2011年1月28日金曜日

自分一人の問題

何度か書いているが、慧海の周りは敵だらけ である
彼らは彼らの思い通りにしようと思うと、慧海が邪魔になる
だから慧海を敵とする
慧海にとっても同じ事


さて問題です
1.敵を全てぶっ殺せるとしたら、最後はどうなるだろうか
2.敵を一人だけ殺せるとしたら、誰を殺すのが一番いいか

昔の慧海の考え:
1.自分だけが残る
2.一番憎いヤツ

今の慧海の考え:
1.自分すらもいなくなる 自分も自分の敵になるから
2.自分 敵をつくっているのは自分だから

あいつが憎い、こいつが悪い、お前ら全員ぶっ殺してやる

だれもがそう思う部分をもっているだろう
そんな思い自体をぶっ殺してしまえば、ずいぶんと楽になるんだけどね

でも、そんな敵だらけの中だからこそ、
有り難い事がおこって、「ありがとう」と思えるようになるんだと思うのだよ

2011年1月25日火曜日

たんなる愚痴

先日、会社の先輩で昔の徹夜仲間の案件に関わる事になった

久々って事で、呑みにいって6年ぶりにまともに話をした

親会社に派遣になった頃、今後はこういう仕事も必要だと話をしても
まったく理解されなかった
その後、病んで、寝込んで、復職して、また派遣になって…
そんな間には慧海をみても声もかけなかったのに、時がながれ
今の案件で今の慧海の知識が役にたつとなったとたん、
イツまでも派遣先で楽してないで、もう戻って来い などという

まぁそういうもんだろう
自分に理解できない知識は無駄な知識なのだからね

さらに彼はいう

今日話しをして、お前が派遣前から止まっているから安心した
腐っていなくてよかった と…

止まっている?
腐っている?
でも、知識的には成長??
色々かわったのに、前と変わらない?

慧海の何をどう感じての言葉だったのだろう
成長とか腐るとかってなんなんだろう

成長とかって、実際はただの変化でしかなく、それが成長か腐敗かは、
自分なり他人なりの期待に沿うかどうかの問題でしかないんじゃないかね?

変化は、因縁によって様々だろう
必要になって勉強をしたり、何かの気づきがあったりしながら、
微妙に考え方がかわっていくんじゃないかと思う

その変化は、環境に適応するかのように変化しているんじゃなかろうか?
自分で意図してその結果を得るというより、そういう風になっていく
ものなんじゃないかと思っている…
因縁とかいうものによってそうなっていく…

すくなくとも今の慧海は、今の慧海のような考え方をしたいと思って
こうなった訳じゃない
その時、その時に何かをしてるうちに、こうなった

今の会社(社会?)は理想を立てて、それに向かって進む事を義務付ける
理想に対して、どういう行動をするのかと…
それがどうできたか、結果はでたのかで評価する
それが考え方とかになると、教育となり成長したかどうかとなる
最近では、心意気みたいなものすら教育管理対象になっている
理想どおりに進まないときは、補正して理想どおりに近いとする事も…

なんでもかんでも、自分の描いたとおりにしないと気がすまない人たち
理想どおりにしていっている人が偉くなる人


偉くならなくていいから、のんびりと流れにまかせて生きていきたいんだけど
流れにまかせてたら、のんびりできない状況にもなるのかねぇ~

あがこうが、あがかなかろうが、それすらも宿業
流れにまかせて、やるべき事をやるしかないのだろうね

2011年1月24日月曜日

おかげさまと人のせい

慧海は子供の頃から、すぐ人のセイ、モノのセイにしていた

ふと考えたら、これが「縁」ということの一端なんじゃなかろうか と思う
自分だけで今があるわけではない事のわかりやすい一端
誰か、何かとのかかわりの中で、今の状態がある

でも、こに自己弁護、自己正当化があると、人のセイは逃げになる
今は人のセイにして、自分を正当化する訳ではないのが、
未だに人やもののセイにした言動がぬけない

慧海が太ったのはメシがうまいセイ 
苦手な日本酒を呑むようになったのは、飲み仲間のM氏のセイw

という感じだ

そこに感謝があれば内容としては「おかげさま」ということになるが、
自尊心が高く、ひねくれものの慧海は素直に謝辞を口にできていない
あいつが悪いんだ から、あのひとのおかげで にかわりつつも
慧海は未だに、人のセイ、モノのセイ にしている

どこまでも、心が幼いのだろうが
そこにご縁というものを実感として感じるようになったのは
ありがたい事だと思う

2011年1月23日日曜日

機法って・・・

真宗では二種深信といって、
機の深信 と 法の深信 という言葉がある

機法一体とかいう言葉もあって、
両方の深信が必要みたいな書き方がされている

慧海の理解で表現すれば、
機の深信 というのは、煩悩だらけの慧海は助からん と気づくこと
法の深信 というのは、慧海は(弥陀仏に)救われた と気づくこと
ということになる

慧海には、法の深信がよくわからない
それはダイブ前から認識できていた
弥陀仏に心のソコから助けを求めることができないからだろうか?

東は機の深信を、西は法の深信を大事にする とか言う言葉も見たことが
あるが、宗門の問題ではない事もわかっている


今日、春秋社刊 中村元著「温かなこころ」を読んでいて、
温かなこころ=慈悲 という言葉がかかれていた
それをみて、なぜ慧海に法の深信が育たないのかに思いあたるものがあった

慧海には温かなこころが足りないからだ

慧海は弥陀仏の智慧と慈悲が、機法と対比されると思っているのだが
利己的すぎて、慈悲がないのが慧海だ
そんな利己的な慧海の姿ばかりが見えてくる(機であり智慧?)ので、
地獄が我が棲家という心にはなっていくのだが、
それでも救われていく(法)という明るさは慧海には感じ取れない

機法一体にならないから、信心がない
信心、悟りがないから慈悲が育たない
人が嫌いだし、温かいこころがないから、慈悲の芽がない?

なんてことを感じなくもない
慈悲がないから布施をするなんてことも、なかなかできない

ケチな慧海でもできそうな無財の7施というものが、同書P39 ~にあった
1.憎まず、好ましい眼差しをむける
2.嫌な顔つきをしないで、にこやか、和やかな顔をする
3.荒々しい言葉ではなく、やさしい言葉をかける
4.身をもって尊敬の態度を示す
5.よこ心をもって、他人と和らいでよいことに努める
6.座席を譲る
7.他人を泊める
だそうだが、これすらできるか難しい
人間的に未熟なんだと反省せざるをえない

テーラワーダには、悟ってないやつに真の慈悲はない
みたいな言葉があったが… 慈悲の心とは難しいものだ

慧海が救われれば、慈悲の心にも目覚めるやもしれない

そうなれば、心の底から友人たちに「自分の為に内観(念仏)をしなされ」
と言えるんだろうなぁ~
 

2011年1月20日木曜日

先生方からのアドバイス2

昨日に引き続き、今日は鬱陶しい亭主師に頂いた
「最近は愚痴記事しか書けてません」とメールしたお返事の抜粋です

 愚痴を無定見に垂れ流すのはよろしくないと思いますが、それを
一度文章にして推敲のうえで他人様に見てもらおうとするのは、
自分が自分の観客となるための良い訓練になるはずです。

推敲… イマイチできてないです
このお返事を頂いてから、記事を推敲しようと何度か行っておりますが
推敲してからUPしようと思った記事を、書いて数時間後に見直すと
そもそも書きたい事がわからなくなっていたりします…

このブログ自体が、慧海の感情に引きづられて出来ているからでしょう
冷静になれば、別に記事にする事もないと気づくんです
ブログの初期(過去記事の方)では、書いている間に考えが変わってきて
その考えが変わってきた流れのままに書いているものがあります
このブログに書いている時が、慧海の思考を観察して文書化している時
だったりするんで…

結果、だらだらと愚痴を連ねる事になっています
現在は、書いた直後に見直して変なところだけ直す程度です

もっと心の奥深い所の言葉を引っ張り出し、
それを言葉にするような、そんなレベルの観察をすれば……推敲も……

あ!今きづいた!!
推敲も、自分との対話じゃないですか

思いついた言葉をただ連ねるのではなく、しっかり自分と対話せよ
他人の眼で自分を見よ

というアドバイスだったんですね
・・・っていうか、まさにそうとしか書いてなかったですw
慧海の記事のつたなさが負い目になって推敲って事にばかり気が向いてました

これじゃ、お経を読んでも、お心を頂くことができませんね…

う~ん、ホントまだまだ慧海は何もわかっちゃいませんね…


諸先生方の日々のアドバイスに感謝しつつ、
今年も勉強(聞法)させて頂きたいと思います

そしてまた、記事を書いてやっと気づく慧海の姿が記録されましたww

2011年1月19日水曜日

先生方からのアドバイス1

慧海は、毎年年末に、全休先生と鬱陶しい亭主師に
一年の御礼のご挨拶メールを送らせて頂いています

今回は、全休先生から頂いたお返事の抜粋です
健康が回復してなによりです
気づいていればそれだけでよいのでしょう

色々と考えてしまえば、気づく事ができなくなります
欲望や怒りに呑まれても、気づく事ができなくなります
体が元気であれば、欲望が増え、満たされなければ怒りが増えます
色々と日々、刻々とあるだろうけど、

 気づいてい続けられるようにしなさい 
 それだけで良いから… 

と、いうアドバイスだと慧海は感じております


ありがたい事です

南無阿弥陀仏

2011年1月18日火曜日

迷惑な親切心

帰宅中に財布をひろった
女性モノのやつだ

最初は、あれ?財布っぽい と思っただけで通り過ぎた
もし財布なら、慧海に気づくんだから他のやつも気づくだろうな
盗まれて、すてられたら無くした人は困っるだろうな…
慧海も慧海の妻も財布をなくした時には困ったし、世を恨みたくもなった
そう思うと、つい手にとってしまった

一応チラッと中をみた
やっぱり財布のようだ

…お金がいっぱい入っていたら少し位もらっちまうか…

と一瞬悪魔にささやかれたものの、家内の財布同様、
お金の姿はみえず紙切れのようなものばかりしか見えない
でもカード入れにはプラスチックのカードらしきものも…
どうやらカードや会員証をいれるうなセカンド財布なのだろう
…お金入ってなくてよかった…w

人の財布をじろじろ見てたら、それこそ盗人に間違われると思い、
財布をしめたものの、いざ交番にもっていこうと思うと
ポリ公にあって、なんだか書かされるのは嫌だという気になってしまった
早く家に帰ってメシくいたいし… そもそもポリ公嫌いだし…

お金入ってないし、もう一度同じ場所においておいても問題ないか?
と思わなくもないが、カードっぽいものはあったのだから
落とし主はこまるだろう

そして、今はこれを手にもってる慧海がこまっている…

そうか! ポリ公にあわずに、交番のところにもっていくなら、
近くの無人化した交番にもっていけばいいや!

ということで、近くの交番の連絡用電話のところにおいてきた

おいてきたはいいが… ポリ公が気づかなきゃ
結局持っていって捨てるヤツと変わらないことをしたことに気づいた
ポリ公がしっかり職務をはたしていれば、きっと見つかる 
と置いた時には思ったものの、みつからないと意味が無い

交番の電話から財布を置いたとだけ伝えればよかったか…
いまさら家からかけたら、それこそ一言で切るとかできないかも…
そもそも何でひろっちまったんだ…
かわいそうだけど、運におまかせしてもらっちゃえばよかったか…

どこの誰だかしらないが、彼女は財布を落としたであろう暗く寒い道を
あせあせと探している事だろう

中途半端なおせっかいは、ただの迷惑にしかなっていない

あとは、地元のポリ公が優秀である事を祈るばかりである


明日の朝、交番のところみてまだ置いてあったら電話すっかな…

1/19追記:
朝通勤途中に交番の前を通ったら財布があった
帰りにみたらなくなっていた
ちゃんと落とし主にとどいているといいんだけどね…

…わからん リアクションもらったが、矛盾だらけで
わからん事だらけだろうなぁ… 文章もひどいしなぁ…

2011年1月17日月曜日

読書

ココ最近になって、本を読む時間が増えている

病む前は通勤時間はもっぱら本を読んでいた
病んで本にすら集中できない事がおおくなった
買ってもよまない本がたまり、休職に伴って
本を買う金がなくなったので本を読まなくなった

すこし調子が良くなってきた頃、図書館で本を借りて読み始めた
病気のことがわかるよう、心理学の本から読み始めて、
仏教の本に移っていった

禅とか般若心経とかの本だ
その頃読んでみた真宗の本は、まったく理解できなかった
我々を無上仏たらしめんとする とかいう個を否定するような言葉には
なんじゃこれは と驚く程度で、何冊か借りては見たものの
何がかいてったかマッタク覚えていない

そんな慧海は最近は真宗の本やら小説やらを読んでいる
浄土三部経の現代語訳とか教行信証の現代語訳ダイジェストとか
お西のTOPが書いた「愚の力」だったかな? とか
五木氏の小説 親鸞(上下)と蓮如物語 とか
黒岩氏の卑弥呼だ
ラノベ以外の小説を読むのは何年々振りだろうか… というくらい読んでない
宮城谷氏の中国小説が三国時代になってから読んでない…

あらためて思うが、本は楽しい

通勤時間は動画をみているが、休日は本を読んでいる方が多い
深夜まで本を読んで、翌日昼近くまでねる
自分の好きな事をしている! って気がすごいする
やっと本を楽しくよめるまでになったのか という気がする
まだまだ本調子ではなかったのだな と改めて思う


真宗の本を読んでも、昔よりは言っている意味がわかる
妙好人の言葉とか読んでも、昔は理解できなかったし嫌悪感すらあった
今は…妙好人に師匠がいるのだろうか 何て事を考えたりする
信心のある人の法話をきいて、自ら聞法して妙好人がうまれるのか
信心のない人の法話でも、聞法をするうちに妙好人になるのか…
学問ではなく、何かを盲信するでもなく、目覚めていくのだろうか…

本を読めば、慧海の中に波が立つ
その波は色々な波だが、どれも慧海の心や思考に起因する波だ
本の風に煽られ波立ちつつ、ただただ楽しむとしよう

2011年1月16日日曜日

コレステロール

先日ドックの結果がでた

コレステロールが多い
中性脂肪は正常値で昨年よりも減ってすらいるのに
コレステロールは正常範囲Overで昨年よりも増えてすらいる
総コレステロール、HDL、LDLと全てが範囲外である

この十年以上、脂質異常症(高脂血症)ではあった
中性脂肪も多く、おととしの数字から昨年はダイエットを主治医から言われ
約一年かけて10Kgほど落とし、脂質異常症も改善方向ではあった
今年は改善とは逆方向の結果であった

で、ちょっと調べてみた
コレステロールが高くなるのはなぜなのか と…
僕らの体は、理由無しに動いているわけじゃない らしい
高血圧や脂質異常は必要だったり誤認だったりと、何らかの原因で
そういう結果になっている
じゃ、なんで高血圧や脂質異常が慧海の身体でおこっているのか


大抵のサイトではコレステロールが高い事による動脈硬化等の病気になる
危険性と、食事の改善と運動を薦めるだけでなぜ増えるのかは書かれていない
食物繊維をとれ、カロリーを控えろ、有酸素運動をしろ と
そうしないと動脈硬化になる可能性が高いぞ と…

そんな記事の中にも、たまになるほど とおもえるものもある
そういうものから学べたことは

・コレステロールの大半は、体内で生成されるものらしい
・食べ物に含まれるコレステロールが原因ではない
・糖質と脂肪がコレステロールの原料
・コレステロールは細胞膜やホルモンの元になる重要な物質である
・コレステロールの利用量が減れば余ったコレステロールが増える
・ストレス等によって活性酸素が増えると、細胞等がこわれる
 抗酸化物質であるコレステロールを増やして修復をする
・血行をよくし、野菜を多くとる…高血圧改善と同じような食事が良い

といった感じであった

コレステロールが使われるようにすること
コレステロールを増やす必要がないようにすること
ということであろうか
ストレスを増やさない事と血行をよくすること という事でいいのかな?

よくかかれている、肉や卵をたべるな、とか酒を呑むなというのは
直接的原因ではないようである

たしかに、体調不良とストレスもあり、
過食と飲みすぎの傾向であったし、運動不足でもあった
過食といっても、全体的な食事量は多くは無い
日によって食べ過ぎてしまう というだけだが、数日続けば太るんだから
カロリーOverなんだろう…正月太りはまだ改善しないしw


結局、身体にとってやれることは、
・ストレスをためないことと
・運動などで血行をよくすること
・飲みすぎない、食べ過ぎないこと
・野菜を増やすこと
というところであろう

ストレスは…まぁどうしようもないので、酸化状態が続かないように
自律神経のバランスを整えられるような生活をこころがける
運動も適度に体温があがり、脈がかるくふえるようなレベルで…
飲みに行く頻度は減らし、家では適量を守り、休肝日もつくる
野菜は…家内にまかせるしかないw

というところでしばらくやってみて、再検査をうけるとしよう
何年も脂質異常をつづけているのだから、生活習慣を再検討し
身体の声をききつつ健康なバランスを見つけたいものだと思う

2011年1月12日水曜日

さっそくのコメントに感謝と反省

「コメント設定変更」をしたところ、
早速、コメントを頂きました
全休先生のブログにリンクのある
「これでいいのかな?」のkirinn様でした!

全休先生の所で何度かコメントをお見かけしてますので、
きっと以前にもコメントを書こうとしていただけたのでは…
と思うと、申し訳ないです

・・・ 疑う前に自分をもっと見ろという事ですね すいません…


と、いうことで、 kirinn 様、ありがとうございます!!
慧海も kirinn 様のブログにはおじゃまさせていただいております
このコメントもそちらにと思いましたが…
恥ずかしいので自分の所に書きました


また、いつもリアクション入れてくれる方 
ありがとうございます

やっと普通にコメント入れられますので、
お気の向かれた時にでも、なにか頂ければと思います
よろしくお願いいたします


このブログでは慧海にメールも送れないんですよね
メアドそのままは、やはりSPAM等が怖くて出せません
とりあえず、ここらへんにわかりにくく書いておくことにしましょう

ユーザ名: ekai.syaku
(”.”要ります)
サイト名: gmail.com


これでわかりますかね?
ネットへの疑いの心がまだまだ捨てられない慧海で申し訳ない
メールしたけどうまく行かなかった方はコメントに書いてください

様々な方とのご縁に
南無阿弥陀仏

コメント設定変更

やっぱりコメントが入らないようなので、
確認画像の表示を止めました

荒らすような方がくるほど広く知れ渡っている訳じゃないので、
なんのチェックもしてないですが、多分大丈夫でしょう

自動のスパムチェックはかかってますし、不適切な内容であれば削除はいたします


今までコメントをいれてみようと思って頂いた方 失礼しました

今後ともよろしくお願いいたします

2011年1月10日月曜日

今年の法語カレンダRetry

先日、法語カレンダーの言葉がわからない
という記事を書いた

その後、親会社の飲み仲間M氏に
英語訳をいれるだけで終わりにするんじゃなく、
ちゃんと慧海の見解をいれてくれなきゃ と言われた

全休先生や亭主師の先に進みすぎていて、今苦悩している世代には
慧海の苦悩の記事がちょうど等身大なのだ というご評価を頂いた
なので、いい事書こうとかしないでいいよ ともw
実にありがたいことだ

つ~こって、
「聞思して遅慮することなかれ」
に再度挑戦

この言葉をわからなくするのは
聞思
遅慮
の言葉がよくわからないからだろう

とはいいながら、聞思は意外と簡単だったりする
聞くとは、しっかり聞く という意味と、
聞法の聞くであり、身をもって聞くということだろう
で、「思」だが、これが「思い」なのか「思考」なのかに戸惑った
英語をみると、reflect on とあるので、熟考する、反省するという
意味での「思」である事がわかる
そうすると、しっかり聞いて考えなさい という意味と
自分の声を聞き反省しなさい という意味がみえてくる
どちらかが正解ではなく、たぶんこれらは1つのこと

数学の公式を聞いて問題の答えを考えるのとはちがう
仏法=真理を聞いて、わが身に問い、考え、反省(懺悔)するのだろう

次に遅慮だが… 遅れる おもんばかる こと
英語の部分をみると、let there no wavering or apprehension とあるので
ためらい や 不安 をなくそう というところだろうか

じゃ、ためらいや不安に思い悩んでもたもたすんな

ってところだろうか

となると、慧海的解釈で「聞思して遅慮することなかれ」
を訳すと、「自己観察をして、妄想にのまれるな」ってことだ


「遠く宿縁を慶べ」
はカレンダーの説明に書いてあった
今あるのは、過去からの様々な因縁のおかげである
ということだ
慧海的解釈で訳すと「皆さんのおかげだ、ありがとう」ってことだ


つ~こって、慧海の理解の仕方でかいてみた

風情もありがたみもない言葉になってしまった

2011年1月9日日曜日

門徒講座序

今日は、今年1年お寺で行う月1回講座の説明があった
日曜の14時~16時なんで、出てみる事にした

見事にお爺さんお婆さんしかいなかった
今回は婦人会の会合の日だったらしく
そのまま講座にも出席とのことで、お婆さん率が高い
10人ほどで、男性が3人…もちろん2名はお爺さん
90過ぎのお婆さんもいらっしゃるので、お爺さんが若く見えるw

次回からは婦人会を講座の日にあわせるとのことらしいので
だれもいない講座にはならないだろう

今回は序として、来月から何をするか という話を中心に
約2時間ほど住職の話をきいてきた

また、質問はないか ということで振られたので
カレンダーにある「聞思して遅慮することなかれ」が難しくてわからん
ときいたんだが… 住職の宿題となってしまったw

とうぜん皆さんの家にもこのカレンダーがあるのだが、
ここにある言葉が何をいっているのか ということを考えた事もない
という事をおっしゃっていた
法語にちなんだ法話本があるのだが、それをみておしまい だそうだ

そのような方々なので、カレンダーの質問に対する答えを住職が
本当にわからないのか、わからない人にも説明できるような
言葉がわからなかったのかはわからない
でも、あまり深い質問はしちゃいけないのかもしれない
質問するなら、講座終了後にした方がよいのかな??

信心が大事って勤行集にあるけど、どうすりゃいいの? っていう
質問とかもしてみたかったんだけど…

慧海の質問の答えをもらう事よりも、そういった話をききながら
慧海自身の煩悩の様がよくみえるのでそれを観察しながら
その場にいることが面白く感じた

質問の中に、西と東の違い というのがあった
一番大きいのは、西は往生成仏?中心、東は現生不退中心 と言ってました
東は、清沢満之、曽我量深、安田理深等といった大先生方の影響もあってか
理屈っぽいと西に言われるらしいが、慧海にとっては、東でよかったと思う

アプローチの違いでしかないんだとは思うんだけどね…

2011年1月8日土曜日

遭いがたくして…遭えません

全休先生のブログ 2011/01/05 「仏さまがわたしを発見する」に
しかし、私は、任せることに異常な不安を感じ、それは、ほとんど不可能に思えた。
いや、なにより、その眼は私の心の中の“つくりもの”にすぎないのではないか、という疑心が離れなかった。
という言葉があった

全休先生にもこういう時代があったのだなぁ なんて思えるありがたい一文だ
「会員からのお便り」は全休先生が僕の歳の頃に書かれたものであり、宗教体験まもない頃の先生なので、とても勉強になる。ありがたいことだ


実際、慧海においては、疑心どころじゃなく つくりものだ、錯覚だ 
と思い込んでいるところがある
まさに、「任せるなんて不可能だ」というところに留まっている感じだ


残念な事に、自分の愚かさばかり見えてはくるものの
慈悲をむけられている存在だと感じることはないし、
彼岸に渡りきる事もできない

来月の法語カレンダーには
「遭いがたくして、いま遭うことを得たり」とあるが、
慧海はあの方にお会いすることができないし、あちらに逝くこともできない

慧海に出来る事は、愚者を極めていくしかないだろうと思う

2011年1月4日火曜日

一人称慧海

最近はブログでの一人称に「慧海」を使っている

自我の叫びを表現するときだけ「俺」だったり、一般的な自己を表現するのに
「自分」をつかったりはしているが、私や僕の意味では「慧海」だ

仕事でも、この文体で経験や主観に基づく文章を書いていると
つい「慧海」という一人称を使いそうになってしまうときがあるw

一人称を慧海にしたのは、ただの思いつきではあるのだが、
そもそもこの名前は、リアルで生活する僕ではなく、
佛弟子として帰依した仏教徒としての、ある意味誓いのような名前だ

飛躍した表現でいえば、将来佛になるとすれば、それは僕ではなく慧海である
とすると慧海は修行中の菩薩の名前ということになる… 言いすぎだなw

とにかく、僕と慧海は同じであって同じではない

実際に慧海として文書をかいていると、意外と客観に立ちやすい
三人称の文書を書いているかのような感じだ

俺はどうしたいのか ではなく 慧海はどうしたいのか

なのだ
これだと、自分の煩悩を自分のものではないように見ることができるのだ

慧海は慧海であって慧海ではないのだよ なんて思うw


こんな風に、ブログで慧海は、慧海は と書いていた為か、
ふとした瞬間に、頭に

慧海…それでいいのか?

と問われてみたり、もっとシンプルに

慧海!!

と呼ぶような言葉が湧き上がる事がある
だれに問われているんだ?誰に呼ばれているんだ?
とちょっと不思議におもったりする

ふとした瞬間 ということだと、
とつぜん 「な~んま~んだ~ぶぅ~~」
と鼻歌のように念仏が口からでることがある

ちなみに、この念仏の節は勤行の時の節ではない
法事か葬式の時にきいた住職が称える念仏の節な気がするが…わからない

住職の念仏というと、法要の最後に住職が小声で称える
「なまんだぶなまんだぶなまんだぶなまんだぶ
 なまんだぶなまんだぶなまんだぶなまんだぶ」
というのもなぜか耳に残っている
多分10回いってるんじゃないかと思うが8回程度のリズムで耳に残っている
その8回のリズムでふとした瞬間に慧海は念仏を口にする事もある
祖母が称えていた念仏が8回+2回だったからかもしれない

慧海の名を呼んだり、問われたり、念仏を口ずさんだりするのは
どれも自力ではないなぁ なんて思うこともある

他力がわからんから、よくわからんけどねw

2011年1月3日月曜日

今年の法語カレンダー

法語カレンダー2011をお寺から頂いて、新年ということでかけてみた
今年の法語は教行信証からの言葉らしいが、難しい言葉ばかりだ
カレンダーと一緒にもらった法語にあわせた法話本をみても、
どうもしっくりこない

ということで、法語の下にかいてあった英語をみたら何かわかるかも
と思って、翻訳サイトで訳してみた


表紙の言葉
「遠く宿縁を慶べ」

英語文:
You should come to realize this Nembutsu practice and the true entrusting to Amida, and rejoice the conditions from the distant past that have brought it about.

翻訳:
あなたはこのNembutsu習慣と本当のゆだねることが阿弥陀にわかって、大昔からのそれを引き起こした状態を歓喜するようになるべきです。(エキサイト)

このNembutsu実行およびAmidaへの真実に託することを実現し、かつそれを引き起こした大昔からの条件を喜ばせるようになるべきです。(livedoor)

あなたは、阿弥陀するには、この念仏の練習、真の委託を実現するために来てください、約それを持ってきた遠い過去から条件を喜んでいます。(Google)

あなたはこの念仏実行とアミダに本当に委託することを理解するためにならなければなりません、そして、それをもたらした遠い過去から状況を喜ばせます。(Yahoo)

イマイチわかりませんw

で、1月
「聞思して遅慮することなかれ」

英語文:
Hear and reflect on the truth that you are grasped, never to be abandoned by Amida; let there be no wavering or apprehension.

翻訳文:
握られても、阿弥陀によって決して捨てられないという真実を聞いて、よく考えてください。 揺れ動きも憂慮もするのをやめよう、そうしましょう。(エキサイト)

聞いて、理解されるがAmidaによって遺棄されない、と真実上で考えてください;揺れることあるいは理解がそこにさせられません。(livedoor)

聞いて、あなたは決して阿弥陀から見捨てられることに把握されていること真実を反映している。そこには揺れるか懸念されることができます。(Google)

アミダによって決して捨てられないために、聞いて、あなたがつかまれるという事実を考えてください;揺れることまたは不安でないことをそこで放してください。。(Yahoo)

やっぱりわかりにくい

英語文は日本語よりも、補足が含んでいる感じではあるが、それをわかりやすく訳す機能はないようだ… 別の翻訳システムなら良いものがあるのかもしれないが…

言葉の意味だけをみてもしょうがないのだから、ま、いいか
なんとなくみて、なんとなく考えて、聞法しよう


今年は真宗ではイベント年
うちのお寺でも、毎月勉強会だかをやるとのこと
説明会が来週の9日だそうで、お寺にお参りに行ったときに参加を勧められた
とりあえず聞法ってことで、参加してみようかね~

2011年1月2日日曜日

正月太り・・・

年末から毎晩飲んで、正月開ければ昼間から飲み食い…

慧海の家では、1日は慧海の両親と慧海の妻の母が慧海宅にきて
おせちを食べて宴会である
2日は慧海の兄弟親戚があつまって実家で宴会である

飲んで食べて、酔って寝る…
当然だが・・・太る…

ドックの結果と比較して、4~5kgほど増えている…


そんな、正月休みももう終わる
年末は大掃除と買い物、正月は宴会
それで正月休みは終わるのだ

いつもの事だが、あわただしい休みだ

で、数日仕事をすれば、成人の日の連休だ
連休は、ゆっくりとしつつ、食べ過ぎないようにしたいものだ


あ…生活リズムがくずれてしまったので、
まずは、今日、夜更かしすることをやめて、
明日は普通に・・・おきれるかなぁw

2011年1月1日土曜日

本年も宜しくお願い致します

あけましておめでとうございます

ちなみにこのブログは予約機能で自動うpです

アップ時間には友人と地元の神社&寺(真言宗)に初詣

紅白で水樹奈々を見れば、今年のイベントもおしまいwww
後はいつもどおりネットにつなげるだけってことで、仕込んでおきましたw


初詣っていっても今となっては、どこの何様だろうが 南無阿弥陀仏
 と手を合わせてしまう慧海なんですけどね~~~

昔のように初詣に特別な思いはなくなったのは仏教徒、真宗門徒としての
考えに染まったからでしょうね…

神も仏も幽霊も、慧海には関係ないのですよ…


そんな感じで

本年もよろしくお願いいたします

南無阿弥陀仏