2011年12月31日土曜日

今年もお世話になりました

今年も本日で終わりです

ココ最近は、ブログを書頻度が減っているだけでなく
ネットをさまよう事もなくなってしまいました

見るサイトはいつも一緒で、そこだけみて終わり
そんな感じです

日々色々とありますが、なんとなくいきています
無自覚に、快楽と怠惰に呑まれて生活しているからでしょうね

ゲームが楽しい、友人との酒飲みが楽しい
読書が楽しい、声明の練習が楽しい
もちろん、アニメも楽しんでますよw

楽しい事ばかりだけど、なんだかメンドクサイ

毎日がメンドクサイ
生きるのがメンドクサイ
考えるのがメンドクサイ
外界の刺激がメンドクサイ

いろんなことに反応している自分がメンドクサイ

メンドクサイ毎日を、ごまかしながら怠惰に送っているのが
この年末の慧海でした


今年も色々な人にお世話になりました

全休先生、亭主師の記事には毎年のことながらお世話になっています
今年は得信寺住職やお寺のIさん他お寺の皆さんにもお世話になりました
メールやら飲み会やらで多々お世話になっている、
友人同僚のM氏、O氏、S氏、T君

お客さんになっても親しくしてくれるG猫氏
G猫氏のPSPがきっかけで、今年後半は生活サイクルが変わったよw


地震があった
義父が他界した
体調がひどくなった
鬱になる前に経験したような事が多々あった
似たようなことを追体験しつつ、なんとかやりすごせた


こんな感じで少しずつ昔の「普通」にもどっていくのでしょう
きっと、それが元々慧海に掛かっていた縁によるものなんだと思います

慧海が望もうと望まなかろうと、そういう流れになっていくんです
いろんな人のお世話になりながら、生かされていくんだと思います


こんな感じの慧海ですが、来年もよろしくお願いいたします


南無阿弥陀仏

2011年12月10日土曜日

ブログ存続の危機?w

自然のままに苦悩して、苛立って、考えて、ぼ~っとして、煩悩の林に遊んで…
それをただ感じつつ今をすごしつているのが慧海の日常だ

その場その場ではなんか考えたりしているんだが、
その思考をどんどん捨ててっちゃうから、残ってない
「感情とお勘定は別」なので、できるお勘定だけすましてしまうと
感情とそれにまつわる思考はどっかにいってしまう

今まで慧海の苦悩の愚痴を書き続けたブログなのに、
苦悩が保持されていないので、その愚痴がなかなか記事にできないのだ

わからない、どうしたらいいんだ、これでいいのか

昨年まではず~っとそんな事ばかり考え、思考と感覚を色々としてみた
あるところからは、感覚の違いもわからず、それどころか鈍くなる
思考は学んだり気づいた理論が繰り返されるだけだった
色々やって、わからなくなって、にげて、欲に呑まれて苦しんで
で、やっぱりなんかしないとと思考と感覚をいじってみて…

その繰り返しは2年位だろうか…記事をよみかえせばわかるんだがw

そして今年の地震に端を発して、色々おかしくなって…全部捨てた
頭の中で死んだ これも記事にかいた

これが思考として最後にやったことだろう
その後はただ勝手になるようになっていっている
どう勝手になっていったかは記事に書いてない
気が付いたら御任せするだけになっていた

思いつきの言葉でそのあたりの説明を書くこともできるが、
慧海にとっては無意味なんで書いてない

記憶にあるのは、一時期、慧海に見えるものが全部仮のモノにみえていた
どれもこれも、あの世にもっていけるものじゃないなぁ
いつか消えてくものにみえるし、他人と自分も大差なくみえていた

で、今は自然のままにほっぽりっぱなしに生きている
先の記事で、「行けているだろう」と書いたが、実の所よくわからない
でも、先はあっても戻るところがないから「行っちゃった」と思う次第だ
だれかに、お前はマダだ と言われても、そうなんですか 困りましたねぇ
としか思わないし、お前はこっちに来たといわれても、
ああ、やっぱり来ちゃってたんですか どうしましょうとしか思わないだろう

行く事しか考えてなかったんで、行っちゃったらどうしたらいいかは
考えてなかったのだ

慧海にとって、心の観察=聞法=念仏で、常に念仏以外の何も知らん
なので説法もできん
全休先生と、亭主師の記事を読んで、自分の心の声をききなされ
それだけw

まぁ今のまましばらくは日々の出来事を書くだけかな~

このブログは自分の為に書き続ける という方針のブログだからね
あとは、心の観察で見えた、どうでもいい話とか書くかな~

2011年12月4日日曜日

門徒講座11

今回で年内の門徒講座は終了
序を含めて12回だったが、全部出席したことになる

皆勤賞はでなかったけど、法然親鸞展のチケットもらったり
750回忌の記念品もらたりもしたし、真宗聖典ももらった
浄土三部経はしばらく借りた状態でもらったわけではないが…

11回目の門徒講座は、龍樹の2回目
高僧和讃をみながらの説明だった
本日の住職は調子が良かったようで、約2時間ペース良く話しをされていた

この1年、何を学んだという事は殆どかいてこなかった
知識という意味では、細かくは色々としった
・本師の反対語は人師である
・龍樹は釈尊入滅から600年後あたりに生まれた
・正信偈の各章の区分け
なんてあたりだが、一番学んだのは、学ぶ姿勢だろうか

自分の考えと違うものは間違っていると思ってしまうものだが、
その違う考えの中から学んでいくのだということを知ったきがする
どんな人の説でも学ぶ事ができる という事を住職が言っていたか
きっと、違いがあれば、問いとなったり、自分の慢心をみたりと色々だろう

だんだん、自分の論を口にすることもできなくなってくる
なにが良いとか悪いとかわからないのだから、意見をいうのではなく
意見を聞くしかできないのだろう と思うのだ

といいながらも、ついつい自己主張してしまい、反省するのだが…


亭主師の11/30の記事「行けている」にある、自分が行けているのか
と、いうことは慧海はずっときになっていた
行けたらわかる という記事はずっと前からあったが、
ず~っとよくわからなかった
だから誰かに、行けたんだね って言ってもらえればいいと思う所があった
行けてないのに、行けてるフリをしてもわかる と一言にあるのだから
わかっているなら、行けてるとか、まだまだ とか教えてくれればいいのにと

でも、それも言えなくなってくるのかもしれない と最近は思う

今は慧海は行けているのだと思う
上はまだまだあるのだろう ということはあるが、行っちゃったんだと思う
でも、気づいた物事であれば、1、2年前とそんなに変わらない
その頃に誰かに「行けたねぇ」と言われてたら、そこで止まったのかもしれない
きっとそういう事が一杯ある

今の感覚になるまでに、多くの人に世話になり、迷惑をかけた
きっとこれからも世話になり、迷惑をかけるのだろう
他人が救われねば、自分は救われないというのが大乗の思想だというが、
自分が救われねばやはり他人に何かなんてできないと慧海は感じる

慧海は救われて、苦悩がみれるようになった
じゃ、他人を救えるかと言われると・・・慧海は何もできない
そういう世話になった人を救うなんてできないのだ
慧海にできるのは、しっかり苦悩しろと言い、お勧めのサイトを教える位だ
他人を救うのは慧海じゃない、それは、その彼の中の佛の仕事だ
慧海にできるのは、ただ聞くだけ


すこし前から慧海はカウンセリングに興味がある
他人の話をただ聞くということは難しい
カウンセリングという事を勉強して、ただ聞くという技術を勉強してみたい
ちゃんと聞いて、その彼が自分の佛の声をきく時まで応援してみたい

寺に通ったせいか、そんなふうに考えるようになった


今月は18日が年末のお磨きで、忘年会もあるそうだ
その日が最後のお寺さん通いだろうなぁ