないよw

で、今日はゆっくりしつつ、低周波治療器でマッサージしたり
植木きって汗だくになったりしたら、126-68 といままで見たことないような
数字までおちてしまった
急に落ちると、フラフラになるものだ
ちょっとゆっくりしたら、138ー86位までもどったので、
水分多めにとって、活動を再開した

降圧剤で利尿剤が出るんだから、水分過多と高血圧の関係はあるのだろうなぁ

どこで、どう落ちてくのかよくわからんので、明日から血圧計もちあるこう

ひどい落ち方したら、病院いかなきゃ・・・

2011年10月16日日曜日

報恩講

今日はお寺の報恩講

世話方として11時にお寺に入りお手伝い

絨毯は引き終わってたし、本尊まわりも終わってた

畳をどかしたり、襖をどかしたり、イス&座布団をひいたりでおしまい

ビデオとテレビを接続して、本堂に入れない人用の映像&記録が慧海のお仕事
と言っても、声明と、法話と、ご挨拶時にちょっと向きをかえるだえけ

慧海以外の世話人さん&総代さんは、正装で真宗のネクタイをしているし、
準備が終わると坊さんたちは和服に気がえるし、婦人会の皆さんは
白いブラウスに黒いスラックスという服で共通している
慧海は私服なので、スタッフジャンパーと世話方帯袈裟をつけて
お手伝いさんというのがわかるようにしていた

先日帰敬式をあげられた方がきていて、帰敬式の時は写真係をしていたので
ご挨拶と、御礼をいわれた
こっちは全然覚えていないけど、向こうは覚えているのだナァ…

今日来た人達(副住職を除く)全員が、どうみても慧海よりも年上だ
そういう中に若造がいれば、目立つんだろうなぁ



報恩講の後は、後片付けして、元にもどして、
お供えしたお餅をつかった雑煮を頂いて解散

報恩講で年内行事も終わりってことで、
来年のカレンダーもらって帰ってきた

とはいっても、門徒講座はあと2回あるんだけどね・・・

2011年10月10日月曜日

お磨き会

来週はお寺の報恩講

と、いうことで本堂の掃除にいってきた

婦人会の人が5名ほどと、得度してる定例メンバーTさんとIさん
という勉強会より少ないメンバーだった

で、花瓶やら、鶴亀やら、燭台やらをピカール等で磨くのだ
慧海は磨き仕事しかしなかったが、他の人が掃除機かけてたたりもした

今回本尊を磨いたりしなかったし、埃をとることもしてなかったっぽいが、
本尊の掃除ってどうするのかちょっと気になる


お寺に行く

というと、いかにも宗教にはまってる人っぽく聞こえるが、
実際は町内会の集まりと、草むしりの日というのと変わらない感じだ

掃除が一通り終わったら、お勤めして、お茶飲んで解散
お勤めがあるあたりが、お寺な感じなだけ

信仰とか、ご利益とか、お布施とかがどうこうというのではない
ボランティア活動みたいな、そんな感じだ
学生時代に、なんたら委員会に入って活動するのとかわらない

わが家では慧海がお寺のお手伝いやら勉強会やら法要に行く事を
お寺に遊びに行くと言われている

そうなのかもしれないなぁ

子供もサッカー行ってて日曜の午後はいないし、
年長者に混じって、昔から続くそういう活動に参加するのも悪くない


この調子だと、自分が死ぬまでお寺に顔を出すことになるだろう
親父やお袋の葬式も、きっと得信寺にお願いするのだろうしねぇ

その間に、きっと誰々さんが亡くなったとかを見続けるんだろう
副住職が後をついで住職になって頃、報恩講前の掃除なんかで
みんないなくなっちゃったねぇ~ なんて言ってたりするのだろう

もし得度しちゃったら…毎週日曜のお勤めにも行ったりして…
そう考えると、やっぱり宗教にはまってる人

って事になるんだろうねぇ~

先日、真宗大谷派の教師試験用教科書をIさんから借りて読んでみたら
これが意外と面白くて、読み進んでしまう
試験に受かるような覚え方はできないが、単に読むのにはよい
華厳経を読んでみたいと思った
阿含経は…眺めた事はあるが、これはちゃんとよまんとイカンだろう
ちなみに、もっともすぐれたお経とかいわれる法華経には関心がない

なんて事をおもっていても、外では口にはできないよね~w
う~ん。宗教にはまった人にしかみえないだろうなぁ~



かかわりが無いから知らんが、新興宗教の信者は盲信してると思ってた
でも、教団の為に勧誘やらなんやらする人も信仰関係なくて、
町内会や赤い羽根の募金と同じくらいの感覚だったりして…w

・・・いや、そんなことないだろう・・・

2011年10月9日日曜日

ブログ越して1年

昨年の10月3日にこのブログサイトに引っ越してきた
1年立ったので、アクセス統計をまとめてみよう

全ページビューは7,068と本日時点ではでている
ほぼ同じ時期にブログを引っ越した全休先生のところは109,457とある
慧海のブログに来られる方はほぼ全休先生の所からのリンクだと思うので
7%弱がいらっしゃったという事だろう
消費税率より高いw
実際に飛んでこられた方のカウント数をみると2000弱の数字がある
ありがたいことだ

全期間でのアクセス経過をみると、立ち上げ直後の10月が一番多く900
そこから3ヶ月ほどは650付近を上下して、1月から3ヶ月は380付近を上下
5月から4ヶ月は少しもどって、500あたりをさまよい
なぜか9月には850というカウンターになった
だれかがまとめてみた人がいるっぽいのと、
ヘッドホン話が検索でヒットした為の数値のようだ


コメントを頂けたり、リアクション頂けたりと
見ていただける事がうれしくありつつ、こんな愚痴記事で申し訳ないと思う

で、今日もただ駄文を連ねている

そういえば、最近は、ただの日記比率が高いなぁ
心の観察も日常の事 というのもあるんだけどね

2011年10月2日日曜日

門徒講座9

今日の得信寺門徒講座は、空海の2回目をすっ飛ばして親鸞の1回目
で、正信偈についてということで七高僧についてのお話

まぁこれといった事はない

あとは、帰敬式の写真を頂いて、さらにデータも頂いて
得度されたIさんと雑談しつつ、得度試験の話になって、
浄土三部教の経典をお借りして…声明の勉強会しましょう
ということになったりした

急ぐ事必要もまったくないので、月に一回位程度で
声明のご指導してもらうのもいいかな
日曜なら子供がサッカー行ってる間が暇になるし…

来週はお磨きで、再来週は報恩講
その翌週は子供の小学校の音楽会参観
どっかの休みで実家のトイレの水道管掃除と、
叔母のPCを購入してセッティング
10月の休みもあっという間だよw
仕事も10月は面倒な案件のスケジュールが組み込まれたし…

なんか、10月はあっという間に終わりそう

酒呑む予定もひと段落だし、家で酒のまないでも平気…
というより飲みたくない感じになってきたし…

あれだけ酒に執着してたのに…

タバコを止めたらコミュニケーション量が減ったように
酒をまったく呑まなく(呑めなく)なってもコミュニケーション量が
へるような気がする
今は呑みだすと呑み続けて終電までなので、呑まずに終電近くまでにしたいな
少量を楽しく呑んで、その後、飲まないでもいられる間の取り方が
なにかあるかな~

2011年10月1日土曜日

「信」って信じる事と違うと思う

新聞にどっかの仏教系新興宗教が娘に修行をさせて殺してしまった記事があった
修行だから虐待じゃない という親のコメントと、
千日回峰行は修行であって虐待と言わないじゃないか とその宗教の人の
コメントが書いてあった

釈尊は苦行は必要ない と言ったとかいう
であれば、苦行は釈尊の佛教ではないか とか思う

こうすれば私は幸せになれると、信じ込んでいるんだろう
宗教というと、こういった盲信してしまう人の話がおおく、
宗教はあぶない なんて事をいわれるようになる
残念だが、しょうがないことなんだろうなぁ


慧海は、なにかを信じてる宗教者は何かが違うんじゃないかって思う
信仰といい、信心といい、信 と言うが、何かを信じなさい
という意味での言葉ではない
むしろ、何かを信じ、何かに依存するような事を禁じている

こういう言葉は、曽我量深先生の本にも、
全休先生(濁川先生の頃の?)記事にも、
亭主師の記事にもそういう事が書かれている
だから正しいというのも、正しくはないと思うが、
慧海の頭の中をみてきて、感じたの事の一つとしてそう思うのだ

極論すれば、お経に書いてあるから正しい と信じることも
違うんじゃないか って思っている

とは言っても、慧海の思いを信じる事が正しい とも思わない


誰かの本に、信 という言葉の説明として
悟った事を信という みたいな意味の言葉があったように思う
その言葉を見たとき、何でそれを「信」なんて言葉にしたのかと思った
違う言葉なら、誤解はしにくかったかもしれない…
まぁ信って言葉が何を指そうとも、人は月をさす指をみて月をみないと
いうのだから、しょうがないんだろうね

その辺に売ってる佛教とかの本では、月をさす指についての話を
している位だものね


慧海の側からは、何一つ信じるものなど無いのだよ

2011年9月25日日曜日

親父の帰敬式

お彼岸のお中日は、色々とあるだろう ってことで
今年は日曜の25日が帰敬式の日となった

つ~こって、親父が帰敬式するんでいってきた
慧海の時は彼岸会とあわせてたからか、他の人がいたが、
今回はうちの家族だけが見学者だった

慧海は見学者のつもりだったのだが…
スタッフジャンパー渡され、世話人帯袈裟して写真係をやることになった

きいてないよ~~w

でもCANONの一眼レフいじれてよかったよ
18-50ってレンズがついていた 35mm換算の数字かなぁ?
18って、もっと魚眼になったような気がするんだが…

帰敬式自体は、慧海の時と内容はかわらない
住職の法話が慧海の時よりよくなっていた事だけが違うw

帰敬式をして、今後の過ごし方とか、ご縁という事とかについての話があった
これは慧海もきいた

「人事を尽くして天命を待つ」は諦め心ではなく、
「天命を待って人事を尽くす」と読み換え、出来ることをしっかりやろう
ということだ なんて話をしていた
こういう話が昔はなかったんだが…
お寺に坊さんが増えて4人になったからか、
住職として法話の方も頑張っているようであるw


慧海は檀家の主ではないので、お寺に連絡先が登録されていない
実家にいないので、今回、連絡先を別途渡す事になった
報恩講の準備に関する連絡等があるからだそうだ
ビデオを取るのが当日のお仕事らしいw

連絡先書いている時に、今度、本山の研修に一緒に行こうと誘われた
住職と、Iさんとが行くらしいが、休みをとれるなら慧海も行こうと

本山の研修ってなにするんだろう~
ちょっと行ってみたい気もする
京都まで安くないけどね

でも、動画をDLできる環境はもっていたいよなぁ~
本山でそういうことしてていいのか??

Windows7スレートが750gになってきたし…買っちゃうか?w

まぁ来週の勉強会やら、報恩講の後の飲み会やらできいてみっかな
得度についても、どういう下準備が必要かもきいてみよっかな~w

2011年9月23日金曜日

ダラダラと気づいた事の記録

今回の台風で、同僚の多くが深夜帰宅となったらしい
慧海は、上司が早退OKをだした時点でとっとと出た
それでもJRは全滅した後だが、まだ地下鉄が生きていたので、
地下鉄を乗り継いで地元付近まできて、家内に車をだしてもらって
普通に帰宅するような時間には家に着くことができた

帰れるようになるまで、会社で待っている事が慧海は耐えられない
地震による帰宅難民化と、その後の計画停電等で家を心配しつつ、
会社にいる事に苦しさを感じるようになってしまった

家の心配がなくても、仕事したくないんだけどねw


あ、23日だから、帰敬してちょうど丸4年目だ
そんな不真面目社員の慧海は、自律神経不調な感じになるだけで
逃げ出したい感情がわんさかでてくる
仕事をしたくない、サボりたい、とっとと家に帰ってしまいたい と・・・

でも心が逃げたいと言うからといって、実際にそれから逃げてしまうと、
体もそれに反応して不調になってきてしまう
逃げちゃいけないってどっかで思っているからなのだろう

だからといって、「逃げちゃダメだ」とどこぞやの人型決戦兵器に
乗せられるアニメ主人公のように心にいいきかようとすれば、
今度は心だけが逃げてしまい、その場にいて現実をみなくなる

つまり、心が逃げたらどっちにしろダメなんだろう


じゃ、逃げたくなったらどうするか
逃げずに耐えて、思いから「離れられる」ようにする
ということなのだそうだ
そのあたりを知りたい人は、亭主師の記事を片っ端から読んでみて欲しい


慧海はどうしているかをココに記録しておこう

1.まずは「止まる」
  
2.次に、逃げたい心の声を、じ~っと聞く。
  逃げようとして、体がそわそわしている感覚を感じたりする
  ただ、聞くだけで、ただ、感じるだけ
  ラジオをきくかのように止まって聞きつづける
  声を聞いて何か思うことがあったらソレも聞く
  心の声に反応して、思考したり行動したりしないようにする
  ただただ止まって聞くだけ

3.逃げたい衝動がおとなしくなってくるので、
  普通に活動をはじめる
  ただ聞くことができていないと、衝動が繰り返される
  思考がつづいてしまうのであれば、腹式呼吸をしながら念仏する
  腹式呼吸だけじゃなく、散歩も頭がおとなしくなるので良い


ちなみに、逃げたサボリと、休憩は別だ

体調・精神状態を見て、適度に休憩は必要だ
正規のルールにのっとって、ちゃんと休息をとるのだ
感情に流されての行動かどうか が違いだと思っている


そんな感じで、すごしてきた
で、今回、面倒な仕事をしてて気づいた
腹がたって、どうやって負かせてやろうか、ぶん殴ってやろうかと、
頭の中が大騒ぎしているのに…なんか苦しくない

燃え盛る炎の中から抜け出ているとは、この感覚か?

頭の中は実に騒がしい
それを唯聞いている

あまりにもうるさくて眠れそうにないので、
仏壇の前に坐って蝋燭をながめつつ、出てくる思いをじっくりききはじめた
その下に隠れている自分が正しいと思っている感情がでてきたので、
全部を御任せするように、無責任に捨て去った
そうしたら、頭の中のうるささがおさまって、ちゃんと眠る事ができた


さらに気づいた事
晩酌を欠かさなかった慧海が、今日は酒はいらないという思いが
でてくるようになった事だ

二日酔いだった日は飲まないというのはあったがそれとも違う
今日は烏龍茶でとか、ペプシドライでとか、炭酸水でとか…
飲んでも、350缶一本であとはお茶でよくなったり…

もちろん、飲みたければ飲む
休肝日とか禁酒、節酒とかを考えているのではない
酒が欲しいと感じないから飲まないだけなのだ

こういった事も、亭主師の記事の中にあったが…
慧海にはそういう事は無いだろうと思っていたので、不思議な感じだ
これが一過性のもので、また飲まずにいられないかもしれないが…

2011年9月18日日曜日

早いけど、5年目の慧海

23日が、慧海になった日
数日早いけど、慧海誕生記念記事

もう既に思ってることは書いてみた
なので、ブログのデザインを変えたり、言葉をかえるただけ

25日は、親父が帰敬式を受ける
爾今(じこん) という法名だそうだ
今から、これから という言葉で
自然法爾の爾 と 今 だ

慧海にとって帰敬式は世捨ての儀式的な意味があった
そして、鬱にならない生き方の探索の始まりであった
親父は何を思って帰敬するのかは知らない
息子である慧海が先に帰敬したのは何か関係があるのかも知らない

慧海は、このまま世捨て感が強まれば、得度の道に寄っていくだろう
それと平行して、産業カウンセラーへの関心も高まっていくだろう
お金に余裕があれば、得度もするし、産業カウンセラーの資格も取るだろう

慧海にとって、これが背中合わせの同じ道に感じるからだ
もちろん慧海が何かをわかるまでは、どちらもない 

となると、まだまだ先の話ということになるのかな?w

これも、御任せってことだよね

南無阿弥陀仏

2011年9月17日土曜日

通院日

先週から入った、大きな案件の小さな障害対応は…
予想以上にひどい状況だった

体裁を保つために出来もしないのに、いつまでにやると報告し
当然できないから、どうなっているのか とお叱りをうける
お叱りをうけるから、また嘘をつく
もちろん本人達は嘘を言っている認識がないのだ
できないとダメだからその日までにやるんだ なんて理屈らしい
まるで子供のようなやり取りが1年以上続いているらしい

出来るといっちゃったから、なんとかしてできる方法を探す必要もある
負い目があるから、無理も断れない
そんな感じで、仕事を増やしては忙しい状態になっている

この一週間、頭の中が大騒ぎしているのがよく見える

自分で出来る事をして、少しでも早く終わらせよう なんて思って
やりだすと、自分の考えが正しいという思いが強く出てくる
そうすると、自分の考えとの差異に腹が立つ
無駄な仕事だったり、目的がずれていたり…

で、結局、僕の考えをすてて作業をするのだ
作業目的を理解できていないから、アウトプットには手直しが入る

助っ人に入れといわれたが、邪魔してるんだけなんじゃないだろうか?

なんて疑問もでてくる

まぁこういう話はよくある
病気になる前の派遣になっていた時もそんな雰囲気だった
今は、その時と違って感情に押しつぶされる事はないが、
やっぱり思いが湧き出てくるし、ストレス0とはいかない

実に勉強になる状況だ

これで思いに潰れなければ、本当に何があっても大丈夫なんじゃないか
って気がする


そんな風にかんじつつ、薬がなくなったので、病院に行ってきた

潰れた時の予防線で、主治医には話しをしておいた

そんな主治医からのアドバイスが…

必ず誰かがちゃんと見てるから
人ではなく、神とか天とかいうものかもしれないけど、
そういうものが見ているということを意識して、堂々としっかりやりなさい

という事だった

実に以外な言葉だ
心理学も西洋のだから根底に宗教があるものだと理解はしていたが、
医者が宗教的なことをいうとは思っていなかったのだ

その後に、拗ねたり、いじけたりしていれば、それが顔にでる
天に顔向けできない顔になってはよくないよ とも言っていた
まるで、宮城谷昌光の小説のような表現じゃないかw

心が逃げると、身体も逃げだしてくる
心と体が逃げているのに、その場に縛られると狂う という事は
慧海も体験的に理解している
そして、天やら佛やらが慧海をみている という事も…

主治医の言葉は思ってもいなかった言葉だったが、
鬱病に潰れない生き方として慧海の学んできた事、やってきたことは、
メンタルヘルスの考え方として間違っていなかった

そういう安堵があった

面倒な仕事はまだまだ続くが、心が騒がしいこの機会に、
もう少し佛様がみてる…佛様にどうみられている
を感じる事ができるかもしれない と思う慧海だった

2011年9月14日水曜日

宮城谷昌光氏の本2

文芸春秋社発刊の宮城谷昌光著「他者が他者であること」を読んだ

気になった言葉をちょっとだけ引用してみたい

---自分の写真は、へただ。
と、認めざるをえなくなった。あとから考えれば、そうした意識まで自分を突き落としたことが、よかったようだ。自分は写真がへただと思えば、写真のうまい人の話を素直にきけるし、月例の選評も神の声のごとくに心にしみる。心のどこかで、自分の写真はいいのに、他人は見る目がない、と恨みが残っていると、たぶん上達ということはできない。
P86-87

宮城谷氏が写真の投稿をしていた30代前半頃の事をかいているエッセイで
自信満々だった氏の投稿がかすりもしなかったという事から来る話だ
人は頭が下がらねば耳がそだたない と全休先生の記事を通して学んだが、
佛や天に問うような人は、なにかしらで頭が下がる思いを経験するのだろう
どこまで下がったのか、何に頭がさがったのか にもよるとは思うが…
佛や天や自然に頭がさがったら、この世で頭をあげようがない

この後、写真の話を書きつつ哲学的な言葉がでてきて面白い
亭主師の写真の記事もあり、慧海の気分もあり、何か写真に関する
流れがでてきているような気がする…

新しいコンデジを買いたい言い訳にすぎないかなw

次に、表題作 他者が他者であること というエッセイから

自分の存在がそれほどあやうく、無いにひとしいのに、他者はどうなのであろう・ここで少々わかりにくいことをいうが、それ以前の他者はいかなる者でも自分の内なる他者であった。自分の感性と理性とで包含しうる他者であった。ところがそれ以降の他者は自分の外なる他者で自分の安危にかかわりなく存在する者であり、理性ではなく悟性をそなえはじめて理解の糸口をみつけうる存在であり、そうでなければ感情によって多少の出入りはあるがまったく無関係な存在である。そういう他者がこの世に、この世界に、盈ちていて、おおかたは社会構造などによって無自覚に助けあって生きている。
P155
小林秀雄氏のいうような悟性という事がわかってきた事から書いた言葉のようだが、こういった言葉がでてくるとは思っていなかったので驚いた
慧海は、他者が自分の内なる他者であると気づくまでで、
外の他者には最近気づいたばかりだったので驚いたのだ
外の他者、外の世界を知識と妄想以外で認識する事は難しいと思うのだ

その後に、織田信長の焼き討ちと近所の家事は同じようなものだとか、
「他者がみえることと歴史がみえることとは、たぶんおなじことであり、
 それによって自己がみえる…」と書かれている。
歴史作家ならではの表現かと思うが、実に仏教的に感じてしまった

他者がみえることと縁起がみえることとは、たぶん同じ事では???

なんて思いながら読んでみた

2011年9月11日日曜日

IS02 で LBT-HP03 を使う 2

前回の記事で、shiomichu さんからコメントで、下記質問を頂きました

1.穴埋めすべき場所と木工ボンドの流し込み方法
2.イヤーバッド裏返し刺し込み!?

1番目は写真の赤い部分に木工用ボンドを塗ります
塗り方は・・・ボンドを普通にぺたっとのっけて、楊枝とかで塗ります
あとは乾けば、透明状態になります。
表面のざらつきがきになるようであればヤスリとかをかけます



2番目は…ボンドを2回ぬったら音の篭りなくなったので、今は使ってません

う~ん。あまり参考にならないような気がします…


先日、耳栓を改造してイヤーパッドを作るというネット記事をみたので、
今度はそれに挑戦してみたいと思います
完成したら、音の感想と、写真をUPしたいと思います



ちなみに、今回は、ケータイで小さな画像サイズでとった写真です
コンデジでとった写真をきれいに圧縮するのは難しいです
次回はコンデジ写真でのせてみたいと思いますw

2011年9月10日土曜日

これが 御任せ ってことか

先日、会社の元同僚O氏とチャットしていた
その時に、慧海は流れに任せる事しかできないのだ
という事を書いていた
ああ、そうか 流れに任せていたのだな と改めて気づいた

流れとは、自然、縁起、時間 そういう流れだ
動いているようで動いていない
流れに任せているだけなので、慧海は止まっている
流れの外から眺めていれば動いているようにみえるが、慧海は止まっている
そういう流れだ

ブログを書き始めて勉強をしていた頃、宿業感というものをなんとなく
理解というか感じて、とても楽になった事があるが、
その頃、自分を客観視するという事について妄想していた事がある。

激流を小船でながされていく自分を上からみている妄想だった
小船の上でじたばたする慧海のイメージがあった
苦悩が減れば、小船にのってゆったり という感じにでもなると思っていた
そういう妄想だった

同じイメージで表現すると、
今は小船もなく、水の中にそのまま入って流れている感じだ
流れに逆らうことなく、あっちこっちに漂っている
流れが変化なって一喜一憂してみたり、石にあたって痛いと思ってみたり
障害物に不安になってみたりしつつも、ただ流れにまかせている
もがけば沈む という意識がある だからもがけない
だいじょうぶかよ~ とか、痛いナァ とか 言えるときに言うだけだ

いや、それも、また流れ次第かと思えば、慧海がただの流れであり、
小船の中にたまった水のようなものなのかもしれない
川の流れに影響され、中の水が波立っていく
川の水が入り込み、中の水が外にこぼれる
どこが慧海であるのかも定かでなくなりつつも、
小船の中の水が慧海なのだろうと妄想する

そんな慧海をみている慧海がいる
そんな感覚を感じている という認識をしている慧海がいる


彼岸に渡った感じは、わからない
浄土を見た感じは、わからない
佛に遇う感じは、わからない
光をみつけた感じは、わからない
信じるものにであった感じは、わからない
智慧を得た感じは、わからない
救われた感じは、わからない
それらの歓喜の感じもわからない

慧海は、いまでも蒙昧のままだ


ただ、もう、どうしようもないのだ と感じる
何もできないのだ と感じる

でも、この先何かあっても、どうにかなるんじゃないか とも感じる

だって、何もできないのだもの

何もわからぬ、何もできぬ それが慧海だったと思うのだから
ただ、なるように任せるしかないではないか

この世は、なるようになっている
この世は、なるようにしかなっていない

慧海も自然の一部として、なるようになっていればいい


あえて言えば、これを「御任せ」といい、
もしかすると、これが「他力」というのではないだろうか


しかしながら、御任せしてみたところで、煩悩は消えない
人だからしょうがない
煩悩は愚痴として口から出たり、ブログに出たりする
愚痴が出るからといって、苦悩しているかというとそうでもない

女性は「ただしゃべりたい」のであって相談しているのではない
というが、それと一緒で、口にするだけ 状態になっている気がする

何もかもが流れに任せているのだから、何だかんだと動いてるようでも、
本気で悩んでいないのだ

口にするしかないような流れだったのだ

口にする事で何かがかわるような、自分の意思のようなものを感じはする
じゃ、本当に慧海が何かしたから変わったのかはわからない
口にしない選択肢が本当に慧海に与えられていたのか?
選択肢があるように思えて、実は一つしか選べないようになっている
過去から続く色々な因縁があって、
それを選ぶ事が良いと思うようになっている
確かに選んだのは慧海かもしれない、口にしたのは慧海かもしれない
でも、そこまでに到達する思考が慧海だけのものではないと思うのだ

だから、苦悩したりしなくなった
残念に思ったり、悔しい思いをしたり、うれしい思いをしたりする
欲もあり、怒りもあるし、満足も不満もある
でも、ただそう感じている事に気づくだけなのだ

だから、足るを知る とかいう言葉すら必要ない
足る足らない、それすらも任せるしかないのだから


やる事があって、やれるなら、ただやればいい
考えなきゃいけないときには、ただ考えればいい
遊んでいい時なら、ただ遊んでいればいい

ただ、それだけ なんじゃないかな


感覚を記録しようと、余計な言葉をたくさんかいているが、
帰敬して丸4年がたとうとしている、慧海の現在の心境である

自然のままにすごしていきたいものだ
櫻のように…
空のように…

2011年9月9日金曜日

暇でいいのに…

夏休み気分を引きずりつつ、のんびり、細々と仕事をしていたら
急遽、大きな案件の大きくない障害対応メンバーにあてがわれた

大きな案件の仕事というのは、そのお客さんの仕事以外はやらない 
ってメンバーが多い

でも慧海は他の案件があるままだ
誰もやらないような案件なので、ささっと別の人と代われない
別の人がいるなら最初から慧海なんかに頼まない

そういう仕事はどんな仕事か…

システム連携等が絡むけど、お金の匂いがしないとかで
SEが支援してくれない ってものだ
お客さんの話きいて、仕事の内容を区切って、SE部門と交渉して…
で、負け商談だったり、ペンディングで立ち消えなんてのばっかりw

今回投入された障害もシステム関係で、SEとの間があまりよろしくない
さらにお客さんも、感じが悪い・・・らしい
そんなんだから、社内メンバーも無駄に忙しい

そんな忙しい案件なんで、その案件に入った途端、
他の案件をやる暇すらなく、過去資料やらなんやらを読んどけと…
で、資料作りやら議事録作りやら事情もわからず、まぁ忙しい

忙しいといいながらも、慧海の防衛ラインであるノー残業宣言はした
卑怯にもキチガイを楯にして逃げ道を確保
ついでに、他の案件もあるので、そのユーザのみはできない事も宣言


そんな感じで、作為だらけな動きをしているようにみえるが、
実際は、作為はほとんどない
自由意志なんて実は無いのだから、作為しようにもどうしようもない
ただただ、自然になるようにしかならない
自然の流れに反して行動しようなんて… ねぇw

ふと思うのだが、
毒を食らわば…というが、皿まで食う事はない と思うのだよ
毒を食らってしまったのは、逃れがたいものがあったのだろう
でも皿を食う流れは毒を食らう流れとは違うところからの流れじゃないか?
皿を食う事は認識ができているはずなのだ
あえて言えば、自分の意思で食べた と認識するものなのだ

昔は慧海も皿まで食う動きをしていた 食わなきゃいけないって思ってた
今は皿は食べないようにしないといけない って思ってる
そういう流れに慧海の中でかわってきた という事なんだろう
だから、ノー残業宣言とかをするのだ


とか言いながら…

嫌だナァ やりたくないナァ って思いが沸いている
気にいられないようにしつつ、仕事を終わらせよう と考えている

アニメもみたい
本も読みたい
ゲームもやりたい
ネット/ブログ更新もしたい
散歩もしたい
お酒とうまいものと会話も楽しみたい
眠れるだけ寝ていたい


仕事の時間なんて増やせないよね~w
残業している時間なんてないのだよwww

2011年9月4日日曜日

法事と門徒講座8


9/3は祖母の7回忌の法事
親戚が20人ほどあつまった

いつも住職法話が残念な感じだったのだが、
今回は親父が帰敬式をするとかもあってか、
いい感じに話をしていただけた

親父は10年間法事をしてきたが、一番いい話だったと喜んでいた


で、今日は門徒講座の8回目
空海の話を30分ほどした後、9月のカレンダー法語についての話
その後、法事の後に聞いたのと同じような話があった

どうやら、少し前に勉強会に参加されたらしく、その際の言葉が
とても得心がいったようで話をされたらしい

とはいっても、今まで住職が話していた内容と違う事は言っていない
目から鱗というような言葉も表現もなかったように思う
が、いつもあいまいにしていた事をズバリと口にしていた

雑念の念仏じゃダメ

という事を今回は口にしていたし、人は必ず死ぬということを
自分の思い通りにいかない事を口にしていた

婦人会の一人の方が、そういった言葉が痛いと言っていたが、
いままでは痛くないようにしかいってなかった住職が今回は
痛いように話していた

痛いからこそ気づくんじゃないかと思う慧海は何でもっとグサっと
話さないのか…と思っていたんだが
とうとう住職がグサっと話し始めた と感じた

住職が皆さんに話しをする
慧海はそれをきいて、どういうふうに考えるか…それが慧海の聞法

素直にきけず、それは違うと自論を当ててみたくなったりもする
でも、わかっていない人にどう説明するのか…なんて慧海に
それが出来るわけでもなく、わかっていても語れない事に気づき、
「どんなから話でも学べるようになった」という住職の言葉を
慧海もただ真似るのみか と思い耳と心できいている



あと3回で門徒講座が終わる予定だ
来年もやるのかはわからないが、この感じだと来年まで続きそうだ
なんたって、予定していた親鸞の話がいまだ始まらないのだから…w


9/25 は親父が帰敬式を受けるんで、写真をとりにいく
10月の第三日曜は、報恩講。 初お手伝いの日だw
お寺がどんどん身近になっている気がする…

2011年9月3日土曜日

カメラと私

亭主師の昔のカメラコレクションに驚いて、
慧海のカメラ話でもと思い書いてみた

慧海の祖父はアマチュアカメラマンだった
10年ほど前に他界したのだが、その時に祖父の写真というのを初めて見た
ほんの一瞬をとらえた写真や、光と影の微妙というか絶妙というか
スナップショットとは違う芸術的な写真に、祖父が愛した写真というものを
ほんの少し垣間見た気がした

もちろんカメラもそれなりにもっていた

愛用はニコンのF,F2, F3だったようだ
F2は2台あって、晩年1台もらった
高校の頃、祖父からもらったニコマートをもって修学旅行等に行った
レンズは35-80、70?-135 と 20cm とかいてあった200mmや24mmレンズを
適当にもっていった

ピントを合わせるのに時間がかかり、思うように使いこなせてはいなかったが
被写体深度、露出、シャッタースピード、ASA?(ISO感度)といった
基本用語は祖父に教わった

写真部員でもないのに部室で焼かせてもらったりもした(白黒だけどね)

でも、写真をとった時の情報を覚えてないので何をどうしたらどうなる
ということはよく理解できてなかった

デジカメを初めて買った時には、ビデオカメラがなかったので動画
撮影機能を優先したが、2台目はズームと起動時間を考えた
レンズを換える手間の記憶があったからだ
光学ズームは35-135 それが2cm位の厚みに入るなんて…

そして3台目は28-200 広角から20cmまで… すっげ~~~
慧海の取れる写真はこれで十分とか思った

で、最近は、シャッタースピード優先とか露出優先とかで写真ってみたい
とか思うようになった

使いこなせるかはわからない
昔の一眼レフのように色々いじってて、シャッターチャンスを逃すかもしれない
家族のスナップショットはオートでいいけど、趣味で取る空や花は
色々といじってみたい
目に見えた色と写真の色を近づけてみたい
写真にすることでみえてくる世界をみてみたい

祖父(母方)が愛した写真の世界

家族はだれもかえりみないが、慧海位は受け継いでもいいかと思う


ちなみに明日…というか今日は父方祖母の命日にして7回忌の法事
祖母の趣味はひ孫にも受け継がれているのになぁ~

亭主師のカメラ記事を楽しくよませて頂きながら、
4台目のカメラの検討と、どう写真をとるかを勉強させて頂きたいものです


2011年8月31日水曜日

プチ断食

食べすぎの夏ばて気味ということで、食欲がなく、
水分をとりすぎてむくんでいたので2日ほど断食を実施した
月曜の昼を軽くたべて、今日の晩飯まで食事はとっていない

断食といっても、この時期に水分と塩分を取らない訳にはいかないし
糖分もまったく抜いてしまうとリバウンドがひどくなるので
単に固形物をとらない という感じのものである

朝は野菜ジュースか黒砂糖を一口と、梅干のスープ、
昼は野菜ジュースか豆乳
夜は朝と同様
喉が渇けばお茶を飲む

移動時や帰宅時にはできるだけ歩くようにする

あとは、スポンジみたいな腹巻をつけて外出
汗がすごいでるので、腹巻の下にはタオルをまいて
汗で濡れたら、腹巻ごとはずす

体温があがり、なにもしなくても汗がでるので
顔やら手足やらのむくみが取れる
コルセットのように腹を抑えるので、腹筋が緩みきらず
少し上に戻る感じがする

食べてないので少しは体重も減るけど、これはすぐ戻る
でも、胃が小さくなった分、過食をしなくなるし
ムクミがとれて体が軽くなった感じもする

もちろん、ちゃんとお腹がすいた感覚がでるようになる

食事を取り始めるときは、おかゆ とか うどんにする

空腹でガツガツたべたりすると、即胃がおかしくなるので
消化の良いものをよくかんで、ゆっくり食べるしかない
もっと本格的に断食する人たちは、重湯から戻すらしいが、
野菜ジュースや豆乳はとってるんで重湯を食事にしているようなものらしい
なので、おかゆ/うどん でOKっぽい

少しの量だと頭はもっと食べたいと思うが、
胃が重くなって食べられなくなるので、そこでやめる

断食で色々と排泄がよくなるらしい
慧海は舌のコケがひどかったり、尿が濃くなった位
汗がよくでるようになった時期もあったが、今回はそれほどでもない

ちなみに、断食すると気分が晴れるきがする
空腹を我慢している訳でもないからイライラするわけじゃなく
我慢する位なら、断食はしない
軽くなった分、歩いても疲れにくい気がする
(ちなみに風邪を引いて熱を出しても断食をするが、その時はグッタリ)


明日から9月
ビヤガーデンを楽しめるのは、夕方涼しくなったこれからの季節
胃腸の再起動がうまく行けば、来週からは元気においしく頂けるだろう

秋は春同様、涼しくなって散歩がしやすい季節
空も高く、青くなっていき、紅葉もすばらしい
春同様、カメラもって散歩しよっとw

健康な体で、元気に日々を楽しみたいものだね~

2011年8月28日日曜日

夏バテかな?


暑い夏の方が体が冷えている気がする…
で・・・胃腸の調子が悪くなる

クーラーと冷たい飲み物がいかんのだというのはわかっているが
飲み物は冷えているし、電車やお店、会社内はクーラーがきいている

外をあるいて汗をかく
で、喉が渇いて冷たい飲み物をのめば、お腹の中が冷える
屋内に入れば濡れたシャツがクーラーで冷たくなってくる

今年は節電で社内は冷やしすぎてはいないが、電車が以外と冷えている
半袖で30分電車にのっていると腕が寒くなる
もちろん汗をかいた分、胸部腹部が寒い
家に帰って風呂に入ると、低めの湯があつく感じる位には冷えている
体表面はあったまっても、内臓まではあったまらない
その前に熱くなってでてしまうからだ

そんな冷えた体で、冷えたビール類をカポカポのむ
ビールのつまみを外で頼むと、肉類・揚げ物類が多い
油モノに冷たい水分… まぁ自明の理だなぁ~


便利になって…不便がふえる
どこまでも自然というものを人が支配できない事がわかるねぇ



そんな訳で、胃腸の調子がわるくなり、段々食欲もなくなってきて、
外で呑んで食べてをしていると、酔うより前に吐き気を催すようになる
昨年もそうだった覚えがある
冷えた体が拒否しているんだ

もう若くもないんだし、内臓にやさしい食生活を心がけたいものだ



もうすぐ8月が終わる
今日の空はどこか秋めいてきているように感じた

秋を楽しむためにも、夏をちゃんとクリアしておこうっとw
まずはプチ断食かな?

2011年8月23日火曜日

30代のうつ から新型に?


僕がうつ病になっている2007年頃は、「30代のうつ」とかいう特集がNHKで
放送され、ツレうつ本のヒットにドラマ化みたいな感じで、話題だった
社内うつ ともいうらしく、仕事の期待に答えんとして過重労働したり
色々と考えすぎてしまい、ストレスとうまくできない自分を否定したりする
昔は40代の管理職に多かったらしいが、管理職から仕事の前線に
ストレス負荷が落ちてきたとも言えるんじゃないだろうか
バブル時代に数字あげて上がってったマネジメントのできない管理職も多い
成果主義開始で数値化と、予定外の仕事は評価しない制度もあるかな?

そんな2007年に30代のうつ真っ盛りだった人は、2011年現在では
 1.無事復職して普通に生活
 2.復職はしているが、無理はしない生活をしている
 3.復職して、病気と仕事の波に呑まれて、たまに休む
 4.退職して…いまはどうしているのだろうか・・・
って感じになっている

1の人の多くは仮面型で、病気と認めずにすごし、異動や時間の経過で
とりあえず元の生活に戻った感じだろうか
もちろん休職もしてないんで、軽度とも言える

2は頭の中がぶっ壊れた人、3はぶっ壊れているのに認めない人に多い
昔のように働けると思う人ほど3になる
何度か無理して動けなくなって、2になる人もいたし、3のままで
リストラ対象になった人もいる

2の人には、以外と仏門を開いた人が多いみたいだ
1でも佛教本をみて、考え方が変わっていった という人もいる

この病気は我執と関係が強いんだろうね
どこかでうまく割り切れた人は社会に戻れる って感じかな?
遺伝的なうつ気質…根暗って言われてた人もあるから


ところで、最近は新型うつ という、
会社にいる間だけ鬱というものが増えているらしい
自己否定ではなく他人を否定し、会社をでると元気になる ってものだそうだ
浮き沈みが激しく、朝ではなく夕方に調子が悪くなるとか…

これもサボりではなく病気だ という
抗鬱剤の効果は無く、カウンセリングが有効 とのことだが…

どう考えても、思考が幼すぎるだろう!

なんでも病気ってことにすりゃいいってもんじゃないんじゃね?
20~30代に急増ってことらしいが、ゆとり世代ってことだろ?

例えば、仕事に失敗して、上司にガツンと怒られて、
プライドを守る為、自己防衛で反省も出来ず他人に責任転嫁
または、やりたい仕事がさせてもらえないとか嫌な仕事をさせられたとか…

会社にいると、自分の思い通りにならない事が多くて憂鬱
みんなバカばっかりで、俺の価値を認めない とかのたまう
もちろん、外でダチと遊んでいれば楽しいから、元気

僕らの頃ですら、いつまでも学生気分で甘えてんじゃね~!
って怒られたもんだが… 今は怒ると会社来なくなるっていう…

新型も心の問題ではあるが…日本の問題な感じがする
なんて社会のせいにしているあたりが、慧海も新型傾向w

30代でも、新型でも、本当に苦しいのなら自分でなんとかするしかない
もっとも、新型は会社にいなきゃ苦しくないんだろうけどね
休職して海外旅行しちゃう人もいるらしいからw

だれでも うつ っていっときゃ楽ができる時代になったんかね~

5年後にはどんな鬱事情になってるんだろうねぇ・・・

2011年8月22日月曜日

IS02 で LBT-HP03 を使う

苦悩に気づけてないんで、また趣味話

慧海は現在、auのIS02 という携帯を使っている
DOCOMOのT-01Bとほぼ同じヤツだ

で、このケータイにはイヤホンコネクタがない
平形もピンもなく、MicroUSBに専用のケーブルを挿さないといけない
それでコネクタ部分が逝かれると充電ができない という設計だ

なので、IS02で音楽とかを聴きたい場合、Bluetoothのヘッドセット等
が必要になるのである

このBluetoothの受信機が曲者だ
電池持ちが携帯より短く、小さいものだと3時間程度だ
メモリー効果のあるものもあるので、できれば完全放電させたい
なんて思うと、前日の残り時間しか使えない

2つもってみたら…1つ落として失くした…
1つで頻繁に充電しつつ使ってたら…壊れた

で、新しいのを探していたら、秋葉でLBT-HP03 というヘッドセットが
1500円以下で売っていた
カナル型で、イヤホンのところに受信機がくっついるというデザインが
なんかよかったのだ・・・もちろん安いからが先だがw
100円のイヤホンをましな音にできたのだから、1000円台の格安
ヘッドセットでもなんとかなるだろうと買ってみた

案の定、音が気に入らない。こもってるし、高音ばかりだ
IS02との相性もわるく、手で隠した程度で音が切れる
ネットみたら、酷評だった・・・
まぁしょうがないw


で、いじってみた

1.音のいじくり
まずお約束の、イヤーパッドがささるところの穴以外、全部埋める
慧海はためしはセロハンテープ等で音の違いをみて、
問題なければ、木工用ボンドをつかって埋めてしまう

これで、低音とこもりがダイブ直ったが、それでもこもるので
イヤーパッドを裏返しに差し込んで、スピーカ周りを覆った
そのままだと、本来のパッドがひっかかるところが埋まってしまうので、
じゃまな部分はカッター等で切り落とし

耳とのフィッティングが悪いので、耳栓みたいな2段になってる
カナル用のパッドに交換(100円ショップのヤツ)
これで、音はそれなりになった

ちなみに、安いので後日もう一つ買ったんだが、そっちは
穴埋めだけでまともな音・・・というか1つめより良い音になった
パッドも標準の中サイズで十分だった・・・
個体差か、穴埋めのボンド量がちがうのか・・・

2.音切れのいじくり
受信感度の問題より、送信側に問題があるっぽい
なので、WindowsMobileのBT設定を変更する
通話はあきらめて、オーディオ設定だけにするのだ
通話は…普通に本体でやるしかないw

これで、音切れは0にはならないが、頻度は格段にへるし切れる時間も短い
ベルトにつけたケータイホルダで、1曲中1回程度
胸ポケットだと2曲に1回あるか程度
前はケータイホルダで1曲中に4回位で、1秒近い途切れもあった
方耳はずして、受信機と携帯を近づけておいたほどだw

Pocketの手でちょっと設定変えてあるが、悪い方にしたら
音切れが軽減するのかと思ったが・・・違いはわからんかった


まぁ、こんなんで受信機1個買う値段で2個が運用可能レベルになった

LBT-HP03を買って失敗したと思っている人がいたら、
捨てるつもりでこの作業をしてみてほしいと思う



といいながらも、このブログがひっかかるとは思ってないんだけどねw
どうしても困ってたらきっと10ページ目とかにでてくるこの記事でも
目に入るかもしれない

慧海の知ってることで、困っている人の役にたてられるなら、
病気的なものでも佛教的なものでも、電子機器的なことでも、
うれしいじゃないかさ

まぁ あれもこれも、ご縁次第 ってこって

2011年8月19日金曜日

ぼけ?


盆休みってこともあるのだが、やはり頭は ぼ~ っとしている
酒の呑みすぎかとも思っていたのだが、酒を呑んで無くても同じだった

心の病の方かと思い、主治医にもきいてはみた
軽い脱水症状かな? と言われた

眠いような感じでもあるし、リラックスしているような感じでもある

この状態では、悩みに悩まされていない気がする

仕事もできるし、車の運転も特に問題ない
ぼ~っとしてて危ない という感じではない
でも、人やモノの名前がなかなか思い出せない…w

イライラすることもあるが、それが感覚として認識できている
あたまがまわらないから、思いをいじりまわしたりもしない

ああ~ 損をする~~

という、慧海にとってもっとも自動思考してしまう損得計算も
意識にあがることはあるが、それがいつまでもこびりつかない

どこか、この世の出来事ではないような感じがする

頭の中に幸福感といか、満足感のような感覚が続いている

腰や肩がいたかったり、妻に文句を言われたりすると
一瞬そっちに意識が向くが、それも短い間のようんだ

なんだろうねぇ
お休み効果かな?

この状態が良い状態なのか、悪い状態なのかがわからない・・・

休みも終わったし、長続きはしないだろう たぶん

2011年8月16日火曜日

盂蘭盆会


母の叔父の新盆ということで、両親をつれて茨城に行ってきた
うちはお盆のお飾りで、ちょうちんも、泡のでてくるなんかも
飾った事がない
ここ数年は、お迎えもしないのに牛馬の飾りだけ買ってくるらしいがw

大人になって初めて他人様のお宅の盆飾りをみた
仏壇の前に3段?の祭壇があり、小さなお椀に料理をおいたり、
ちょうちんやらバブルやら、なんやらかんやらと部屋の半分が
仏壇になっていた

子供の頃、母の叔父の所に行っている時、お盆という事で
ちょうちんもって夕方に墓参りをした覚えがあるが
もちろん今でも、ちょうちん持ってお迎えとお送りをするらしい

そして新しい塔婆もおいてあった(施餓鬼用??)

軽く食事も用意されていて、
白い豆を使った赤くない赤飯に、昆布、油揚げ、こんにゃく、麩
をそれぞれ煮た物。あとは・・・いなり寿司
といった、精進料理の類のものを、ちょっとだけ頂いた


そういう習慣がないだけに、面白いものだと思った
長年やってきたお祭りなんだな というのがよくわかる

釈尊の佛教と関係ないのかも知れないけどねw

2011年8月9日火曜日

酒におぼれる?

暑いというのもあり、ビールがすすむ
暑くなくても酒をのむのだが、暑いと家でも量が増える
暑いと、会社帰りに酒が呑みたくなる

そんな感じで酒ばっかり呑んでるから、頭が朦朧としているような気がする
色々と落としたり、なくしたりもしている
それも、いつなくしたかがわからない
社員証もなくしたのだが、いつからないのかもわからない

昼間の酒が無いときは、音楽やら動画やらで頭の中を酔わせているのだろう


最近は、色んなことを無自覚にやっている
だから自分が何をしているかがわからない
家にいるときは、自分が何をしゃべっているかもよくわからなくなる

頭の中に逃げ込んでいるような、そんな気がする
体の感覚が鈍くなる
食べ過ぎたりしてるのは、頭の中にいるからだろう

頭の中を見ようとしているときは、頭の中が騒がしいほどだった
最近は、それほど気にならない
色々と感情やら思考やらは動いているが、なんとなく気づいている程度で
特に気にしていない感じだろうか
怒りやらの強烈なのは、反芻しやすいのでちょっと注意はするが、
反芻しちゃうのをどうこうできない
でも反芻してイライラしてることに気づいていれば、
「いらついてるな~」って感じる程度で、辛い事にはならないですむ


基本的には、日々ボーっとしている感じだ
長時間同じことで悩まないし、いろんなことを覚えていない
脳みそが使われていないんじゃないかなぁ~

う~ん

今のところ日々楽な感じではあるが、堕落している気がするw

2011年8月7日日曜日

門徒講座7

勤続褒賞休みで日焼けした肌で門徒講座に出席

半年たったとので感想その他を聞きたい&
今日は陸前高田にボランティアに行く とのことで
ただの雑談会だった

帰敬式をうける人が二人いるので、そのあたりの話とか
正信偈は何が書いてあるのかという質問への回答とかしてたら
…雷がなってきたから早めに終了となった

ちなみに、門徒講座参加者はその二人を除いて全員帰敬式済み
ということがわかった


そんな感じで、特に書くこともないような感じで終わった



最近は並んで坐っている、得度されたIさんとはちょくちょく話を
するのだが、そのIさんが本を貸してくれた
全休先生の下記記事にでてる清沢満之語録だ!
http://ictv.easymyweb.jp/member/zenkyu/default.asp?c_id=26083

これは楽しみではあるが…はたして、よめるのか?慧海に・・・

2011年8月1日月曜日

勤続20年休み

明日から勤続20年褒賞でもらった5日間の休み
その翌週は仕事するが、15日から今度は会社の夏休み

今年も、あっという間に8月が終わり
気が付くと9月で期末、来年度予算取りの為の
提案&見積もりで忙しくなりだしたりするんだろう

なので8月の頭に休みをとって、義父の好きだった海へ…
放射能汚染を他人に心配されつつ、へっちゃらぽん で出かける

勤続10年の休みの時は、車で1歳の子供をつれてでかけた
勤続15年の休みの時は、抗鬱剤と睡眠薬をもってでかけた
今回は義父の写真をもって義母も一緒にでかける

健康で60歳定年であれば、あと21年働くはずだ
予定通りなら、あと4回永年勤続休みがでる

きっとこれからも色々とあるだろう

未来を考えると、やっぱり憂鬱になるんでやめておこっと…



小学生の子供とゆっくりでかけるのはよくて来年までだ
まぁ、しっかり楽しむとしようじゃないかw

2011年7月18日月曜日

日差しにご用心

慧海の肌は白い方である
昔から夏の日差しにあたっては、赤くなって、痛い思いをした
赤みが引いた頃には皮がむけて、また白くなる…

そんな感じで焼けた肌とは縁遠い生活だったのだが、
休職した際に、家でちょっと焼いてみたりしてみた
5,6月の天気のいい日に、1~2時間日にあたるだけで、
もう日焼け状態で肌が赤くなる
時間が短いので、痛くはならないが、赤い
赤みが引いた頃…一度目の脱皮をした頃にまた日にあたる
また日焼けする
今度は1日ちょっとで赤みが引き、脱皮しない
また日に焼く…
そうこうしていると、ちょっとは黒くなる

この状態にして、やっと休日や夏休みに海やらプールやらにいける
それでも肌はいたくなるので、ラッシュガードは着たりはするが、
基礎ができてないと、火傷状態になってしまうのだ

子供を海やらプールやらの夏休み遊びをさせるには、
父親として努力もしないといかんのだw


夏の日差しですらそうなんだから、心の問題なんてもっと大変だ

部署異動やプロジェクト参加すると、ガンガンに照らしてくるリーダがいる
元々日差しに強いやつはいいが、日差しに弱いやつは火傷する
近寄られるだけで、暑いし痛い
日陰に逃げ込みたくても、日差しを止められるだけの器がなければ
日陰を作る事ができないのだから、日陰があるとは限らない
照らす側からみれば、日陰ができるのは嫌だろうしねぇ

そして、日に焼かれて黒くなっていったものは、強いやつ
日差しから逃げ出した白いやつは弱いやつ
日差しの下で日陰を作れるやつは… 危険人物

そういうことになるのだろう

少しずつ日差しに慣らさせてあければ、誰でも日差し慣れできるのに
社会においては、そういう事はしないんだよね

メンタル疾患がある人だけは、そういう生活をする
メンタル的色白だと認識できている人だけが、そういう生活をする
気づいていないと、炎天下にさらされて火傷して寝込むことになる

自然な生活を営みたければ、自分の弱さと自然の強さを知ってないとね

OLの大半が日傘をさすようになった。それも黒いやつを。
サラリーマンは日傘をさすことはないが、昔の紳士のように
帽子をかぶる事はできる
キャップをかぶった私服の人は多いが、Yシャツにハットは少ない

しかし、意識をしてみると、ハットをかぶったノータイのサラリーマンが
ごくまれに見つかるし、初老の紳士もみつかる
今年はコレだ!

お客さん先に麦藁帽をかぶっていくことはまだできないが、
エコ対策でこれから増えるんじゃないだろうか
ノータイのサラリーマン比率が今年は格段に増えているのと一緒だ

強い日差しに対して、自らガードしていくしかないのだ
それは、今よりも昔の知恵が生きているような気がする慧海であった

2011年7月10日日曜日

新盆

今日はちょっと早いけど義父の新盆法要を行った
仏壇もかったし、家で一度くらいお経を頂こうということで
住職に来ていただいた

この暑い中、着物で自転車のって来ていただいたよw

普通に正信偈と和讃のセット あとは雑談
決して法話と言えるものではない
本当にただの雑談だった

そんな雑談しかしてないが、お寺は14ランクのうちの4ランク目という
それなりに高いランクのお寺だったらしい
埼玉では2つしかない門主が来た寺という事だが、
当時の門主は今の東本願寺派の人だから… という話をしていた
Wikipedia で読んだことがあるが… 歴史だね~w


他は、友人Sが入院するとかで、見舞い用アニメのエンコしたり、
プールや屋上で夏休み対策で、日焼けしたりと、なんでもない
終末をすごしました とさ

2011年7月5日火曜日

宮城谷昌光氏の本

慧海は宮城谷昌光氏の中国本が好きである

中国古典の頃の話がおおく、名君や賢人等偉人の話だが、
偉人が偉人すぎなくてよい
上司や同僚、部下に苦しむサラリーマンのような
偉人の苦悩を描いているのがよい

病んだ時、本が読めなくなった
復職期には、仏書以外の本を殆どよまず
夢とか欲とか名誉の話が嫌になっていた
宮城谷氏の本も、お気に入りのARIAというマンガも
手に取ることができなかった
夢とかで表現する欲求行動がうんざりだった

元気になって、佛教勉強も進み、欲とかの煩悩との付き合いを
すこしずつわかりはじめてやっと宮城谷氏の本を再びとることができた

そして、先日読んだ本を読んでて気づいた
氏の本にでる偉人達の多くは、大事なところで

天に問う
天に任せる
天に従う
天をみる

ということをする
氏の書く偉人達はどこか我を離れたところがある
苦境に立っても天の采配や天の試練となるし、
私と天と先祖・国の問題として物事を捉える表現が多い

氏の中では老子の世界観か、日本人がもつ神道・佛教感なのかはわからないが
慧海には佛お任せしつつ、世間をちゃんと生きる人の例に感じた

昇進はしたい
給料は多く欲しい(領地は欲しい)
体調を壊すほどの仕事や嫌だ(戦で死にたくない)
あれや、これやと思い通りに物事をすすめたい
等などありつつ、

な~に天がみている
行いが天にあわなければ、物事がすすまないし、
天にあえば、そのようになっていくだろう

と、どこか結果をほっぽりだしているのだ

やるべき事はやる
やらねばならないと思うことを提案してやる
出来る限り頑張ってやる

それでどうかは、天のみぞしる

そんな感じのただ楽しく読んでいた、宮城谷昌光氏の本が
慧海の中で違う姿として映り始めた…
やっと、憧れもうんざりさも感じずによめるようになった気がする

時間つくって、もう一度読み直してみようかな
読めてなかった言葉が読めるようになっているかもしれないw

2011年7月3日日曜日

門徒講座6

定例の門徒講座に今回も出席

今回は最澄の話
天台の話とか、比叡山の話とか千日回峰行のルートをみてきた
という話をしつつ、一切衆生悉有仏性 という事の話があった

あとは、最近住職がお気に入りの言葉
「雑行を捨てて本願に帰す」の逆「本願を捨てて雑行に帰す」
ということを千日回峰行の話をしつつ、雑行がしたいんだよ
と話していた

ふと家に帰る頃思った

親鸞は雑行をしてたから捨てるという選択肢があった
釈尊だって苦行をしてたから、苦行を捨てられた

僕らは捨てるべき雑行をしらず、頭で本願に帰すと考え
雑行は必要ない無駄なものと決めて考えているような気がする
慧海は雑行と言えるかわからないが、本願よりも雑行の類に
集中している・・・そもそも本願ということがわかっちゃいない

本願を捨てて雑行に帰す・・・ 東大で真宗の坊さんが言った言葉らしいが
彼や住職は捨てるような雑行を行っていたのだろうか?
佛に遇いたくて、雑行をして・・・無我になんてなれないし、煩悩も消えない
そんな現実から佛にお任せするしかない となるんじゃないのかなぁ~

これこれはこうである
だって、お経にこう書いてあるから

住職はよく、こういう言い方をする
どういう考えでこの言葉をつかうのかは知らないが
慧海は好きな表現ではない

お経にある言葉をただ読んでもわからない
苦悩等の経験があると、なんとなくわかった気になれる
そんな経験は内観やら瞑想やら空念仏やらの、
雑行がないとわからないのかもしれない

2011年7月2日土曜日

携帯とPSPとWindowsスレート

友人「G猫氏」からPSPを借りた
故障っぽいので、新しく買ったのだが故障してなかったらしく、
モンハン2Gまたは3をやる という条件でお借りした

早速、中古ソフト屋に行って、ソフトチェック
2Gの廉価版の中古がとても安く入手できた
ついでに、やってみたかったがPSPがなかったので手をださなかった
ゲームもあったので衝動買いw

まだ動かしてはいないが、10年以上ぶりにゲームにはまりたい気分だ


昔はPCゲーム、PCエンジン、PS等でRPGを中心にゲーム楽しんでいたのだが
最近は、ゲームをする時間がなかなかつくれず、数年前にPS2を友人S君から
返却日未定でお借りしたのだが、ソフトはかったもののクリアどころか
封さえきってないソフトばかりになってしまった

テレビつけて、部屋でじっくりゲームという環境作りが難しいのだ


病んだ際に元アニメオタだった慧海は、再度アニメオタの道に戻った
復職の際に家での視聴時間が作れない事と、会社に行く事の抵抗感を
払拭する為、スマートフォンW-ZERO3での通勤視聴を始めた
それ以来、通勤視聴が日課であり、出社しないと視聴残が出る状態になった

PSPが出たとき、ゲーム機持ち歩いてまでゲームなんかすんのか?
と思ったが、DS Lite が出た頃には家もDSをかった
子供たちがDSを持ち寄って遊ぶのをみて、ゲーム機が
外に持ち出せる別の価値を理解した気になった


昨日、会社から携帯を貸与された
節電対策で、直行直帰日ができたりで会社にいられなくなる
その分、携帯を貸与し、外でも電話対応ができるようにということらしい
家電話から携帯電話になり、iモードで通信端末となった
そしてiPhoneやAndroidで一般化したスマートフォン、そして
iPadやAndroidタブレットで、モバイルPCからスマートデバイスになって
つねにPCを携帯していくウェアラブルとかユビキタスとか言われたものが
どうも実現していっているようだ

PCではなく、iPadやAndroidを使いたくなるポイントは、
起動の待ち時間がないことだろうと思う

携帯でネットにつながる感覚になれた人は
ちょっとWebサイトを見ようと思って、
PCを立ち上げるのが面倒なのだろう

思ったときにちょろっと使える
携帯よりも大きな画面で、使いたいソフトも動いて…

実際にPSPが自分の手元にきて思ったのは、
iPadが手元にあるのと同じ感覚だということ


思いつきを即行動にうつしたい欲求に即答えられる姿が
今の携帯電話でありPSPでありスマートデバイスなんだろうね

PCを使っているときにスマートデバイスは使わない
スマートデバイスでがっつり文字を打ったりしない

じゃ、WindowsOSでスマートデバイスはどうよ ってことで
先日までの1週間ほど、Windows7のスレートを借りてみた
ソフトキーボードはやっぱり使いにくいが、操作慣れはしているので
他OSよりはよい
USBキーボードとかをさせば即通常のPCと同様の操作になるのでガッツリ
文字も対応できない訳ではないな
BlueToothキーボードでも良いけど、接続やら充電やらを考えると
サクっとUSB挿す方がいいかと思う

で、即時に欲求に答えられるか と言う点で電源まわりをみると
スタンバイにしておけば起動の待ちはないものの、ランプが点灯してたりで
なんか気になる。スタンバイ中は1時間で1%ほどの消費なので、100時間は
持つことにはなるだろうから、スタンバイでもなんとかなりそうだ
一時停止だと起動に20秒弱 まてなくはないが、ちょっと面倒

Windows8でもARM対応で低電圧対応はされるだろうが、
起動周りは変わらないらしいとうわさされている

慧海が使いたいソフト仕様は、PCでなら無償提供で安定稼動しているが
他OSでは、イマイチな対応状況だ
実際、Windowsスレートで遊んでみたが、PCよりお手軽で、スマフォより
見やすく動きがよく、使いたいソフトが使えるのが実によい
タッチ操作対応がイマイチではあるが、設定である程度はよくなる
今後タッチ操作をするデバイスが増えてくれば、対応してくれるだろう
あれやこれやと、欲しくなるねぇw


今の世の中は欲求で動いている
欲求を口にできなければ、ダメだしされる

携帯もポータブルゲーム機もスマートデバイスも、とても便利だ

個を立てて、他とつなぐ

そういうスタイルなんだよね

伝言はいらない
みんなでサイコロも振らない
だれかに相談しない

このまま便利になっていくと、どういう世界になるのかね~w?

2011年6月26日日曜日

永代経法要

先週19日の話だが、永代経法要があった

義理のお母さんもつれて、永代経法要初参加
まぁ、普通にお経と法話があった

法話は・・・人気の方らしいが、慧海はあまり好きではなかった
なんかこう・・・道徳的な雰囲気と独善的な雰囲気が、
法話をきいている感じがしなかった
ちゃんと大事な事いっているんだけど、そこがぼやけてしまう感じ

でも、他の方々には好評だったようだ
そういうものなのか・・・


法要の後で飲みに行こうと言われていたので、
確認をしてみたら、片付けした後に行こう と言われた
外で待ってます というのもなんなので、後片付けの手伝いをした
ただ手伝っただけだった

片付けがひと段落したあたりで、住職が立派な帯袈裟をもってきた
そこには、「世話方」の文字と、「得信寺」の名前が・・・

住職が一言

総代さんに若いのどう?って話したら、是非世話方に 
ってことになったんで、次回の報恩講からよろしく

・・・あれ?w

いつか得度とかしたいな って思ってたんで、
ご挨拶して、世話方入りをすることになった

そして、飲み会
門徒講座でご一緒する、半年ほど前に得度したIさんとか住職とか
とあれやこれやと、一般的な社会人の会話とちょっと違う話をしてきた
Iさんからは得度をすすめられた
声明?称名?? を1年以上勉強されている
得度にあたっては必要になるので、教えるよ といわれたw

得度に向けて勉強するのは、子供が中学に入って暇になってからですね

と、とりあえず一歩逃げる発言をし、小学生まではしっかり遊べと
大先輩のIさんに、ご指導を頂いた

得度と、自分の勉強は別
得度したから何かがあるとは思っていない
逆に慧海が何かに気づけたら、得度しようかなとか思う
世間との乖離がひどくなっていくような気がして…

とはいっても、教師資格に興味はないし、法要で袈裟着たい訳でもない
でも、ちゃんと大事な事にきづけたのなら、全休先生や亭主師みたいに
気づいた事を伝えたい

僕の年代、バブルの上司と、ゆとりの部下にはさまれた世代に
自分で自分を苦しめなくなるような…でも自分をみつめるような
そんな言葉を語れればいいなぁ~

まぁ、欲だな

なるようになるだろうよ


あ、そうそう
法話でおもしろく聞いた一言があった

無量寿 ということを 多くの命、全ての命 と訳していた
本に多いのは永遠ともいえる命 となるんだが、慧海はなんかシックリこないでいた

無数の命の佛... 自然って感じがするよね

法話の坊さん、良いこと一杯いってたのに... なんか伝わってなさそうで...
やっぱり、難しいんだろうなぁ

2011年6月18日土曜日

ジェンガは縁?

自分の行動が、全体に影響をあたえて今がある
全体が自分の行動に影響をあたえて今がある
そこに個人の自由などない・・・


ジェンガと言うゲームがある
http://www.takaratomy.co.jp/products/jenga/

プレイヤーが順番に木片を抜いて、上に積んでいって
倒した人が負け というヤツだ

これが、冒頭の言葉をうまく体言している気がする


多くの人は自分が幸せになるために行動をしていると考えている
一つの行動が、世の中にどう影響をあたえ、
自分の行動が誰かのどんな影響をうけているかなんてわからない
一人ひとりは自分とその周りの幸せのために行動をしていると
思っていても、それが誰かにとっての不幸になっている
ジェンガの塔が倒壊するかのように・・・

自分が不幸だと思う時だけ、たまたま運が悪かったとか思うが、
世の中の一つ一つの行動の積み重ねがその結果を生んだとは言えないのだろうか?
だから一人ひとりが良い事をしようとか、そういう事ではない
良いと思っていようが、なかろうが…良いとか悪いとか悩むことすら、
誰か達の行いからくる悩みにすぎないのであり、自由意志とやらで選らんだ行動も
誰か達の影響からくる行動にすぎない

予定調和だとか、運命論だとかの話をしているつもりはない
未来が既に決まっているとは慧海は思っていない
でも、未来は今現在のこの世の全てによって決まって行くのだろうとは思っているし
今は過去のこの世の全て結果として慧海一人の中に作用していると思っている
だから個人の自由なんてものはないのだよ


幸せも不幸せも頭の中の事
運も不運も頭の中の事
自由も束縛も頭の中の事
お金の多少も頭の中の事
そんな頭の中だって自由になっていない

思いを手放そう!って思ったみても、手放せない
自分が手放す為、心を見ることをはじめられるか
という行動ができるかどうかも自由になっていない
信心獲得やらも、自由にはならないのであり、
至心信楽欲生我国 も自由にならない

縁ってやつだな
宿業ってやつだな

こんな事を書いている慧海だが、この文書すら書く縁があって書いている

どこまでも自由なんてないよねぇ~

・・・もちろん、神とやらの話じゃないよ!
慧海は俗にいう神仏GOD達の否定論者だからねw



あれ?これって他力ってこと??
他力って事を頭でわかったってしょうがないって言うけど

他力感と表現してみたい感覚が知覚できはじめたニヒリストな慧海です

2011年6月17日金曜日

バーチャルが中心のリアル?

お金というのは、頭の中のモノであり、概念、情報である

みたいな事を本で読んだことがある
リアルのモノではなく、バーチャルのもの、今で言えば電子的な情報である
ということになるのだろう

お金が好きな人には納得いかない表現かもしれない
硬貨だって紙幣だってあるじゃないか と反論されるかもしれない
でも、それに価値がある と決めているのが、頭の中の事なのだ

価値という事自体が、頭の中の事 であろう

高価な器やら芸術品やら… いやさ、慧海が販売しているものの
価値というものが、人が、人の頭がきめているに過ぎない

慧海のようなサラリーマンは、行動の結果が、
会社が要求する価値あえていえば数値に見合えば
それにあった数値が個人つけられ、個人が持つ数値に
あわせて、お金という数値がもらえる
その数値をだれかに渡して、頭や体が欲するものを得る

そんな感じで、数値やら概念やらのバーチャル情報をやりとりしつつ
リアルの生命活動を続けているのだと思うと、
お金 というものへの妄執はぬけていくような気がする
・・・お金無いと、リアルの生活に影響がでるので、無いよりは有るほうがいいけどね


なんて事をアニメ[C]を見た影響で考えていた…w

2011年6月13日月曜日

ヘッドホンの改造

慧海は安いヘッドホンを買って改造する

audio technica のインナーイヤのヘッドホンを買った時、
その音が好みではなかった

慧海の好きな音は、低音がしっかりして、高音がうるさすぎず
音のこもった感じがないものがすきだ

で、調べていたら、改造情報があった
穴をふさぐというものだ

やってみたら、低音がとても強くなった

そんなaudio technica のヘッドホンが壊れてしまってからは
買ったヘッドホンの音が気に入らないと改造する

大抵は穴をふさぐと低音が強くなる
高音がうるさすぎる場合は、インナーに入る部分にフィルタをつける
フィルタが厚いと音がこもるので、針で穴をあけて調整したりする

まぁある程度納得のいく音までできるようになってきた

最近は500円程度のヘッドホンしか買っていない
きっと1万円とかするようなものは、素でいい音がするのだろうが
そこにそんなにお金はかけられない

肩こりでマッサージするのに、4000円とか払うのに…ね

どこにどれだけお金や時間をかけるか…
そこに執着の度合いが見えるきがする

2011年6月12日日曜日

自信教人信と三願転入

全休先生の記事で自信教人信のキーワードを見た記憶があった
しらべたら5/15の記事だった
で、よくみたら6/5にずばり量深先生の記事で出ていた
その時は、言っている意味がわからずスルーしていた

再度、全休先生の記事を読んでみてやっと何を言っているのかがわかる
意味がわからなかった方、曽我量深先生「自信教人信」を読んでみてください


自信教人信をみると、往相も還相も他力っていう所に行くには、
自力の終わりを見ないとダメだそうだ
全ての自力が他力だったと思える人は、自力の往相の先…
19、20を突き抜けないといかんのだろう

三願転入ってやつだ
全休先生の2011/12/5にでてるやつ

慧海の現状は感覚では先日20願に入った感じがしているので、
19から20に感覚が変わったその感覚でみて、なんか理解できる気がする

全休先生の記事にある
努力が与えられるのは努力できない自分に気づかせるための仏の方便であって、とくに第二十願は、努力を捨てんがために努力するという深刻な矛盾に落ちている自分に気づかせるためのものです。そのようなプロセスを経て、ついには、努力できると驕っていた自我が崩壊し始めるという正しい方向へと導かれていきます。そして、自我崩壊のギリギリのところまで追い詰められてはじめて、まじめに仏の声を聞こうとするのです
という所の矛盾感がよくわかるし、19の努力感とも違う
その辺の矛盾のモヤっと感が、自信教人信を読んでホっとしたのだろう

ついでに、勝手な事をいうと、『建仁元年の親鸞二十九歳の時の「雑行を棄てて本願に帰す」』は、慧海には、19から20に移った感じに見える
住職は、雑業の捨てられない親鸞のつぶやきと捕らえたようだが…w

量深先生の本には、法然の浄土宗では、まだ心不退にまで行かない
処不退から心不退・現世不退は親鸞から という言葉もあった
慧海には来世で佛になる為の専修念仏という感覚が19の努力感に感じる
聖人の三部経を千部読誦しようとして、やめるあたりには18にいるのでは
と感じるが…まぁ信心獲得の無いモノの妄想にすぎない


妄想だが、闇雲に、ある日突然他力が理解できると盲信して、空念仏をしたり
全ては他力なんだと、自分は何もしないでいいのだと、思い込んで
「今」の自分を見ることなく、懺悔することもなく過ごすよりよいと思いたい

聖典を観ながら、仏書を観ながら、自分をみてみたい と思う慧海である

2011年6月7日火曜日

曽我量深先生 自信教人信

お寺で借りてきた、曽我量深先生の選集12巻にある
自信教人信を読んだ

いやぁ~ やっぱ量深先生はすげぇや

わかった気になっただけという気もするが、
二種深信について、モヤっとしてる部分がすっきりしたきがする

と、いうか全体にわたって、ああそうかぁ それでいいのかぁ と思う
本願とは法のこと とか
自信、機の深信は自力、自力の終わりがあって法の深信、他力が始まる
みたいなことが書いてあったり...まぁ とにかくマイッタ

細かくいいだすと、半分以上引用しなきゃいかんので、スマフォからの
入力の今日はやめておくことにして、慧海の感想を一言で...

自灯明


色々とご意見あるかとは思いますが、まぁ慧海の感想なんで...

とにかく、なんかホっとした

2011年6月5日日曜日

誕生日・・・そして、門徒講座

6月3日は誕生日だった
30代最後の歳となった


休職しているとき、誕生日が休日だったので、
家族と、友人と誕生日サービスのあるレストランを梯子して食べまくった
自分の誕生日を子供のように楽しんだ

社会人になって、だんだん誕生日だからと言っても
普通の日とかわらずに過ごすようになったが
休職の時をきっかけに、最近は、誕生日を楽しむようにしている
死にたいと思っていたからこそ、その年の誕生日が大事だったのだろう…


今年は有給をとって、ジムに行って汗を流し、
家族で外食し、誕生日サービスも受けてきた
子供が大きくなると、なかなか使いにくいサービスだから今のうちw

3日間、好きなものをたべまくって、呑んで…
また太ったな・・・


で、今日は門徒講座
日本仏教ということだったが、日本仏教の話は殆どなかった
真宗教団のカレンダー法語の解説が脱線して1時間半ほど
色々と住職の話があった
メインターゲットは婦人会のお婆様方なので、笑いながらやんわりと だ
親鸞が、正信偈の最後に「唯可信斯高僧説」というのは、信じられない親鸞が
あったからの言葉であろう。雑行を捨てて本願に帰する というもの雑行が
すてられないからだろう。 と自説を説かれていた


今回いた男性は3人。そのうち2人は得度済みの人
6回目にもなると、段々顔見知り状態になってきたw

講座の後、得度された方と本の話から始まって、楽しく修行会話を…
その後、住職も交えてちょっと話をし始めたところ、再来週の
永代経法要の後、飲みに行こうと誘われた
人生の大先輩方だが、同じ門徒衆だ。喜んでお供させてもらう事にした

ゲストで法話してくれる方は、飲み会のお時間がとれなさそうだが、
その人は、信心獲得してる人なのかなぁ?

佛教を、真宗を勉強する人は多くいても、
佛教や真宗で救われようとしている人は殆どみない
・・・もっと人にあってみればいいのかねぇ~

2011年5月29日日曜日

数年ぶりの二次元話

慧海のプロフィールに趣味:二次元と書いてある
二次元…アニメ、漫画の類のことだ
しかしながら、このブログで二次元話を書いていなかった
旧ブログの初めの頃には書いていたのだが、
特に書くことがなくなってきたので書かなくなった

虎&兎の4話の青薔薇が良かったとか
U-子もそうだが、ブキミンの声がいいとか…
・・・特にブログに書いておく事でもないよなぁw


ってこって、アニメの感想って訳でもないが、
落語だって佛教説法があるってんだから、
アニメみてて説法ぽいもの感じたところを書いてみたくなった


1つめは、よんでますよ、アザゼルさん。だ
5話に以下のようなナレーションシーンがある
天使の使命とは人間界に正義と秩序をもたらす事である。
しかし、彼らは救わない。
病を救わない。
餓えを、貧困を救わない。
大きな戦争も、小さないさかいさえも、彼らは救わない。
なにより均衡を重んじる彼らはそれが人の世界の理で起きた出来事であるかぎり一切を傍観する。

しかし、異界よりその均衡をやぶるものが現れれた時、天使は静かなる監視者から調停者へと姿を変える。
その真っ直ぐな正義を執行するために・・・
天使と悪魔、正義と悪、これは創世記より続いてきた終わる事のない戦いである。
5,6話で悪魔使いの主人公が困っている人を助ける?が、
天使は愚痴っているだけ というシーンを描いている

この天使というものが聖書とか、その手のモノにあるような話なのか
作品上の設定なのかは知らない
普通にみれば、天使ひでぇ みたいな雰囲気で終わる

だが、心の問題としてこのナレをみると、前半部分は納得できる気がする
後半の悪魔ってのをどう取るかはあるが、心の中の邪見、欲望に打ち勝てと
いうような事をいっている って聞こえないだろうかw


2つめは、[C]の7話 だ
死にかけている妹が兄に話す台詞
兄さんは今日の次は当たり前のように明日がくるって思っているでしょ?
今週の次は来週、今月の次は来月、今年の次は来年
私にはそれがないの
今日眠ったら明日は目覚めないかもしれない
今しか・・・今この瞬間がすべてなの
兄さんには理解できないでしょうけど…とこの後に続く
普通にみれば、明日をも知れぬ命という病気の人ならそうかも
っていうシーンだと思う

でも、この台詞は病人かどうかは関係ないんだと思うのだよ
誰もが、今この瞬間がすべてなはずなのだ
頭の中に引きこもって、妄想の世界を展開して、明日とかを作り出す

過去も未来も頭の中にしかない
今を認識しながらいきていよう・・・

そういう風に考えて生きていると…
 兄さんには理解できないでしょうけど… って状況になるのが困るw


ちなみに、春にずれ込んだ冬の「まどかマギカ」ネタがあったが、
これはあえて触れないことにしておこう
同じ趣味をもつ人なら、まぁ見ろ と いうことでw

2011年5月28日土曜日

設定異常だった

慧海はFirefoxを使用している
先週末に何をしたのかはわからないが、
自分のブログが正しく表示されない状態にあった
ログインできないので、投稿とかもできない

で、今しがた設定を保存しなおして、やっと直った



先週は仕事して、自社の人と呑みにいって… 色々と頭が動いていた

会社の先輩は、やりたいことをもっとやれ と
会社の後輩は、最近はつまんないっす 昔みたいに暗躍してよ と

他に自社の人と話した感じでは、なんか今の自社はイマイチな状態らしい
出向しているからといって、自社の事は人事総務系の時にお世話になる位
しかかかわらずに数年がたったが、その間に合併やら幹部交代やら
で、ずいぶんと社員の元気がない会社になっていた

慧海に何かができたりはしない
慧海のやりたいことは特にない
でも、後輩が「やりたいけど出来ない」と言う事ができたりする
後輩の期待している結果が得られるかはわからんが、
それでも、後輩のモチベーションとやらがあがるなら
手伝ってみるのもいいかな・・・



でんこちゃんの会社に限らず、今の日本企業って大体あんな感じかねぇ?

社会が病んでる とか言うんだろうかね

決して震災の影響ではないと思う
その前から何かが破綻していた日本国が、今回の震災で露呈した
そんな感じがする

運用方法・業務フローがおかしくなってしまっていては
ソフトの不具合や設定を直せばよい とはいかないのだよ

2011年5月23日月曜日

あれもこれも宿業ってこと?

先週あたりから質問をうけることが増えた

まったく別の案件で別の人から同じ問題についての質問
だったりする事がなぜか多い

1件目の時に軽くしかしらべなかった場合に来るのだから面白いものだ

公に質問受付をしている訳でもないし、勉強会の講師をした訳でもない
質問対象の案件で活躍もしてないし、目だった行動もしてないはず
なのに、どこからともなく質問がまわってくる

部署の役割でもあるから問題はないのだが、
名前が出たとかで、メールや内線がくる事もある


ホント、慧海の思いとは関係のないところで、色々あるものだよ

昨日のブログも…今朝みたら、全休先生とかぶってた
一応書いておくが、パクリじゃないよw

佛教記事を書けている時は、なんどか先生方の記事とかぶることがあった
そういう時は大抵先生方の記事を読む前に自分の記事を書いていて
その後先生方の記事をみる・・・そして、あちゃ~ と思う

まぁ慧海の駄文で表現したかったことが、先生方のスマートな文章と
同じような事を表現したかったとは、誰も思いやしないだろうw


佛教にああすればよかった、こうすればよかったは無いんだ

ネタがかぶるのも、質問がダブるのも、知らないところで指名があるのも
宿業ってこった

それぞれの歯車がそれぞれで動いた結果、こうなったに過ぎないんだろうさ

慧海にかかる縁起の式がそれぞれの人にかかる式の結果に左右されていく
ホント、慧海も全体の中の係数だか変数だかの一つにすぎないのだなぁ

2011年5月22日日曜日

元気になると…

無責任を意識してみた一週間
予想以上に楽だった

他にも理由はあるのだろうが、
気になっていつつも、ほっぽりだしてしまうとやっぱり楽

楽だと気力がでてくる
そうすると、次にでてくるのは、我執っていうヤツ?

そんな拗ねた生き方でいいのか?
もっと自分を輝かせる生活を送らなくていいのか?
俺にしかできないことして、日々をもっと充実させようぜ!

こんな、もっと自力万歳で行こうよみたいな言葉が頭にでてくる

こんな頭の中での戦いが過去にもあった それこそ、なんども
これをスルーしてきた時もあれば、呑まれたときもある
そんな生活が耐えられないだろ ってスルーできてれば良いが
呑まれれば、自分の期待通りにすすまない事で苦しむのだ

元気になってきた分、エネルギー的なものが余ってきてるのかもしれない
体力の方ではなく、頭の方で・・・

先週は帰宅時の散歩を毎日続けられたから体力的な余りはないっぽい
終末に積極的に活動しよう という気にもなっていない
一ヶ月以上手をつけられなかったマンガをよめた位には元気

その分終末に頭の方のエネルギーがあまってしまった感じ
まぁ完結するマンガを一気読みしたから、映画をみて、
主人公のような生き方にあこがれちゃうのと同じ現象だろう
そこに、現状の仕事に対するものとが重なって、頭が考え出す

今回はマンガだったが、そうじゃないケースも多々ある
その都度、日々が充実してないぞ と頭が騒ぐ
昔はもっと充実した日々だったんじゃないか?と


で、慧海は思うのだよ

これは、身体的な要求からくるんじゃなかろうか
脳みそも身体だからねぇ 適度に運動させないとイカンのでは?

だから無視するようなスルーでもなく、呑まれて何か考えるのでもない
ちゃんと頭をつかれさせるような生活をせにゃいかんのでは?
できれば、達成感・満足感をあたえさせるような、使い方を…

簡単に言えば、ちゃんと集中する ってことなんだろうけど、
気分にまかせてたら、そんなことはできないし、
内観や坐禅とかで達成感がえられるほどの何かもできやしない

時間内にこれこれの作業を終わらせる みたいなものなら、
日常の中に組み込めるだろう
特に作業・仕事がある場合は有効だ
仕事がないと… まぁなんか学習ってことでマニュアルとかみるか
仕事作るっていっても、人巻き込んでやるのは面倒だからね

まぁそんな感じで、行動に頭も集中させる ってことを してみたい

す~ぐ脱線しちゃう頭をどうやって集中させるか
そう考えると、仕事に集中することも内観・坐禅もかわらんのかもね

まず今日は、このブログに頭をつかって余ってたエネルギーを出してみた

2011年5月20日金曜日

GW前あたりから、仕事がはいってきた
1件動き出したら、他のも入りだしてきた

と、いうことで今週・来週は仕事の予定が入っている

先月は暇で暇でしょうがなかった
会社にはいかないといかんし、
でも暇だし…

あまりにも暇だと、自分はそんなにも必要ないのかと がっかりする
まぁ必要ないのだし、忙しくもなりたくないのだが、
同僚はちゃんと仕事してるのに、こんなに長期間サボっててよいのか?
って、暇だからこそ頭がなにか考えたくて、そんな心配をしはじめる

仕事があると、しょうがないので会社にいこう という事になる
会社に行けてれば、まだマシっていう思いがどっかにあるので、ほっとする

会社で仕事がきてもグダグダしてたが、GW休みでゆっくりしたからか
無責任化にいきついて…
ありがたいことに、ブログのアクセス数やリアクション数も先月までより
増えることになった
日に3人とかしかアクセスがないと
仕事と同様、なんだかがっかりする
いい記事がないんだからそりゃそうなんだが…


そのへんの人に話をすれば、バイオリズムが良くなったんだよ
とか言われそうな、そういう雰囲気の流れ

今がそうなら、またどっかで暇な波がくるんだろう

暇すぎても、忙しくても、頭はうるささを増す
ほどよく考え事をしててくれれば、楽でいいのにね

2011年5月18日水曜日

自由なんてないんだねぇ

あっちの世界からこっちの世界にきて仕事して、またあっちに帰る
ゲームや小説にでてくる悪魔やら精霊やらのようだな

死者的などうでもよさを堪能しつつ、こんなことを思った

契約で仕事して、仕事が終わると帰る
使役された結果は、大抵責任をとらない
結果がわるかったのは依頼の仕方がわるかった なんてオチもある

慧海も使役されているにすぎないのだ
そして好き勝手できないようにいろんな呪縛をうけてもいる

呪縛と使役

そんな世界でも苦しくなくいきる
あっちの世界の住人だからかもしれない


西洋の宗教は奴隷解放的な自由をもとめてたりするらしいが、
どこに自由があるのだろう
どこにいても自分がなにをするのかは周りきめてるじゃん

自分で決めろと周りがきめる
決めろと言った人の期待する答えをw

どこに自由があったんだい?
どこに自由をもとめる必要があったんだい?

すべてはなるようにしかならんのだねぇ

2011年5月16日月曜日

まずはやってみた

無責任な1日を送ってみた

嫌な感じがでても 「死人だしどうでもいいや」
うまくいって気分よくても 「死人だしどうでもいいや」

そんな感じで、なんかいいのか? って思うけど楽ではあった
ただただ都合の良いように逃げてるだけじゃないのか?
佛教ですらなくなってる気がするがいいのか?
「死人だしどうでもいいや」w

正しくない道なら、きっとまた苦しむだけだろうよw
建前上はおまかせってことでwww

2011年5月15日日曜日

無いものを捨てる

昨日、「捨てる」と書いてみた
意識じゃ捨てるつもりだった

よくよく考えてみたら、自分で抱え込んだものを手放すだけの話だった

元々もってないんだから捨てる何もないのだろうが
抱え込んじゃったり、大事に依存しちゃってるんだから
やっぱり捨てる意識がないと手放せない

寿命がくれば、全部娑婆においていくものなんだから、
「死にたい」って思う慧海なんだから、
気分だけでも全部おいて死者の国に行こうじゃないか

ゾンビのように、ヴァンパイアのように
死にながら生きる


明日から5日間の通常社会生活の再開だ
さて、無いものを拾わずに生活できるだろうか…
会社員という役割を演ずるだけになれるだろうか…

せめて、一日の終わりには死者の世界にかえりたいなぁ
ぜ~んぶ捨ててさw

無責任の覚悟

ふと思った

ぜ~んぶ、どうでもいいや

どうする事もできやしないんだよ
責任なんてとれないし、努力だってできやしない

じゃ、無責任になりきって阿弥陀様とやらにお任せでいいじゃん

無責任にぜ~んぶほっぽりだして、成るに任せりゃいいじゃん
それでどんな結果になろうと、捨てたんだからしょうがないよ

損するかもしれない。
怒られるかもしれない。
侮蔑されるかもしれない。

どれも自分の思いの問題なんじゃね?
なら全部すてちゃって、プライドも捨てちゃってりゃ
どうなったってかまわないいんじゃね?

そっちの方が楽に生きられるかもしれないな

亭主師の記事に「右の道か、左の道か…
どっちを選ぶかに悩まず、その思いから離れる」
というのがあったが、それができない凡夫以下は
普通に悩んで、右でも左でもその時いいと思ったのを選べばいいよ
結果が悪けりゃ、失敗したとか思うだろうけど、しょうがないじゃん

苦しみから離れる訓練ができないんだからさ


と、頭で思っていても、損したくないし、怒られたくない
全休先生も書いているが、社会生活は自己の責任を問われるのが当然なのだ
犯罪を犯せば警察のお世話になるわけだし、仕事ミスれば雇用と賃金に影響する

だから納得できないし、実践もできない
結局、どうどうめぐり…

感情とお勘定は別
感情は無責任にしても、お勘定には責任をもってあたらねばならない
慧海の世界の中の問題か外の問題か、その境がちゃんと見えていれば
いいのかねぇ…

全部に責任をもって行動しよう ってのが今までなら
逆に全部無責任で行動しつつ、境を知るしかないのかねぇ?

もう一度最初から色々とやってみようと思ったけど、できやしなかった
なら全部すてちゃうほうがまだ出来そうなきがする
救いがあるかどうかなんてしらんよ
でもこの議題で悩むのに疲れた・飽きた

既にキチガイなんだから、また病になるかもしれない
また会社いけなくなるかもしれない
今度は給与半額もでないだろう
そしたら妻子も家もなくなるかもしれない
しょうがないさ
キチガイだから

病気に勝とうとすることもやめよう
最低限の社会良俗を守って、会社勤めしてお給料頂いて…

やれることをやろう
やりたいと思った事をやろう
やりたくなくてもとりあえずやろう

死ぬまで生きていよう
死んだ気分で生きていよう
努力とかしないで流されて生きていよう


それでいいじゃん

最低限やることやってりゃ、普通に生きていけるだろ

この世を捨ててりゃ、地震だろうが原発汚染だろうがどうでもいいや

2011年5月12日木曜日

はじめてメール頂きました

全休先生や亭主師以外から、初めて佛教話題のメールを頂きました
コメントで入れようと思ったら、入らなかったとのことで… すいません
テストしてみましたが、「コメントの記入者」というところで「匿名」
とかを選択していただければ、問題なくできるかと・・・


メール内容はコメントに…とは書いてありましたが、
載せてよいのかよくわからないので、載せまないでおきました

初めてなので、お返事もどうしてよいのかわかりません

議論・問答ができる知識もないので、
ただ慧海自身の嘆きをお送りしました


やっぱり、メールとかコメントをいただけるとうれしいものですねw

2011年5月9日月曜日

ちゃんと実践したいのだが・・・

全休先生の 5/9「自分の内容が浮き彫りに」に下記の言葉があった
自分の心をただ観察するだけでよい。観察するだけでよいが、これがなかなかできそうでできない。わたしがわたしの心を見るのではなくて、仏さまに見ていただくように念仏する。

今更だが、やはり「仏さまに見ていただくように」ができない
・・・いや、言葉の意味すら理解していないのだろう。具体的な姿に落とせない・・・
言葉のイメージであれこれしてみたが…これが自力なんだろうかねぇ…ダメな感じだった

もっと禅の言葉もよみつつ、実践してみるかなぁ
自力の壁に向かって ね
この記事の坐禅の表現と念仏の表現は同じに見えるし…ねぇ


ついでに・・・

全休先生の 5/8「理想と現実」の表現が面白いと思う

聖道門の中での浄土門の異端感が想像できそうだ
貴族階級に多かった聖道門と、農民・庶民に広がった浄土門
努力と根性の聖道門と、お蔭様の浄土門

現役の頃は理想を実現しようと激しく努力されていた方が、
定年を迎えるころになると、ゆったりした雰囲気に変わっている事があります
戦うのではなく受け入れて行く・・・ そんな言葉を話されたりします
自力の限界というものを実感した方は、他力を感じ始めるのでしょうかね?

生な全休先生を感じられる「ひぐらしの記」記事が実にありがたい慧海です

2011年5月8日日曜日

門徒講座4

今日は、門徒講座の4回目
日本仏教の話をする予定だったのだが、
釈尊の話のまとめとして涅槃経の話だった

ちなみに、5/8は慧海の結婚記念日
そんな日でもお寺にいく慧海になろうとは…w

門徒講座の内容は、特に記す事もない かな
お婆さん方は笑いながら楽しいお話なので、毎月参加できると喜んでいた
難しい話じゃ足が遠のくと…
まぁ楽しくお話をおききしてきました
今回、住職は「私は信心など知らない」と言い切った
そのままの私を阿弥陀様が救ってくれるんだと…そう書いてあるから とw

今回の出席はお婆さんが10人と慧海と得度したお爺さんの12名
お花祭りで話をきいたという門徒さんが今回初参加されていた
次回は何名になりますかね~w


慧海としては、既に救われた方のお話をお聞きしたいのだがなぁ
現世不退を感じている方に…

2011年5月7日土曜日

慧海にやれること

安心がないから、本とか読んで答えを探そうとか思った
何をしたらいいかが書いてある本を探そうとか思った

書いてあることは、別の本で読んで知っている事か、
体験が追いつかないので理解できないことのどちらかだった
そして本たちは言う

答えはここにない と
答えを知りたければ、慧海が答えに行き着くこと

じゃ、どうすんだ?
全休先生と亭主師から教わった事があるべ

それができないんじゃないかさ
・・・できないんじゃなくて、逃げてるだけなのかな・・・
  楽な方にと思いながら、実は楽じゃない方向に・・・

仏に頭が下がらない空念仏
思いを見ているだけも続けられない

慧海ダメじゃん。既に失敗してるじゃん。
俗世にしかいられないけど、価値感は共有できないキチガイ…

言葉で考え、グルグルと… 

それを見る内観の念仏…
醜い自分をみせていく智慧の念仏・・・
中途半端にみてきたそれで、泥水に慣れたら空念仏

苦しいか と問うてみれば、苦しい と答えられる
本当に苦しいか と重ねて問うてみると、それほどでも と答える
苦しさが軽くなる術だけ知ってしまったから…

見事に頭でっかちになってしまった
さて、どうするか…

勉強した知識はおいておいて、
もう一度、初心に戻ってグチャグチャしてみるしかないかな?

2011年5月5日木曜日

寝瞑想とかでウダウダやってみた

2日は休みをとったので、久々に一週間ゆっくりできた

藤をみにいったり、部屋を初夏仕様にしたり
壊れたマッサージチェアを修理したりしつつ
憂鬱さをじっとかんじてみる余裕がもてた

主観でみれば、あれやこれやとありはするが、
どれもこれもなるようになっていた
そこに、ああしたかった、こうしたかったと
主観をまじえるところに苦しさがある


自分の評価とか、立場とか、目標とか そういうものを
気にしだすと、慧海は必ず苦しくなる
昔は期末と期初の面談の時だけだったが、
近年は期初、期中、期末に面談、日々目標の充足はどうかと言われ
会社にとって、慧海の価値はなにか と問われる
入社したころは、それほどうるさくなかった
うるさく言い出してからも、大きな案件メンバーになってると、
細かいことは無視して案件対応で一杯だといいはってもいられた
仕事がなくなると…なにかしなきゃならなくなる…
…復職直後は、評価なんてあってないようなものだと知っていた
もうそろそろ…ってことになると、評価がでてくる

困っている人の手助けとかしていられればいいのになぁ なんて思う
が、そんなのは、サラリーマンとしては認められないのだそうだ

で、思い通りに物事をすすめようとか考えて、アクセクして…
思い通りにいかなくて苦しくなる
苦しさが続くと、病気に逃げる
頭が、体がそれが楽だと知ってしまっているから…
今回の異常がひどく出る前に頭の中がそっちに逃げようとしていたのを知っている
いろんな思考を全部みていた

で、ああなった

まわりの人の色々なかかわりと変化も見えていた
その先につづく今も理解できる
そこに不満をもつ必要などないはずなのだ…

なるようになっている…
宿業なんだろうなぁ…


日々の社会生活と、仏教的生活を統合できないでいる
日々に偏れば、苦しくなる
仏教的になれば、普通の社会人との会話ができない
ほどよく というのがあるのだろうか?
突き抜けてしまえば、問題ないのだろうか?

そのあたりはよくわからんが、この休みで気づいたことがある

慧海はそれなりにPCを思い通りに操れる
それはそれなりな知識と経験があるからだ と思っていた
ふと考えると、慧海がPCを操っているのではなく、
慧海はPCに操られているんではないだろうか?
慧海はPCが期待通りに動かない事をしっているのだ
それでもPCがなければ目的を達成することができない
だからPCが期待する操作を慧海は行っている
目的を達成させる為に、受身でいる
目的に合わない事でも…たとえばエラーとかでも…それなりに処理する

人も会社も思い通りにならない事はしっているのに
人や会社の期待する行動を慧海は行っているのだろうか?
使われるだけで損しそうだし…
評価と関係ない仕事が増えても困るし…
期初と期末で差がでると怒られるし…

目先の主観にとらわれる姿がすぐ出てくる…

上司やら会社やらの期待する行動がとれていたとすれば、
それが上にどうみえるかは、想像できるじゃないかw

自分の目を暗くして世界のゆがみを増やしてばかりいないで
個我が小さくなるような生活を社会で実践してみるしかないではないかさ

内観療法の元は真宗のある宗派の奥義
それを行い、また、期待できる社員にも行ってもらって
懺悔の生活を送りながら、会社を大きくした人もいるというのだから
たとえ悟りをえていなくても、仏教的生活と社会生活の両立はできるはず

むしろ慧海は仏教的生活が緩むことで、社会生活もおかしくなっている


慧海には自力が足りない
限界前に逃げる慧海だから、自力が尽きることがない
どうやらそういうことだと気づいた

十九願からでも二十願からでもいい
浄土にうまれさせてもらおうじゃないかさ
そこにいかなきゃ始まらないんだからさ

正解なんてしらんから、真宗が難しければ禅でも何でもやってみんべ
やれることしかできんのだから…

2011年4月30日土曜日

花祭り

ドーパミン不足を補う薬がなくなって、やっと服用前には戻った
すぐ無気力になるし頭もうるさいが、まぁなんとかなっている
亭主師の言うように、逃げてちゃいかんのだが…
 既に「病気」に逃げるあたりが慧海の限界なんだと思うのだよ…
 健康でなければ彼岸に渡れないという事がわかるような気がする


29日にお寺で時期ハズレではあるが、花祭りがあった
本来は4/8に釈尊の誕生を祝ってやるやつだが、
門徒もきにくいだろうってことでGWの頭である4/29にしたらしい

3/11の地震があったので、中止しようとも考えたようだが
震災の法要というのも追加し、義援金もあつめるかたちにして
決行することにした

住職は甘茶をかけるアレも買って楽しみにしていたし
寺の50年祭に出られなかった門徒の希望でお稚児さん衣装もだすし
落語と講談の手はずを整えたし ということで
中止にはしたくなかったようだ
慧海も落語と講談はきいてみたかったので、よかった

うちの地元のお祭りはなくなってしまったんで…

慧海はまともに落語とか講談をきくのは初めてだ
落語家のあの番組でも落語自体をまともにみたことはない
講談なんてもっとない

で、実際にみてみた
落語は…まぁあるていど予想通りな感じに面白かった
講談の方は…予想のなかった面白さがあった
ちなみに、講談師?は神田きらり さん

お約束的な口調による講釈?と、合間に普通の口調でのおもしろ説明
情景が見えてくるような、ひきこむような…実にすばらしかった

こういう日本の芸能を知らずにきたのだなぁ と思った

得信寺にいたのはお爺さんお婆さんばかり
同年代は住職の親戚だけ
そんな感じではあったが、子供つれて見に来ればよかったと思った
月例の門徒講座で寺慣れしてるから慧海はいいが、
家族は寺にあそびに行こうとは思わないだろうから、無理だろうけど…

2011年4月24日日曜日

経過観察

薬が増えたのと、GW の関係で早めに通院してきた
増えた薬を服用後の症状を説明したところ、
薬が合わなかった事、量が多かった事が判明
過食症状もおさまっていたので、その日から服用終了となった

服用しなくなって、変なだるさはなくなったように思う
でも、再びおかしくなったという事実は変わらず、
同じように生活すれば、どこかでまたおかしくなると改めて認識した

昔は出来ていた無意識な社会生活はホントに送れないようだ
自分の欲をみたす生活は頭の中からでてこれなくなる
欲を追わないように注意してみただけでは、やはり頭の中のまま
今、この身の感覚なんてものはどんどんわすれていく
身体からの信号も頭で処理してしまえば見てないのも一緒

だめだなぁ

そう感じていることすら、頭の中
…仏法を拠り所に

社会生活とは別のレイヤーで精神生活ができるようになりたいな
それがどういうことなのかを言葉でどうこうはできない

でもこの数年の中で感じたことを思い出してみるとなにかありそう


変な苦しさを久々に感じながら妄想がでてきた

今の苦しさは慧海の苦しさではなく、法蔵菩薩の苦しさ なのかもしれない
慧海が浄土に生まれなければ彼は阿弥陀になれない
慧海を救おうとする法蔵菩薩が慧海の中の苦しんでいる
でも、既に阿弥陀仏でもある…ならば慧海も救われている…はず

言葉で妄想をふくらましてみてもしょうがない…

言葉でないところに行けばいいんだろうな

2011年4月17日日曜日

経過観察

薬の副作用だか、”病気”と宣告されたことによる自己暗示だかで
体調と精神状態は悪い一週間だったが、陽にあたると少しよくなる
ここ数日は風がヒヤッとするときはあるが、日差しは初夏を感じるほどで、
昨日なんぞは、短パンで屋上にでて日光浴ができたほどだ

陽に当たると、どこかに飛んでいきそうな意識が返ってくる
逆に低気圧やら雨やらだと、意識がボーっとしてくる
屋内で光があたらない時間が多いと眠く無気力になる
…人間も動物なんだと認識させられる


仕事も暇でしょうがなかったが、4月に入りお客さんも動き出したので
仕事探ししなくてもやることがではじめてきた

机の座席は窓寄りに移り、蛍光灯をつけていなくても少し明るく
窓の先の空をちょっと眺めているだけでも頭のモヤが薄くなる

薬の副作用になれてきたのか、状況がちょっと変わったからか
再病みに反省し、ゆっくり頭のなかをみなおしたからかわからんが
とにかく、金曜あたりから気力がもどってきた

精神異常が顕著に感じられるのは、読書のようだ
異常だと本がよめないのだ
まず、本をよもうという気にならない
手にとっても、文字が頭にはいらないし、妄想がでてきて脱線する
ちなみに、マンガですら読めないのだ
前回の病後に読んだマンガの中には、ストーリをまったく覚えていない
ものがあって驚いた位だ…でもポイントだけ記憶にあったし
その時は読んだ気になってたんだろう…

そして異常であったと感じるものとして、全休先生のブログをの違いがある
異常前は頭で読んで反省しつつ、わかった気になるだけ
異常中は本同様読めない
異常後は身で読んで反省しつつ、楽になるような感じがする
直近だと、4/15も4/17も、ああ…と思う
4/11、12、13の記事もため息がでる。
こういうことを全休先生は普通に書くが、寺では決して聞けない内容だ


西洋文化による近代の発展の中には自我とキリスト教が中心にあるように思う
キリスト教はよくわかっていないが、日常生活と宗教観がずれてはいないのだろう
でも日本においてはどうだろうか
さらに言えば、慧海においてはどうだろうか
多畑を耕すように、狩猟にいくように自然と共に過ごしている時代とは違う
観念と言葉によって作られた世界
慧海はその世界で過ごすことが苦しくなってしまった
頭で仏教を学んでみても、世間に飲まれれば元の木阿弥

全休先生の言う「環境の支配を受けない自由な心境を確立するのが信仰」
というような信仰が慧海にはないないのだ
だからすぐ環境の支配をうける…


善智識たる全休先生に一度おあいしてみたものだ
思いの熱は文字より対面でのほうが感じられるもの
真宗は、「救われた人」にお会いせずには感じ取れないというものらしいし…

お仕事辞められた直後で、色々とお忙しいのだろうけど…


ちなみに、亭主師は意外とお近くで生活していらっしゃるようなので、
ご挨拶位はしてみたいのだが… 全休先生以上にNGだろうなぁwww

2011年4月10日日曜日

経過観察

薬は飲み続けてみてはいる
なんか薬を飲んでからの方がひどい気はする

身体はだるいし、頭はひっぱられるような…
風邪ひいているか、酔っ払っているかといった感じが
ず~っと続く
横になっていると視界があかるくなっていくが、
起きていると、モヤがかかったようにボーっとしてくる
恋煩いのように胸がくるしい

ふとした瞬間にアホな思考がでてくる
陸橋の上から飛び降りてみたくなったり、
裸で外に飛び出してみたくなったり、
棒等で人を無差別に叩いてみたくなったり…
衝動に飲まれたら、慧海は終わりだ あぶないあぶない…

そんな危ない頭の分泌物を無視して、桜をみつつ
なんでこんな状態になってんのか考えてみた

答えは、考えてばかりいるからだろう

昨年度はその前の1年に比べると、欲望と執着と断念とがやたらに多い
元気になった気になって、いろんなことを渇望してしまい
物事をどんどんゆがめて見ては、あとから気づいてガッカリする
なんどとなく、ゆで蛙になりつつ、運良く気づけて茹で死んでないだけ

キャリアプランやら、永年勤続やら、会社の合併やら、担当の異動やら…

昨年度は現実社会にどんどんと感情で入り込んでいたんだなぁ…
一昨年度は、現実と一歩距離をおいて生活していたような気がする
あれやこれやと分別つけづに、ただ今に意識をむけようとしていた気がする
昨年度は、余計な事考えてた時間が多い

もう一度2007年10月頃の時間の過ごし方をする必要がありそうだ

頭の言葉にのまれて、現実から逃げないで、ただ今を過ごす…


あ~あ 輪廻しちゃた…
今度こそ…

2011年4月8日金曜日

通院日

最近、調子が悪いと感じてはいた

葬式の後、なんか疲れが抜けないと感じていたが、
その後の地震…
多くの仕事が延期になり、目の前に案件がない
それでも会社にいかない訳にもいかない
節電で会社の蛍光灯は付いて無いし、
計画停電で家でも電気がつかない
原発は気になるし、余震もきになる

何で自宅勤務とかできないかなぁ

そして、組織異動の時期でまぁ色々と…
キャリアプランねぇ…

そんな感じで要らぬ事に腹立たしく思いつつ
あわせて、虚無感も感じつつ休息を取りながら
このひと月ちょっとをすごしてきた

電車がホームに入る瞬間に「飛び込んだら楽かな」
と昔懐かしい思考がでた時、「俺やばいな」と確信した

診察結果は「ドーパミン不足」だそうだ

うつ病は「セロトニン不足」なんだそうだが、
ドーパミン異常はパーキンソンやら統合失調やらと関係があるらしい

報酬系とドーパミンは関係あるらしいし、たとえば窃盗とか放火とか
自傷行為だとかの抑えができなくなったりもする とかあった
このあたりはわからなくもない
少し前から異常な衝動が多々あって、念仏して衝動をやりすごしたり
ということが何度かかった
理趣教を思い出し、ああ、是菩薩位… と衝動を観察したりもしていた


そんな衝動があまりでてこなくなったあたりでは、既にテンションは
ダダ下がりで、やる気もでない
でも睡眠はとれてるし、過食状態でもある
そんな中で通院した結果が、ドーパミン不足だ

で、薬がでた

この薬が悪いのか、「悪い」という診察結果による暗示か
通院した日から眠りが浅くなったし、ボーっとするようになった
身体はず~っと酔っ払ったみたいにホワホワしている
そのくせ、雲のかかったような頭の中ではなにやらどうでもいいことを
ず~っと考えつづけている

ボーっとしているからか、愛用のBluetooth のレシーバも落としてしまった
そして、落とした事をボーっと考え続けている頭がある

血圧も高いし、動悸もするし、ちょっと歩いても疲れるし…
完全に病人状態である

ほぼ治ったし、再発はないと油断しきっていた
俺はちゃんと治せたぜ…なんて自惚れが思考の滞りを作っていたのだろう
調子がよければ自我が元気で欲求がつよくなる
欲求がつよければ妄想も多くなり、結果やらなんやらで苦悩も増える

酒でも呑みに行って憂さでもはらしてれば良いのだが、
そうそう呑みにいける仲間もいないし、脂質異常もあるし…
地震の後は呑みも散歩もせずにまっすぐ帰るんで、ストレス過多だったようだ
まぁ、どっちにしろ逃げの手段にすぎないから、早かれ遅かれ
同じように異常をきたしていたのだろう

全ては自分の中で起こっている問題

慧海はやっぱり何もわかっていなかった
そういうこった


2006年に通院したのもこのような桜が咲いた時期だった
ボーっとした頭でみた桜が、ただただ美しく華やかで、かつ儚げで
たまらなく愛しいものとなってしまった

通院後、上野公園の桜をみてきた
桜祭りは中止でも、桜を見に来る人を止める事はできない
例年よりはすくないものの、桜の下で宴会をする人たちは今年もいる

桜を愛でずに春が過ごせるか!

桜を愛でてドーパミンふやすとしますかw

2011年4月3日日曜日

門徒講座3

どんよりした精神状態のまま、2週間ほど過ごしていた

会社にとりあえず行き、蛍光灯をきった通路側の薄暗い自席で
PCをながめつつ、時間をすごし、日によっては電気の付かない
家にかえり、キャンプ用のランタンつけて、気力のないまま酒を呑む

そんな感じで、慧海がいまでもしっかり病人であることを認識されられつつ
昨日、義父の七七日法要が終わり、今日はお寺の門徒講座で2日連続お寺参り

七七日なんで、お寺の3Fに納骨も行ってきた
本堂で法要して、そのままお骨もって1分で納骨…w
実に楽なもんだ


さて、門徒講座3回目は、四法印と四諦と八正道の話

今回は婦人会の方々が一気にへって4人、男は得度した人と僕の2人だけ
婦人会の方々には難しかった ということなんだろうか…

今回、難しいし、こういう話はつまらないんだよ
と住職は何度も言っていた
次回から日本仏教の話だから、面白くなるとも…

慧海には四法印や四諦、八正道は実に面白いと思うのだが、
住職や、お寺関係者はあまり関心がないようだ
講座後に話をきくと、はじめから真宗の勉強ということで、やってるから
学校でも釈尊の話は言葉だけで、内容はさらっとながしてしまうものらしい
だから、四法印や四諦八正道についてほとんど考えてもこなかったらしい

言葉から感じのは、苦というものと向き合ってこなかった感じをうける
我々には仏陀や親鸞のような苦はわからん というようなことも言う
僕らの感じる苦は、彼らとは比べ物にならないと…
なにかを思って、そういう見解になっているのだと思うのだが…
住職がまだまだ救われていないのだな と感じてならない

まちがった表現かもしれないが、仮に救われている状態に段階があるとして
・・・二十願から十八願までの段階のように…
住職の言葉をきいていると、僕は彼より救われているのではないだろうか…
と感じる 主観的すぎて怪しいもんだが・・・

まちがいなく、僕の方が知識はないし、僕自身救いはどこだ?ともがいている
しかし、住職達の言葉は「阿弥陀様に救われる」と言ってはいるものの、
救われたい または 救われた と思っているのだろうか と思う

そのままでいいというのが真宗だ という門徒の言葉をきくが、
自我を否定することなく、そのままでいい というのでは何もかわっちゃいない
自我の否定、苦悩と懺悔、それをそのままでいいと肯定する他力があって
正しく苦悩をみつめつつ、これでいいんだなぁ なんて思うんじゃないかなぁ

本願ぼこりでも救われると歎異抄にある といって、自らを省みなかった
ならば、救われる事とはなんなんだろうか… やっぱ、よくわからんや



全休先生の記事を読むと、ショックをうけることが多々ある
亭主師の記事も、さらっと痛いことを書いてある
真宗の先生方や鈴木大拙師等の本も、ただの哲学書や単語解説とは違う
たとえば、中村元先生とか、ユンギアンの河合隼雄先生が書くような
仏教の話は上の方々の言葉とちょっと違う

同じような話をしていても、学問か説法かは、大きく違うのだよ…


今のお寺じゃ、本当に苦悩している人を救うことはできないのだろうなぁ…
何か慧海にできないものかなぁ…

2011年3月21日月曜日

原発の放射能では健康にならないのか?

放射能泉というのがある
ホルミシス効果というので、調子が良くなるというものだそうだ
超軽度な被爆→直そうと身体が活性化→健康 みたいな論理だと
昔なにかで見たことがある

放射能泉のWikipediaリンクをつておくとしよう
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E6%B3%89

ちまたにあるラドン温泉とか、天然だと三朝温泉とかが有名だ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%9D%E6%B8%A9%E6%B3%89

その三朝温泉は、「683.3マッヘ」 
1マッヘのラドンの放射能は約13.5ベクレル(Bq)だそうだから、
9224.55ベクレル ということになるのかな?

食品に放射線が… とニュースでやっているが
ほうれん草1kgのヨウ素基準値が2000ベクレルとか言っている
今は5万とかの数値になっていているが、
ちょっと食べた位なら影響は無いと国はいう

イマイチ放射性物質というのがわかっちゃいないが、
ホルミシス効果が仮にあるとすれば、微量摂取で健康になったり
しないのだろうか?
ラジウムとヨウ素では元素が違うからだめなのか?

薬と毒は表裏一体

殺菌ばかりしすぎて、かえって菌に対する抵抗力を失っているともきく
二十歳で呑み始め(?)た酒はすぐに酔ったが、
呑み続けることで段々と酒量が多くてもよわなくなってくる
最初からいっきに呑めば急性アルコール中毒でたいへんだ

よくわからんが、放射性物質に過剰反応して、見えないものに
おびえるていると、それはそれで精神的に自爆していくように思える
交感神経優位な状態が続き、血圧も高くなるし、イライラもしてくるはず

うまくすれば健康かも とでも思いながら過ごした方が、
体内にとっては調子がよいと思うんだけどね

それでなくても、余震やら、停電やらで気がやすまらないんだから…

慧海はただ、自分の声を聞き、自分で考え、やれることをするだけ…
妄想を膨らまして、ないものにおびえるのは門徒の生活ではない はず

自灯明・法灯明…



東電とみずほ銀行は一度潰れて、地に落ちたほうがいいな
大企業病治療にはそれがいいよ
「法人」というだけあって、人とおなじように生老病死があると思う
大きな会社は体力があるからすぐには死なないが、老いと病いはちゃんとある
法人もちゃんと地に足つけて内観しつつ歩んで欲しいものだ
今回の放射能とかがホルミシス効果が獲られて、よくなるといいのだが…

2011年3月20日日曜日

なんか憂鬱が続く

イツからだろう
気が付けば憂鬱感がず~っと続いている

義父がなくなる前からだったような気がしなくもないが、
義父の葬儀で半徹をしてからだったような気もする
そして、地震…

疲れが抜けない
なんか眠い
なんだが忙しい
日々が虚しい
夜にやたらに起きる
趣味の時間すらとる気がしない
なんかイライラする
肩こり・背中のコリが抜けない
頭痛がショッチュウする
・・・不定愁訴だな

今は寝むれているみたいではあるが、
一ヶ月の憂鬱感となるとちょっと気になる
慧海の思考が無限ループに入っているのか???
イライラ感と共にちらっと何かが見え隠れする
それを抑えて、憂鬱感がうまれているんじゃないかなぁ~

近々、内観念仏三昧をしないとヤバイのかも…

追記:
明け方まで本をよみ
その後、夕方までねてたらすこし調子がよくなった
ただ現実逃避をしただけなんで、すぐに戻るだろうけど
気力があるうちに、奥底にある何かと会っておきたいな

2011年3月17日木曜日

生きたいように生きてはいけないのか

先日、茨城の筑波山の麓にいる、慧海の祖母の弟がなくなった
地震の日の前日で、土曜、日曜が通夜と告別式だった

地震で停電したり、混乱もあったので1日延期したのだが、
やはりどうしても葬儀には出たいというので、送る事になった
帰りは…当然電車は動かないし、ガソリンもない
でも帰るから迎えにこいと…結局、往復6時間かけて茨城まで…

親父は肩を骨折しているのに自分で運転するといいはるし・・・


子供が親に何をいっても、親は聞き入れることは殆ど無いのだな

と改めておもった

義妹の両親がいわき市に住んでいる
弟は茨城まで葬式にいくのがあぶないというくせに
義理の両親をつれてくる とかはしなかった

話をきくと、社員もいるから自分だけ逃げられない といっていて
原発がさらにやばくなったので再度きいたら、
今度はガソリンがないからどこにも行けない だそうだ

結局、その土地から離れるのが嫌なのだろう
それは、死ぬ事よりも嫌なことなのだろう

知らない土地に移って、生活もどうなるかわからない
そんな事になるなら死んだほうがまし ということなのか…?

会社の後輩の両親が南相馬に住んでいた
原発がヤバイということで、とっとと親戚の家に移ったそうだが、
父親だけは、嫌だといいはったそうだ
もちろん強制連行し、後輩は連れて行っておいて良かったと安心していた

子供の側からみれば、それがよかったと思う
でも親の側からみると、どうなのかがわからない

脳梗塞で倒れて骨折し、うちの実家に移った祖母は、自分の家に
早く帰りたいといいつづけて、精神的に参ってきてしまった
家に戻って、父の介護をうけつつも、それがやはり精神的に嫌だったらしく
自宅に戻った半年もしないで他界した
迷惑をかけるのが嫌で、迷惑をかけるなら、早く死んでしまいたいと思い続けていたらしい


自分の思い通りにならないと、人は苦しむ

苦しみから怒り等の感情をあらわにしたりする。
感情をを抑え込むと鬱になる

親が生きたいように生きようと思うのは親の欲求
親を生かす為に子の指示に従えと思うのは子の欲求

どちらをとっても、欲求が満たされなければ、苦しむ
欲求をみたした方は、相手の欲求不満の姿をみて欲求が満たされず苦しむ
だからと言って、ただ黙していても苦しむ

お互い本音で話して、納得することが苦しみの合計は小さいように思う

とはいっても、本音で話し合うことなんて簡単にできない
それができないから、苦しみは拡大していくしかないのだろう



被災地になんか手助けがしたいと駆けつける人が、
被災者の飯と被災者の毛布をつかってしまう とテレビで言っていた

今必要なのは人手じゃなく、物資
親切心で邪魔をするな だそうだ

ホント心のままに生きる事は考え物だ

2011年3月13日日曜日

帰宅難民

慧海は亭主師と同じく、埼玉県南部に住んでいる
仕事場は現在東京都南部だ

金曜はもちろん家まで帰れない
元同僚O氏は7時間半かけて船橋に帰ったそうだ
きっと足がいたくなったことだろう

当然だが、エレベータも動かない
エレベータ会社の技術者がチェックしてからじゃないと動かせないそうだ
月曜にもきっと動いていないだろうなぁ…

そして月曜は計画停電
テレビじゃ3時間程度とかいっているが、よくみると
慧海が活動している時間はほぼ家に電気はこない設定になっている
冷蔵後、冷凍庫のもので腐るものとかは全滅だ…

家庭もそうだが、スーパーや飲食店の冷凍庫もダメなんだろうナァ…
食料品がスーパーにならばなくなっているというのに、停電で冷凍モノが
使用できなくなったら、ますます食料がヤバイ
部屋の暖房や照明を落とす事はできても、冷蔵庫は困る
医療関係はもっとヤバイんだろう

でも23区内は停電させない
昨日、今日は工場が動かないから電気が足りているというなら
工場をとめるべきではないのだろうか?
製造系の命にかかわらない産業は工場を止めても良いと思うんだが…

…親父と福島にいる親戚の話をしていた際に、仕事があるんだから
地震の影響が少ないなら仕事をするものだという事を言っていた
色々とやばそうな福島にいるんだから一週間程度こっちに退避してて
もらった方がいいだろうと慧海は思うのだが
…世の人はそうは思わないものなのかな

京浜東北線は東電から電気をとってるらしく、動かないかもしれないらしい
埼京線の駅まで行ってまで仕事をしようという気にもならない
本当に電車がうごかなければ、停電にそなえて自宅警備でもしているかなぁ

14日だけの話じゃないだろうから、そうも言っていられないか…

2011年3月6日日曜日

門徒講座2

疲れが抜けないまま、一週間がたってしまった
色々と思った事はあるのだが、PCの前にもほとんどいなかったので
ブログも書いてない…

今日は門徒講座の2回目があったので、書いておこう
今日は仏教②という事で釈迦の話だった

生誕から入滅までの話とか、四法印の話とかだ
まぁ特に内容を記すこともないので、やめておく

今回はお婆さん達が増えていた
お爺さんも2倍(4人)に増えていた
一部屋にはいりきれず、ふたへやに広げての講座だった

帰る前にお寺の本棚をみたら竹内維茂先生の本があった
あれ?まさか… という感じで著者紹介を読んだ
やはり崇信教会の…全休先生の師である竹内維茂先生だった
即手にとって、借りてきた
一冊しかみつけられなかったが、もう一冊あったらしい…
借りていった門徒がかえしてないかもしれないらしい…

他にも鈴木大拙、曽我量深先生の本を渡されたのだが…



つでに…半月前ほどに、河合隼雄氏の「ユング心理学と仏教」
という本を借りて読んでいるのだが、とても面白い
PCの前に居ない分、本を読む時間は増えた

ただ読めばよいってもんでもないけどね…

2011年2月27日日曜日

無事お見送り

25日に義父の告別式が終わった
葬祭場内にある6畳間程度の場所を借りて、6人程度でのお見送りである
敷地内だけど、霊柩車で運びもした
なんとか無事に予定はクリアした
次は七七日の打ち合わせと七七日の法要
後は年金やらなんやらの手続き処理だけ

慧海は何をしたというわけでもないのに、なんか疲れた
よくわからない精神的にという感じではなく、背中や首や足が疲れた
スーパー銭湯とマッサージが必要だw


そして今日は、東京マラソン
ファミリーランが取れたので、妻と子供が走った
よくわからないうちに走り終わっていたらしく
走っている写真を撮ることも出来ず、ただの荷物持ちで疲れを増やすだけだった

妻の前を走った母子もやはり誰かに「もう走り終わっちゃったよ!」と
携帯で怒っていたらしい…
役立たずな父親は慧海だけじゃなかったらしい…


あしたからは平常運転

溜まっているだろうメールと月末の締め処理があるから明日は会社に行こう
でも、来週中にどっかでゆっくりしたいなぁ…

2011年2月23日水曜日

皆様のご縁ってこった

自力万歳で自分というものを強く輝かしくすることしか考えていなかった慧海に
生死ということを考えさせる為かのように、次々と身内が他界していく

日本において、仏教という事と葬式ということは強く紐づいている
葬式を何度も経験したからといって仏門がひらくことは稀だとおもうが、
寺や僧侶の話を聞くこと、そして生死をいうものをちゃんとみて、
そして生老病死の苦を知ることは、日本において仏門への一つの道なのかも・・・
坊さんの言葉を聞く事…日本においてはやはり葬式や法事がないと難しい…

慧海が帰敬するに至った発端を考えると、祖父の法事の際に住職の言った
「いかに死ぬかを学ぶ事は、いかに生きるかを学ぶこと」というような
事をいったのが因縁だったように思っている

帰敬やら復職やらから何年がたちながら、最後の祖母が他界して3年…
日々の生活に呑まれて、生死をわすれる…餓鬼畜生の生活を送りだした慧海に、
生老病死を忘れるなと、義父までも慧海に突っ込みをいれてきた
そんな風に思えてならないタイミングだ
ご縁ってことなんだろうな・・・ ありがたいことだ


自分の思いというものを見つめる事のなかった母が、祖母が他界し、
1年後の法事の際に、始めてそれっぽい事を口にして驚いた記憶がある

ちなみに、妻は息子の持病に悩み、神社や密教のお祓い等し
神棚に祈り日々を送っていたら、自分の勝手な思いに気づいたといっていた


義母も自分の思いをみつめる事のない方だが、義父の他界によって
仏壇のある生活が始まる
義母は仏前で何をかんじるのだろうか…

2011年2月21日月曜日

義父のお旅立ち

今朝、義父が旅立った

お旅立ちは朝2時頃だったんだが、葬儀屋さんとの基礎打ち合わせは
そのまま4時ごろから行った

日が昇ってからじゃないんだ…

そのまま、ほぼ徹夜な感じでお寺の予約と打ち合わせ
ついでに仏壇屋によった後、葬儀屋と詳細うちあわせ

直近の祖母のお旅立ちの際に葬儀屋さんとの話やら、お寺との話には立ち会っていたので何をするかはだいたいわかっていたが、実際にすすめていくとなるとやはり疲れる

お寺で話しをきいたら、お寺で場所代かからず葬式ができると知った…
さらに安く葬式する方法とかも…
安いプランでも本堂でご本尊の前での葬儀は立派になるのだそうだ

葬儀屋に連絡したあとでは遅かったよ…w


今年で11年連続法要があり、来年、再来年は法要がないはずだったんだが、
今日、14年間連続法要が確定したw
うまれて間もなかった息子が中二病真っ盛りとなってしまうまで
毎年お寺通いをしているのだから、驚きだよw

2011年2月17日木曜日

弥陀を彫る1

図書館で円空仏の本を見た

祖父が他界した時に隣のおじいさんから、自彫りの11面観音を頂いたのだが
慧海も彫りたいとなんとなく思っていたのだ

で、仏像の本をみてたら円空の本を見つけた

うまい表現できないが、すばらしい!
そして、慧海も思うままに彫ってみてもいいかも と…

道具ばかり立派でもしょうがかいので、あるもので始めてみることにした
実家から昔の彫刻刀や肥後守、鋸や糸鋸、そして砥石をもってきた
ついでに、お隣から頂いた仏像をよくよく眺めてみた
足裏に「円空仏 十一面観音 平成14年…」と書いてあった
たしかに荒削りではあったが… そうなのかぁ…
ちなみに、お隣さんは五重塔とかを建築してたひとらしい


しょっぱなから円空のように鉈で…って訳にもいかないし、
ただ適当にって訳にもいかないので、検索してみつけた阿弥陀如来の彫り方
http://www1.cts.ne.jp/~butuzou/butuzou.htm
を参考にさせて頂くことにした
円空の阿弥陀仏は坐像なんだが、慧海としては立像が作りたいので…

小さい木を買ってきたので、ノミもつかわず彫刻刀と鋸のみで始めてみた
まだまだ完成してないが、じつに楽しい

肥後守や古い彫刻刀は砥ぎ方があまくてイマイチうまく切れない
無駄な力がはいったり、持ち方が悪くて…左手の人差し指に三度ほど刺さった…
包丁はきれるように砥げたんだが… まだまだ砥ぎレベルがひくいな…

角刀もないので、彫刻刀一式欲しいが…とりあえずダイソーでかってくるかな
あとは子供の彫刻刀を借りてでもいいか…
あとは肥後守をもっとよく砥いで仕上げが出来るくらいに…なるかな?

2011年2月16日水曜日

PC不調で…

先日の通信設定異常が尾をひいて、いまだにPCが安定しない
ダウンロード中に別のサイトをみたりすると通信が切れることが多発している
おかげで、DL中にブログを書くこともできない…
PC2台体制にでもすっかなぁ…
Win7の64に切替えとかもしたいけど、すぐにはできないからなぁ…

スマフォの方もいまいち設定がよくない
無線LANルータを検知しなくなってしまったし…
メールは受信できるが送信できない事がいまさらながらわかった
メアドの指定がなんかおかしいと警告がでて、送信するとエラーになる…

PCやスマフォの調整するのは面倒でなぁ…

2011年2月9日水曜日

通院日

薬もなくなってきたので、病院にいってきた

主治医に、また風邪を引いた と報告…

口呼吸になっている事、アレルギー性鼻炎を指摘され、
アレルギー性鼻炎の薬が増えた

主治医もアレルギー性鼻炎持ちらしく、1年間とおして
鼻炎の薬を使っているらしい

確かに鼻呼吸をしていると息苦しいとは感じている
タバコをやめて、両方の鼻は通るようになったんだが、
寝ているときに口呼吸になりがちではあった
さらに、深酒をすると、鼻がつまる事は感じていた
呑みすぎると身体が冷える事も感じていたし…

風邪と呑みすぎの関係がココで明確にでてきた…w

変な仕事の増加→ストレス→深酒→冷え&鼻づまり→風邪→憂鬱→ストレス…

という図式がみえてくる
最近は外で飲むことも減らし、呑みすぎないようにもしていたのだが…

飲み仲間のM氏の仕事が忙しいようなので気軽に誘えないとか
営業の後輩と一緒にやってた仕事が担当交代したとか
そんな理由でフラっとのまなくなっただけなんだが…w
まぁ脂質異常があるから酒を減らそうとは思っていたのではあるが…

とりあえず加湿器をひっぱりだして、加湿はしてみよう

今回はビタミンCと葛根湯とのど飴で乗り切るつもり

乗り切れてから点鼻薬をつかってみるかな~

2011年2月6日日曜日

門徒講座1

今日はお寺の門徒講座1回目
お題は”仏教”ということで、予想以上に住職が熱弁を振るっていた

宗教とは…教えを宗とする… 生き方の物差しとして教えをむねとする
のが宗教だ という言い方をし、
宝くじがあたるとか病気が治るといったご利益とかそういうモノはない
というあたりをあらためて説明していた

他には、仏法僧や四苦八苦の話などであったが、
今日は講座前に法事やらで相談にきていたご家族が急遽参加ということで
主にその方々に向けて話をしている感じだった

その方々以外は参加者は変わらず、婦人会の皆様と男性3名
その男性3名は…総代と先日得度した方(釋行實さん)と慧海の3人である

やはりご年配だらけで場違い感は無くもないが、前回もでてるし
婦人会の最年長者は、息子がお稚児行列したときに着付けしてくれた
方だった(今日わかった)りで、あまり気にはされてないようだった
ちなみに参加者全員が帰敬している方々だった
昔は名前が固定で100個の中から順番に渡されていたとか…
本山で帰敬式を受けて、かつお手伝いをして…手ぬぐいと湯のみをもらった
とか言っていた
2007年に帰敬した慧海の帰敬式セットには皆様興味しんしんだった


今回はお宝の、手書き教行信証…の複製本をみせてもらったり、
話のながれから、辞書のような真宗聖典の本を頂いたりもした


宿題になっていた、カレンダー法語は住職の解説の前に
僕の意見を問われた… 勝手な意見を言って、住職が肯定して終わったw
知識という事では知っていることであり、また、信心を知る人の言葉ではない
し、そういうことを突っ込んでいく場でもないので、ゆるりと2時間が過ぎた

時間が終わってから、住職にちょっと突っ込んだ質問をし、
得度した行實さんと3人で30分ほど真宗の話を好き勝手してきた
慧海はただ、すこしは勉強したんだぞと孫がお爺ちゃんに自慢したような
そんな気分と、わからんことをアンタ方はどう思う という話を聞けたので
それなりに満足w

得度しても、忙しい時期にはお寺の手伝いをしてもらうかもしれないが
基本的にはなにもないそうだ
行實さんは教師の資格も取るために勉強もされているようだが…

慧海にはお寺の行事に対してのまじめさはないし、組主催の勉強会も
でたことが無い…よく誘われるが…今のところ興味はない

まぁ来月に向けて、法語カレンダーの言葉をよく頂いておこう…
2月「遇いがたくして いま 遇うことを得たり」
3月「帰命は 本願招喚の 勅命なり」
… 3月はよくわからんなぁ・・・

2011年2月4日金曜日

PC環境が…

休んで時間があるから、スマフォのメール環境の調整やら
PCとiPadのVPN設定なんてもんをしてみた

で…VPNの設定がSpyBotのブロックの影響か、正しく導入できなかった
削除も正しくできず、ちょっと強制削除なんてもんをしてみた

… あれ?LANカードが正常に動かない …

やばい!ネットワーク入れねぇ~~~!!!

慧海にとって、電話や3Gはどうでもいいが自宅PCがNETに
つながらないのは色々とこまる

サブPCでドライバ入れなおしてみたけど治らない
DevMgrで消してみたら…そのデバイスが再認識されなくなった

う~ん 他の手段で接続するしかないな…

USBのLANボックスは10Mだし…
無線LANルータの子機があまってたから使っちゃうか…

… あれ?どこにしまった???

22時過ぎだってのに、急遽部屋の中をガサゴソはじめた
ホコリがでて、治ってきた喉がまたもやいがらっぽい…慧海アホすぎる…

慧海にしてはめずらしく期待のブツがみつかり
ドライバいれて、認識させて… ネットワーク検知…

あれ?何もでない…

しばらくいじってみてもうまくいなかい
画面にはごちゃごちゃとしたメッセージが… う~ん
よくよく画面をみたら、サービス起動してない っていう文言だった

指定のサービスを探して、自動起動設定&手動起動させて、
無事ネットワーク検知ができた
WPSボタンはダメだったが、手動でWEPキーいれて無事認識

とりあえず、ネットにつながったので異常になったETHのドライバ更新
とかしてみたが、うまくいかず…
あきらめてブログ書き始めたら、ブルースクリーンで落ちた…
無線LANがおかしいのか、異常状態のETHかはわからんがデバイスが問題だそうだ

再起動とかして、一応今は動いている

11nの子機なんだが、隣の部屋の親機と65Mで接続できているっぽい

外との接続が15Mなんだから十分だな…

無線化したので、ETHケーブルのしがらみがなくなった
部屋の模様替えでもしてPCの位置でもかえるかな?w

風邪で安静にするつもりが、寝る前にいらんことしてしまった
さぁもう寝よう… 明日は仕事いかなきゃw

2011年2月3日木曜日

また風邪

今年に入って初…この冬何度目かわからない…風邪をひいた

まだ風邪の引き始めで、喉がいたく、セキがではじめた程度
そこに高血圧症状もでていたので、今日はお休みを頂いて安静に…

出かけないので、朝昼抜いて、紅茶をのんで喉をしめらせて…

今回は葛根湯とビタミンCのサプリを服用してみた
あとはトローチ…

だいたい喉の痛みからセキと鼻…それが2週間以上繰り返す
事が多い 熱がでちゃえば早く治るのだが、熱がでないと長引く
前回は寒いからといって、お腹すいてないのにソバとか
を昼に食べてしまったり、酒をのみすぎて長引いた

今回はビタミンCがきいているのか、保温がきいているのか
数日たっても悪化はしていない

最近は、風邪を引く頃に毎回通院日がきている
今回も通院日が近い・・・

2011年1月28日金曜日

自分一人の問題

何度か書いているが、慧海の周りは敵だらけ である
彼らは彼らの思い通りにしようと思うと、慧海が邪魔になる
だから慧海を敵とする
慧海にとっても同じ事


さて問題です
1.敵を全てぶっ殺せるとしたら、最後はどうなるだろうか
2.敵を一人だけ殺せるとしたら、誰を殺すのが一番いいか

昔の慧海の考え:
1.自分だけが残る
2.一番憎いヤツ

今の慧海の考え:
1.自分すらもいなくなる 自分も自分の敵になるから
2.自分 敵をつくっているのは自分だから

あいつが憎い、こいつが悪い、お前ら全員ぶっ殺してやる

だれもがそう思う部分をもっているだろう
そんな思い自体をぶっ殺してしまえば、ずいぶんと楽になるんだけどね

でも、そんな敵だらけの中だからこそ、
有り難い事がおこって、「ありがとう」と思えるようになるんだと思うのだよ

2011年1月25日火曜日

たんなる愚痴

先日、会社の先輩で昔の徹夜仲間の案件に関わる事になった

久々って事で、呑みにいって6年ぶりにまともに話をした

親会社に派遣になった頃、今後はこういう仕事も必要だと話をしても
まったく理解されなかった
その後、病んで、寝込んで、復職して、また派遣になって…
そんな間には慧海をみても声もかけなかったのに、時がながれ
今の案件で今の慧海の知識が役にたつとなったとたん、
イツまでも派遣先で楽してないで、もう戻って来い などという

まぁそういうもんだろう
自分に理解できない知識は無駄な知識なのだからね

さらに彼はいう

今日話しをして、お前が派遣前から止まっているから安心した
腐っていなくてよかった と…

止まっている?
腐っている?
でも、知識的には成長??
色々かわったのに、前と変わらない?

慧海の何をどう感じての言葉だったのだろう
成長とか腐るとかってなんなんだろう

成長とかって、実際はただの変化でしかなく、それが成長か腐敗かは、
自分なり他人なりの期待に沿うかどうかの問題でしかないんじゃないかね?

変化は、因縁によって様々だろう
必要になって勉強をしたり、何かの気づきがあったりしながら、
微妙に考え方がかわっていくんじゃないかと思う

その変化は、環境に適応するかのように変化しているんじゃなかろうか?
自分で意図してその結果を得るというより、そういう風になっていく
ものなんじゃないかと思っている…
因縁とかいうものによってそうなっていく…

すくなくとも今の慧海は、今の慧海のような考え方をしたいと思って
こうなった訳じゃない
その時、その時に何かをしてるうちに、こうなった

今の会社(社会?)は理想を立てて、それに向かって進む事を義務付ける
理想に対して、どういう行動をするのかと…
それがどうできたか、結果はでたのかで評価する
それが考え方とかになると、教育となり成長したかどうかとなる
最近では、心意気みたいなものすら教育管理対象になっている
理想どおりに進まないときは、補正して理想どおりに近いとする事も…

なんでもかんでも、自分の描いたとおりにしないと気がすまない人たち
理想どおりにしていっている人が偉くなる人


偉くならなくていいから、のんびりと流れにまかせて生きていきたいんだけど
流れにまかせてたら、のんびりできない状況にもなるのかねぇ~

あがこうが、あがかなかろうが、それすらも宿業
流れにまかせて、やるべき事をやるしかないのだろうね

2011年1月24日月曜日

おかげさまと人のせい

慧海は子供の頃から、すぐ人のセイ、モノのセイにしていた

ふと考えたら、これが「縁」ということの一端なんじゃなかろうか と思う
自分だけで今があるわけではない事のわかりやすい一端
誰か、何かとのかかわりの中で、今の状態がある

でも、こに自己弁護、自己正当化があると、人のセイは逃げになる
今は人のセイにして、自分を正当化する訳ではないのが、
未だに人やもののセイにした言動がぬけない

慧海が太ったのはメシがうまいセイ 
苦手な日本酒を呑むようになったのは、飲み仲間のM氏のセイw

という感じだ

そこに感謝があれば内容としては「おかげさま」ということになるが、
自尊心が高く、ひねくれものの慧海は素直に謝辞を口にできていない
あいつが悪いんだ から、あのひとのおかげで にかわりつつも
慧海は未だに、人のセイ、モノのセイ にしている

どこまでも、心が幼いのだろうが
そこにご縁というものを実感として感じるようになったのは
ありがたい事だと思う

2011年1月23日日曜日

機法って・・・

真宗では二種深信といって、
機の深信 と 法の深信 という言葉がある

機法一体とかいう言葉もあって、
両方の深信が必要みたいな書き方がされている

慧海の理解で表現すれば、
機の深信 というのは、煩悩だらけの慧海は助からん と気づくこと
法の深信 というのは、慧海は(弥陀仏に)救われた と気づくこと
ということになる

慧海には、法の深信がよくわからない
それはダイブ前から認識できていた
弥陀仏に心のソコから助けを求めることができないからだろうか?

東は機の深信を、西は法の深信を大事にする とか言う言葉も見たことが
あるが、宗門の問題ではない事もわかっている


今日、春秋社刊 中村元著「温かなこころ」を読んでいて、
温かなこころ=慈悲 という言葉がかかれていた
それをみて、なぜ慧海に法の深信が育たないのかに思いあたるものがあった

慧海には温かなこころが足りないからだ

慧海は弥陀仏の智慧と慈悲が、機法と対比されると思っているのだが
利己的すぎて、慈悲がないのが慧海だ
そんな利己的な慧海の姿ばかりが見えてくる(機であり智慧?)ので、
地獄が我が棲家という心にはなっていくのだが、
それでも救われていく(法)という明るさは慧海には感じ取れない

機法一体にならないから、信心がない
信心、悟りがないから慈悲が育たない
人が嫌いだし、温かいこころがないから、慈悲の芽がない?

なんてことを感じなくもない
慈悲がないから布施をするなんてことも、なかなかできない

ケチな慧海でもできそうな無財の7施というものが、同書P39 ~にあった
1.憎まず、好ましい眼差しをむける
2.嫌な顔つきをしないで、にこやか、和やかな顔をする
3.荒々しい言葉ではなく、やさしい言葉をかける
4.身をもって尊敬の態度を示す
5.よこ心をもって、他人と和らいでよいことに努める
6.座席を譲る
7.他人を泊める
だそうだが、これすらできるか難しい
人間的に未熟なんだと反省せざるをえない

テーラワーダには、悟ってないやつに真の慈悲はない
みたいな言葉があったが… 慈悲の心とは難しいものだ

慧海が救われれば、慈悲の心にも目覚めるやもしれない

そうなれば、心の底から友人たちに「自分の為に内観(念仏)をしなされ」
と言えるんだろうなぁ~
 

2011年1月20日木曜日

先生方からのアドバイス2

昨日に引き続き、今日は鬱陶しい亭主師に頂いた
「最近は愚痴記事しか書けてません」とメールしたお返事の抜粋です

 愚痴を無定見に垂れ流すのはよろしくないと思いますが、それを
一度文章にして推敲のうえで他人様に見てもらおうとするのは、
自分が自分の観客となるための良い訓練になるはずです。

推敲… イマイチできてないです
このお返事を頂いてから、記事を推敲しようと何度か行っておりますが
推敲してからUPしようと思った記事を、書いて数時間後に見直すと
そもそも書きたい事がわからなくなっていたりします…

このブログ自体が、慧海の感情に引きづられて出来ているからでしょう
冷静になれば、別に記事にする事もないと気づくんです
ブログの初期(過去記事の方)では、書いている間に考えが変わってきて
その考えが変わってきた流れのままに書いているものがあります
このブログに書いている時が、慧海の思考を観察して文書化している時
だったりするんで…

結果、だらだらと愚痴を連ねる事になっています
現在は、書いた直後に見直して変なところだけ直す程度です

もっと心の奥深い所の言葉を引っ張り出し、
それを言葉にするような、そんなレベルの観察をすれば……推敲も……

あ!今きづいた!!
推敲も、自分との対話じゃないですか

思いついた言葉をただ連ねるのではなく、しっかり自分と対話せよ
他人の眼で自分を見よ

というアドバイスだったんですね
・・・っていうか、まさにそうとしか書いてなかったですw
慧海の記事のつたなさが負い目になって推敲って事にばかり気が向いてました

これじゃ、お経を読んでも、お心を頂くことができませんね…

う~ん、ホントまだまだ慧海は何もわかっちゃいませんね…


諸先生方の日々のアドバイスに感謝しつつ、
今年も勉強(聞法)させて頂きたいと思います

そしてまた、記事を書いてやっと気づく慧海の姿が記録されましたww

2011年1月19日水曜日

先生方からのアドバイス1

慧海は、毎年年末に、全休先生と鬱陶しい亭主師に
一年の御礼のご挨拶メールを送らせて頂いています

今回は、全休先生から頂いたお返事の抜粋です
健康が回復してなによりです
気づいていればそれだけでよいのでしょう

色々と考えてしまえば、気づく事ができなくなります
欲望や怒りに呑まれても、気づく事ができなくなります
体が元気であれば、欲望が増え、満たされなければ怒りが増えます
色々と日々、刻々とあるだろうけど、

 気づいてい続けられるようにしなさい 
 それだけで良いから… 

と、いうアドバイスだと慧海は感じております


ありがたい事です

南無阿弥陀仏

2011年1月18日火曜日

迷惑な親切心

帰宅中に財布をひろった
女性モノのやつだ

最初は、あれ?財布っぽい と思っただけで通り過ぎた
もし財布なら、慧海に気づくんだから他のやつも気づくだろうな
盗まれて、すてられたら無くした人は困っるだろうな…
慧海も慧海の妻も財布をなくした時には困ったし、世を恨みたくもなった
そう思うと、つい手にとってしまった

一応チラッと中をみた
やっぱり財布のようだ

…お金がいっぱい入っていたら少し位もらっちまうか…

と一瞬悪魔にささやかれたものの、家内の財布同様、
お金の姿はみえず紙切れのようなものばかりしか見えない
でもカード入れにはプラスチックのカードらしきものも…
どうやらカードや会員証をいれるうなセカンド財布なのだろう
…お金入ってなくてよかった…w

人の財布をじろじろ見てたら、それこそ盗人に間違われると思い、
財布をしめたものの、いざ交番にもっていこうと思うと
ポリ公にあって、なんだか書かされるのは嫌だという気になってしまった
早く家に帰ってメシくいたいし… そもそもポリ公嫌いだし…

お金入ってないし、もう一度同じ場所においておいても問題ないか?
と思わなくもないが、カードっぽいものはあったのだから
落とし主はこまるだろう

そして、今はこれを手にもってる慧海がこまっている…

そうか! ポリ公にあわずに、交番のところにもっていくなら、
近くの無人化した交番にもっていけばいいや!

ということで、近くの交番の連絡用電話のところにおいてきた

おいてきたはいいが… ポリ公が気づかなきゃ
結局持っていって捨てるヤツと変わらないことをしたことに気づいた
ポリ公がしっかり職務をはたしていれば、きっと見つかる 
と置いた時には思ったものの、みつからないと意味が無い

交番の電話から財布を置いたとだけ伝えればよかったか…
いまさら家からかけたら、それこそ一言で切るとかできないかも…
そもそも何でひろっちまったんだ…
かわいそうだけど、運におまかせしてもらっちゃえばよかったか…

どこの誰だかしらないが、彼女は財布を落としたであろう暗く寒い道を
あせあせと探している事だろう

中途半端なおせっかいは、ただの迷惑にしかなっていない

あとは、地元のポリ公が優秀である事を祈るばかりである


明日の朝、交番のところみてまだ置いてあったら電話すっかな…

1/19追記:
朝通勤途中に交番の前を通ったら財布があった
帰りにみたらなくなっていた
ちゃんと落とし主にとどいているといいんだけどね…

…わからん リアクションもらったが、矛盾だらけで
わからん事だらけだろうなぁ… 文章もひどいしなぁ…

2011年1月17日月曜日

読書

ココ最近になって、本を読む時間が増えている

病む前は通勤時間はもっぱら本を読んでいた
病んで本にすら集中できない事がおおくなった
買ってもよまない本がたまり、休職に伴って
本を買う金がなくなったので本を読まなくなった

すこし調子が良くなってきた頃、図書館で本を借りて読み始めた
病気のことがわかるよう、心理学の本から読み始めて、
仏教の本に移っていった

禅とか般若心経とかの本だ
その頃読んでみた真宗の本は、まったく理解できなかった
我々を無上仏たらしめんとする とかいう個を否定するような言葉には
なんじゃこれは と驚く程度で、何冊か借りては見たものの
何がかいてったかマッタク覚えていない

そんな慧海は最近は真宗の本やら小説やらを読んでいる
浄土三部経の現代語訳とか教行信証の現代語訳ダイジェストとか
お西のTOPが書いた「愚の力」だったかな? とか
五木氏の小説 親鸞(上下)と蓮如物語 とか
黒岩氏の卑弥呼だ
ラノベ以外の小説を読むのは何年々振りだろうか… というくらい読んでない
宮城谷氏の中国小説が三国時代になってから読んでない…

あらためて思うが、本は楽しい

通勤時間は動画をみているが、休日は本を読んでいる方が多い
深夜まで本を読んで、翌日昼近くまでねる
自分の好きな事をしている! って気がすごいする
やっと本を楽しくよめるまでになったのか という気がする
まだまだ本調子ではなかったのだな と改めて思う


真宗の本を読んでも、昔よりは言っている意味がわかる
妙好人の言葉とか読んでも、昔は理解できなかったし嫌悪感すらあった
今は…妙好人に師匠がいるのだろうか 何て事を考えたりする
信心のある人の法話をきいて、自ら聞法して妙好人がうまれるのか
信心のない人の法話でも、聞法をするうちに妙好人になるのか…
学問ではなく、何かを盲信するでもなく、目覚めていくのだろうか…

本を読めば、慧海の中に波が立つ
その波は色々な波だが、どれも慧海の心や思考に起因する波だ
本の風に煽られ波立ちつつ、ただただ楽しむとしよう

2011年1月16日日曜日

コレステロール

先日ドックの結果がでた

コレステロールが多い
中性脂肪は正常値で昨年よりも減ってすらいるのに
コレステロールは正常範囲Overで昨年よりも増えてすらいる
総コレステロール、HDL、LDLと全てが範囲外である

この十年以上、脂質異常症(高脂血症)ではあった
中性脂肪も多く、おととしの数字から昨年はダイエットを主治医から言われ
約一年かけて10Kgほど落とし、脂質異常症も改善方向ではあった
今年は改善とは逆方向の結果であった

で、ちょっと調べてみた
コレステロールが高くなるのはなぜなのか と…
僕らの体は、理由無しに動いているわけじゃない らしい
高血圧や脂質異常は必要だったり誤認だったりと、何らかの原因で
そういう結果になっている
じゃ、なんで高血圧や脂質異常が慧海の身体でおこっているのか


大抵のサイトではコレステロールが高い事による動脈硬化等の病気になる
危険性と、食事の改善と運動を薦めるだけでなぜ増えるのかは書かれていない
食物繊維をとれ、カロリーを控えろ、有酸素運動をしろ と
そうしないと動脈硬化になる可能性が高いぞ と…

そんな記事の中にも、たまになるほど とおもえるものもある
そういうものから学べたことは

・コレステロールの大半は、体内で生成されるものらしい
・食べ物に含まれるコレステロールが原因ではない
・糖質と脂肪がコレステロールの原料
・コレステロールは細胞膜やホルモンの元になる重要な物質である
・コレステロールの利用量が減れば余ったコレステロールが増える
・ストレス等によって活性酸素が増えると、細胞等がこわれる
 抗酸化物質であるコレステロールを増やして修復をする
・血行をよくし、野菜を多くとる…高血圧改善と同じような食事が良い

といった感じであった

コレステロールが使われるようにすること
コレステロールを増やす必要がないようにすること
ということであろうか
ストレスを増やさない事と血行をよくすること という事でいいのかな?

よくかかれている、肉や卵をたべるな、とか酒を呑むなというのは
直接的原因ではないようである

たしかに、体調不良とストレスもあり、
過食と飲みすぎの傾向であったし、運動不足でもあった
過食といっても、全体的な食事量は多くは無い
日によって食べ過ぎてしまう というだけだが、数日続けば太るんだから
カロリーOverなんだろう…正月太りはまだ改善しないしw


結局、身体にとってやれることは、
・ストレスをためないことと
・運動などで血行をよくすること
・飲みすぎない、食べ過ぎないこと
・野菜を増やすこと
というところであろう

ストレスは…まぁどうしようもないので、酸化状態が続かないように
自律神経のバランスを整えられるような生活をこころがける
運動も適度に体温があがり、脈がかるくふえるようなレベルで…
飲みに行く頻度は減らし、家では適量を守り、休肝日もつくる
野菜は…家内にまかせるしかないw

というところでしばらくやってみて、再検査をうけるとしよう
何年も脂質異常をつづけているのだから、生活習慣を再検討し
身体の声をききつつ健康なバランスを見つけたいものだと思う

2011年1月12日水曜日

さっそくのコメントに感謝と反省

「コメント設定変更」をしたところ、
早速、コメントを頂きました
全休先生のブログにリンクのある
「これでいいのかな?」のkirinn様でした!

全休先生の所で何度かコメントをお見かけしてますので、
きっと以前にもコメントを書こうとしていただけたのでは…
と思うと、申し訳ないです

・・・ 疑う前に自分をもっと見ろという事ですね すいません…


と、いうことで、 kirinn 様、ありがとうございます!!
慧海も kirinn 様のブログにはおじゃまさせていただいております
このコメントもそちらにと思いましたが…
恥ずかしいので自分の所に書きました


また、いつもリアクション入れてくれる方 
ありがとうございます

やっと普通にコメント入れられますので、
お気の向かれた時にでも、なにか頂ければと思います
よろしくお願いいたします


このブログでは慧海にメールも送れないんですよね
メアドそのままは、やはりSPAM等が怖くて出せません
とりあえず、ここらへんにわかりにくく書いておくことにしましょう

ユーザ名: ekai.syaku
(”.”要ります)
サイト名: gmail.com


これでわかりますかね?
ネットへの疑いの心がまだまだ捨てられない慧海で申し訳ない
メールしたけどうまく行かなかった方はコメントに書いてください

様々な方とのご縁に
南無阿弥陀仏

コメント設定変更

やっぱりコメントが入らないようなので、
確認画像の表示を止めました

荒らすような方がくるほど広く知れ渡っている訳じゃないので、
なんのチェックもしてないですが、多分大丈夫でしょう

自動のスパムチェックはかかってますし、不適切な内容であれば削除はいたします


今までコメントをいれてみようと思って頂いた方 失礼しました

今後ともよろしくお願いいたします

2011年1月10日月曜日

今年の法語カレンダRetry

先日、法語カレンダーの言葉がわからない
という記事を書いた

その後、親会社の飲み仲間M氏に
英語訳をいれるだけで終わりにするんじゃなく、
ちゃんと慧海の見解をいれてくれなきゃ と言われた

全休先生や亭主師の先に進みすぎていて、今苦悩している世代には
慧海の苦悩の記事がちょうど等身大なのだ というご評価を頂いた
なので、いい事書こうとかしないでいいよ ともw
実にありがたいことだ

つ~こって、
「聞思して遅慮することなかれ」
に再度挑戦

この言葉をわからなくするのは
聞思
遅慮
の言葉がよくわからないからだろう

とはいいながら、聞思は意外と簡単だったりする
聞くとは、しっかり聞く という意味と、
聞法の聞くであり、身をもって聞くということだろう
で、「思」だが、これが「思い」なのか「思考」なのかに戸惑った
英語をみると、reflect on とあるので、熟考する、反省するという
意味での「思」である事がわかる
そうすると、しっかり聞いて考えなさい という意味と
自分の声を聞き反省しなさい という意味がみえてくる
どちらかが正解ではなく、たぶんこれらは1つのこと

数学の公式を聞いて問題の答えを考えるのとはちがう
仏法=真理を聞いて、わが身に問い、考え、反省(懺悔)するのだろう

次に遅慮だが… 遅れる おもんばかる こと
英語の部分をみると、let there no wavering or apprehension とあるので
ためらい や 不安 をなくそう というところだろうか

じゃ、ためらいや不安に思い悩んでもたもたすんな

ってところだろうか

となると、慧海的解釈で「聞思して遅慮することなかれ」
を訳すと、「自己観察をして、妄想にのまれるな」ってことだ


「遠く宿縁を慶べ」
はカレンダーの説明に書いてあった
今あるのは、過去からの様々な因縁のおかげである
ということだ
慧海的解釈で訳すと「皆さんのおかげだ、ありがとう」ってことだ


つ~こって、慧海の理解の仕方でかいてみた

風情もありがたみもない言葉になってしまった

2011年1月9日日曜日

門徒講座序

今日は、今年1年お寺で行う月1回講座の説明があった
日曜の14時~16時なんで、出てみる事にした

見事にお爺さんお婆さんしかいなかった
今回は婦人会の会合の日だったらしく
そのまま講座にも出席とのことで、お婆さん率が高い
10人ほどで、男性が3人…もちろん2名はお爺さん
90過ぎのお婆さんもいらっしゃるので、お爺さんが若く見えるw

次回からは婦人会を講座の日にあわせるとのことらしいので
だれもいない講座にはならないだろう

今回は序として、来月から何をするか という話を中心に
約2時間ほど住職の話をきいてきた

また、質問はないか ということで振られたので
カレンダーにある「聞思して遅慮することなかれ」が難しくてわからん
ときいたんだが… 住職の宿題となってしまったw

とうぜん皆さんの家にもこのカレンダーがあるのだが、
ここにある言葉が何をいっているのか ということを考えた事もない
という事をおっしゃっていた
法語にちなんだ法話本があるのだが、それをみておしまい だそうだ

そのような方々なので、カレンダーの質問に対する答えを住職が
本当にわからないのか、わからない人にも説明できるような
言葉がわからなかったのかはわからない
でも、あまり深い質問はしちゃいけないのかもしれない
質問するなら、講座終了後にした方がよいのかな??

信心が大事って勤行集にあるけど、どうすりゃいいの? っていう
質問とかもしてみたかったんだけど…

慧海の質問の答えをもらう事よりも、そういった話をききながら
慧海自身の煩悩の様がよくみえるのでそれを観察しながら
その場にいることが面白く感じた

質問の中に、西と東の違い というのがあった
一番大きいのは、西は往生成仏?中心、東は現生不退中心 と言ってました
東は、清沢満之、曽我量深、安田理深等といった大先生方の影響もあってか
理屈っぽいと西に言われるらしいが、慧海にとっては、東でよかったと思う

アプローチの違いでしかないんだとは思うんだけどね…

2011年1月8日土曜日

遭いがたくして…遭えません

全休先生のブログ 2011/01/05 「仏さまがわたしを発見する」に
しかし、私は、任せることに異常な不安を感じ、それは、ほとんど不可能に思えた。
いや、なにより、その眼は私の心の中の“つくりもの”にすぎないのではないか、という疑心が離れなかった。
という言葉があった

全休先生にもこういう時代があったのだなぁ なんて思えるありがたい一文だ
「会員からのお便り」は全休先生が僕の歳の頃に書かれたものであり、宗教体験まもない頃の先生なので、とても勉強になる。ありがたいことだ


実際、慧海においては、疑心どころじゃなく つくりものだ、錯覚だ 
と思い込んでいるところがある
まさに、「任せるなんて不可能だ」というところに留まっている感じだ


残念な事に、自分の愚かさばかり見えてはくるものの
慈悲をむけられている存在だと感じることはないし、
彼岸に渡りきる事もできない

来月の法語カレンダーには
「遭いがたくして、いま遭うことを得たり」とあるが、
慧海はあの方にお会いすることができないし、あちらに逝くこともできない

慧海に出来る事は、愚者を極めていくしかないだろうと思う

2011年1月4日火曜日

一人称慧海

最近はブログでの一人称に「慧海」を使っている

自我の叫びを表現するときだけ「俺」だったり、一般的な自己を表現するのに
「自分」をつかったりはしているが、私や僕の意味では「慧海」だ

仕事でも、この文体で経験や主観に基づく文章を書いていると
つい「慧海」という一人称を使いそうになってしまうときがあるw

一人称を慧海にしたのは、ただの思いつきではあるのだが、
そもそもこの名前は、リアルで生活する僕ではなく、
佛弟子として帰依した仏教徒としての、ある意味誓いのような名前だ

飛躍した表現でいえば、将来佛になるとすれば、それは僕ではなく慧海である
とすると慧海は修行中の菩薩の名前ということになる… 言いすぎだなw

とにかく、僕と慧海は同じであって同じではない

実際に慧海として文書をかいていると、意外と客観に立ちやすい
三人称の文書を書いているかのような感じだ

俺はどうしたいのか ではなく 慧海はどうしたいのか

なのだ
これだと、自分の煩悩を自分のものではないように見ることができるのだ

慧海は慧海であって慧海ではないのだよ なんて思うw


こんな風に、ブログで慧海は、慧海は と書いていた為か、
ふとした瞬間に、頭に

慧海…それでいいのか?

と問われてみたり、もっとシンプルに

慧海!!

と呼ぶような言葉が湧き上がる事がある
だれに問われているんだ?誰に呼ばれているんだ?
とちょっと不思議におもったりする

ふとした瞬間 ということだと、
とつぜん 「な~んま~んだ~ぶぅ~~」
と鼻歌のように念仏が口からでることがある

ちなみに、この念仏の節は勤行の時の節ではない
法事か葬式の時にきいた住職が称える念仏の節な気がするが…わからない

住職の念仏というと、法要の最後に住職が小声で称える
「なまんだぶなまんだぶなまんだぶなまんだぶ
 なまんだぶなまんだぶなまんだぶなまんだぶ」
というのもなぜか耳に残っている
多分10回いってるんじゃないかと思うが8回程度のリズムで耳に残っている
その8回のリズムでふとした瞬間に慧海は念仏を口にする事もある
祖母が称えていた念仏が8回+2回だったからかもしれない

慧海の名を呼んだり、問われたり、念仏を口ずさんだりするのは
どれも自力ではないなぁ なんて思うこともある

他力がわからんから、よくわからんけどねw

2011年1月3日月曜日

今年の法語カレンダー

法語カレンダー2011をお寺から頂いて、新年ということでかけてみた
今年の法語は教行信証からの言葉らしいが、難しい言葉ばかりだ
カレンダーと一緒にもらった法語にあわせた法話本をみても、
どうもしっくりこない

ということで、法語の下にかいてあった英語をみたら何かわかるかも
と思って、翻訳サイトで訳してみた


表紙の言葉
「遠く宿縁を慶べ」

英語文:
You should come to realize this Nembutsu practice and the true entrusting to Amida, and rejoice the conditions from the distant past that have brought it about.

翻訳:
あなたはこのNembutsu習慣と本当のゆだねることが阿弥陀にわかって、大昔からのそれを引き起こした状態を歓喜するようになるべきです。(エキサイト)

このNembutsu実行およびAmidaへの真実に託することを実現し、かつそれを引き起こした大昔からの条件を喜ばせるようになるべきです。(livedoor)

あなたは、阿弥陀するには、この念仏の練習、真の委託を実現するために来てください、約それを持ってきた遠い過去から条件を喜んでいます。(Google)

あなたはこの念仏実行とアミダに本当に委託することを理解するためにならなければなりません、そして、それをもたらした遠い過去から状況を喜ばせます。(Yahoo)

イマイチわかりませんw

で、1月
「聞思して遅慮することなかれ」

英語文:
Hear and reflect on the truth that you are grasped, never to be abandoned by Amida; let there be no wavering or apprehension.

翻訳文:
握られても、阿弥陀によって決して捨てられないという真実を聞いて、よく考えてください。 揺れ動きも憂慮もするのをやめよう、そうしましょう。(エキサイト)

聞いて、理解されるがAmidaによって遺棄されない、と真実上で考えてください;揺れることあるいは理解がそこにさせられません。(livedoor)

聞いて、あなたは決して阿弥陀から見捨てられることに把握されていること真実を反映している。そこには揺れるか懸念されることができます。(Google)

アミダによって決して捨てられないために、聞いて、あなたがつかまれるという事実を考えてください;揺れることまたは不安でないことをそこで放してください。。(Yahoo)

やっぱりわかりにくい

英語文は日本語よりも、補足が含んでいる感じではあるが、それをわかりやすく訳す機能はないようだ… 別の翻訳システムなら良いものがあるのかもしれないが…

言葉の意味だけをみてもしょうがないのだから、ま、いいか
なんとなくみて、なんとなく考えて、聞法しよう


今年は真宗ではイベント年
うちのお寺でも、毎月勉強会だかをやるとのこと
説明会が来週の9日だそうで、お寺にお参りに行ったときに参加を勧められた
とりあえず聞法ってことで、参加してみようかね~

2011年1月2日日曜日

正月太り・・・

年末から毎晩飲んで、正月開ければ昼間から飲み食い…

慧海の家では、1日は慧海の両親と慧海の妻の母が慧海宅にきて
おせちを食べて宴会である
2日は慧海の兄弟親戚があつまって実家で宴会である

飲んで食べて、酔って寝る…
当然だが・・・太る…

ドックの結果と比較して、4~5kgほど増えている…


そんな、正月休みももう終わる
年末は大掃除と買い物、正月は宴会
それで正月休みは終わるのだ

いつもの事だが、あわただしい休みだ

で、数日仕事をすれば、成人の日の連休だ
連休は、ゆっくりとしつつ、食べ過ぎないようにしたいものだ


あ…生活リズムがくずれてしまったので、
まずは、今日、夜更かしすることをやめて、
明日は普通に・・・おきれるかなぁw

2011年1月1日土曜日

本年も宜しくお願い致します

あけましておめでとうございます

ちなみにこのブログは予約機能で自動うpです

アップ時間には友人と地元の神社&寺(真言宗)に初詣

紅白で水樹奈々を見れば、今年のイベントもおしまいwww
後はいつもどおりネットにつなげるだけってことで、仕込んでおきましたw


初詣っていっても今となっては、どこの何様だろうが 南無阿弥陀仏
 と手を合わせてしまう慧海なんですけどね~~~

昔のように初詣に特別な思いはなくなったのは仏教徒、真宗門徒としての
考えに染まったからでしょうね…

神も仏も幽霊も、慧海には関係ないのですよ…


そんな感じで

本年もよろしくお願いいたします

南無阿弥陀仏