2011年5月29日日曜日

数年ぶりの二次元話

慧海のプロフィールに趣味:二次元と書いてある
二次元…アニメ、漫画の類のことだ
しかしながら、このブログで二次元話を書いていなかった
旧ブログの初めの頃には書いていたのだが、
特に書くことがなくなってきたので書かなくなった

虎&兎の4話の青薔薇が良かったとか
U-子もそうだが、ブキミンの声がいいとか…
・・・特にブログに書いておく事でもないよなぁw


ってこって、アニメの感想って訳でもないが、
落語だって佛教説法があるってんだから、
アニメみてて説法ぽいもの感じたところを書いてみたくなった


1つめは、よんでますよ、アザゼルさん。だ
5話に以下のようなナレーションシーンがある
天使の使命とは人間界に正義と秩序をもたらす事である。
しかし、彼らは救わない。
病を救わない。
餓えを、貧困を救わない。
大きな戦争も、小さないさかいさえも、彼らは救わない。
なにより均衡を重んじる彼らはそれが人の世界の理で起きた出来事であるかぎり一切を傍観する。

しかし、異界よりその均衡をやぶるものが現れれた時、天使は静かなる監視者から調停者へと姿を変える。
その真っ直ぐな正義を執行するために・・・
天使と悪魔、正義と悪、これは創世記より続いてきた終わる事のない戦いである。
5,6話で悪魔使いの主人公が困っている人を助ける?が、
天使は愚痴っているだけ というシーンを描いている

この天使というものが聖書とか、その手のモノにあるような話なのか
作品上の設定なのかは知らない
普通にみれば、天使ひでぇ みたいな雰囲気で終わる

だが、心の問題としてこのナレをみると、前半部分は納得できる気がする
後半の悪魔ってのをどう取るかはあるが、心の中の邪見、欲望に打ち勝てと
いうような事をいっている って聞こえないだろうかw


2つめは、[C]の7話 だ
死にかけている妹が兄に話す台詞
兄さんは今日の次は当たり前のように明日がくるって思っているでしょ?
今週の次は来週、今月の次は来月、今年の次は来年
私にはそれがないの
今日眠ったら明日は目覚めないかもしれない
今しか・・・今この瞬間がすべてなの
兄さんには理解できないでしょうけど…とこの後に続く
普通にみれば、明日をも知れぬ命という病気の人ならそうかも
っていうシーンだと思う

でも、この台詞は病人かどうかは関係ないんだと思うのだよ
誰もが、今この瞬間がすべてなはずなのだ
頭の中に引きこもって、妄想の世界を展開して、明日とかを作り出す

過去も未来も頭の中にしかない
今を認識しながらいきていよう・・・

そういう風に考えて生きていると…
 兄さんには理解できないでしょうけど… って状況になるのが困るw


ちなみに、春にずれ込んだ冬の「まどかマギカ」ネタがあったが、
これはあえて触れないことにしておこう
同じ趣味をもつ人なら、まぁ見ろ と いうことでw

2011年5月28日土曜日

設定異常だった

慧海はFirefoxを使用している
先週末に何をしたのかはわからないが、
自分のブログが正しく表示されない状態にあった
ログインできないので、投稿とかもできない

で、今しがた設定を保存しなおして、やっと直った



先週は仕事して、自社の人と呑みにいって… 色々と頭が動いていた

会社の先輩は、やりたいことをもっとやれ と
会社の後輩は、最近はつまんないっす 昔みたいに暗躍してよ と

他に自社の人と話した感じでは、なんか今の自社はイマイチな状態らしい
出向しているからといって、自社の事は人事総務系の時にお世話になる位
しかかかわらずに数年がたったが、その間に合併やら幹部交代やら
で、ずいぶんと社員の元気がない会社になっていた

慧海に何かができたりはしない
慧海のやりたいことは特にない
でも、後輩が「やりたいけど出来ない」と言う事ができたりする
後輩の期待している結果が得られるかはわからんが、
それでも、後輩のモチベーションとやらがあがるなら
手伝ってみるのもいいかな・・・



でんこちゃんの会社に限らず、今の日本企業って大体あんな感じかねぇ?

社会が病んでる とか言うんだろうかね

決して震災の影響ではないと思う
その前から何かが破綻していた日本国が、今回の震災で露呈した
そんな感じがする

運用方法・業務フローがおかしくなってしまっていては
ソフトの不具合や設定を直せばよい とはいかないのだよ

2011年5月23日月曜日

あれもこれも宿業ってこと?

先週あたりから質問をうけることが増えた

まったく別の案件で別の人から同じ問題についての質問
だったりする事がなぜか多い

1件目の時に軽くしかしらべなかった場合に来るのだから面白いものだ

公に質問受付をしている訳でもないし、勉強会の講師をした訳でもない
質問対象の案件で活躍もしてないし、目だった行動もしてないはず
なのに、どこからともなく質問がまわってくる

部署の役割でもあるから問題はないのだが、
名前が出たとかで、メールや内線がくる事もある


ホント、慧海の思いとは関係のないところで、色々あるものだよ

昨日のブログも…今朝みたら、全休先生とかぶってた
一応書いておくが、パクリじゃないよw

佛教記事を書けている時は、なんどか先生方の記事とかぶることがあった
そういう時は大抵先生方の記事を読む前に自分の記事を書いていて
その後先生方の記事をみる・・・そして、あちゃ~ と思う

まぁ慧海の駄文で表現したかったことが、先生方のスマートな文章と
同じような事を表現したかったとは、誰も思いやしないだろうw


佛教にああすればよかった、こうすればよかったは無いんだ

ネタがかぶるのも、質問がダブるのも、知らないところで指名があるのも
宿業ってこった

それぞれの歯車がそれぞれで動いた結果、こうなったに過ぎないんだろうさ

慧海にかかる縁起の式がそれぞれの人にかかる式の結果に左右されていく
ホント、慧海も全体の中の係数だか変数だかの一つにすぎないのだなぁ

2011年5月22日日曜日

元気になると…

無責任を意識してみた一週間
予想以上に楽だった

他にも理由はあるのだろうが、
気になっていつつも、ほっぽりだしてしまうとやっぱり楽

楽だと気力がでてくる
そうすると、次にでてくるのは、我執っていうヤツ?

そんな拗ねた生き方でいいのか?
もっと自分を輝かせる生活を送らなくていいのか?
俺にしかできないことして、日々をもっと充実させようぜ!

こんな、もっと自力万歳で行こうよみたいな言葉が頭にでてくる

こんな頭の中での戦いが過去にもあった それこそ、なんども
これをスルーしてきた時もあれば、呑まれたときもある
そんな生活が耐えられないだろ ってスルーできてれば良いが
呑まれれば、自分の期待通りにすすまない事で苦しむのだ

元気になってきた分、エネルギー的なものが余ってきてるのかもしれない
体力の方ではなく、頭の方で・・・

先週は帰宅時の散歩を毎日続けられたから体力的な余りはないっぽい
終末に積極的に活動しよう という気にもなっていない
一ヶ月以上手をつけられなかったマンガをよめた位には元気

その分終末に頭の方のエネルギーがあまってしまった感じ
まぁ完結するマンガを一気読みしたから、映画をみて、
主人公のような生き方にあこがれちゃうのと同じ現象だろう
そこに、現状の仕事に対するものとが重なって、頭が考え出す

今回はマンガだったが、そうじゃないケースも多々ある
その都度、日々が充実してないぞ と頭が騒ぐ
昔はもっと充実した日々だったんじゃないか?と


で、慧海は思うのだよ

これは、身体的な要求からくるんじゃなかろうか
脳みそも身体だからねぇ 適度に運動させないとイカンのでは?

だから無視するようなスルーでもなく、呑まれて何か考えるのでもない
ちゃんと頭をつかれさせるような生活をせにゃいかんのでは?
できれば、達成感・満足感をあたえさせるような、使い方を…

簡単に言えば、ちゃんと集中する ってことなんだろうけど、
気分にまかせてたら、そんなことはできないし、
内観や坐禅とかで達成感がえられるほどの何かもできやしない

時間内にこれこれの作業を終わらせる みたいなものなら、
日常の中に組み込めるだろう
特に作業・仕事がある場合は有効だ
仕事がないと… まぁなんか学習ってことでマニュアルとかみるか
仕事作るっていっても、人巻き込んでやるのは面倒だからね

まぁそんな感じで、行動に頭も集中させる ってことを してみたい

す~ぐ脱線しちゃう頭をどうやって集中させるか
そう考えると、仕事に集中することも内観・坐禅もかわらんのかもね

まず今日は、このブログに頭をつかって余ってたエネルギーを出してみた

2011年5月20日金曜日

GW前あたりから、仕事がはいってきた
1件動き出したら、他のも入りだしてきた

と、いうことで今週・来週は仕事の予定が入っている

先月は暇で暇でしょうがなかった
会社にはいかないといかんし、
でも暇だし…

あまりにも暇だと、自分はそんなにも必要ないのかと がっかりする
まぁ必要ないのだし、忙しくもなりたくないのだが、
同僚はちゃんと仕事してるのに、こんなに長期間サボっててよいのか?
って、暇だからこそ頭がなにか考えたくて、そんな心配をしはじめる

仕事があると、しょうがないので会社にいこう という事になる
会社に行けてれば、まだマシっていう思いがどっかにあるので、ほっとする

会社で仕事がきてもグダグダしてたが、GW休みでゆっくりしたからか
無責任化にいきついて…
ありがたいことに、ブログのアクセス数やリアクション数も先月までより
増えることになった
日に3人とかしかアクセスがないと
仕事と同様、なんだかがっかりする
いい記事がないんだからそりゃそうなんだが…


そのへんの人に話をすれば、バイオリズムが良くなったんだよ
とか言われそうな、そういう雰囲気の流れ

今がそうなら、またどっかで暇な波がくるんだろう

暇すぎても、忙しくても、頭はうるささを増す
ほどよく考え事をしててくれれば、楽でいいのにね

2011年5月18日水曜日

自由なんてないんだねぇ

あっちの世界からこっちの世界にきて仕事して、またあっちに帰る
ゲームや小説にでてくる悪魔やら精霊やらのようだな

死者的などうでもよさを堪能しつつ、こんなことを思った

契約で仕事して、仕事が終わると帰る
使役された結果は、大抵責任をとらない
結果がわるかったのは依頼の仕方がわるかった なんてオチもある

慧海も使役されているにすぎないのだ
そして好き勝手できないようにいろんな呪縛をうけてもいる

呪縛と使役

そんな世界でも苦しくなくいきる
あっちの世界の住人だからかもしれない


西洋の宗教は奴隷解放的な自由をもとめてたりするらしいが、
どこに自由があるのだろう
どこにいても自分がなにをするのかは周りきめてるじゃん

自分で決めろと周りがきめる
決めろと言った人の期待する答えをw

どこに自由があったんだい?
どこに自由をもとめる必要があったんだい?

すべてはなるようにしかならんのだねぇ

2011年5月16日月曜日

まずはやってみた

無責任な1日を送ってみた

嫌な感じがでても 「死人だしどうでもいいや」
うまくいって気分よくても 「死人だしどうでもいいや」

そんな感じで、なんかいいのか? って思うけど楽ではあった
ただただ都合の良いように逃げてるだけじゃないのか?
佛教ですらなくなってる気がするがいいのか?
「死人だしどうでもいいや」w

正しくない道なら、きっとまた苦しむだけだろうよw
建前上はおまかせってことでwww

2011年5月15日日曜日

無いものを捨てる

昨日、「捨てる」と書いてみた
意識じゃ捨てるつもりだった

よくよく考えてみたら、自分で抱え込んだものを手放すだけの話だった

元々もってないんだから捨てる何もないのだろうが
抱え込んじゃったり、大事に依存しちゃってるんだから
やっぱり捨てる意識がないと手放せない

寿命がくれば、全部娑婆においていくものなんだから、
「死にたい」って思う慧海なんだから、
気分だけでも全部おいて死者の国に行こうじゃないか

ゾンビのように、ヴァンパイアのように
死にながら生きる


明日から5日間の通常社会生活の再開だ
さて、無いものを拾わずに生活できるだろうか…
会社員という役割を演ずるだけになれるだろうか…

せめて、一日の終わりには死者の世界にかえりたいなぁ
ぜ~んぶ捨ててさw

無責任の覚悟

ふと思った

ぜ~んぶ、どうでもいいや

どうする事もできやしないんだよ
責任なんてとれないし、努力だってできやしない

じゃ、無責任になりきって阿弥陀様とやらにお任せでいいじゃん

無責任にぜ~んぶほっぽりだして、成るに任せりゃいいじゃん
それでどんな結果になろうと、捨てたんだからしょうがないよ

損するかもしれない。
怒られるかもしれない。
侮蔑されるかもしれない。

どれも自分の思いの問題なんじゃね?
なら全部すてちゃって、プライドも捨てちゃってりゃ
どうなったってかまわないいんじゃね?

そっちの方が楽に生きられるかもしれないな

亭主師の記事に「右の道か、左の道か…
どっちを選ぶかに悩まず、その思いから離れる」
というのがあったが、それができない凡夫以下は
普通に悩んで、右でも左でもその時いいと思ったのを選べばいいよ
結果が悪けりゃ、失敗したとか思うだろうけど、しょうがないじゃん

苦しみから離れる訓練ができないんだからさ


と、頭で思っていても、損したくないし、怒られたくない
全休先生も書いているが、社会生活は自己の責任を問われるのが当然なのだ
犯罪を犯せば警察のお世話になるわけだし、仕事ミスれば雇用と賃金に影響する

だから納得できないし、実践もできない
結局、どうどうめぐり…

感情とお勘定は別
感情は無責任にしても、お勘定には責任をもってあたらねばならない
慧海の世界の中の問題か外の問題か、その境がちゃんと見えていれば
いいのかねぇ…

全部に責任をもって行動しよう ってのが今までなら
逆に全部無責任で行動しつつ、境を知るしかないのかねぇ?

もう一度最初から色々とやってみようと思ったけど、できやしなかった
なら全部すてちゃうほうがまだ出来そうなきがする
救いがあるかどうかなんてしらんよ
でもこの議題で悩むのに疲れた・飽きた

既にキチガイなんだから、また病になるかもしれない
また会社いけなくなるかもしれない
今度は給与半額もでないだろう
そしたら妻子も家もなくなるかもしれない
しょうがないさ
キチガイだから

病気に勝とうとすることもやめよう
最低限の社会良俗を守って、会社勤めしてお給料頂いて…

やれることをやろう
やりたいと思った事をやろう
やりたくなくてもとりあえずやろう

死ぬまで生きていよう
死んだ気分で生きていよう
努力とかしないで流されて生きていよう


それでいいじゃん

最低限やることやってりゃ、普通に生きていけるだろ

この世を捨ててりゃ、地震だろうが原発汚染だろうがどうでもいいや

2011年5月12日木曜日

はじめてメール頂きました

全休先生や亭主師以外から、初めて佛教話題のメールを頂きました
コメントで入れようと思ったら、入らなかったとのことで… すいません
テストしてみましたが、「コメントの記入者」というところで「匿名」
とかを選択していただければ、問題なくできるかと・・・


メール内容はコメントに…とは書いてありましたが、
載せてよいのかよくわからないので、載せまないでおきました

初めてなので、お返事もどうしてよいのかわかりません

議論・問答ができる知識もないので、
ただ慧海自身の嘆きをお送りしました


やっぱり、メールとかコメントをいただけるとうれしいものですねw

2011年5月9日月曜日

ちゃんと実践したいのだが・・・

全休先生の 5/9「自分の内容が浮き彫りに」に下記の言葉があった
自分の心をただ観察するだけでよい。観察するだけでよいが、これがなかなかできそうでできない。わたしがわたしの心を見るのではなくて、仏さまに見ていただくように念仏する。

今更だが、やはり「仏さまに見ていただくように」ができない
・・・いや、言葉の意味すら理解していないのだろう。具体的な姿に落とせない・・・
言葉のイメージであれこれしてみたが…これが自力なんだろうかねぇ…ダメな感じだった

もっと禅の言葉もよみつつ、実践してみるかなぁ
自力の壁に向かって ね
この記事の坐禅の表現と念仏の表現は同じに見えるし…ねぇ


ついでに・・・

全休先生の 5/8「理想と現実」の表現が面白いと思う

聖道門の中での浄土門の異端感が想像できそうだ
貴族階級に多かった聖道門と、農民・庶民に広がった浄土門
努力と根性の聖道門と、お蔭様の浄土門

現役の頃は理想を実現しようと激しく努力されていた方が、
定年を迎えるころになると、ゆったりした雰囲気に変わっている事があります
戦うのではなく受け入れて行く・・・ そんな言葉を話されたりします
自力の限界というものを実感した方は、他力を感じ始めるのでしょうかね?

生な全休先生を感じられる「ひぐらしの記」記事が実にありがたい慧海です

2011年5月8日日曜日

門徒講座4

今日は、門徒講座の4回目
日本仏教の話をする予定だったのだが、
釈尊の話のまとめとして涅槃経の話だった

ちなみに、5/8は慧海の結婚記念日
そんな日でもお寺にいく慧海になろうとは…w

門徒講座の内容は、特に記す事もない かな
お婆さん方は笑いながら楽しいお話なので、毎月参加できると喜んでいた
難しい話じゃ足が遠のくと…
まぁ楽しくお話をおききしてきました
今回、住職は「私は信心など知らない」と言い切った
そのままの私を阿弥陀様が救ってくれるんだと…そう書いてあるから とw

今回の出席はお婆さんが10人と慧海と得度したお爺さんの12名
お花祭りで話をきいたという門徒さんが今回初参加されていた
次回は何名になりますかね~w


慧海としては、既に救われた方のお話をお聞きしたいのだがなぁ
現世不退を感じている方に…

2011年5月7日土曜日

慧海にやれること

安心がないから、本とか読んで答えを探そうとか思った
何をしたらいいかが書いてある本を探そうとか思った

書いてあることは、別の本で読んで知っている事か、
体験が追いつかないので理解できないことのどちらかだった
そして本たちは言う

答えはここにない と
答えを知りたければ、慧海が答えに行き着くこと

じゃ、どうすんだ?
全休先生と亭主師から教わった事があるべ

それができないんじゃないかさ
・・・できないんじゃなくて、逃げてるだけなのかな・・・
  楽な方にと思いながら、実は楽じゃない方向に・・・

仏に頭が下がらない空念仏
思いを見ているだけも続けられない

慧海ダメじゃん。既に失敗してるじゃん。
俗世にしかいられないけど、価値感は共有できないキチガイ…

言葉で考え、グルグルと… 

それを見る内観の念仏…
醜い自分をみせていく智慧の念仏・・・
中途半端にみてきたそれで、泥水に慣れたら空念仏

苦しいか と問うてみれば、苦しい と答えられる
本当に苦しいか と重ねて問うてみると、それほどでも と答える
苦しさが軽くなる術だけ知ってしまったから…

見事に頭でっかちになってしまった
さて、どうするか…

勉強した知識はおいておいて、
もう一度、初心に戻ってグチャグチャしてみるしかないかな?

2011年5月5日木曜日

寝瞑想とかでウダウダやってみた

2日は休みをとったので、久々に一週間ゆっくりできた

藤をみにいったり、部屋を初夏仕様にしたり
壊れたマッサージチェアを修理したりしつつ
憂鬱さをじっとかんじてみる余裕がもてた

主観でみれば、あれやこれやとありはするが、
どれもこれもなるようになっていた
そこに、ああしたかった、こうしたかったと
主観をまじえるところに苦しさがある


自分の評価とか、立場とか、目標とか そういうものを
気にしだすと、慧海は必ず苦しくなる
昔は期末と期初の面談の時だけだったが、
近年は期初、期中、期末に面談、日々目標の充足はどうかと言われ
会社にとって、慧海の価値はなにか と問われる
入社したころは、それほどうるさくなかった
うるさく言い出してからも、大きな案件メンバーになってると、
細かいことは無視して案件対応で一杯だといいはってもいられた
仕事がなくなると…なにかしなきゃならなくなる…
…復職直後は、評価なんてあってないようなものだと知っていた
もうそろそろ…ってことになると、評価がでてくる

困っている人の手助けとかしていられればいいのになぁ なんて思う
が、そんなのは、サラリーマンとしては認められないのだそうだ

で、思い通りに物事をすすめようとか考えて、アクセクして…
思い通りにいかなくて苦しくなる
苦しさが続くと、病気に逃げる
頭が、体がそれが楽だと知ってしまっているから…
今回の異常がひどく出る前に頭の中がそっちに逃げようとしていたのを知っている
いろんな思考を全部みていた

で、ああなった

まわりの人の色々なかかわりと変化も見えていた
その先につづく今も理解できる
そこに不満をもつ必要などないはずなのだ…

なるようになっている…
宿業なんだろうなぁ…


日々の社会生活と、仏教的生活を統合できないでいる
日々に偏れば、苦しくなる
仏教的になれば、普通の社会人との会話ができない
ほどよく というのがあるのだろうか?
突き抜けてしまえば、問題ないのだろうか?

そのあたりはよくわからんが、この休みで気づいたことがある

慧海はそれなりにPCを思い通りに操れる
それはそれなりな知識と経験があるからだ と思っていた
ふと考えると、慧海がPCを操っているのではなく、
慧海はPCに操られているんではないだろうか?
慧海はPCが期待通りに動かない事をしっているのだ
それでもPCがなければ目的を達成することができない
だからPCが期待する操作を慧海は行っている
目的を達成させる為に、受身でいる
目的に合わない事でも…たとえばエラーとかでも…それなりに処理する

人も会社も思い通りにならない事はしっているのに
人や会社の期待する行動を慧海は行っているのだろうか?
使われるだけで損しそうだし…
評価と関係ない仕事が増えても困るし…
期初と期末で差がでると怒られるし…

目先の主観にとらわれる姿がすぐ出てくる…

上司やら会社やらの期待する行動がとれていたとすれば、
それが上にどうみえるかは、想像できるじゃないかw

自分の目を暗くして世界のゆがみを増やしてばかりいないで
個我が小さくなるような生活を社会で実践してみるしかないではないかさ

内観療法の元は真宗のある宗派の奥義
それを行い、また、期待できる社員にも行ってもらって
懺悔の生活を送りながら、会社を大きくした人もいるというのだから
たとえ悟りをえていなくても、仏教的生活と社会生活の両立はできるはず

むしろ慧海は仏教的生活が緩むことで、社会生活もおかしくなっている


慧海には自力が足りない
限界前に逃げる慧海だから、自力が尽きることがない
どうやらそういうことだと気づいた

十九願からでも二十願からでもいい
浄土にうまれさせてもらおうじゃないかさ
そこにいかなきゃ始まらないんだからさ

正解なんてしらんから、真宗が難しければ禅でも何でもやってみんべ
やれることしかできんのだから…