2013年1月26日土曜日

渡ったのだな


亭主師の記事に
「彼岸に渡ったら、渡ったのだとわかる」
ということが書かれていました。

でも慧海は、楽になったけど、どうもその感覚がわからないので、
やっぱり違うのだろうかと…誰かに判じてもらおうと思っていました。

昨日、会社に向かうべく銀座を歩いてポンと感じました。
渡ったのだと。

なにかストンと落ちたというか、落ち着いたというか…そんな感じです。

全部が、如来の思し召しなんですよ。
何一つ慧海の意図するものではないんです。
慧海自身は何も変わってません。何もわかっちゃいません。
なにもわかってないまま、本願以外、何も信じていないまま、ダメなままなんです。
なので、全部、真如の方からの働きとしか言いようがないですね。
本願だって、念仏だって、信じるしかない状態にさせらたのですから。
信じられ思われている身なんです。こっちはただ御任せするだけなんです。
もう感謝しつつ、念仏するしかないんです。


慧海は、ずっと何かを抑え続け、押し殺して、毎日を息をしているだけで苦しく、
それが普通だと思って過ごしていたのに、まったくそういう感じがないのですから
これを救われたと言わずしてなんというんでしょう。

復職してすぐの頃、何もかもを否定することしかできず、自分が生きている事も
この身体がある事も否定していた時、やたらと苦しかった事を覚えています。
その時は、自分の反応をみることだけに意識を向けていて、自分が存在する事は
否定できないんだって気づいて、少し楽になりました。

その後、何度もグルグルと迷って、自分の思い、欲求、感情を抑えてないと
ダメなんだって思って、ずっと押し殺していました。
その間、頭の中だけはみたまんま。
全休先生の記事じゃないですが、自分はろくな者じゃないですね。

自分は決して救われないと深く信じることを、機の深信というのだそうですが、
この5年でわかったのは、慧海は救われるようなヤツではないということ。
そのくせに、無自覚になって苦しみに気づかない日々を送ると、信を得たかのように慢心する
そんな日々を送って、色々と壊れて、やっと頭が下がった。
やっと佛の言葉に耳を傾けられるようになった。
傾け始めたら、運良く救われた。そういうことだったのでしょう。


もう、誰かに保証して頂く必要もなくなりました。
仮に慧海のは妄想だと誰かに言われようとも、
慧海は救っていただいた身であると言えます。

慧海にとっては、どうしようもない事実なんです。

生きている事を否定せずにはいられない慧海は、
如来によって生きる事を認められています。

それを感謝し、佛を憶念し、念仏するしかないんです。
ただそれだけです。


抑え込んで生活しなくなったもんだから、気力もでてきちゃいましたよ。
仕事もちこっと、がんばってみっかなぁとか
仕事向けの勉強でもすっかなぁとか
2月になったら、何箇所か梅みにいくかなぁとか
大分ふとったんで、すこし痩せるよう、運動してみっかなぁとか…
まだ死にたくないって気にもなったんで、身体のケアもしないとねw



のんべんだらりんと気負わずに、社会と闘ってみっかなぁ~

どうなるかは、弥陀におまかせでねw


あ、そうそう
全休先生のリンクにある、小太り爺さん様のブログひまわりに
慧海の記事の事を書いていただきました。
http://bloghimawari.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-d8ad.html
ありがたいですねぇ
こんな小僧の愚痴記事に目を通していただけるだけじゃなく、
慧海の出来事を喜ばしく思っていただけるんですからね。
ブログはじめた頃からは想像もできない事です。

改めて、ご同朋の皆様に感謝です


南無阿弥陀仏


2013年1月21日月曜日

こんなんでいいんかなぁ


先日、お茶のみ同僚O氏から
同じようなことばっか書いてつまらん
という感じの指摘をされましたw

そりゃそうでしょうねぇ
偶然起こった感覚をああだこうだと書いてるんですから…
まるで俺はUFOを見たぞと言わんばかりですねw
他人からすりゃ、ホラ話きくのと同じ位つまらんでしょうね
でも、慧海としては記録を残しておく事が大事なので…
読んで頂けている皆様、ごめんなさいねw


まぁ、慧海にとってはいままで想像していた理解とは違った感覚ですし、
物事のとらえ方も以前とちょっと違っちゃうような経験なんですよね
だもんだから、頭がソコに依存しているかのような状態なんですよね

あの時に感じた事、気づいた事はどういうことだったのか と

イマイチ表現できないし、書けば書くほど感覚とは違ってるような気がして…
でも、今まで、そういうものかと思っていた仏書等が、今は、なんかわかるような気がして…
でもやっぱり自分では表現できないし、やっぱり単なる不思議体験だったかとも…

いずれ、慧海の念仏も親鸞聖人の念仏と同じ念仏ですと
言えるようになるんですかねぇ
元々慧海の念仏じゃないんだから、同じなはずなんですけどねぇ…w



そんな感じで、意識がそっちにむいて、気になってはいるものの、
別の意識は、普通にドライに淡々と動いて、普通に生活してるんですよw
十牛図でいう牛に乗っている感じですかねぇ?家に帰った感じですかね?

いままで、苦しいナァ、なんとかならんかなぁと
ず~っと気にして、気にしないようにして、やっぱり気にして
少しずつ、自分の思い込みが壊れていって、気にしている事も
苦しい事も何もかもそのままに受け入れることにして…
と過ごしてきた慧海ですが、そういう苦しさがなくなってしまった結果、
これからどうしたらよいのかが、わからなくなったんですよ

奴隷から開放されて自由になったら、命令されなくて不安になった
っていう、そういう感じでしょうか?

もう苦しさと闘わなくていいのかな?
また一時的のもので、やっぱり苦悩に焼かれるようになるんかな?

終わりじゃなく始まりだっていう感じなのに、何が始まったかわからんのですよ

奴隷の例えじゃないですが、自由になった感じはします
本願を頼りに自由に(一人で?)生きていくんだなって感じですかね
それが始まりってことなんですかね?

結局、考えてわかるものでもないし
そういう事は御任せしちゃってるんで、
普通に生活するだけだから、悩む事も実はないんですけどね

どっかで、御任せしちゃダメって感覚が残ってるんでしょうねぇ

もう不思議体験の話は書かないようにしようと思っていたんですが、また書いちゃいました。

南無阿弥陀仏


PS

これ書いている時に、いっしょにSDにデータを移動させていました。
そしたら、SDカードライタがエラーを起こして、28G分データがきえてしまいました。
元データがあるのは半分くらいでしょうか…

ショックはあるんですが、いままでのような後悔の嵐には飲み込まれていません。
数年前なら、これだけで数日布団からでられなかったですから…
でも、やっぱりショックですよ
きになるものだけでも、なんとか再入手したいですね…

HDDにあるデジカメの写真だけはDVDに焼いておこう…僕が良くても家族が許してくれないw


2013年1月14日月曜日

帰命


全休先生の記事とか、御文とか、歎異抄とかみて気づきました。

おかげさまで、南無阿弥陀仏を知ることができたようです。
帰命がわかるようになったようです。

というか、南無阿弥陀仏も帰命もそのままに書いて頂けていたんです。
わからなかっただけで・・・。

先日感じたアレは、そのことだったのだと気づきました。
帰命してたんです。
 帰命…先週慧海が書いた記事がそのままに帰命です。
ホント、びっくりするほど、帰命しちゃったましたw

あえて書きます。
(異議のあるかた、コメントください。たぶん気にしないですがw)

慧海は如来に救って頂きました。
慧海は信を得ました。
慧海は本願に、弥陀佛に帰命・帰依しました。


命(いのち)に帰(かえ)るとお寺で話しがありましたが、そういう感じじゃなかったんです。
帰命は、命(めい)に帰(き)すです。
命令の命です。帰するの帰すです。※言葉がわからない人は調べてねw

慧海の表現で言えば、弥陀佛の
「お前を救うから、お前は俺の命令通りに我が名を称えろ!」
が聞こえたので、もうなんともできんと思う慧海は、命令に従って、
あの方が望む用に全てを投げ出して念仏をしたのです。

理屈はないです。私心もないです。ただ答え、捧げたんです。
知らずに、慧海は念仏に、弥陀佛に帰依したんですね。

あとから色々と言葉を知ると、そういうことだったのかと気づかされます。
  

  いや、もう、あの感覚が本物だとすると、慧海にまさか…って思いますが、
  調べてみると、調べてみるほどに、あの感覚が本物に思えてしょうがないんですわ
  わからなかったことが、わかるような気になるんですわ
  ささげるしかないって感じたあの感覚が、本物かと思うと、
  もう、ホントなにもできませんわ。頭さげて、ゆだねて、御任せして…
  今でも思い出すと、本願に帰して、念仏するしかなくなりますよ。ホント…


これからは凡夫慧海は、本願のお心に感謝し、
佛のお育てに御任せして生きていくことになります。


そんなわけで、ここまでお世話になって人に感謝を記しておきたいと思います。

善知識たる、「全休先生」に感謝、「亭主師」に感謝。
慧海と真宗の縁を深めてくれたお寺の「住職」と「井上師」に感謝
慧海まで届けていただけた宿縁、釈尊と、弥陀佛と、宗祖、七高僧に感謝

問いを残してくれた、通りすがりの「しゃり様」に感謝
サンガたる、「kirinnさん」や、お寺の「朴峠さん」、「柴田さん」他に感謝
家族と、飲み仲間の、「水氏」、「G猫氏」、「照氏」、「S氏」、「U氏」に感謝
お茶のみサボり仲間の「O氏」と、痛い説教をしてくれた国立大学の某先生に感謝
ついでに、主治医やら、高校の仲間やら上司やら、日々お世話になっていた人に感謝

皆様に如来の願いが届きますように…


慧海はもう、自殺するような事なく、体の不調に怯えることなく、
他人様と違った感覚のまま、社会を慈しみつつ無関係にノンビリ生きていきます。


やっとスタート地点です。

なんか、いろんな事を感じますが、どうも言葉にできないですね…
伝えたいとおもいつつも、伝える事もできないとも思う…
慧海の記録の中から感じ取って頂ければ幸いです…。

ご縁ある皆様、これからもよろしくお願いいたします。

2013年1月13日日曜日

一週間過ごして


仕事始めから一週間が過ぎました。
まだ、不思議体験の影響が残ってます。

慧海の意識が2つに分かれたような感じです。
いままでの慧海の下にもう一人慧海がいる感じです。
慧海が今まで通り世の中にケチつけている下で
温かく見守ってるような意識の感覚があります。

その感じは他人様にもむけられるようで、
他人様の行動に不快を感じている下で
他人様を応援するような感覚があります。

人嫌いの慧海なんですけどね

あと、自分の行動に反省しなくなりました。
もっと損したとか失敗したと思うようなことがあれば
反省するかもしれませんが
今のところ、何をしてもそれでいい と言う気がしてます。

だから、毎日が楽です

仕事の事はもちろん頭も使いますが
ああすればよかった とかいう気にならないんです。

自分を良くみせたい と思う心がわかってる分
良く見せなきゃって思わないのかもしれません。

よくわかりませんが、これでいいな って思うので
あんま考えてません。

あとは、いつ死んでもいいかな って気になってます。
だから、ご縁が尽きるまで生きていようって思います。
毎日を楽しく生きていようっておもいます。

自分の思いに閉じこもって、生きる意味がないので
死にたいと思っていた事の逆ですね。
思いの中で生きていたいが為に、死にたくなるんですよね。
そんな風に今の慧海は感じます。

これらが信によるものなのかはわかりませんが
慧海の知識になかったところで
慧海の視界に何かが加わった気がします。

スタート地点に立てたのでしょうか?
やっぱり、思いが作った妄想でしょうか?
慧海に判断はつけられません。
もう、どっちでもいいです。

ただ、もう慧海の努力では、
本当に何もできないようです。

一週間過ごして、そう感じました。
気楽でノンビリとした気分のいい日々でそう感じました。

わからんことを考えてもしょうがないので
このまま、なるにまかせてノンビリ過ごしていたいと思います。

南無阿弥陀

2013年1月4日金曜日

もう落ち着いた


あらためて先日の記事をみると、なんだかよくわからないですね。

慧海自身、考えてるんだか念仏してるんだかよくわからない状態で、
急に気分のいい、おおらかなやさしい気分になったというか包まれたというか
よくわからないので、よくわからない事に思考を加えてみたり、
感じた記憶をかいてみたりしてみたのですよ。

頭が勝手に作りだすイメージなんだから、まぁよくわかりませんね。

でも、今、ココにいる慧海をしっかり認識できました。
今、ココで気持ちよく自分の事を忘れて念仏している慧海が…


 今日念仏しても、もう同じ感覚は感じません。

とはいっても、南無阿弥陀仏と口にし、耳に入る感じが
先日までとは違う気がします。
あと、ずっと抑え付けていたような感じがなくなってて、気分がいいです。
正月休みで仕事してないからかもしれないですけどねw

まぁ、まやかしでも、念仏してるのが気持ちいいと体が覚えてしまったので、
できなかった念仏をする気にはなりましたね。

どんな形でもお育ていただいたってことでしょう。
ありがたいことです。


三が日もおわり、平常運転に戻し始めます。

このまま、ノンビリ、気分よく社会生活に悩めればいいんですけどねw
どうなることやら…


余談ですが、
亭主師のサイトが方向転換するとのことでしたが…
今のところ、慧海の得意分野に寄った記事が連投されています。
大晦日に放映した、猫物語(黒)をみたばかりでこの記事ですし…w

亭主師の中の中学生と大差ない慧海ですので、
そのまま楽しく読ませて頂いております。

方向転換で、内面を晒していく事にされたんですかね?
それとも、趣味的な方向に行く(戻る?w)んですかね?
楽しみです


物語シリーズの次は映画で傷物語(こよみヴァンプ)の公開ですかね~
それとも猫物語(白)ですかね~
全作アニメ化らしいですから…

2013年1月3日木曜日

念仏が気持ちいい


昨晩は、スマホのブラウザで書いてたので、編集操作で表現したい事が
イマイチかききれませんでした。

と、いうか、今感じている事が記事に書ききれそうにないのですが、
残しておきたいので、書いておきます。

一言でいえば、念仏が気持ちいいのですよ。


自分のものじゃない念仏
捧げる念仏
無心の念仏

慧海自身を念仏に乗せてマルッと献じてしまって
慧海が消え世界の中に溶け込んじゃったような念仏です。

恥ずかしい言い方ですが、愛しい人に「愛している」と言葉を送るような気持ちよさ
お世話になった人に、心の底から感謝を伝えるような気持ちよさ
必要とされる気持ちよさ
この世に愛される気持ちよさ


なにもできない慧海は、念仏する事でのみ居場所が得られたようです。
いらない子慧海が、救うから念仏せよと求められ、それに答える形で
やっと必要とされた。認められた。生きる意味があった。

これが、救われたということなんだろう


2007年の4月頃に、いままで慧海が慧海だと思っていたものが崩壊し、
自己実現の為に生きてきた慧海は生きる意味がわからなくなりました。
休職中ということが、さらに、世の中に慧海を必要としない事を理解させます。

生きる意味も、必要性もない、生きる価値もない慧海

誰かに認めてもらいたくて、必要とされたくて、人とは違う事をしてきた。
努力し、勉強し、媚び、戦い等をしながら、私という人を発信してきた。
描いた自分が演じ切れなくなって、不必要な自分が嫌で空回りして、病んで…

ただ必要とされたかったんですね。
でも、他人に認めてもらう努力が無駄だと感じ、落ち着くところもなく
自分の醜さ、意地汚さと向かい合う日々を5年続けてきました。

でも、今はやっと落ち着いた気分です。


これが頭の作ったまやかしかは、時がたたないと慧海にはわかりません。
慧海自身、既に何を書いているのかよくわからない感覚です。
気持ちよさに駆られて指が動いているだけです。念仏酔いですかね?w


智慧の光に照らされて慧海が見えるようになった気もしませんし、
彼岸に渡った感じもよくわかりません。

慧海が感じているのは、慧海が慧海のままで落ち着いていられる事

決してこの世は慧海を害さない
もう、なんか、大丈夫って感じ

慧海もこの世に祝福と感謝と慈悲を伝えたい
とりあえず、念仏という形で…

 お寺の行事やら、得度やらもどうでもよくなっちゃったなぁ…
それ自体、居場所を作りたかっただけなんだって良くわかるから…


心が苦しい仲間たちが念仏を称えられますように…
南無阿弥陀仏

期待の念仏


眠れなかったので、座ってみた
何となく念仏でもと口にしてみた

口にしながら、如来は慧海をどうみるかと気になった
念仏を口にしながら考えるでもなく頭が動く

如来は慧海を救うと本願で誓われた
如来は慧海を信じている と感じた
何を信じてるんだ?

あ、そうか


慧海が念仏すると信じているんだ
そして、今がまさにそうじゃないか
この念仏は如来からの勅命、如来への返答なんだなぁ

口にしている念仏が自分で口にしている感覚をうしなった
念仏は私のものじゃないんだなぁ

慧海が慧海でいる感覚がなくなった

慧海のものでない念仏は皆の幸せを願うかのような心もちがした
まいったなぁ、もう念仏するしかないじゃないか・・・


そういやぁ衆生が念仏しないと本願が成立しないんじゃないかなぁ
そうすると衆生の慧海の念仏が如来をへて衆生に帰るんかなぁ
だから博愛的な気分になるのかなぁ
亭主師が最近よく書かれる「祝ってやる!」を思い出すなぁ


そんなこって慧海を救ってくださいという念仏ではなく
ただなんとなく口にする念仏でもない念仏を知った気になる出来事でした


2013年1月1日火曜日

明けおめ 2013


明けましておめでとうございます

年末は昼間バタバタと家の事などして、
夜はイマイチ体調がすぐれず、PCを立ち上げる事もなく寝てしまう
そんな生活をしてました。


ここ最近は、頭を見ようとか、思いを捨てようとかに意識することもなく、
全休先生や亭主師の記事や本を読んでは、そういうものなんだなぁ と思い、
体が重かったり、やる気がなければ、疲れているんだなぁ と思う、
そんな、普通の毎日をすごすようになりました。

たまに、これでいいのか?と思いますが、
何ができるわけでもないし、心の問題で苦しくなったりもしてないので
何もせず、普通に生活しています。

普通といっても、頭の中の声は聞こえたままですし、
念仏やら仏書を読むのもそう思ったから行動しただけ。
意識してやってた事が意識しなくなったという感じです。車の運転に近い感覚ですかね?

思い通りにしたい事があれば、そのように動くし、
結果、思い通りにならなければ、腹をたたせる普通さです。
腹がたったままなのも気分が悪いので、頭の相手をちょっとして
しょうがないと諦めてもらったりするような普通さです。
腹がたった時に、思い通りにしたかったのだと初めて認識するんですけどねw


慧海は、智慧の光をいまだしりません。
知りたいとは思いますが、知ろうと何かをする気はなくなりました。
秘法があって、それを教えてもらっても、どうしようもないでしょうねw
念仏しかないと教えてもらっても、その念仏すらできないのですから、
他の秘法もできやしないでしょう。


知るご縁があれば知るでしょうし、
ご縁がなければ寂しいですが、知らぬまま死ぬだけかと

今は、そんな慧海です。


余談ですが、
昨年、よく知る同級生が他界していました。
どうやら鬱だったそうです。
鬱の話をきくと、他人事とは思えないのですよ。
運良くこういう道にきて、とりあえず元気にキチ○イしてますけどねw


こんな慧海のブログですが、本年もよろしくお願いいたします。

南無阿弥陀仏