2013年3月10日日曜日

今年の梅


今年も地元の梅園に梅を見に行ってきました。

今年は温かくて、梅をみているのか、桜をみているのかわからなくなるような感じでした。

昨日は、天気も良かったのですが、今日は黄砂やら、大風やらで空の色も悪く
写真もまともにとれず、ちょっと残念です。

来週位から、寒桜が咲くようなので、それを撮りにでもいきますかねぇ~。


ついでに、植木やら盆栽やらを見てきました。

先日、盆栽用の梅を買ったのですが、なかなかに良かったので、
どんなもんがあるか、色々と見て回りました。

松とかはやっぱりいいですね。
ワビサビというイメージはこれですかね。

でも、立派なのはやっぱり高いですw

ド素人の慧海が松に手を出すなんてのはもちろんしませんw
どちらかというと、花がさくようなものを見てました。
今だと、梅とか、ボケとか、河津桜、雅桜あたりです。

僕の友人で、あと1世紀もしたら、日本人の文化表現に「モエ」が入ってるだろう
と言った人がいました。

日本文化は、ワビ、サビ、モエだとw

歴史の教科書とかで、有名なアニメ監督とかアイドルの名前とかがでて、
モエ文化は、21世紀初め頃秋葉原を中心に栄えたとか書かれるのだとw

それは、呑みながらの笑い話でしたが、今日、盆栽をみていて
梅や河津桜が咲き誇る盆栽はワビサビよりもモエの感覚なんですよね。
秋葉で手が出せないフィギュアを眺めている感覚にとてもよく似ているのですよwww

咲き誇る朝顔の花を全て切り捨て、一輪だけを茶室に飾るようなワビサビと違い、
その咲き誇る姿の愛しさをそのままにするとモエという表現になると思いますよ。

「モエ」を僕らヲタが2次元だけを愛でる表現にしておく事もないのだと慧海は思うのですよ
まぁヲタは一般化するのを嫌いますけどねw

昨年は、梅と桜に説法をききましたが、今年はただモエを感じ、
収集欲望が刺激された梅でしたw

実家を二世帯化とかしたら、庭に梅と桜植えてやるぅ~w


あ、そういえば、毎年梅の時期は、鬱っぽいのに、今年は鬱々しないなぁ
有り難い事です。

2013年3月7日木曜日

とりあえず近況


最近、また記事が書けないのですよ。

以前は、迷いからでられなくなってかけなくなった感じですが、
今回は、何も言える事などないのだなぁって感じてしまって、書けないのですよ。

あるがままなのに、何を言葉にする事があろうか…

なんて書けばそれっぽいんですかね?
そんな立派なもんじゃないんですよ。

もう、全休先生や亭主師が書いているじゃないか!

っという状態なので、別に書くこともないなぁと…w

書いてある事を同じように感じるようになったというのはありますが、
それを一々拾い上げて書くこともないなぁと思うのですよ。


まぁ散々主観で愚痴を書き連ねておいてと今更思うので、今の頭の中だけ記録しておきます。

1月頭に、回心熱のようなもので、感じた事を書き連ねましたが、
その熱から抜け始めれば、何も変わっていない事に気付きます。

仏教で何かに気付く事を、自転車に乗れる事にたとえられます。
その喩えをつかって、かいてみます。

自転車を初めて乗れた時ってれしいですよね。
乗れた時は、ただ、「見て! ボク、乗れてるでしょ!!」ってなります。
これが、先日の慧海の心境ですw
十九願から二十願に回入した瞬間と表現されるものだと思われます。

でも、補助輪無しですから、その直後に、曲がれず、止まれず、転ぶんですw
乗れたけど、まだ先があるのだと気付きます。
じゃ、どうすれば転ばずに自転車にのれるようになるのか?
今の頭で考えれば、自転車に乗り続けるということしかないのだろうと思います。
これが、今の慧海の心境という感じです。

きっと、乗り続けているうちに、自転車に乗れることは特別な事じゃなくなるんでしょう。
普通に自転車に乗る姿をみて、子供達も自転車には乗れるんだと思うようになるんでしょう。
たぶん、そうなった時が十八願往生であり、十七願の諸仏の仲間入りという事なんでしょうかね?
まだ慧海には、その感覚はわかりません。

念仏の違いで言えば、「助けてください」から「ありがとうございます」になりました。
でもどちらもまだ念仏を私物化しています。
たぶん、「ただ念仏する」という事になっていくのでしょう。
そうなろうとするのではなく、勝手にそうなっていくのだろうと思います。
こちらも、まだ慧海にはわからない感覚です。わからないままでいいのでしょうね。


まぁ、つまり、やる事と言う意味では何も変わらないんですよ。
毎日、自分と向き合って生きていくだけなんでしょう。
地に足をつけて、何かを信じたりせずに生きていくんです。


慧海にとっては、どこまでも病んだ心の自分との向合いだけだったようにも思います。
向合って、少しずつ、少しずつ自分の抱えていた思いを壊していく日々です。
今の慧海があるから、病んだ慧海に意味が生まれたのでしょう。
やっと、死にたいと思わず、普通に俗世で生きられるようになったんです。

慧海にとっては、どうしようもなくなった時、仏門があったんです。
そして、それしか生きていける気がしなかったから、進んだんです。
嫌な自分を見続け、否定し続け、息苦しい毎日を送りつつ、少しでも楽になると
もう智慧を得たのだと喜んでみて… でもやっぱり苦しい日々を送るんです。
何年も、何年も・・・。

仏門なんて、通らなくてもいいなら通らない方がいいと思いますよ。
入り口あたりで引き返せば、処世術ですし、なんかちょっとかっこいいですしねぇw
俗世でいきていけるなら、宗教なんて関わっちゃいけないと、慧海は思います。


と、いうところで、しばらく、仏教話はないと思います。慧海が育つまで何も書けません。
ブログには、どうでもいい出来事しか書けないと思います。

慧海が日々感じたちょっとした事は、ツイッターにあります。
なのでブログにツイッター画面だしましたw

なんとなく、気ままに書きますのでご縁がありましたら宜しくお願いいたします。

南無阿弥陀仏