2013年12月30日月曜日

1年の振り返り


明日は大晦日です。
なので、1年をふりかえってみようかと。

今年は色々と変化がありました。

・本願に帰すという気分をあじわいました。
・営業支援の出向先から本籍のSEの会社に戻りました。
・SEとして、商談支援の研修を半年間受け、商談支援が主業務っぽくなりました。
・主治医から「鬱は完治」と言われました。
・やるべきことをやるだけといった感じで、腹がすわりました。
・酒をのまないでいられるようになりました。

こんな感じですが、全てが自分が意図して努力した結果ではないのが
不思議なところです。
仕事関係はおおきく変化をして、色々と悩ましい日々を送ってたんですが、
色んな人が色んな思いをもって慧海と接していただけたおかげで、
仕事をしていないのに、仕事をしている風になっています。

この1年と昨年の違いは、仕事において未来を考えることですね。

拗ねて、いじけて、やるべき最小限の作業だけをする仕事をし、
佛教の勉強ということで心の反応だけに関心を向けてました。
営業支援の仕事はそれでも仕事になっていたんですが、
売るものがきまっていないSEの仕事では、最小限の大きさが違っていました。

しょうがない、やるか!

と思い、仕事をし始めてみたら…知識が足りません。
あれやこれやと、わからないことだらけです。
誰かに教わろうにも、元同僚ではわからないとのことで、
自分の会社だけど、合併とかあって会社の人脈がもう残っていない状態でした。
わからなくても、なんかしないと終わらないので、ベンダーに聞いたり、
セミナーに行ったりしながら、やれる事をやってみました。

そうこうしていると、「未来の為に何をしておくか」と考えるようになりました。
病む前は腹黒くそういう事を考えておく事が自分の価値のように感じてました。
それが、空回り思考になって苦しみだしてからは、思考を止めるようにしました。
今年になって、 「今やる事として、先の準備」の感じで先を考えるようになりました。
欲求を元にしないから、空回りしません。

でも、読みがあたるかどうかは楽しんでます。
というか、仕事自体遊びというか、楽しむ感じでやれるようになりました。
苦手な仕事は他人にふれるなら振ってしまいます。
実際は、フリ先がなくて自分でやる事が多いんですが、手間がかかるだけで
それ自体はどうとなくやります。めんどうですけどねw
直行直帰は多用して、週に1日しか自社内にいない事もショッチュウです。
その位、気楽にというか、手抜きで仕事してます。

でも、昔の部署の上司達に対する逆恨みは消えてないですねw
話でもすれば消えるんでしょうけど、こっちからは話しになんか行くもんかという
気分も含めて、逆恨みってことなんですよw


いままで毎日欠かさなかった酒も飲まない日が週に半分位になり、
飲み会でも泥酔するほどはのまなくなりました。
ソフトドリンクを飲んでいることも増えてます。
今は飲み好きの人たちと仕事していますが、その人たちと仕事しなくなると、
きっと飲んで帰る事もなくなり、殆ど酒をのまない日々になるのかも知れません。


来年は、どんな風になっていくんでしょうかね?
弥陀佛のお育てのままに・・・と、いうことでw

皆様、今年もお世話になりました。
来年も宜しくお願いいたします。


2013年12月28日土曜日

慧海とタバコと救い


以前、坊守さんから
「苦しんでない人は救われないと思うか」
と聞かれたことがあります。

苦しんでいる人ばっかりが救われるって話が多くて、
苦しんでない人は救われないみたいじゃないか と
苦しんでない人だって全部救うんじゃないのか と

慧海の頭には、

救いってなんだと思いますか?
苦しんでないのに、助けて欲しいっておもうんですか?

そういう質問がでてきたんですが、
その時は口にすることができないまま、頭に残っていました。

この問いは、喫煙と禁煙ににてるのかな?なんて思いました。

喫煙してない人には禁煙の苦しみがわからない
喫煙してても、やめようと思わなければ禁煙の苦しみはわからない
タバコの衝動にふりまわされ、最後のひと箱、最後の一本と思いながら吸い続ける
無理やりやめても記憶に残って恋焦がれる

そういう人にとってタバコの衝動に呑まれないことは救いなんだと思います。

喫煙を努力とか願望とかに置き換えてみてもらえば佛教の話しでしょw

私はこの考えでいいんだと、自分にいいきかせている人は
そう思わせているいるものが何かとを見つめることはないでしょう。
そういう人が思う救いとは、私の考えを肯定してくれるものなのでしょう。

タバコを止めたくない人にとってはタバコをやめる必要がないと言ってくれて、
金額を下げてくれる事が喫煙者にとっての救いなのだと思います。

亭主師の言う、感情とお勘定の話しを思い出します…。


そんな事を考えた結果、慧海自身がタバコに恋焦がれながら
8年間禁煙を続けていることを再認識しました。

重度高血圧症で、禁煙を医師から強く指示され、いつかやめようと思っていた
事もあり、禁煙本のメソッドに従ってなんとか断煙できました。
生活リズムの中に喫煙がふくまれていたので、タバコを吸わないことは
生活リズムを変えることにほかなりません。
結局、現実ですわないだけで夢でなんどもタバコを吸い続けていました。
息苦しさを感じると、タバコを吸う夢をみると気づいたのは、半年ほど前です。

やっと慧海は過去を否定せずにいられるようになりました。
いろんな衝動と向き合うことができました。

そんな時に救いとタバコの喩えがでてきたので、
タバコを1本だけ吸えるかと自問してみました。
答えはNGです。
苦労してやめたのに、タバコがおいしかったらまた吸いたくなる と。
じゃ、酒はどうか…
酒はもう衝動で飲んではいないので、大丈夫だと感じました。

タバコへの執着が現実離れをしている事がわかりました。

クリスマスの日、忘年会のさなか、昔話をしている間にタバコが1本回ってきました。
ふと吸ってみようという気になり火をつけました。

8年ぶりのタバコはうまいなぁと口にしながらも、
こんなもんだったのか…と思いました。

最後に吸ったタバコよりも強いタバコでしたが、咳き込むこともなく肺に入り
ため息とおなじように吐き出されました。

高血圧でドクターストップかかってから8年ぶりだよ と話したら
まわりから急に吸うなと止められて、3口吸っただけで消してしまいました。

その後にも想像してたような衝動は、まったくありませんでした。

やっとコレで愛しかったタバコと別れられます。
もう、ただのタバコです。

本当の最後の一煙は、2014年のクリスマスに美人のサンタさんから頂いたモノでした。

新しい思い出と共に、ひとつ執着がなくなりましたw


世の中、なるようになっているものだと、畏れ入るばかりです。

2013年12月27日金曜日

久々にヲタな話


娘Typeの付録のマウスパッドを入手した。
ストライクウィッチーズ零のアレである。

これは、あのマウスパッドに空気の変わりに保冷剤をいれた報告である!w

※あえて何かは書きませんw わからないひとはスルーしてください。
  この記事が検索ででてきた人はわかってるはずですので…



手順書に従って注射器で空気をいれてみたんだが、どうもうまくいかない
スカスカな感じだし、すぐ抜けてしまう感じだ
そこで考えてみた・・・

保冷剤の中身入れたらいいんじゃないか?

本来空気いれるんだから、水が入っても大丈夫だろう
穴が開いてても、水みたいにもれてしまうわけでもない
空気よりもホールド感(つまり感触)がいいはずだ!

と、いうことで、保冷剤をいれてみた。

保冷剤の端をきって、注射器で吸ってみようとおもったが無理
よく考えたら、棒をはずして中に保冷剤を流し込めばいいだけだったw

それで数回流し込むと、徐々にふくらんできた
空気とちがって抜ける感じも無い
押してみた感じもわるくない

これはいける!

小さな保冷剤の2/3ほど入れたあたりで、流し込みにくくなった感じがした
でも、どの程度いれればいいのかわからず、そのまま流し続け
2つめの保冷剤もあけて流し込んでみた

結果、注入口の反対側から保冷剤がはみでてきた…

どっかが破れてもれているようだ
とりあえず、 軽くおしだしてもれたらしい部分をはみ出て所から排出結構な量があふれていた…

う~ん。失敗したなぁww

どこがやぶれて、どうなっているかはみていない
中身がもれつづけているのかもしれないが、とりあえず使えている

このまま使って、やばくなったら浮き袋部分をとりだして修復するとしよう


破裂しない程度なら空気より良いとおもうので、保冷剤はお薦め!



雑誌付録のマウスパッドじゃなく、製品だったらどんな感じなんだろうと気になりつつも
その一線はまだこえられない…

実際問題、付録だろうとこんな既にそれなりのヲタ
思春期の息子に冷ややかに見られる日は遠くないと思うw


追記:
穴から保冷剤があふれつづけるので、木工用ボンドなどで修復した。
どんなボンドが適切なのかがよくわからなかったので、とりあえず木工用
実際、入れすぎたら漏れ出してきたので、追加補修。
保冷剤の水分でボンドが乾かないから、合ってないんだろう。


2013年12月20日金曜日

今月のお育て報告


前回書いてから、ひと月が過ぎてしまいました。

慧海はこのひと月、実にノンビリと過ごしています。

欲望のままに過ごしているのにノンビリです。
上司のむちゃぶりやバカな話にイラついているのにノンビリです。
風邪やら尿管結石やらに苦しんでいるのにノンビリです。

なんか、腹がすわったというか、
どこにも行きようがない感じというか…
なんかそんな感じで、自分と自分の回りの事に振り回されなくなりました。

救いを求め、あえぐように仏書を読む事もしなくなりました。
誰かに認めてもらおうとする気持ちも空虚になりました。

なんといえばいいのか…

心の問題、佛の問題を頭で考える事すらしなくなりました。

直感的にいろんな思いやら思考やらがでてはきます。
それは昔とかわりませんし、思いに思いをかぶせてみたりもしてます。
悪い心を隠し、良い人間を演じようともします。
ただ気づいているだけで、そのままやってます。
その場は気づいていても、一つ一つをどんどん忘れていきます。
思い出す必要があれば、思い出すときもありますが、それもその時だけです。

これが、 実に楽でいいんです。

全休先生のTwiiterで
「今起きているすべてのことに文句がない、このことを安心というのでしょう。」
という言葉がありましたが、そんな感じです。

心の問題を考えなくなったかわりに3つ変化を感じてます。

1.努力はすばらしいと思える
2.小説、漫画、アニメに感動できる
3.過去の心に振り回されていた自分を宿せる

この3つは実は1つのことで、自力を喜んでいるんです。

心の病になって、真宗を勉強して、自分をみつめて…
結果、世の中を悲観的にみて、努力とか感情とかを無駄なものと感じていました。
欲望を原動とした感情にふりまわされ努力する姿は自分のようで、嫌悪を感じていました。
そんな自分の姿を見せつけられて気づいたのは、佛教という思想に逃げていたということです。
佛教を頭でとらえて、そこに理想を描いて逃げていたんです。
わからない事に理屈をつける事をやめました。
心の問題、頭の問題を言葉で考える事をやめました。
わからない事が、わからないままになりました。
気がついたら、腹がすわってましたw。


慧海のリアルでは、慧海が仕事をしやすいようにいろんな人が動いてくれています。
拗ねて、後ろ向きな発言ばかりしているのに、なぜか、慧海の働き場所を用意してくれます。
逆恨みが消えた訳ではありません。
逃げ根性がなくなった訳でもありません。
格好つけて、できないことを無理してやろうとかいう気もありません。
働き場所を用意してくれた人に答えたいというような気もありません。

でも、拗ねて部屋にこもるのをやめて、「あそぼ」と誘ってくれている人と遊ぼうと思います。

佛教哲学は引きこもるには心地良いです。
でも、ちゃんと地面に足をつけて、人生を遊ばないと本当の佛教じゃないんじゃないかな?

今見れば、誰もが欲望に駆られ、飢えながら、あえぎながら、苦しみながら
「俺はここにいる」という事を知らしめんと、戦ってます。

組織職も、若手も、中堅も、少年も、老人も、それぞれが、とても苦しそうです。
現実だけでなく、そういう事を書くストーリもとても痛々しいです。
でも、それが悲しく、いとおしいと感じます。
自業自得だこのバカめと、イラつきながらも、泣けてきます。

そんな人たちが、慧海を遊びに誘ってくれてます。
そんな彼らと一緒に遊ぶためには、昔の慧海であり、
自分で勝手に否定し、捨てようとした自分が苦労無くできる
仕事のスキルを使うのが良いようです。

努力してできないことは無いと思っていた頃の慧海。
その頃に戻りたいと思って、戻れないなら忘れようと思った頃の慧海。
なんてことはない。
戻るとか戻らないとかじゃなかった。

ただやれる事をやれるやり方でやるしかない。
それが昔学んだスキルだろうが、最近まなんだスキルだろうが、
これから学ぶスキルだろうが関係ない。
しっかり大地をふみしめて、やれる事をやるだけ。
目の前でもがいている人と一緒にすごすだけ。

彼らの苦しみは全て慧海と同じ苦しみ。
慧海には誰かを救うことはできませんが、同じ苦しみを感じることはできます。
むしろ、慧海の苦しみを呼び覚ますために、彼らは苦しんでいるとさえ感じます。
諸仏の皆様には、本当にかたじけない事です。

苦しみの末に、その中の一人でも念仏を称える人になるのなら、
それは喜ばしいことだと思います。

「思いがそのつど成仏する南無阿弥陀仏」(By全休先生)

思いから抜け出すために思う事をやめる。
思いを弥陀に捧げる念仏。
頭でわかってから、5年がすぎました。

11月からは色々苦しみながらも、本当にノンビリですw

帰命尽十方無碍光如来

2013年11月16日土曜日

遅いPCは掃除しよう。遅い心も掃除?


子供用に古いPCを親父からもらって、使わせる事にしました。

最近の通信教育は、テストの回答をPCでみたり、動画で講座をみたりするので、
PCがあった方が便利。
居間の共有のPCをつかわせていたんですが、部屋で勉強させる為に、親父の
つかっていないPentiumMのXPマシンをもらってきました。

起動させてみると…遅い…

親父からも遅いよ といわれていたんですが、確かに遅い。
これじゃ、なにもできんので、使わないソフトを片っ端から削除しはじめました。

国産メーカのPCは、初期状態でいろんなソフトが入っています。
それらが、自動起動するから起動待ちもメモリ圧迫もします。
買ってきてすぐなら、それもあまり気にならないでしょうが、追加でソフトいれると
それが自動起動だったりするんで、おそくなってしょうがない。

そんなわけで、プロバイダ接続アプリやら、おまけソフトやらも削除して、
スタートメニューが1ページ分位ソフトを削除して、
メモリ使用量も起動時間も半分ほどになりました。

パターンファイルの更新できないウィルス駆除ソフトが一番重かったように感じます。
いまだ代わりのウィルス駆除ソフトをいれてないので、なんか探していれないと、
子供がどこでウィルス感染してくるか・・・。
まぁ、ひっかかってExeを起動しなきゃ、それほどヤバイ事もないのでしょうけど、
引っかかったら、どんなソフトをいれられるやら・・・。

ちなみに、XPです。
慧海のPCも共有マシンもXPです。

サポートなんてもともとないようなものですので、家で使う分には
まだまだXPで十分です。

MSとWindows98サポート切れの話しをした際に、
もう重大な障害がでないレベルだからサポートを切れると言ってました。
使えないとは言ってないんです。
でも何かあっても保証はできないので、OSのバージョンをあげてくれと言っている
のだそうです。

OSまわりで、MSになんとかしてもらった事のある一般ユーザは希でしょう。
仕事でやってると、たまにOS寄りの障害でパッチだしてもらうことはありますが、
普通にブラウザとOffice使ってる分にはお世話になったことはありません。
あれ?サポートきれたら、XPの再インストールとかどうなるんだろう?

古くても、私たちの仕事が変わらないので、そんなに影響はないのですよ。
適切に動くように掃除さえしておけばねw
 PC同様私たちも、頭の掃除をしておく必要があるようです。


通常、私たちは同時に抱えられる仕事は2つまでだそうです。

単純作業は別ですが、何かの調査してレポート作るとかの仕事は同時期には2つまでです。
2つ以上あると、メモリ不足と同様に、あっちこっちやって、仕事がすすまないそうです。

2つ以上の仕事をこなすには、1つの仕事を分割して、ゴールを再分化し、
同時期には2つまでで片付けられるよう、スケジューリングするしかないそうです。
結果的に、1ヶ月で3つの仕事ができたりするのであって、一時期でくぎってみると、
2つしか抱えていない状態にしてあるのだそうです。

とは言っても、2つ同時にというわけではないでしょう。
今で区切れば1つしかできません。
それはPCも同じで、CPUも時間で区切って処理をしています。
時分割処理っていうやつです。

考えるのは時間で割れますが、考えた結果はどっかに持ってないとダメです。
頭の中と、机の上に書類をひろげたりするように、PCはメモリに情報を蓄えます。
それが一杯になるとおもくなりますし、机の上に情報をひろげるのも時間がかかります。

人は広げられる案件が2つ分
PCは性能次第…低い性能であれば、情報を広げなければいい

ということですね。

慧海は通常1つの仕事しか一時期には考えません。
2つめ以降は、スケジュールもやるべきこともメモにしてPCにかいてあります。
頭はできるだけ空っぽにした方が、ストレスが少ないですからね

Windowsじゃなく、DOS並みってことですねw

でも余計なことばかり考えてますんで、余裕もないです。
ワームに感染しているようなものかもしれません。
自分ワームが起動したら、それを終了させるウィルス駆除っぽい仕事に
もう一つの仕事分が割り当たっているのかもしれません。


季節の変り目は必ずといっていいほど風邪をひく慧海でした~

2013年11月4日月曜日

言語化は難しい


昨日は、お寺の勉強会でした。
初めて副住職が講師をされました。

話をするというのは、難しいでしょうね。
私のわかることしか話はできませんし、感覚でとらえた事は言葉になりません。
言葉にしてしまえば、理屈になってしまって感覚のままではなくなってしまいます。
話そうと思って、はじめて妄想であったと気づくこともあります。

副住職は、どんな事を思い言葉にしたのかはわかりませんが、
慧海には、逃げようとしている言葉にしか聞こえませんでした。
自分の言葉で感じた事を話されているので、悩んできた事を感じる言葉だったんですが、
その言葉の方向性みたいなものが、引きこもりになっているように感じました。

慧海と同じように…なので、ついイラっとしてしまいます。

そんな思いもそのままに頂いていくのが今の慧海ですw


ふと思い出して、亭主師の先頭ページにある豊徳寺さんの聞法の方法を再度読ませていただきました。
久々に読ませていただいたのですが、今は何をおっしゃっているのかを感じれました。
最初に読んだ頃は、あるがままにそのままに と今、今と意識したのを思い出します。

改めて読んで、ふとひっかかった所がありました。
自己の解決のところにこう書かれています。

4.つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるべし。
 いつも自然の様子を思いおこすようでは、色々せんさくしなくてもよいと思いつつも、まだ自分への言い聞かせが残っているのです。徹底していないのです。 まだ、本当は不安なのです。まだ、お任せしていないのです。自分自身、納得がいっていないのです。つまり、「義なきを義とす」と知って、義なきようにはか らうのは、まだ義の立場なのです。
 自然の様子を忘れ、忘れたことも忘れて、ただ、やるべき事をやり、すべき事をする。人の和を願い約束を守り社会を考えて 生活するのです。どんな思いが頭にわいてきても、その思いそのものになっていればいいのです。そのものになりきっていればいいのです。それでいいのです。
この言葉の、清沢満之の「他力の救済」にある、
他力の救済を念ずるときと、他力の救済を忘るるときの言葉の逆のように見えます。
でも、いわんとしていることは同じように感じます。
自然の様子を思い起こすという事を、他力の救済を念ずる事と読んでしまったからでしょう。
むしろ、お任せすることが他力の救済を念ずると読むと同じだと感じれます。

慧海の感じた経験→仏書にその時の感覚とよくにた言葉を見つける→自分で言葉にする
→その言葉と違う言葉を仏書で出会う→理屈で考える・・・

言葉を捜してしまうあたりが、お任せできていないのか?とも思いますが、
人につたえようと思えば、言葉にするしかないわけです。

人に伝えるのは自慢したいからではありません。
慧海が頂いたものを世に還元したいんです。
どうしたらよいかわからないので、言葉にしているだけです。

言葉にすることは本当にむずかしい。
自然を教えるための阿弥陀の名であったというのは、本当に頭が下がります。

私たちはそんな先人と思いと智慧の中を生きて念仏する身としていただいたのだと
思うと、本当にかたじけない事だと思います。

慧海の思いなど関係なく、慧海に思いをわかさせて、行動させていく…
今はそれを慧海はお育てという言葉で表現してありがたがっています。


余談
ふと思い出して、十牛図をみてみました。
やっぱり文字を読んでしまいますが、誰かの説明よりも、タイトルと
その絵自体から感じる事の方が増えたような気はします。
(どんな意味かはあるていど覚えているからという理由もありますがw)

浄土教が名号にこだわった、先人の思いがわかるような気がします。

南無阿弥陀仏
 

2013年10月26日土曜日

一週間分の振り返り


仕事やら呑みやらで、ブログ書く時間がとれなかったりします。
なのでネタみたいなものをつぶやいておいて、あとで文書にしようかと思ってます。
色々とあるので、まとめてポンとw

■ 報恩講
20日は報恩講でした。
雨の中、それなりに人がいらっしゃいました。
報恩講の後、I師、S氏と飲みにいったんですが、副住職もなぜか一緒にという事に…

まともに話しをききましたが…
その時の感想のつぶやきが以下の2つです。

「今のお寺という俗世は、サンガってよべないんだなぁ。得度は入社、教師は課長。住職は支店長。帰敬は優良会員。会社なら顧客満足度を考えるが、お寺じゃ不要。やっと現実がみえてきた。」

「自分に属する事は自力でやれ。ニヒリズムに浸り、念仏信じたフリして現前から逃げるな。」

慧海はお寺に期待をしていたのですね。
でも、その実情はサラリーマンと一緒だったというのがやっとわかった、というのが一つ目のつぶやきです。

彼らは彼らのしがらみの中で、お寺に就職して仕事してきたんです。
門徒とちがって、仕事です。
苦しみがあって、そこから抜け出す答えを探していたら、仏教に、真宗に行き着いたというのとはマッタク違うんです。

そういう人たちに何かを勝手に期待して、勝手に要求していたんですね。

そういう中で就職しちゃった跡継ぎは、中途半端に勉強してニヒリズムに浸るようです。
慧海もニヒリズムでしたので、気持ちはわかります。
それが逃げだと気づくのは、逃げなくなってからです。

 そんな風に思いました


■ ア・ミタ

アミタをしらべていたら、東海学園さんの図書館だよりに
 日頃つかわれる「○○メーター」のメータもサンスクリットと共通のルーツで、共に「計量する」という他動詞の過去分詞、つまり「量られる」の意味です。サンスクリットのミタにアをつけたアミタ(無量) 以下略
という風にかかれていました。

その事からかいたつぶやきが以下です。

「ア・ミタ=無量っていう風に認識してしまっていた。量る事ができないとは人の思いの外ってことだと気づいた。」

思いの外というか、人智を超えているというか…
私が認識しちゃったらダメだよっていう教えだったんだって事だとおもうんです。
認識できたら、私の自我というか思考のなかに概念化して佛を取り込んじゃうわけですよ。
しゃり様が、「わかったら凡夫の迷いだから気をつけなさい」 という事はこういう事をいっていたのかと感じたんです。

よく考えれば、歎異抄十章に「不可称不可説不可思議のゆえに」って書いてあるんです。
これをそのままに理解して、 不可称不可説不可思議なもの と定義してしまっていたんです。

人智の外という事を教えんが為の言葉を人智でとらえてしまった。
人智であれば、思いの中、思考の中、理屈の中、妄想の中、苦しみの中なんです。

「そういうものじゃない」と言葉で伝えたら、それはもう人智なんでしょう。
伝えようとしても伝わるもんじゃない そういうことなんだろうなぁと気づきました。

仏教って頭で理解するんじゃなく、感じ取るしかないんだろうなぁ
 そんな風におもっていたら、歎異抄では異なるのは私だと言われてる事にいきつきました。
異なっていて、嘆かわしいのはたしかに慧海自身でしたw


■ 雑談

そうそう。亭主師が記事書かれてました。
第702話 俗世で頑張る
俗人とは何者か…毎日アセアセと生きる私たちの事ということでいいんですかね?


なんやかやで、365回分念仏つぶやいてます。
多分、念仏が入ってないのは2回以下だと思うので、まずは、一年分念仏つぶやきました。

この365回では色々ありました。
お育てですねぇ。

帰命尽十方無碍光如来


2013年10月17日木曜日

しゃり様への返信

しゃり様

お久しぶりです。
つぶやきに対するコメントありがとうございます。

ご助言ありがとうございます。
やはりお返事が書きにくいコメントですねw

しゃり様のメッセージをうけとれているかもしれないし、うけとれていないのかもしれない。
質問をしてみたいけど、質問する言葉はない。

出たり、入ったり…結果、門の外 そのとおりだと感じがします。


慧海のリアルは変化の時がきているようです。
諸行無常って話しではなく、世間的にいう変化の話です。
異動とか、仕事が変わるとか、引越しとか、事件とかの話です。
そんな、小さな変化がいくつも、何度も押し寄せてきています。

病気やら、趣味やら、宗教やらと言って、リアルから逃げる精神的引きこもり状態は
終わりを告げはじめてます。

世間様で、他力本願と言えば他人任せの無責任な事です。
世間様では自力の努力を必要とします。
なので、世間様に戻った慧海は自力を使用します。
自力は用いれば、その分、自我が騒ぎ立ててくる。自我が騒がしければ、念仏を忘れる。
とはいっても、一度感じた南無阿弥陀仏がさっぱりと消えたりはしないらしいです。
リアルを受け止め自力ですごしつつも、肩の力は入らない日々。

だから、出たり入ったり…。

上の文をかいていて、清沢満之師の言葉を思い出しました。
彼に在るものに対しては、唯だ他力を信ずべきのみ。我にあるものに対しては 、専ら自力を用うべきなり。而も此の自力も亦た他力の賦与に出づるものなり。
 (清沢満之著 東本願寺発行 清沢満之の精神主義より)


そもそも、ブログに何かを書いているようなときは念仏を忘れ、
念仏を忘れていないときは、ブログに書くような事がないのですよ。

どっちにしろ、慧海のはからいではないのでしょう

お育てのままに生きるだけかと。


帰命尽十方無碍光如来

2013年10月12日土曜日

外から見る


昨日、会社帰りに築地本願寺の夜の法話会に初めて参加しました。

4月の異動で会社帰りのウォーキングコースに築地本願寺があるので
タイミングがあったら寄って、お西の正信偈の節をきいてみようと思っていたのです。

残念ながら、正信偈はなく重誓偈だったんですが、重誓偈にも軽く節がついているし、
そもそも、重誓偈をお寺で聞いた事もなかったので、新鮮に感じました。
先日も、築地本願寺で法事をされている方がいらっしゃったので、お経をきいていたのですが、
その際も阿弥陀経も正信偈もなく讃仏偈でしたので、やっぱり違うもんだナァと感じました。

法話の先生がおっしゃってましたが、福岡の古いご門徒さんでは法事は三部経を全部
あげていたそうです。3時間半かかるんだそうです。
昨今では、昭和の短縮版とやらで2時間になったとか、最近のご門徒さんでは阿弥陀経
だけというような感じで20分といった事をお聞きしました。
築地で、讃仏偈の前に仏説無量寿経と言ってたのは、大経の略式という事なんだなぁ
と理解しました。おもしろいものですねぇ・・・w

その法話会で2つ関心することがありました。

1つは、生活信条というものです。
昭和にできたものらしく、もちろん、大谷派にはありませんので初めて知りました。

驚きです。

残念ながら、直感的に嫌悪感を感じてしまいました。
慧海が勝手に想像する新興宗教のイメージがその言葉の中にありました。
きっと、本来持っていた浄土真宗本願寺系、俗に言う一向宗のもつ空気がこれ
なんじゃないかなと感じました。
一向一揆もおこるはずだと、感じました。

東は清沢満之師を筆頭に、曽我量深、安田理深といった先生方によって、
哲学的な理屈っぽさが組み込まれて、今の東の雰囲気なのかなぁと思ってます。
曽我量深師の歎異抄聴記の4ページに
当今は仏法について、ことにわが浄土真宗におきましては、内外のことがらにつきまして第二の再興を要する時期に再会していると思われるしだいであります。時代相応の真宗教学の再建ということが諸方にさけばれる


とあります。
昭和17年ごろの事だそうですが、その歎異抄聴記を読んで感じる事は、
昭和中期に示されたという生活信条とは大きく違うと感じたので、驚いているのです。

昔から信仰の強い地域では東も西もかわらないのだろうとも思います。
にわか門徒には、ホントびっくりしました。


2つは、法話をきいていた門徒さん(たぶんお坊さん)の振る舞いです。
法話の中で、「佛」「経」「釈迦」「阿弥陀」という言葉や、なるほどと思う言葉があると
「なまんだぶ なまんだぶ」と声をだして念仏するんです。

感謝の言葉として南無阿弥陀仏と念仏しろ
念仏は声にだしてしろ

という事は学びました。
とはいっても、静かに法話をきいている人々のなかで、数秒おきにまわりに
きこえる声で念仏をする姿は、汚い言葉で申し訳ないが、きもちわるい と
感じてしまいました。
 でも、それが、ある種の信仰の姿であり、慧海も無宗教の人々からすれば、
おなじように気持ち悪い人なんだと気づきました。

そういう場所ですし、教わったとおりの事ですので、なにもおかしくはないはずなんです。
そうなんですが、背中掻きながら感情のままに念仏を口にしているようにみえる姿に
慧海は嫌悪感を感じてしまったんです。
 慧海にとってはありがたい教えですが、まったく関心のない人からすれば、
それはうけいれがたい、嫌悪の対象になるのでしょう。

非アニメ好きの人からすると、アニヲタが嬉々としてアニメの話をするのと
同じ位ドン引きな姿なんだと思います。
子供向け美少女アニメのどのヒロインが良いと飲み屋で話す知人がいますが、
深夜アニメをみる人でも、その彼を否定します。
そういうのが好きでもいいけど、同好の人以外には、口にしてはいけないんです。

慧海にとって仏教というのは生活の一部化してしまっています。
心の観察とか、念仏とか、仏書を読むとかがまったく無い日は既にありません。
慧海にとって、仏教関連の話をすることは政治の話より普通の事なので
ちょっとしたきっかけがあれば、つい仏教関連の話がでてしまいます。

思い返せば、嫌な気分にさせた記憶がでてきます。
きっと気持ち悪いと感じたんだろうなぁ と改めて気づきました。

今度、お寺のI氏と、東の真宗会館に行って法話を聞く事になっています。
末寺とちがって、雰囲気が違うのかもしれません。
初真宗会館なので、ちょっと楽しみです。

2013年10月10日木曜日

全休先生からの回答2


10月8日に慧海は以下のようにつぶやきました

「欲望の衝動が襲うが、ただその衝動を感じるだけにする。色んな煩悩が薄まったように思うが、煩悩はまだまだ元気らしい。南無阿弥陀仏」

最近、公序良俗に反するような欲望や、自分の価値を認めさせたい欲望が
頭をかきむしりたくなるような衝動と共に襲ってくる事がよくあります。
ひどいのは仕事でお酒を呑んだ後ですw

通常は、無気力で無感動であり、これといった欲求もなく
なにが楽しみで生きているのかと問われても
答えられない頭で日々を送っています。

でも、頭の中は色んな思いに引っ掻き回され続けてます。
ちょっとした事で煩悩の炎に焼かれてます。
焼かれても苦しくはないので、むしろその焼かれっぷりを心地よく感じてます。

慧海は下品で傲慢で臆病な煩悩の虜だ

って思いつつ、この煩悩が生きているということなんだなぁ って感じたりしてます。

そう感じて、上のようにつぶやいたのでした。


そんな思いがある中、10月9日の、全休先生のブログ自分の変わりよう
以下のようにかかれていました。
 此岸を離れて彼岸へわたす渡し船、迷いの岸を離れて悟りの岸へと近づいていく。なにから離れていくかといえば、自分の心から離れていく。自分の心から離れれば離れるほど「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」(歎異抄・第1章)と見えてくる。
ああ、そうなのかと、またもや教えていただきました。

昔のように世の中に求めるものはないのに、なんで煩悩の衝動に襲われるんだろうと
不思議でした。
過去の慧海の姿が、いたるところに投影されている事を前回教えていただきましたが、
それと同じような何かかと思っていました。

そうではなく、彼岸に近づいていっているんですね。

如来の願船に乗るまでも色々ありましたが、願船に乗ってからも色々あるものですね。

酒を呑まずにいられなかった慧海が、今は酒をあまり呑みたいと思わなくなりました。
つきあいがなければ、家でも酒は呑みません。
アニメも暇つぶし程度の視聴になりました。
あまりにも平らな感情の日々に、また精神的に疲れてるのか?と疑った位です。

そういのも全部、お育てってことなんでしょうね。

帰命尽十方無碍光如来


2013年9月26日木曜日

全休先生からの回答


ここ最近、相手の心が聞こえるとか、外界の刺激が苦しいとか
書いていた問題について、全休先生が説いてくれました。

心の溝をさらえる


もちろん、全休先生が本当に慧海に向けてかいているのかは、わかりませんよw
でも、慧海が私の為に説かれたと感じるのは、慧海の勝手ですのでw


最近は、偉そうな知ったかぶりばかりして、苦悩を記す事もなかったんですが、
心の変化と環境の変化が重なって、自分をみせつけられてきました。

ただ自分がみえてくるだけなら、今までどおり頂けばよいのですが、
そうではないものが増えてきて、振り回されてきていました。

そんな慧海のまじめな苦悩記事に、全休先生が「あ~あ。苦悩しとるなぁ」と
いうことで、記事を記してくれたのでしょう。(慧海の妄想)

今回の全休先生の記事で、それが慧海がつくってきた罪によるものだと知りました。

他者だとおもってきたので、どうしてよいのかわからなかったんですが、
そこにみえるものが自己だとわかれば、同じように頂く事ができます。

自分の業は自分で背負うしかないですからね。
宿業ですねぇ~

全休先生、ありがとうございました。




で、苦悩から離れたからさっそく、知ったかぶりですw
慧海はすぐこれだ・・・w
聞不具足で戒められてる事ですよねw


コメントで、他者の心が聞こえるので、8願の他心通だろうと書きました。
他者から感じ取る言葉は慧海に向けた説法にも聞こえるので、
7願の天耳通という事にもなるのかもしれません。

ここでいう他者は、慧海の意識が認識している他者ではありません。
慧海の意識の外にある他者です。
他者本人の意思と関係のない他者です。
そういった他者の動きが縁となって、慧海に作用しているように感じます。
慧海のまわりにはそういう他者がいっぱいいます。
それを慧海は諸仏というのだろうと感じています。
全休先生の記事も、全休先生の思いとは違う形で、
慧海はうけとり、勝手に打ちのめされます。
記事を書いている全休先生は慧海の認識にある全休先生ですし、
コメントを書いたさいのTo全休先生も、存在する全休先生だと思います。
でも、記事を通して慧海に働きかけてきたのは、諸仏だと慧海は思ってます。



本願の一つ一つが、慧海を佛にたらしめんとする願いなので、
そこには、慧海の煩悩にかんする事がかかれているはずなんです。

ただ理屈を勉強してもわかりませんが、経験するとわかる事がでてきます。

お経というものは、わかった人が確認するために読むものだと、
亭主師から教わりました。

夢物語のようなお経が、仏書が、慧海をすくうための言葉だとわかる事が
とてもうれしく、また面白いんです。


あなたは救われたいのか
それとも知りたいだけなのか

と、しゃりさんに問われました。
グサっとささった言葉でした。

救われないと、知る事もできない。 
蓮如さんの言葉じゃ、金剛の信心が最優先なんです。
蚤のキンタマ8つ割り程度の信心でも、なければ先に進めない

悩んでるなら、とっとと救われなさい!

自力無効を知るまで、自力をやってみればいい。
自力は無意味とか考えていても、他力のお世話になれません。
気が狂うような自力をすればいい。
それが19願に願われている事。観経で説かれている事。

自転車に乗りたければ、説明書読んでないで、自転車にのればいい。
今とはと考える暇もないくらいに今に意識をむけてみればいい。

念仏して何になると思いながら、念仏してみればいい。
如来なんて信じられんと思いながら、如来の眼にどううつるかに思いを向けてみればいい。

全部自力の話ですよ。

その先に、頭が下がる思いをするんです。

頭の中でこねくりまわしている間は、頭は下がりません。
頭が下がらないで、誰かに何かをお任せすることはできません。
ましてや、命を人生を如来にお任せする事なんて、まず無理でしょう。

だから念仏が口からでることがない。


というような事を僕は先生方に教わりましたw


そういえば、最近の全休先生は、言葉がお優しいですね。
なんど全休先生のブログ記事に刺し殺された事かw


お育てのままに…
帰命尽十方無碍光如来

2013年9月24日火曜日

真宗の法名は安い?


亭主師がスポットで記事をかかれてました。

http://www6.plala.or.jp/famil/dai701wa.html

お父様がなくなったとのことでしたが・・・ご冥福をお祈りいたします。
少し前に妹さんも亡くなられたはずですが・・・ご冥福をお祈りいたします。
(真宗門徒的には、こういうときになんて言うのが良いとかあるのかな?)

その中で、戒名で200万とか書いてありました。

あまり人様に戒名のお値段というのは聞きにくいのでよくは知りませんが、
近くの真言で200万だか300万とかだとききました。
曹洞で150万だったとかいうのもききました。

ちなみに、うちはこの10年で4人ほど葬式をあげてますが、
法名は一人、5万円でした。法名は葬儀の時につけると高くて、
帰敬式うけて名前をつけると法名が1万円になります。

真宗教団連合内でもお値段が違うようです。
東より西の方が高いみたいです。
ホームページみると、値段がかいてあったりします。
もちろんお気持ちなんで、以上ということですけどね。

東京にあるお西の立派なお寺では、法名で100万だったとか、
お車代で100万とか、なんだかんだでとても高かったという話もききます。
お気持ちなんで、それはそれでよいかと。 慧海は嫌ですけどw

真宗じゃ、1万でも、100万でも3文字しかつきません。
誰でも「釋○○」です。
最近お西では、「尼」の文字をつけなくしたと聞きますので、だれでも3文字です。

まぁ100万だと院号がついて6文字かもしれないですけどね。
「○○院釋○○」ということでしょう。

ちなみに、昔、大谷派のサイトを見ていたときには院号で8万円とかいてありました。
元々はお寺を建てて寄進した人に、そのお寺の名前をつけたという話ですけどね。
今は箔をつける為にお金だして買う感じがします。
死んだ後の名誉とは、なんなんでしょうねw

一度院号をつけるとバランスが悪いということで、その後も院号をつけるようになるとも。
名前で金稼ぎする暇があったら、自殺者が減るような説法でもして欲しいものです。


余談ですが、祖母がそういう事をしらずに法名を頂いた際、
お布施が安かったから文字が少なかったと嘆いたそうです。
文字を増やすために院号とかつけたりしなくて、よかったよw


どんどん、お墓とお寺の悩みを抱える人が増えるんでしょうねぇ。
お墓もつのも楽じゃないですからね。
真宗みたいに先祖代々のお墓はなしって仕組みは広まるかもしれないですね。


葬式仏教になりさがったんなら、それなりに客の事考えてビジネスしなさいよw

2013年9月23日月曜日

7年目の慧海


帰敬して、丸6年がたちました。

色々とお育ていただいて、なんとか日々を過ごせるようになりました。

思い通りにならないということで、苦悩することは減りました。
自分をよく見せようとする事や、自分を抑制し続ける事も減りました。
薬や医療に頼る気持ちも減りました。

帰敬しようと思った頃に抱えていた苦しさは、ほぼ解消できてると思います。


でも、毎日がとても幸せになったという事はないですね。

病む前は、色々と頑張って、自己主張して、振り回されて、イライラして
疲れて、苦しんで・・・それでも楽しいと感じてました。

楽しかった時期が過ぎると、毎日無気力に、つまらない、なんかないかと
新しい快楽をさがして、すごしていました。

心を満足させる生き方をしていたんですね。
そんなんだから、落ちた時に病んだのでしょうね。


今は、軽く苦しい日々です。

少し前まで、外界からの情報を出来る限り遮断することで、
わずらわしさから遠ざかってました。
というか、外を気にする余裕もなかく、
ただ自分が苦しまないようにするだけで一杯でした。

今は、外にも少し意識をむけて人とのかかわりの中で社会生活をしようとしてます。
結果、外からの刺激が妄想をよび、頭の中がとてもうるさく、苦しくなります。

外を遮断して、何かわかった気になるのはニセモノだといいますが、ホントそうですねw

釈尊が山にこもり続けず、人里近くにいたというのもそういうことかと思います。

色んなかかわりの中でおこる様々な出来事から、逃げずに受け入れていくのが
真宗門徒の行き方だという話しがわかる気がします。


軽く苦しい日々ですが、実は、苦しんでいない日々でもあります。

苦しみたくて、苦しんでいる慧海がいて、そいつが苦しんでいるだけです。

なので、意識がかわるとまったく苦しくない。

そうは言っても、引きこもっているのとちがって、面倒だし、鬱陶しいし、
やっぱり思い通りにならないってことで、苦しい。
体重が大幅に増えて、肉体的にも苦しいw
色々と頭が鬱陶しく、面倒で、憂鬱という感じの苦しさ。

そんな苦しみたい自分にどっぷりつかって苦しくなってしまった時ほど、念仏を思い出します。
念仏を口にした瞬間、ソコからでてきますのでもう苦しみもなくなってます。

念仏しながら苦しい思考はできませんからねぇw

たぶん、生きている間は苦しみから解放される事はないのだろうと感じてます。
だからこそ、念仏を称えさせていただける身になった事が、有難いことだと思います。


慧海がどうにかしよう悩まずとも、なるようになっていくのでしょう。

慧海が何かかんがえなきゃいけないご縁があれば、その時考えます。


すべては、本願のお育てのままに。

そんな感じで7年目をすごすんじゃないかなぁw


帰命尽十方無碍光如来

2013年9月20日金曜日

過去への執着


昨日、頭の整理をする為にも、頭の中を記してみました。

やっぱり苦悩があったら、心の中身を書いてみるのは効果抜群ですね。

なんてことはない、昔の自分に対する執着じゃないですか。
立派なものなら、過去の栄光にすがるってヤツですよ。

・自分勝手にやれて、評価もあった時期があった。
・商品開発で自分勝手にやったら、うまくいかなかった。
・新しい部署では自分勝手はできなかった。
・自分勝手に出来た頃に執着して、恨み悔やみ壊れた。
・仕事にもどったら、自分勝手にはもうさせないといわれた。
・自分勝手はもうやめようと自分勝手に決めた。
・自分勝手してる人の目にとまって慧海も自分勝手にやれと言われた。
・また自分勝手やれるかもしれないけど、その後、自分勝手やれなくなったら辛いなぁと
 また昔に執着している と。

今も昔も自分勝手にやっていたんですよ。

ただ、昔の自分勝手の頃がたのしくて、執着してただけだったんです。


全部、ただの思い出でした。

楽しく仕事してた頃も、
楽しく仕事してなかった頃も、
どちらも、今は過去の思い出。

その言葉がでてきたら、仕事の事では変な衝動がでてこなくなりました。

今やれる事をやるだけに戻りました。

ありがたいことです。


あと残る衝動は、損得感情だけですね。
ローンの借り換えとか、小金を稼ぐ話とか、物欲を刺激する話といった事と、
お客さんに、むりやり購買意欲をつくりだす方法への嫌悪と・・・

セールストークを聞くのも、見るのも、自分が使うのもウンザリです。

でも、そういう世俗の苦しみに悩む知人をみると、いとおしくて、応援したくなります。
慧海と同じように、苦しみの世を生きる仲間ですからね。

そんな俗世でいきるのが門徒の生き方だといいますが、
出家するより辛いんじゃないですかね?

今はお寺も俗世だから、真宗じゃかわらないかもしれないですけどね。
人助けでいきていけるなら、そういう仕事がしたいものです。
ローンの返済と子供が成人したら仕事やめよかな・・・

帰命尽十方無碍光如来

2013年9月19日木曜日

トラウマ?逆恨み??


4月に本籍の会社に戻り、一応SE系のお仕事をするようになりました。

新しい技術調査の仕事とか、新規サービスに関する仕事とかしていると、
営業支援ではない仕事に戻ったんだなと感じるようになりました。

ところが、一人で作業したり、営業と仕事しているには問題なかったんですが、
具体的にSEと技術的な話をしだしたら、苛立ちと悲しみが入り混じったような、
よくわからない衝動に襲われるようになりだしました。

ゆっくりと、衝動が起こる時の頭をみていると、どうやらその仕事を拒絶しようと
している感情がみえてきました。
それも2つの感情によって、引き起こされる衝動のようでした。


1つは、その仕事を慧海はやってはいけないのだと、頭のどこかで思っているようで、
体が拒絶するんです。

これは、復職直後位に上司(会社)から慧海のSEとしての働き場所は今の会社にないと、
リストラ的勧告をされて、営業支援の仕事に移った経緯とか、
慧海の仕事の悪さで多々迷惑をかけた事から、昔の仕事に戻らないと決めた事といった、
ものが引っかかっている事まではみえてきました。
その頃の思考が再生され、頭の中で再評価が起こっても、同じ結論がでてしまうので、
どうしようもなさそうです。

努力しても、利益の為に、また捨てられるんだろうな と。

もう1つは、今更SEとして昔のように仕事しろと言われても、10年近くSEではなかった
事に対する逆恨みがでてきて、現状を受け入れていないことで拒絶するんです。

今やっている仕事を、もう一歩深く掘り下げて仕事をしようと思うと、やれていない
やるべき事がわかってくるのですが、その作業についての情報が足りないと感じるんです。
その情報は数年前からある情報で使っている人も多い技術なので、
今更慌てて調べるようなものではないだろうと思っちゃう訳です。

後輩にきいても、詳しくは調べていないということで、わからない。
なんで、社内じゃ誰もしらんのだ?とイラ付くと共に、慧海は何故その仕事をしていない
のかと、あれやこれや、情報が足らんのに、どうやって考えればいいんだよと。

会社の判断でSEからはずして、今更昔のようにヤレといわれても、できるわけないだろと。


昔のようにやっていいよと言われても、戻る努力が怖いし、今更なんだよ という
2つの感情によって、戻る事を無意識に拒絶していたということです。

昔の仕事にもどらなくても仕事あるので、ヤレといわれても、僕には無理という回答で
すんでしまう話しでもあるんです。

でも、意識としては、おもしろそうだな やってみたいな と思うんですよね。

頭の中で勝手に色々と考えて、悩んでくれるおかげで、肉体的には気分がわるいです。
ホントうんざりです。

損得、苦楽、どちらも感情の問題なので、どっちも一緒だと思うんですが・・・
人の頭はよくできたものです。
うるさくてたまりませんわw

こういう時に念仏させてもらえる身になったことが、とてもありがたく感じます。

苦しむのが人であれば、念仏という薬なしには生きていけない

ふと、そう思う慧海でした。

2013年9月18日水曜日

Galaxy GT-N7000 アップグレード


今更ですが、グローバル版のGalaxy GT-N7000 のOSを4.1だかにUPしました。

samsung が提供を始めたって記事ばかりで、具体的な方法がわからなかったので、
とりあえず、慧海のアップグレード顛末を、ここに書いておくことにします。

まずデバイスから直接作業しようとしました。
そうしたら残念なことに、「No update available」と出てしまって、
うまくいきません。原因はわかりませんが、しょうがないので、KIESを使う事にしました。


1.KIESダウンロード

KIESを、SAMSUNGサイトからダウンロードます。
KIESを使うと、ファームウェアアップグレードができるんだそうです。
慧海はそれすらしらなかったんで、KIESに行き着くまで時間がかかりました。

慧海が落としたのとは違うURLですが、ここの左上の「WINDOWS用」をクリックすると落ちます。

http://www.samsung.com/jp/support/usefulsoftware/KIES/JSP

また残念なことに、慧海がおとしたのは、古いバージョンだったみたいで、
インストール後、最新バージョンをダウンロードするかと聞かれました。


2. デバイスをUSBケーブルで接続して認識させます。

慧海は、インストールに時間がかかったので、めんどくさがって
最新にしないで作業をしてしまいました。
そのため、N7000がSAMSUNGのデバイスとして
認識されず、ファームが落ちてこないという状態になりました。
また、そこらにあったUSBケーブルをつかったら、充電用にケーブルで
デバイスと通信ができないという基本からしておかしな状態でした。
色々と、楽しようとして悩ましい状態になってました。

ちゃんと最新にして、ケーブルもデバイスをちゃんと認識するものに変えることで、
無事作業が開始できるようになりました。

KIES Wi-Fi接続だとファームを上げられないらしいのでケーブルで接続する
必要があるようです。


3.ファームアップグレード

デバイスをちゃんと認識したら、最新ファームがあるってメッセージがでるので、
それでアップグレードしました。

時間がかかるので、つい他の作業をちょっとしてしまったら、アップグレード中にとまってしまい、
緊急ファームウェアリカバリーをすることになりました。

ファームアップグレード中にPCに負荷をかけるなんて、
システム会社の社員とは思えないおバカな行為ですね…
CD焼くのとファーム操作は、別の作業をしないというのは鉄則だったんですけどねぇw


ファームウェアリカバリーは、エラー時に番号がでてくるので、
それを使ってリカバリーをします。

そのままでは、リカバリー作業もエラーになるので、
一度ケーブルを抜いて、接続エラーの解消をすることと、デバイスも再起動して、
KIESでなんとかしろと書いてある画面にした状態でリカバリーをすることで無事完了

リカバリー後、OSは前の状態にもどるのかと思ったら、
最新になっていたので、とりあえずそのまま使ってます。



段々とこういう作業が面倒になってきてますね。
昔、SEの師匠がPCをWi-Fiに接続するのに手間取っていて、
なんで理論的に色々と思考できるのに、こんな作業に手惑うのかが不思議でしたが、
いまになると、こういう事ほど面倒で手惑うものなんだと思いますねw

ついでに、メインマシンのN-08Dも別ビルドがあったので、アップしました。
こっちは、電池不足で作業できず、充電しなおしてからの作業という、
やっぱり面倒なひと手間をかけましたw


2013年9月14日土曜日

最近の記録


前回も書きましたが、最近は他人の思いのようなものが聞こえるような気がします。
もちろん、妄想です。

慧海が勝手に、相手の声のトーンから怒りやら自慢やらの感情的なものを当てはめ、
話している内容とあわせて、慧海の経験にある苦悩とてらして、聞く言葉です。

これは、意識してやってるわけじゃなく、頭が勝手にやります。
だから止める事もできません。
妄想だからしょうがないですねw

他人の思い以上に自分の思いも流れてきますので、毎日の生活が鬱陶しいです。

たとえば、お客様に良い提案をしようということで熱く語っている人の言葉が、
自分の価値を、自分の正しさを認めてもらいたくて必死になっている言葉に聞こえるんです。
愚痴っているのに、自慢しているように聞こえたり。
テレビや本をみてても、そういうのばっかりですね。うんざりです。

逆に、自慢話しをしているのに、応援しているように聞こえたりするのもあります。

それを見て、自分の感情が動いて、ああでもない、こうでもないと頭が騒ぐ…
ホント、鬱陶しいです。


最近は、さらに勝手に過去の嫌だった思い出を脳内再生されることがあります。

中高生の頃の友人とのいざこざ話とか
昔の彼女の別れ話とか、
黒歴史といわれるようなものとか、
会社での事とか・・・。

大体忘れようとしていた事、思い出したくない事で、
片鱗を思い出すだけで気分が悪くなることばかりです。

それが勝手に思い出されてきます。

不思議と、再生され嫌な気分になった後は、
同じ記憶に嫌な感情がなくなっています。
嫌な感情になった部分も含めて、ただの記憶になってる感じです。

なんだか、もう、このままいけば、いつでも死ねそうですw


なにもわからないままで、落ち着いていられるので、
あえて、何かをしたりはしません。

これも、弥陀佛のお育てなんでしょうね。


帰命尽十方無碍光如来

2013年8月13日火曜日

みんな頑張れ


4月からの異動で、色々と余裕のない生活を送っていました。
盆休みで暇ができたので、全休先生のとこのコメントやリンク先をチェックしてみました。

おや、メインページのリンクに西求記の名前が戻ってるw
誰か後の方のリンクが消えたのかな??
あ!アル中の方がいない・・・。どれどれ・・・。ああ、ブログ中止かぁ・・・。
お世話になりましたw

・・・

フラフラっと読みまわって思ったのは、皆さん、苦しそうだなぁ という感じです。
そこには、皆さんのそれぞれの思いが、苦悩が綴られていらっしゃいます。
なんとかして、楽になろうとする方々の思いが痛いほど感じます。

慧海もそんなうちの一人にすぎないので、ホント痛いほど感じます。
慧海が感じた思い、衝動、苦しみ、そういうものが多々記されています。

慧海が苦悩真っ盛りの時はブログで色々と聞くということがなかなかできない環境でした。

でも、全休先生や亭主師からは年に2回のメールでご助言頂けましたし、
基本的には、慧海がブログに苦悩を書くと答えるかのように、お二方が記事を
書いていただけたので、 そこで学ぶ事ができました。

そんな中に、

「信心がないなら語るな(超意訳w)」
「犀の角のように独り歩め」

とかかれていましたので、自分に問う事を第一として過ごしていました。

自力無効と思い知らされるまで、一人で努力すればいい。
不思議体験も、奇行も、大疑団も、偏った思考も、執着もあることだろう。
その時、その時に常に気づいていれば、それでいい。
そう教わりました。

色々とあって、お蔭様で今では、
鬱に苦しめられない生活ができるようになりました。

おまけとして、人の欲望、苦悩を感じるようになりましたw
呑みの席で、相手が語らぬその人の苦悩を軽く指摘して驚かれたりもします。
でも、皆さんの苦しみが痛いほど感じられるので強い思いの人といるのは辛いですw

・・・

最近では、10倍返しなる言葉を街のあちこちでみかけます。
人気?ドラマの話だそうですね。
興味もないので、中身の話しはできませんが、
10倍返ししようと考えている時点で、その人の苦しみがうかがえます。

仮に良い方向で考えたとしても、10倍にしようとすればその事で頭は一杯でしょうね。
恨みや怒りだとしたら、10本の矢に刺されつづけるように苦しみ続けてるでしょうねぇ。

最初の怒りの苦しみを手放せば、その後が楽になるのにねぇ…。

2013年7月18日木曜日

自然を信じて仏を信じず

日本というか、東洋思想というか、まぁそういう感じのものに

陽極まれば陰に転ず

と言う考えがあるかと思います。

陰陽が循環するという考え方で、陰が極まっても陽に転ずると考えです。
1が全てで、全ては1 みたいなものとセットにして、大極の考え方になってるかと思います。

慧海にとっては、これも自然という事に感じます。


僕ら真宗門徒は自分がいかにダメダメかという事を常に観察しながら生きます。
学んで、内観の念仏して、それでわかる事は、どこまでもダメダメな自分です。

自ら望む訳でもないのに、どん底にまで落ちていく。
途中で引き返そうと思うものの、それもできず、自分を見続け、どん底まで突き進む。

どん底で気づくのは、こんな私は救われる訳がないという事じゃないかと思います。

そんなダメダメな自分が受け入れられなくて、法とやらが救ってくれると信じて、
あれやこれやと考え、教えを探します。

でも、答えなんて見つかりません。
結果、どん底でダメダメな自分を受け入れた時、陰が陽に転ずるのでしょう。
ダメダメなままで落ち着けるようになるんです。
底辺にいるのに、心は縛られず、慈愛の心すら湧いてくるんです。
これが救いかとおもったりしますが、これも自然なる錯覚でしょう。

勘違いして、どん底から少しでも這い上がっちゃうと、途端に縛られ、
欲と怒りの中に戻ってしまいます。
仏様にお救い頂いたなんて考えてる時は、どん底にいないんです。

結果的にダメダメな自分と向き合うだけの生活に戻ります。
逆に、どん底しか落ち着けなくなっているように思います。

慧海は結果的に仏様を信じていない状態に戻りました。
何かを外に求める事は必要なかったんですよ。
ああ、なるほど、「あるがまま、そのまま」 ってこういう事かって感じるんです。

何も信じてませんよ と言いながらも、どこか信仰めいた感覚があるので、
それは何かと自問したら、自然という事に行き着きました。

人間は自然なんだなと気づきます。
Natureの「しぜん」じゃないです。なるようになってる的な「じねん」です。

自然と一体になるっていう事じゃないんです。
華厳みたいに、宇宙と一体なんて妄想めいた話じゃないんです。
無我です。Noアートマンです。何かと一体にって話しじゃないんです。

私たちが「なるようになっていた」っていう事です。

色んなモノや人が、慧海を慧海たらしめているんです。
慧海個人が認識するモノや人は妄想と代わりませんが、
慧海の認識しないところにある、モノや人の働きが慧海を慧海たらしめるんです。
そんなあたりが、諸仏というものなんじゃないかと感じてます。

当たり前ですが、お寺の仏像が佛じゃないんですよ。
それを彷彿させてしまう、「南無阿弥陀仏」という称名じゃなく
慧海の周りの諸仏を感じる「帰命尽十方無碍光如来」
という称名を使ってみようかと思う今日この頃です。

2013年7月14日日曜日

亭主師と慧海


7/6に、鬱陶しい亭主様のサイトが休止に入ると書かれていました。
慧海のブログでは亭主師と書かせて頂いている、その亭主師のサイトです。

早速ご挨拶メールを送らせて頂いたのですが、その際にあることがわかりました。

亭主師の今回記事をかかれていた期間と、慧海の苦悩(修行?)期間が同じだったんです。
慧海からみれば、慧海という弟子の為に法を説いて頂けていたかのようではないですか!w

亭主師は2007年4月に休止されて、10月に再開されてます。
慧海がブログを始めて、亭主師の事を教えていただいたのが、2007年9月です。
そして、慧海の中でどうなっても生きていけそうという感じになったのが、2003年1月
回心体験の夢心地から抜け出して、唯日々の生活を送るようになったのが、今です。
亭主師が、感想文を中心に方向転換したのが1月、そして今回で休止です。

最後の仏教記事?第678話 久々に仏教のことと、第697話 言葉・ロゴス・法は、
亭主師感を感じるとてもありがたい記事で、反省しつつ、感心しつつ頂きました。


亭主師のサイトは、全休先生にメールして教えていただきました。
悟りの智慧を得た人を知っていると全休先生のサイトにあったので、
その方はどういう方かとお伺いしたら、亭主師のサイトを教えていただきました。
その時は、まだ休止中でしたので、過去記事を読み漁っていました。
休職中の慧海には時間ありましたし…w

その後、慧海のブログを毎朝みていただける方がいたので、どんな人だろうと
いう記事を書いたら、それが亭主師でした。

その後から、定期的にご挨拶メールをお送りさせていただいておりました。

今回、休止されるとのことですが、再開しても仏教関係のお話は殆ど
書かれないんじゃないかと想像しています。

カメラから仏教に、そして今は感想文をかかれてました。
再開したときはどんな事をかかれるのか楽しみです。


ありがとうございました。

またお会いできる日を楽しみにお待ちしてまぁ~すw



2013年6月26日水曜日

欲求に忠実なんだな


年明けに、慧海を押さえつけているものがなくなって、楽になった

その結果…堕落したw

二乗地に落ちるとかいうんでしたっけ?

まぁ難しい言葉はわかりませんが、欲求を押さえつけなくなったので、
欲求のままにすごしてしまうようになりました。

とはいっても、人様に迷惑をかけるような欲求があるわけではないので、
誰かに迷惑をかけたりはしていません。
ただ、食べたいものを食べ過ぎたり、呑みすぎたり、直行直帰を多用して
ちまちまとサボりまくったり…

怠惰で、過食… 結果、デブをこじらせてしまった。

そんな行動に、少々気になったりはしますが、概ねOKな感じで、
心を入れ替えてなんとかしようとか思わない。

どこか、その時がきたらツケを払えばいいや 
って感じの開き直りが ある


今やれることをやるだけ

酒については、今は呑む気がなくなったので呑んでない
食事は…炭水化物がやたらに欲しくなって、米やら麺やらを…

どうせ食べたくなくなると、また食事をしなくなるんだろうなぁ なんて思って
今は食べている。

出社時間も最大2時間近く差がある

そういう不規則な生活が良くないと言うけどねぇ…

さて、どうしたものかなぁ

2013年6月22日土曜日

根暗が酒無しで仕事仲間との交流を深める方法教えてください。

この7日間で6日が飲み会だった。
結果、6日が二日酔いだった。

復職前まではすぐ酔ってたので、新人の頃を除いて二日酔いになることは少なかった。

ここ最近はなかなか酔いがまわらない。
結果何時間モノ間、酒を呑んでしまい
翌朝になって激しく酔う

昔は煙草をすっていたから、酒をほとんど呑んでなかったのもある。
今はずっと酒をのんでいる
そして何かたべている

そんな6日間で胃がおかしくなってきた
胃がいたくて、低周波治療器で内臓マッサージするくらいに…

アホだな慧海は・・・


飲み会が断れないなら、ノンアルコールをにするとかあるだろうが
ソフトドリンクは割高感があるので、なんか嫌。
問題な事に酒を呑まないと慧海はテンションが低くて一緒に呑む人が引くらしい
家族にも、飲み仲間にも言わるんだから、相当つまらなく、痛いヤツなんだろう
引きこもっていられるならそれでもいいが、そういう訳にもいかないでしょw
なんて、いいわけをもってアルコールをとっていた。

とは言っても、もうこれ以上二日酔いになる呑み方をやめないと体を壊す
たとえ1日でも、翌日が二日酔いになる飲み方はもう一度卒業しよう


まずは、ビール中瓶3本をMAXとしよう
それを先に宣言してしまう事としよう
で、生中3杯までであとはソフトドリンク。
中ビン3本換算なら、生中1杯程度の余裕を残して…

まぁ頭で考えたって、呑んだらどうなるかわからないのが酒
でも、翌日も楽しくすごしたいからね。
酔って本音や暴言吐いて苦しむのも、
すっぱいもの吐いて苦しむのも嫌ですからw

皆さん、酒を呑みたいのではなく、話をしたいだけなんだから
途中から酒じゃなくても問題ないでしょ


酒を呑むという事でしか、仕事以外の話をする場も方法も知らないのですよ…

2013年6月2日日曜日

明日で41歳


慧海は明日で41になります。

もう41かとも思うし、まだ41かとも思います。
自分より10も20も30も上の方々とばかりお話をしているのと、
人生の終わる日を待つような感じが、41はまだまだこれから
という気にさせないのかもしれないです。


先日、後輩に復職したてより今の方が元気がない、暗いと言われました。

予想外な一言でした。
慧海としては、その頃の方が色んな事に苦しく、必死であり、
まだまだ死にたい思いがつよくて、そっちの方が暗かったと思っていたんです。

今はというと、肩の力も抜け、残業しないと終わらない状況でも、
仕事は忙しくセッセと頭つかって作業をこなしますが、どこかノンビリしていられるんです。

気負って頑張って、なんとか思い通りにしなくちゃいかんっていう所がないし、
テンションを高くして自分の価値を知らしめる必要もない、
ただやるべき事を自分にできるやりかたでやればいいって思って仕事にむかうと、
落ち着いていられるので、やる気がないようにも見えるかもしれない。
自己主張しないでも居られるから、人の話をきいていられるようにもなるのですよ。
発言がすくないと、積極性に欠けると見られるようですね。

外は元気に見えて内は空回り
外は暗くみえて内は穏やか

外見の評価など実にあてにならないものです。


やるべき事は増えているし、事務処理の手間も増えているし、色々あって
ストレスは増えているようで、体は辛いです。
それに引きづられて元気もイマイチでません。
それでも、どうにでもなるというか、どうにか勝手になっていくっていう感覚があって
変なあせりがでてこないのが不思議でたまりません。


今年のお正月に全休先生から、自縄自縛することなく、
「仏縁の中、仏の光をいっぱいにあびて、のびのびとなまけ生活を楽しみたいものです」
「軽く軽く、生き生き、のびのび、怠け者生活を楽しみましょう」
と いうようなお言葉をもらいました。

自らを縛ることを怠けることはこんなにもノンビリした感覚なんだと実感しています。

いまはマダ生き生きという感じがわきません。
人生の課題がみえてきたら、生き生きとするんじゃないかな?

41のこの年には生き生きとノンビリすごしていけるといいなぁ
なんて思います。

いくつになっても取りとめもない駄文を連ねる慧海でした

2013年5月19日日曜日

2ヶ月を振り返って


もう5月も半ば過ぎです。

3月初旬に書いてから、2ヶ月がすぎてしまいました。

毎日つぶやきは書いてましたが、記事にするような事もなく毎日忙しくすごしてました。

Twitterのつぶやきみながら、近況を書いておきます。


3月中旬に、出向が終わり、SE部門に戻ると、裏話の定番、飲み屋で言われましたw

復職リハビリのように営業系に引き取ってもらったので、
営業支援の仕事が終わるということが、本当に復職するのだと感じて
なんか憂鬱な気分でしたね。

8年ぶりにSE職なんで、いい顔して出来もしないのに「やります!」とか言って、
自分勝手に苦悩に潰れるんじゃないかと不安な感じでした。
知らない人たちの中に入るのも苦手ですしね。

まぁ3月末に向けて、残務を全部かたづけられるように、サボれるときは今のうちと
言わんばかりに、手を抜きつつ、忙しく仕事してたら4月も1週目が過ぎてました。

4月に入ると研修を受ける事になってました。
コンサルティング的な仕事ができるようにということで、8年分のズレを感じさせられ、
まぁ色々と考えさせられる日々が続いて、5月半ばというところです。
案件提案にも入り、研修と案件対応と別会社の事務処理、そして新しい人たちとの付き合い…

その間、子供が小学校を卒業し、中学に入学したり
花見に行ったり、部活が始まると親とでかけなくなるので今のうちと遊びにでかけたり、
お寺の花まつり法要に行ったり、お寺のI師、S参と呑みにいったり…

平日は忙しく、休日もあれやこれやとして、また来週。

日々やることをするだけで、無駄にずるずる苦悩している暇もありませんでしたw

ずっと地に足がついているしかない感じなので、いい顔なんか作ってられません。
酔ったりして、ちょっと自分話でもしようものなら、翌日には、舞い上がっていた分
地面に叩きつけられたような嫌な気分が襲ってきます。
なので、どんだけ頭の中で自分話をしていようとも、口にはしません。

人を評価したりする事も昔に比べるとマッタク無いと言っていいほどです。
みんな頑張ってるなぁって感じがして、好き嫌いの感覚が感じ取れない程です。

親兄弟に対しては、イラっとしちゃいますけどねw
親兄弟には何かを期待しちゃうからでしようかね。
まぁしょうがないですね。


意識はしてなくても体には負担がかかっていたようで、
体調は微妙にすぐれないですね

まぁいたし方ないことです。慣れたら普通にもどるでしょうから。


今でも念仏が常に口から出るということはありません。

最近は、仕事の帰りとかに、人事を尽くそうと考えれば、「天命は何だ」と、
課題を見つけなきゃと考えれば「私にとっての大切な課題は何だ」と、
言葉の意味をおさえなきゃと考えれば、「生まれてきた意味は何だ」と
いう言葉が頭に浮かびます。

日々をどのように過ごすのかを問われているような気がしてなりません。

仏事は不可思議
わかるときがくれば、向こうからおしえてくれるものですので、
今はただ日々をしっかり過ごすとしましょう。

2013年3月10日日曜日

今年の梅


今年も地元の梅園に梅を見に行ってきました。

今年は温かくて、梅をみているのか、桜をみているのかわからなくなるような感じでした。

昨日は、天気も良かったのですが、今日は黄砂やら、大風やらで空の色も悪く
写真もまともにとれず、ちょっと残念です。

来週位から、寒桜が咲くようなので、それを撮りにでもいきますかねぇ~。


ついでに、植木やら盆栽やらを見てきました。

先日、盆栽用の梅を買ったのですが、なかなかに良かったので、
どんなもんがあるか、色々と見て回りました。

松とかはやっぱりいいですね。
ワビサビというイメージはこれですかね。

でも、立派なのはやっぱり高いですw

ド素人の慧海が松に手を出すなんてのはもちろんしませんw
どちらかというと、花がさくようなものを見てました。
今だと、梅とか、ボケとか、河津桜、雅桜あたりです。

僕の友人で、あと1世紀もしたら、日本人の文化表現に「モエ」が入ってるだろう
と言った人がいました。

日本文化は、ワビ、サビ、モエだとw

歴史の教科書とかで、有名なアニメ監督とかアイドルの名前とかがでて、
モエ文化は、21世紀初め頃秋葉原を中心に栄えたとか書かれるのだとw

それは、呑みながらの笑い話でしたが、今日、盆栽をみていて
梅や河津桜が咲き誇る盆栽はワビサビよりもモエの感覚なんですよね。
秋葉で手が出せないフィギュアを眺めている感覚にとてもよく似ているのですよwww

咲き誇る朝顔の花を全て切り捨て、一輪だけを茶室に飾るようなワビサビと違い、
その咲き誇る姿の愛しさをそのままにするとモエという表現になると思いますよ。

「モエ」を僕らヲタが2次元だけを愛でる表現にしておく事もないのだと慧海は思うのですよ
まぁヲタは一般化するのを嫌いますけどねw

昨年は、梅と桜に説法をききましたが、今年はただモエを感じ、
収集欲望が刺激された梅でしたw

実家を二世帯化とかしたら、庭に梅と桜植えてやるぅ~w


あ、そういえば、毎年梅の時期は、鬱っぽいのに、今年は鬱々しないなぁ
有り難い事です。

2013年3月7日木曜日

とりあえず近況


最近、また記事が書けないのですよ。

以前は、迷いからでられなくなってかけなくなった感じですが、
今回は、何も言える事などないのだなぁって感じてしまって、書けないのですよ。

あるがままなのに、何を言葉にする事があろうか…

なんて書けばそれっぽいんですかね?
そんな立派なもんじゃないんですよ。

もう、全休先生や亭主師が書いているじゃないか!

っという状態なので、別に書くこともないなぁと…w

書いてある事を同じように感じるようになったというのはありますが、
それを一々拾い上げて書くこともないなぁと思うのですよ。


まぁ散々主観で愚痴を書き連ねておいてと今更思うので、今の頭の中だけ記録しておきます。

1月頭に、回心熱のようなもので、感じた事を書き連ねましたが、
その熱から抜け始めれば、何も変わっていない事に気付きます。

仏教で何かに気付く事を、自転車に乗れる事にたとえられます。
その喩えをつかって、かいてみます。

自転車を初めて乗れた時ってれしいですよね。
乗れた時は、ただ、「見て! ボク、乗れてるでしょ!!」ってなります。
これが、先日の慧海の心境ですw
十九願から二十願に回入した瞬間と表現されるものだと思われます。

でも、補助輪無しですから、その直後に、曲がれず、止まれず、転ぶんですw
乗れたけど、まだ先があるのだと気付きます。
じゃ、どうすれば転ばずに自転車にのれるようになるのか?
今の頭で考えれば、自転車に乗り続けるということしかないのだろうと思います。
これが、今の慧海の心境という感じです。

きっと、乗り続けているうちに、自転車に乗れることは特別な事じゃなくなるんでしょう。
普通に自転車に乗る姿をみて、子供達も自転車には乗れるんだと思うようになるんでしょう。
たぶん、そうなった時が十八願往生であり、十七願の諸仏の仲間入りという事なんでしょうかね?
まだ慧海には、その感覚はわかりません。

念仏の違いで言えば、「助けてください」から「ありがとうございます」になりました。
でもどちらもまだ念仏を私物化しています。
たぶん、「ただ念仏する」という事になっていくのでしょう。
そうなろうとするのではなく、勝手にそうなっていくのだろうと思います。
こちらも、まだ慧海にはわからない感覚です。わからないままでいいのでしょうね。


まぁ、つまり、やる事と言う意味では何も変わらないんですよ。
毎日、自分と向き合って生きていくだけなんでしょう。
地に足をつけて、何かを信じたりせずに生きていくんです。


慧海にとっては、どこまでも病んだ心の自分との向合いだけだったようにも思います。
向合って、少しずつ、少しずつ自分の抱えていた思いを壊していく日々です。
今の慧海があるから、病んだ慧海に意味が生まれたのでしょう。
やっと、死にたいと思わず、普通に俗世で生きられるようになったんです。

慧海にとっては、どうしようもなくなった時、仏門があったんです。
そして、それしか生きていける気がしなかったから、進んだんです。
嫌な自分を見続け、否定し続け、息苦しい毎日を送りつつ、少しでも楽になると
もう智慧を得たのだと喜んでみて… でもやっぱり苦しい日々を送るんです。
何年も、何年も・・・。

仏門なんて、通らなくてもいいなら通らない方がいいと思いますよ。
入り口あたりで引き返せば、処世術ですし、なんかちょっとかっこいいですしねぇw
俗世でいきていけるなら、宗教なんて関わっちゃいけないと、慧海は思います。


と、いうところで、しばらく、仏教話はないと思います。慧海が育つまで何も書けません。
ブログには、どうでもいい出来事しか書けないと思います。

慧海が日々感じたちょっとした事は、ツイッターにあります。
なのでブログにツイッター画面だしましたw

なんとなく、気ままに書きますのでご縁がありましたら宜しくお願いいたします。

南無阿弥陀仏

2013年2月17日日曜日

色々と


実家が、空き巣に入られた。

「穢れ」みたいなものがありそうで、気持ち悪かった。
浄土三部経あげたらいいか?念仏したらいいか? なんて考えたりする。

ああ、念仏の効能を信じているにすぎないのだなと思い知らされる。
なんかを知ったような気になれば、そこで終わりだと思い知らされる。

十九願の自力さからは、宗教体験を経て移行はしたのだろう。
他力感がとてもあるが、念仏に対する執着と期待感が自力になっている感じがする

やっぱり、二十願なんだろうなぁ…って感じた。

だからと言って、バタバタしようもないし、そんな気も起こらない。
十八願に向けて、お育て頂きつづけるだけ。


義理の父の法事があった。
慧海は住職達と一緒に、阿弥陀経から声明することになった。
得度はしてないけど、自分のとこの法事ならいいか と…。

法話の際に、大谷派は間違ってると、勉強会だかで言われたと住職が言っていた。
清沢先生、曽我先生も否定され、正しいのはお西だと言われたと…
どんな話を聞いたかは存じませんが・・・、住職…がんばってください…



慧海は、今年は得度をしないことにしました。
いつか得度はするかもしれないし、しないかもしれない。

すくなくとも今ではないと感じました。
声明の練習はするし、仏書も読むし、念仏もする。でも今じゃない。
得度は、勤続25年目の休みが出た頃にでも考えるかな~
教師試験受けて、住職とかになるわけでもないから、ただの趣味の世界

でもね…職場での我執、我欲との付き合いには嫌気がでてきたのはある。
困っている人の助けになる商品、サービスの提供ならいいですが、
欲望を刺激して販売しないと数字が足りないなんて事にもなるわけで…。
相手の代わりに自分の欲望を刺激し、欲しくないものを欲しくならないと案がでないし・・・
まぁ、疲れますわねぇ…。
無理に欲望を刺激しないでいいなら住職とかなれないかなぁなんて考えてみたり…。

 
4月には、出向が終わって、自社に戻る可能性が高い。
その結論が2月末にでるらしい。

異動となれば、また環境が変わる。
慧海はどういう風に新環境を受け入れられるようになっているか

慧海はどこまで、お任せしていられるかなぁw



南無阿弥陀仏

2013年1月26日土曜日

渡ったのだな


亭主師の記事に
「彼岸に渡ったら、渡ったのだとわかる」
ということが書かれていました。

でも慧海は、楽になったけど、どうもその感覚がわからないので、
やっぱり違うのだろうかと…誰かに判じてもらおうと思っていました。

昨日、会社に向かうべく銀座を歩いてポンと感じました。
渡ったのだと。

なにかストンと落ちたというか、落ち着いたというか…そんな感じです。

全部が、如来の思し召しなんですよ。
何一つ慧海の意図するものではないんです。
慧海自身は何も変わってません。何もわかっちゃいません。
なにもわかってないまま、本願以外、何も信じていないまま、ダメなままなんです。
なので、全部、真如の方からの働きとしか言いようがないですね。
本願だって、念仏だって、信じるしかない状態にさせらたのですから。
信じられ思われている身なんです。こっちはただ御任せするだけなんです。
もう感謝しつつ、念仏するしかないんです。


慧海は、ずっと何かを抑え続け、押し殺して、毎日を息をしているだけで苦しく、
それが普通だと思って過ごしていたのに、まったくそういう感じがないのですから
これを救われたと言わずしてなんというんでしょう。

復職してすぐの頃、何もかもを否定することしかできず、自分が生きている事も
この身体がある事も否定していた時、やたらと苦しかった事を覚えています。
その時は、自分の反応をみることだけに意識を向けていて、自分が存在する事は
否定できないんだって気づいて、少し楽になりました。

その後、何度もグルグルと迷って、自分の思い、欲求、感情を抑えてないと
ダメなんだって思って、ずっと押し殺していました。
その間、頭の中だけはみたまんま。
全休先生の記事じゃないですが、自分はろくな者じゃないですね。

自分は決して救われないと深く信じることを、機の深信というのだそうですが、
この5年でわかったのは、慧海は救われるようなヤツではないということ。
そのくせに、無自覚になって苦しみに気づかない日々を送ると、信を得たかのように慢心する
そんな日々を送って、色々と壊れて、やっと頭が下がった。
やっと佛の言葉に耳を傾けられるようになった。
傾け始めたら、運良く救われた。そういうことだったのでしょう。


もう、誰かに保証して頂く必要もなくなりました。
仮に慧海のは妄想だと誰かに言われようとも、
慧海は救っていただいた身であると言えます。

慧海にとっては、どうしようもない事実なんです。

生きている事を否定せずにはいられない慧海は、
如来によって生きる事を認められています。

それを感謝し、佛を憶念し、念仏するしかないんです。
ただそれだけです。


抑え込んで生活しなくなったもんだから、気力もでてきちゃいましたよ。
仕事もちこっと、がんばってみっかなぁとか
仕事向けの勉強でもすっかなぁとか
2月になったら、何箇所か梅みにいくかなぁとか
大分ふとったんで、すこし痩せるよう、運動してみっかなぁとか…
まだ死にたくないって気にもなったんで、身体のケアもしないとねw



のんべんだらりんと気負わずに、社会と闘ってみっかなぁ~

どうなるかは、弥陀におまかせでねw


あ、そうそう
全休先生のリンクにある、小太り爺さん様のブログひまわりに
慧海の記事の事を書いていただきました。
http://bloghimawari.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-d8ad.html
ありがたいですねぇ
こんな小僧の愚痴記事に目を通していただけるだけじゃなく、
慧海の出来事を喜ばしく思っていただけるんですからね。
ブログはじめた頃からは想像もできない事です。

改めて、ご同朋の皆様に感謝です


南無阿弥陀仏


2013年1月21日月曜日

こんなんでいいんかなぁ


先日、お茶のみ同僚O氏から
同じようなことばっか書いてつまらん
という感じの指摘をされましたw

そりゃそうでしょうねぇ
偶然起こった感覚をああだこうだと書いてるんですから…
まるで俺はUFOを見たぞと言わんばかりですねw
他人からすりゃ、ホラ話きくのと同じ位つまらんでしょうね
でも、慧海としては記録を残しておく事が大事なので…
読んで頂けている皆様、ごめんなさいねw


まぁ、慧海にとってはいままで想像していた理解とは違った感覚ですし、
物事のとらえ方も以前とちょっと違っちゃうような経験なんですよね
だもんだから、頭がソコに依存しているかのような状態なんですよね

あの時に感じた事、気づいた事はどういうことだったのか と

イマイチ表現できないし、書けば書くほど感覚とは違ってるような気がして…
でも、今まで、そういうものかと思っていた仏書等が、今は、なんかわかるような気がして…
でもやっぱり自分では表現できないし、やっぱり単なる不思議体験だったかとも…

いずれ、慧海の念仏も親鸞聖人の念仏と同じ念仏ですと
言えるようになるんですかねぇ
元々慧海の念仏じゃないんだから、同じなはずなんですけどねぇ…w



そんな感じで、意識がそっちにむいて、気になってはいるものの、
別の意識は、普通にドライに淡々と動いて、普通に生活してるんですよw
十牛図でいう牛に乗っている感じですかねぇ?家に帰った感じですかね?

いままで、苦しいナァ、なんとかならんかなぁと
ず~っと気にして、気にしないようにして、やっぱり気にして
少しずつ、自分の思い込みが壊れていって、気にしている事も
苦しい事も何もかもそのままに受け入れることにして…
と過ごしてきた慧海ですが、そういう苦しさがなくなってしまった結果、
これからどうしたらよいのかが、わからなくなったんですよ

奴隷から開放されて自由になったら、命令されなくて不安になった
っていう、そういう感じでしょうか?

もう苦しさと闘わなくていいのかな?
また一時的のもので、やっぱり苦悩に焼かれるようになるんかな?

終わりじゃなく始まりだっていう感じなのに、何が始まったかわからんのですよ

奴隷の例えじゃないですが、自由になった感じはします
本願を頼りに自由に(一人で?)生きていくんだなって感じですかね
それが始まりってことなんですかね?

結局、考えてわかるものでもないし
そういう事は御任せしちゃってるんで、
普通に生活するだけだから、悩む事も実はないんですけどね

どっかで、御任せしちゃダメって感覚が残ってるんでしょうねぇ

もう不思議体験の話は書かないようにしようと思っていたんですが、また書いちゃいました。

南無阿弥陀仏


PS

これ書いている時に、いっしょにSDにデータを移動させていました。
そしたら、SDカードライタがエラーを起こして、28G分データがきえてしまいました。
元データがあるのは半分くらいでしょうか…

ショックはあるんですが、いままでのような後悔の嵐には飲み込まれていません。
数年前なら、これだけで数日布団からでられなかったですから…
でも、やっぱりショックですよ
きになるものだけでも、なんとか再入手したいですね…

HDDにあるデジカメの写真だけはDVDに焼いておこう…僕が良くても家族が許してくれないw


2013年1月14日月曜日

帰命


全休先生の記事とか、御文とか、歎異抄とかみて気づきました。

おかげさまで、南無阿弥陀仏を知ることができたようです。
帰命がわかるようになったようです。

というか、南無阿弥陀仏も帰命もそのままに書いて頂けていたんです。
わからなかっただけで・・・。

先日感じたアレは、そのことだったのだと気づきました。
帰命してたんです。
 帰命…先週慧海が書いた記事がそのままに帰命です。
ホント、びっくりするほど、帰命しちゃったましたw

あえて書きます。
(異議のあるかた、コメントください。たぶん気にしないですがw)

慧海は如来に救って頂きました。
慧海は信を得ました。
慧海は本願に、弥陀佛に帰命・帰依しました。


命(いのち)に帰(かえ)るとお寺で話しがありましたが、そういう感じじゃなかったんです。
帰命は、命(めい)に帰(き)すです。
命令の命です。帰するの帰すです。※言葉がわからない人は調べてねw

慧海の表現で言えば、弥陀佛の
「お前を救うから、お前は俺の命令通りに我が名を称えろ!」
が聞こえたので、もうなんともできんと思う慧海は、命令に従って、
あの方が望む用に全てを投げ出して念仏をしたのです。

理屈はないです。私心もないです。ただ答え、捧げたんです。
知らずに、慧海は念仏に、弥陀佛に帰依したんですね。

あとから色々と言葉を知ると、そういうことだったのかと気づかされます。
  

  いや、もう、あの感覚が本物だとすると、慧海にまさか…って思いますが、
  調べてみると、調べてみるほどに、あの感覚が本物に思えてしょうがないんですわ
  わからなかったことが、わかるような気になるんですわ
  ささげるしかないって感じたあの感覚が、本物かと思うと、
  もう、ホントなにもできませんわ。頭さげて、ゆだねて、御任せして…
  今でも思い出すと、本願に帰して、念仏するしかなくなりますよ。ホント…


これからは凡夫慧海は、本願のお心に感謝し、
佛のお育てに御任せして生きていくことになります。


そんなわけで、ここまでお世話になって人に感謝を記しておきたいと思います。

善知識たる、「全休先生」に感謝、「亭主師」に感謝。
慧海と真宗の縁を深めてくれたお寺の「住職」と「井上師」に感謝
慧海まで届けていただけた宿縁、釈尊と、弥陀佛と、宗祖、七高僧に感謝

問いを残してくれた、通りすがりの「しゃり様」に感謝
サンガたる、「kirinnさん」や、お寺の「朴峠さん」、「柴田さん」他に感謝
家族と、飲み仲間の、「水氏」、「G猫氏」、「照氏」、「S氏」、「U氏」に感謝
お茶のみサボり仲間の「O氏」と、痛い説教をしてくれた国立大学の某先生に感謝
ついでに、主治医やら、高校の仲間やら上司やら、日々お世話になっていた人に感謝

皆様に如来の願いが届きますように…


慧海はもう、自殺するような事なく、体の不調に怯えることなく、
他人様と違った感覚のまま、社会を慈しみつつ無関係にノンビリ生きていきます。


やっとスタート地点です。

なんか、いろんな事を感じますが、どうも言葉にできないですね…
伝えたいとおもいつつも、伝える事もできないとも思う…
慧海の記録の中から感じ取って頂ければ幸いです…。

ご縁ある皆様、これからもよろしくお願いいたします。

2013年1月13日日曜日

一週間過ごして


仕事始めから一週間が過ぎました。
まだ、不思議体験の影響が残ってます。

慧海の意識が2つに分かれたような感じです。
いままでの慧海の下にもう一人慧海がいる感じです。
慧海が今まで通り世の中にケチつけている下で
温かく見守ってるような意識の感覚があります。

その感じは他人様にもむけられるようで、
他人様の行動に不快を感じている下で
他人様を応援するような感覚があります。

人嫌いの慧海なんですけどね

あと、自分の行動に反省しなくなりました。
もっと損したとか失敗したと思うようなことがあれば
反省するかもしれませんが
今のところ、何をしてもそれでいい と言う気がしてます。

だから、毎日が楽です

仕事の事はもちろん頭も使いますが
ああすればよかった とかいう気にならないんです。

自分を良くみせたい と思う心がわかってる分
良く見せなきゃって思わないのかもしれません。

よくわかりませんが、これでいいな って思うので
あんま考えてません。

あとは、いつ死んでもいいかな って気になってます。
だから、ご縁が尽きるまで生きていようって思います。
毎日を楽しく生きていようっておもいます。

自分の思いに閉じこもって、生きる意味がないので
死にたいと思っていた事の逆ですね。
思いの中で生きていたいが為に、死にたくなるんですよね。
そんな風に今の慧海は感じます。

これらが信によるものなのかはわかりませんが
慧海の知識になかったところで
慧海の視界に何かが加わった気がします。

スタート地点に立てたのでしょうか?
やっぱり、思いが作った妄想でしょうか?
慧海に判断はつけられません。
もう、どっちでもいいです。

ただ、もう慧海の努力では、
本当に何もできないようです。

一週間過ごして、そう感じました。
気楽でノンビリとした気分のいい日々でそう感じました。

わからんことを考えてもしょうがないので
このまま、なるにまかせてノンビリ過ごしていたいと思います。

南無阿弥陀

2013年1月4日金曜日

もう落ち着いた


あらためて先日の記事をみると、なんだかよくわからないですね。

慧海自身、考えてるんだか念仏してるんだかよくわからない状態で、
急に気分のいい、おおらかなやさしい気分になったというか包まれたというか
よくわからないので、よくわからない事に思考を加えてみたり、
感じた記憶をかいてみたりしてみたのですよ。

頭が勝手に作りだすイメージなんだから、まぁよくわかりませんね。

でも、今、ココにいる慧海をしっかり認識できました。
今、ココで気持ちよく自分の事を忘れて念仏している慧海が…


 今日念仏しても、もう同じ感覚は感じません。

とはいっても、南無阿弥陀仏と口にし、耳に入る感じが
先日までとは違う気がします。
あと、ずっと抑え付けていたような感じがなくなってて、気分がいいです。
正月休みで仕事してないからかもしれないですけどねw

まぁ、まやかしでも、念仏してるのが気持ちいいと体が覚えてしまったので、
できなかった念仏をする気にはなりましたね。

どんな形でもお育ていただいたってことでしょう。
ありがたいことです。


三が日もおわり、平常運転に戻し始めます。

このまま、ノンビリ、気分よく社会生活に悩めればいいんですけどねw
どうなることやら…


余談ですが、
亭主師のサイトが方向転換するとのことでしたが…
今のところ、慧海の得意分野に寄った記事が連投されています。
大晦日に放映した、猫物語(黒)をみたばかりでこの記事ですし…w

亭主師の中の中学生と大差ない慧海ですので、
そのまま楽しく読ませて頂いております。

方向転換で、内面を晒していく事にされたんですかね?
それとも、趣味的な方向に行く(戻る?w)んですかね?
楽しみです


物語シリーズの次は映画で傷物語(こよみヴァンプ)の公開ですかね~
それとも猫物語(白)ですかね~
全作アニメ化らしいですから…

2013年1月3日木曜日

念仏が気持ちいい


昨晩は、スマホのブラウザで書いてたので、編集操作で表現したい事が
イマイチかききれませんでした。

と、いうか、今感じている事が記事に書ききれそうにないのですが、
残しておきたいので、書いておきます。

一言でいえば、念仏が気持ちいいのですよ。


自分のものじゃない念仏
捧げる念仏
無心の念仏

慧海自身を念仏に乗せてマルッと献じてしまって
慧海が消え世界の中に溶け込んじゃったような念仏です。

恥ずかしい言い方ですが、愛しい人に「愛している」と言葉を送るような気持ちよさ
お世話になった人に、心の底から感謝を伝えるような気持ちよさ
必要とされる気持ちよさ
この世に愛される気持ちよさ


なにもできない慧海は、念仏する事でのみ居場所が得られたようです。
いらない子慧海が、救うから念仏せよと求められ、それに答える形で
やっと必要とされた。認められた。生きる意味があった。

これが、救われたということなんだろう


2007年の4月頃に、いままで慧海が慧海だと思っていたものが崩壊し、
自己実現の為に生きてきた慧海は生きる意味がわからなくなりました。
休職中ということが、さらに、世の中に慧海を必要としない事を理解させます。

生きる意味も、必要性もない、生きる価値もない慧海

誰かに認めてもらいたくて、必要とされたくて、人とは違う事をしてきた。
努力し、勉強し、媚び、戦い等をしながら、私という人を発信してきた。
描いた自分が演じ切れなくなって、不必要な自分が嫌で空回りして、病んで…

ただ必要とされたかったんですね。
でも、他人に認めてもらう努力が無駄だと感じ、落ち着くところもなく
自分の醜さ、意地汚さと向かい合う日々を5年続けてきました。

でも、今はやっと落ち着いた気分です。


これが頭の作ったまやかしかは、時がたたないと慧海にはわかりません。
慧海自身、既に何を書いているのかよくわからない感覚です。
気持ちよさに駆られて指が動いているだけです。念仏酔いですかね?w


智慧の光に照らされて慧海が見えるようになった気もしませんし、
彼岸に渡った感じもよくわかりません。

慧海が感じているのは、慧海が慧海のままで落ち着いていられる事

決してこの世は慧海を害さない
もう、なんか、大丈夫って感じ

慧海もこの世に祝福と感謝と慈悲を伝えたい
とりあえず、念仏という形で…

 お寺の行事やら、得度やらもどうでもよくなっちゃったなぁ…
それ自体、居場所を作りたかっただけなんだって良くわかるから…


心が苦しい仲間たちが念仏を称えられますように…
南無阿弥陀仏

期待の念仏


眠れなかったので、座ってみた
何となく念仏でもと口にしてみた

口にしながら、如来は慧海をどうみるかと気になった
念仏を口にしながら考えるでもなく頭が動く

如来は慧海を救うと本願で誓われた
如来は慧海を信じている と感じた
何を信じてるんだ?

あ、そうか


慧海が念仏すると信じているんだ
そして、今がまさにそうじゃないか
この念仏は如来からの勅命、如来への返答なんだなぁ

口にしている念仏が自分で口にしている感覚をうしなった
念仏は私のものじゃないんだなぁ

慧海が慧海でいる感覚がなくなった

慧海のものでない念仏は皆の幸せを願うかのような心もちがした
まいったなぁ、もう念仏するしかないじゃないか・・・


そういやぁ衆生が念仏しないと本願が成立しないんじゃないかなぁ
そうすると衆生の慧海の念仏が如来をへて衆生に帰るんかなぁ
だから博愛的な気分になるのかなぁ
亭主師が最近よく書かれる「祝ってやる!」を思い出すなぁ


そんなこって慧海を救ってくださいという念仏ではなく
ただなんとなく口にする念仏でもない念仏を知った気になる出来事でした


2013年1月1日火曜日

明けおめ 2013


明けましておめでとうございます

年末は昼間バタバタと家の事などして、
夜はイマイチ体調がすぐれず、PCを立ち上げる事もなく寝てしまう
そんな生活をしてました。


ここ最近は、頭を見ようとか、思いを捨てようとかに意識することもなく、
全休先生や亭主師の記事や本を読んでは、そういうものなんだなぁ と思い、
体が重かったり、やる気がなければ、疲れているんだなぁ と思う、
そんな、普通の毎日をすごすようになりました。

たまに、これでいいのか?と思いますが、
何ができるわけでもないし、心の問題で苦しくなったりもしてないので
何もせず、普通に生活しています。

普通といっても、頭の中の声は聞こえたままですし、
念仏やら仏書を読むのもそう思ったから行動しただけ。
意識してやってた事が意識しなくなったという感じです。車の運転に近い感覚ですかね?

思い通りにしたい事があれば、そのように動くし、
結果、思い通りにならなければ、腹をたたせる普通さです。
腹がたったままなのも気分が悪いので、頭の相手をちょっとして
しょうがないと諦めてもらったりするような普通さです。
腹がたった時に、思い通りにしたかったのだと初めて認識するんですけどねw


慧海は、智慧の光をいまだしりません。
知りたいとは思いますが、知ろうと何かをする気はなくなりました。
秘法があって、それを教えてもらっても、どうしようもないでしょうねw
念仏しかないと教えてもらっても、その念仏すらできないのですから、
他の秘法もできやしないでしょう。


知るご縁があれば知るでしょうし、
ご縁がなければ寂しいですが、知らぬまま死ぬだけかと

今は、そんな慧海です。


余談ですが、
昨年、よく知る同級生が他界していました。
どうやら鬱だったそうです。
鬱の話をきくと、他人事とは思えないのですよ。
運良くこういう道にきて、とりあえず元気にキチ○イしてますけどねw


こんな慧海のブログですが、本年もよろしくお願いいたします。

南無阿弥陀仏