2011年6月26日日曜日

永代経法要

先週19日の話だが、永代経法要があった

義理のお母さんもつれて、永代経法要初参加
まぁ、普通にお経と法話があった

法話は・・・人気の方らしいが、慧海はあまり好きではなかった
なんかこう・・・道徳的な雰囲気と独善的な雰囲気が、
法話をきいている感じがしなかった
ちゃんと大事な事いっているんだけど、そこがぼやけてしまう感じ

でも、他の方々には好評だったようだ
そういうものなのか・・・


法要の後で飲みに行こうと言われていたので、
確認をしてみたら、片付けした後に行こう と言われた
外で待ってます というのもなんなので、後片付けの手伝いをした
ただ手伝っただけだった

片付けがひと段落したあたりで、住職が立派な帯袈裟をもってきた
そこには、「世話方」の文字と、「得信寺」の名前が・・・

住職が一言

総代さんに若いのどう?って話したら、是非世話方に 
ってことになったんで、次回の報恩講からよろしく

・・・あれ?w

いつか得度とかしたいな って思ってたんで、
ご挨拶して、世話方入りをすることになった

そして、飲み会
門徒講座でご一緒する、半年ほど前に得度したIさんとか住職とか
とあれやこれやと、一般的な社会人の会話とちょっと違う話をしてきた
Iさんからは得度をすすめられた
声明?称名?? を1年以上勉強されている
得度にあたっては必要になるので、教えるよ といわれたw

得度に向けて勉強するのは、子供が中学に入って暇になってからですね

と、とりあえず一歩逃げる発言をし、小学生まではしっかり遊べと
大先輩のIさんに、ご指導を頂いた

得度と、自分の勉強は別
得度したから何かがあるとは思っていない
逆に慧海が何かに気づけたら、得度しようかなとか思う
世間との乖離がひどくなっていくような気がして…

とはいっても、教師資格に興味はないし、法要で袈裟着たい訳でもない
でも、ちゃんと大事な事にきづけたのなら、全休先生や亭主師みたいに
気づいた事を伝えたい

僕の年代、バブルの上司と、ゆとりの部下にはさまれた世代に
自分で自分を苦しめなくなるような…でも自分をみつめるような
そんな言葉を語れればいいなぁ~

まぁ、欲だな

なるようになるだろうよ


あ、そうそう
法話でおもしろく聞いた一言があった

無量寿 ということを 多くの命、全ての命 と訳していた
本に多いのは永遠ともいえる命 となるんだが、慧海はなんかシックリこないでいた

無数の命の佛... 自然って感じがするよね

法話の坊さん、良いこと一杯いってたのに... なんか伝わってなさそうで...
やっぱり、難しいんだろうなぁ

2011年6月18日土曜日

ジェンガは縁?

自分の行動が、全体に影響をあたえて今がある
全体が自分の行動に影響をあたえて今がある
そこに個人の自由などない・・・


ジェンガと言うゲームがある
http://www.takaratomy.co.jp/products/jenga/

プレイヤーが順番に木片を抜いて、上に積んでいって
倒した人が負け というヤツだ

これが、冒頭の言葉をうまく体言している気がする


多くの人は自分が幸せになるために行動をしていると考えている
一つの行動が、世の中にどう影響をあたえ、
自分の行動が誰かのどんな影響をうけているかなんてわからない
一人ひとりは自分とその周りの幸せのために行動をしていると
思っていても、それが誰かにとっての不幸になっている
ジェンガの塔が倒壊するかのように・・・

自分が不幸だと思う時だけ、たまたま運が悪かったとか思うが、
世の中の一つ一つの行動の積み重ねがその結果を生んだとは言えないのだろうか?
だから一人ひとりが良い事をしようとか、そういう事ではない
良いと思っていようが、なかろうが…良いとか悪いとか悩むことすら、
誰か達の行いからくる悩みにすぎないのであり、自由意志とやらで選らんだ行動も
誰か達の影響からくる行動にすぎない

予定調和だとか、運命論だとかの話をしているつもりはない
未来が既に決まっているとは慧海は思っていない
でも、未来は今現在のこの世の全てによって決まって行くのだろうとは思っているし
今は過去のこの世の全て結果として慧海一人の中に作用していると思っている
だから個人の自由なんてものはないのだよ


幸せも不幸せも頭の中の事
運も不運も頭の中の事
自由も束縛も頭の中の事
お金の多少も頭の中の事
そんな頭の中だって自由になっていない

思いを手放そう!って思ったみても、手放せない
自分が手放す為、心を見ることをはじめられるか
という行動ができるかどうかも自由になっていない
信心獲得やらも、自由にはならないのであり、
至心信楽欲生我国 も自由にならない

縁ってやつだな
宿業ってやつだな

こんな事を書いている慧海だが、この文書すら書く縁があって書いている

どこまでも自由なんてないよねぇ~

・・・もちろん、神とやらの話じゃないよ!
慧海は俗にいう神仏GOD達の否定論者だからねw



あれ?これって他力ってこと??
他力って事を頭でわかったってしょうがないって言うけど

他力感と表現してみたい感覚が知覚できはじめたニヒリストな慧海です

2011年6月17日金曜日

バーチャルが中心のリアル?

お金というのは、頭の中のモノであり、概念、情報である

みたいな事を本で読んだことがある
リアルのモノではなく、バーチャルのもの、今で言えば電子的な情報である
ということになるのだろう

お金が好きな人には納得いかない表現かもしれない
硬貨だって紙幣だってあるじゃないか と反論されるかもしれない
でも、それに価値がある と決めているのが、頭の中の事なのだ

価値という事自体が、頭の中の事 であろう

高価な器やら芸術品やら… いやさ、慧海が販売しているものの
価値というものが、人が、人の頭がきめているに過ぎない

慧海のようなサラリーマンは、行動の結果が、
会社が要求する価値あえていえば数値に見合えば
それにあった数値が個人つけられ、個人が持つ数値に
あわせて、お金という数値がもらえる
その数値をだれかに渡して、頭や体が欲するものを得る

そんな感じで、数値やら概念やらのバーチャル情報をやりとりしつつ
リアルの生命活動を続けているのだと思うと、
お金 というものへの妄執はぬけていくような気がする
・・・お金無いと、リアルの生活に影響がでるので、無いよりは有るほうがいいけどね


なんて事をアニメ[C]を見た影響で考えていた…w

2011年6月13日月曜日

ヘッドホンの改造

慧海は安いヘッドホンを買って改造する

audio technica のインナーイヤのヘッドホンを買った時、
その音が好みではなかった

慧海の好きな音は、低音がしっかりして、高音がうるさすぎず
音のこもった感じがないものがすきだ

で、調べていたら、改造情報があった
穴をふさぐというものだ

やってみたら、低音がとても強くなった

そんなaudio technica のヘッドホンが壊れてしまってからは
買ったヘッドホンの音が気に入らないと改造する

大抵は穴をふさぐと低音が強くなる
高音がうるさすぎる場合は、インナーに入る部分にフィルタをつける
フィルタが厚いと音がこもるので、針で穴をあけて調整したりする

まぁある程度納得のいく音までできるようになってきた

最近は500円程度のヘッドホンしか買っていない
きっと1万円とかするようなものは、素でいい音がするのだろうが
そこにそんなにお金はかけられない

肩こりでマッサージするのに、4000円とか払うのに…ね

どこにどれだけお金や時間をかけるか…
そこに執着の度合いが見えるきがする

2011年6月12日日曜日

自信教人信と三願転入

全休先生の記事で自信教人信のキーワードを見た記憶があった
しらべたら5/15の記事だった
で、よくみたら6/5にずばり量深先生の記事で出ていた
その時は、言っている意味がわからずスルーしていた

再度、全休先生の記事を読んでみてやっと何を言っているのかがわかる
意味がわからなかった方、曽我量深先生「自信教人信」を読んでみてください


自信教人信をみると、往相も還相も他力っていう所に行くには、
自力の終わりを見ないとダメだそうだ
全ての自力が他力だったと思える人は、自力の往相の先…
19、20を突き抜けないといかんのだろう

三願転入ってやつだ
全休先生の2011/12/5にでてるやつ

慧海の現状は感覚では先日20願に入った感じがしているので、
19から20に感覚が変わったその感覚でみて、なんか理解できる気がする

全休先生の記事にある
努力が与えられるのは努力できない自分に気づかせるための仏の方便であって、とくに第二十願は、努力を捨てんがために努力するという深刻な矛盾に落ちている自分に気づかせるためのものです。そのようなプロセスを経て、ついには、努力できると驕っていた自我が崩壊し始めるという正しい方向へと導かれていきます。そして、自我崩壊のギリギリのところまで追い詰められてはじめて、まじめに仏の声を聞こうとするのです
という所の矛盾感がよくわかるし、19の努力感とも違う
その辺の矛盾のモヤっと感が、自信教人信を読んでホっとしたのだろう

ついでに、勝手な事をいうと、『建仁元年の親鸞二十九歳の時の「雑行を棄てて本願に帰す」』は、慧海には、19から20に移った感じに見える
住職は、雑業の捨てられない親鸞のつぶやきと捕らえたようだが…w

量深先生の本には、法然の浄土宗では、まだ心不退にまで行かない
処不退から心不退・現世不退は親鸞から という言葉もあった
慧海には来世で佛になる為の専修念仏という感覚が19の努力感に感じる
聖人の三部経を千部読誦しようとして、やめるあたりには18にいるのでは
と感じるが…まぁ信心獲得の無いモノの妄想にすぎない


妄想だが、闇雲に、ある日突然他力が理解できると盲信して、空念仏をしたり
全ては他力なんだと、自分は何もしないでいいのだと、思い込んで
「今」の自分を見ることなく、懺悔することもなく過ごすよりよいと思いたい

聖典を観ながら、仏書を観ながら、自分をみてみたい と思う慧海である

2011年6月7日火曜日

曽我量深先生 自信教人信

お寺で借りてきた、曽我量深先生の選集12巻にある
自信教人信を読んだ

いやぁ~ やっぱ量深先生はすげぇや

わかった気になっただけという気もするが、
二種深信について、モヤっとしてる部分がすっきりしたきがする

と、いうか全体にわたって、ああそうかぁ それでいいのかぁ と思う
本願とは法のこと とか
自信、機の深信は自力、自力の終わりがあって法の深信、他力が始まる
みたいなことが書いてあったり...まぁ とにかくマイッタ

細かくいいだすと、半分以上引用しなきゃいかんので、スマフォからの
入力の今日はやめておくことにして、慧海の感想を一言で...

自灯明


色々とご意見あるかとは思いますが、まぁ慧海の感想なんで...

とにかく、なんかホっとした

2011年6月5日日曜日

誕生日・・・そして、門徒講座

6月3日は誕生日だった
30代最後の歳となった


休職しているとき、誕生日が休日だったので、
家族と、友人と誕生日サービスのあるレストランを梯子して食べまくった
自分の誕生日を子供のように楽しんだ

社会人になって、だんだん誕生日だからと言っても
普通の日とかわらずに過ごすようになったが
休職の時をきっかけに、最近は、誕生日を楽しむようにしている
死にたいと思っていたからこそ、その年の誕生日が大事だったのだろう…


今年は有給をとって、ジムに行って汗を流し、
家族で外食し、誕生日サービスも受けてきた
子供が大きくなると、なかなか使いにくいサービスだから今のうちw

3日間、好きなものをたべまくって、呑んで…
また太ったな・・・


で、今日は門徒講座
日本仏教ということだったが、日本仏教の話は殆どなかった
真宗教団のカレンダー法語の解説が脱線して1時間半ほど
色々と住職の話があった
メインターゲットは婦人会のお婆様方なので、笑いながらやんわりと だ
親鸞が、正信偈の最後に「唯可信斯高僧説」というのは、信じられない親鸞が
あったからの言葉であろう。雑行を捨てて本願に帰する というもの雑行が
すてられないからだろう。 と自説を説かれていた


今回いた男性は3人。そのうち2人は得度済みの人
6回目にもなると、段々顔見知り状態になってきたw

講座の後、得度された方と本の話から始まって、楽しく修行会話を…
その後、住職も交えてちょっと話をし始めたところ、再来週の
永代経法要の後、飲みに行こうと誘われた
人生の大先輩方だが、同じ門徒衆だ。喜んでお供させてもらう事にした

ゲストで法話してくれる方は、飲み会のお時間がとれなさそうだが、
その人は、信心獲得してる人なのかなぁ?

佛教を、真宗を勉強する人は多くいても、
佛教や真宗で救われようとしている人は殆どみない
・・・もっと人にあってみればいいのかねぇ~