2012年11月24日土曜日

自業自得の世界


急いでいる訳ではないが、余裕がある訳でもない
歩行者信号が点滅しはじめた
走るのも嫌だが待つのも嫌だ
走って少しでも早く行くか、それとも次を待つか…

慧海には対象外の事について朝礼で話がある
関係ないじゃないかと不満がでる
慧海は対象外なんですよと他人に言いたくなる
そんな気分に従って、別のことをするか、
全体にあわせて、同じことをするか・・・


ただ何気ない毎日は、選択にあふれている
何かを決め、何かを選択しつづけて過ごしている

いろんな感情や関わりによって、選択しているつもりが、
実はそれしか選べない状況になっているのかもしれない
それでも本人は決めたつもりで選択している

選択した認識がなかろうとも選択しているものも多い
足を一歩前に出す選択
言葉を発する選択、考える選択・・・

あれこれ一々認識して選択してなんて動いていられないから
脳や体がかってに動いてくれる
そうやって、知ってか知らずか、何かを選んでは
その選択の結果が次の状況を生み、次の選択をする

選択しない選択でも、時は進み何か次の選択が必要になる


選択した結果がどうなるかなんてわからない
でも、それは自分が選択した結果。
そうするしかなかったとしても、
だれかの選択の結果によるところが大きかったとしても…

それを自業自得の世界というのだろうか
無限選択地獄とでもいうのだろうか

そんな世界で、正解を求めたら、苦しくていきていけない
でも正解を求めることをやめられない
決断し選択すると煩悩がみえる
より良い結果をえたい、望む結果を得たい、正解を得たいと

そもそも、正誤なんてないのだろう
自分にとって良い結果か悪い結果かを正解不正解というのだろう

ならば、選択した結果をただ受け取っていくしかないのだ
今の自分とむきあいつつ、その状況をただ頂いていくしかないのだ

慧海の煩悩によって選択されたものだったとしても…
そんな風には思う



西を求めてみたら、火と水の河に阻まれ、
渡る道を見つける事ができず立ち止まっていました。
戻ることもできそうにないので、あきらめて、河に飛び込むことにしました。
最初よりも、火も水も勢いがなくなったような気もするので…

火と水の濁流にのまれつつ、なんとか生きていこうかと思います

運がよければ、濁流が彼岸に渡してくれるかもしれません
やっぱり元の岸に上がって西を眺めるかもしれません
しょせん頭で考えている事ですので、妄想とかわらないのでしょう
そんなもんでも、とりあえず、河に入ったつもりです
渡れないと立ち止まっているより、気分はいいですw


自らを洲とし、法を洲として、流されながら生きていくとしましょう♪


なむあみだぶ

2012年11月20日火曜日

過去を振り返ってみた


先日、「自分でやった方が早い病(リンク)
※リンクがまちがっていたので修正しました。すいません。

という本を図書館で読んでみた。

まさに慧海はこのタイプだ
色々と痛いところをグサグサとさしてくる本だ

先日泥酔した飲み会で、社外の人が「40になってそんな事言ってちゃ…」
なんて事を言われたが、何に対していわれたのかよく理解できなかった
この本を読んで、世間の上司は40の社員にどういう事を望むのかをしった

 まさに、40にもなって だな

慧海の中ではいまだ30の頃と何もかわっていなかった
10年前、30の時に開発のリーダをやって、失敗して、社外に派遣になった
病んで、自社に戻って休職、そして復職
復職したものの、会社が求める人材ではなくなっていたので居場所がない
なのでまた派遣

他所は知らないがうちの会社では派遣に部下が付く事は少ない
だから一人で仕事をしてればよい

気が付いたら40
仕事面では何一つ成長のないまま40になっていたのだ

どこか自社に戻って昔の仕事のやり方で仕事すればいいと思っていた
それが必要ない人材である事に気づかないまま40なのだ

よくよく心をみてみると、今の状況は、他人のセイと思っている慧海がいた

思い出してみたら、プロジェクトが失敗してもいいから
終わらせる決断をしたのは慧海自身だった

今の派遣先に居る事も、今の仕事の仕方も慧海が決めた事だ

失敗の責任をとらさせて当たり前だった
今の派遣先から戻れないのも当たり前だった

30代の頃の考え方のまま、会社に兵隊はいりませんか?と聞いても
病んで無理の利かない頭でっかちな兵隊が必要なわけもなかった

兵隊なら若くて成長ある良く働く兵隊の方がよい
 病気と日々の生活のことだけ考えてきたから、
仕事の事をすっかり考えないままになっていた

思考をみてきた感じでは、心の鎧がすこしずつなくなて
頭の中が10、20代の頃並みにまでシンプルになってきた
その結果、自己愛のみが顕著に感じられる
慧海が子供のころからもつ考え方が顕著に現れる
そういうものは、他人と接するときにわかる

そんな嫌になる慧海自身と、ちゃんと付き合っていかねばならないのだろう
ありのままの自分と向き合いつつ、他人と接していくしかないのだろう


とはいっても、努力してなんとかするのでもなく
ただ、流れに御任せして、起こった事を受け止めていくだけ
なんだけどね

流れに任せていたら、読んだ本をきっかけに昔を思い出して
こんな風に思いました ということでしかない のですよ


中身を見るサイトがあったのでついでに・・・
http://ji-sedai.jp/works/book/publication/jibunde/01/01.html

2012年11月19日月曜日

木彫り再開


寒くなってきました

休日、一人で家にいると外に出る気もしません

丁度かまぼこの板があったので、
久々に彫刻刀で木彫りをし始めました

義父が他界する前に彫っていた仏像は木が小さすぎて、慧海の腕では
これ以上は彫れない状態になってしまい、それっきり彫ってませんでした

今度は簡単なものでいいので、完成できるものをと思いつつ、
板で何を彫ろうかと考え、以前子供と行った資料館にあった
板碑なるものを彫ろうと思い立ちました

板碑は埼玉県に多く、地元の資料館によく展示されています

南無阿弥陀仏と名号がかかれていたり、キリークの梵字が書かれているもの、
阿弥陀佛や阿弥陀三尊が彫られていたりします

釈迦如来のものもありますが、阿弥陀仏ものが多いように見受けられます
供養の為に作ったとされるので、阿弥陀仏が多いのでしょう


で、南無阿弥陀仏と彫ることにしました

下書きして、蓮台も書いてとなるとカマボコ板ではちょっと小さく、
漢字が潰れてしまいます

キリークでは、わが名を称えよ とならないので名号を彫りたい

ちょっと考え、南無阿弥陀仏は全部音の当て字なので、
平仮名で彫ってみる事にしました

佛だけは既に音からはなれているような気がしたので、
なむあみだ佛としてみました

… 

佛が潰れて読めないし、「だ」とくっついてしまいました…

仏の字か、ぶ にしておけばよかったかな と反省・・・

そして蓮台もイマイチうまくできません

板碑の写真をよく見てみると、葉のところだけうまく掘り込んでありました

もう一度資料館に行って、蓮台をよくみてみたいと思います


かまぼこ板ならまだあります

仏像彫りのレベルに近づけるよう、ちょっとずつ木彫り経験を積んでいきたいものです


彫っていると時間があっという間に過ぎます
楽しいのでそれだけでもいいかと思いますが、
見せられるものでもないですが、ブログにのせてみるのもいいかもしれません
載せるためには完成させるというこになりますから…
下手でも完成させたものを、いくつも作る。 クリエイターの基本かとw



2012年11月16日金曜日

信じるのではないらしい


先日のことです

声明的に念仏を口にし、ふと思い出し

慧海を救うと言われても、信じられないなぁ…
如来にはどのようにみえるのだろう …
人の心でわかろうはずもないか…


と考えている頭をみながら歩いていました。

信じられん
信じられん

そういう言葉がうずまく中、
聞こえるかのように、ポンと言葉がでてきました

信じてる


… あ!

その言葉が浮かんで、
ホンワカとした気分になりつつ、
瞬間的に思いました。

慧海が如来を信じてなくても
如来は慧海を信じてるんだ!

そう思ったのもつかの間、
また思考が作り出したものだろうと思い
すぐにホンワカ気分は抜けて、駅へと向かう道だけになりました

でも、どこか安心した感じです。

2007年4月に、慧海の中で何かが壊れ、全てを疑って過ごしてきましたが、
慧海を信じる如来というのは、信じたい気がします


日々みるともなく見ている頭ですが、何があっても不思議じゃありません

ただ、御任せして過ごしていくとしましょう



なむあみだ佛


2012年11月6日火曜日

慧海は何かできるのか


9月末と10月の記事に、しゃり様と名乗られる方からコメントを頂いております。

しゃり様がどのような方なのかはマッタク存じ上げませんが、
とても大事な事を指摘いただいたように感じています。

慧海は本当に救って頂きたいのか…

自分の努力によって自分が楽になる という考えが抜けないまま、
何一つ自分の思い通りになんてならない というようにも感じて
「今」を意識しながら、唯生きればいいか とも考えたりします

考えてどうにかなるなら、よいのですが、
考えにはまって苦しむのがオチです


「解脱の耳」と、しゃり様は書かれていらっしゃる

解脱の耳という言葉を聞いた事がなかったので調べてみたら
蓮如の言葉の中にあるようです

住職がよく言う「身で聞く」という言葉を思い出します

念仏を聞くのが大事だとも言います
浄土教は聞くのが大事なのだとも言います


自分の頭の声、身体の声を聞くという事はある程度意識してやってますが、
解脱の耳をすまして、何をきくのだろうか・・・と考えてしまいます

何をしたら良いか教わり、それを努力してみよう

そういう考えがでてきます
で、努力じゃないのだ、思考じゃないのだと思い、
また、努力もやめて、途方にくれるのです

先月より、途方にくれた挙句、念仏でもするしかないかと
思い立ち、毎日Twitterに念仏をつぶやきつつ、気が向いた時や
苦しさを感じた時に、本願を思い出して念仏をつぶやいてみたりしてます

ドックで、「心筋梗塞の疑い」と診断結果がでて、
明日にも死ぬる命なのだと感じたものの、いまだ胸の痛みもないまま、
左肩こりがひと月続くのは心臓のせいかと気にしつつ、
今日もなんとなく生きています



南無阿弥陀仏