2013年11月16日土曜日

遅いPCは掃除しよう。遅い心も掃除?


子供用に古いPCを親父からもらって、使わせる事にしました。

最近の通信教育は、テストの回答をPCでみたり、動画で講座をみたりするので、
PCがあった方が便利。
居間の共有のPCをつかわせていたんですが、部屋で勉強させる為に、親父の
つかっていないPentiumMのXPマシンをもらってきました。

起動させてみると…遅い…

親父からも遅いよ といわれていたんですが、確かに遅い。
これじゃ、なにもできんので、使わないソフトを片っ端から削除しはじめました。

国産メーカのPCは、初期状態でいろんなソフトが入っています。
それらが、自動起動するから起動待ちもメモリ圧迫もします。
買ってきてすぐなら、それもあまり気にならないでしょうが、追加でソフトいれると
それが自動起動だったりするんで、おそくなってしょうがない。

そんなわけで、プロバイダ接続アプリやら、おまけソフトやらも削除して、
スタートメニューが1ページ分位ソフトを削除して、
メモリ使用量も起動時間も半分ほどになりました。

パターンファイルの更新できないウィルス駆除ソフトが一番重かったように感じます。
いまだ代わりのウィルス駆除ソフトをいれてないので、なんか探していれないと、
子供がどこでウィルス感染してくるか・・・。
まぁ、ひっかかってExeを起動しなきゃ、それほどヤバイ事もないのでしょうけど、
引っかかったら、どんなソフトをいれられるやら・・・。

ちなみに、XPです。
慧海のPCも共有マシンもXPです。

サポートなんてもともとないようなものですので、家で使う分には
まだまだXPで十分です。

MSとWindows98サポート切れの話しをした際に、
もう重大な障害がでないレベルだからサポートを切れると言ってました。
使えないとは言ってないんです。
でも何かあっても保証はできないので、OSのバージョンをあげてくれと言っている
のだそうです。

OSまわりで、MSになんとかしてもらった事のある一般ユーザは希でしょう。
仕事でやってると、たまにOS寄りの障害でパッチだしてもらうことはありますが、
普通にブラウザとOffice使ってる分にはお世話になったことはありません。
あれ?サポートきれたら、XPの再インストールとかどうなるんだろう?

古くても、私たちの仕事が変わらないので、そんなに影響はないのですよ。
適切に動くように掃除さえしておけばねw
 PC同様私たちも、頭の掃除をしておく必要があるようです。


通常、私たちは同時に抱えられる仕事は2つまでだそうです。

単純作業は別ですが、何かの調査してレポート作るとかの仕事は同時期には2つまでです。
2つ以上あると、メモリ不足と同様に、あっちこっちやって、仕事がすすまないそうです。

2つ以上の仕事をこなすには、1つの仕事を分割して、ゴールを再分化し、
同時期には2つまでで片付けられるよう、スケジューリングするしかないそうです。
結果的に、1ヶ月で3つの仕事ができたりするのであって、一時期でくぎってみると、
2つしか抱えていない状態にしてあるのだそうです。

とは言っても、2つ同時にというわけではないでしょう。
今で区切れば1つしかできません。
それはPCも同じで、CPUも時間で区切って処理をしています。
時分割処理っていうやつです。

考えるのは時間で割れますが、考えた結果はどっかに持ってないとダメです。
頭の中と、机の上に書類をひろげたりするように、PCはメモリに情報を蓄えます。
それが一杯になるとおもくなりますし、机の上に情報をひろげるのも時間がかかります。

人は広げられる案件が2つ分
PCは性能次第…低い性能であれば、情報を広げなければいい

ということですね。

慧海は通常1つの仕事しか一時期には考えません。
2つめ以降は、スケジュールもやるべきこともメモにしてPCにかいてあります。
頭はできるだけ空っぽにした方が、ストレスが少ないですからね

Windowsじゃなく、DOS並みってことですねw

でも余計なことばかり考えてますんで、余裕もないです。
ワームに感染しているようなものかもしれません。
自分ワームが起動したら、それを終了させるウィルス駆除っぽい仕事に
もう一つの仕事分が割り当たっているのかもしれません。


季節の変り目は必ずといっていいほど風邪をひく慧海でした~

2013年11月4日月曜日

言語化は難しい


昨日は、お寺の勉強会でした。
初めて副住職が講師をされました。

話をするというのは、難しいでしょうね。
私のわかることしか話はできませんし、感覚でとらえた事は言葉になりません。
言葉にしてしまえば、理屈になってしまって感覚のままではなくなってしまいます。
話そうと思って、はじめて妄想であったと気づくこともあります。

副住職は、どんな事を思い言葉にしたのかはわかりませんが、
慧海には、逃げようとしている言葉にしか聞こえませんでした。
自分の言葉で感じた事を話されているので、悩んできた事を感じる言葉だったんですが、
その言葉の方向性みたいなものが、引きこもりになっているように感じました。

慧海と同じように…なので、ついイラっとしてしまいます。

そんな思いもそのままに頂いていくのが今の慧海ですw


ふと思い出して、亭主師の先頭ページにある豊徳寺さんの聞法の方法を再度読ませていただきました。
久々に読ませていただいたのですが、今は何をおっしゃっているのかを感じれました。
最初に読んだ頃は、あるがままにそのままに と今、今と意識したのを思い出します。

改めて読んで、ふとひっかかった所がありました。
自己の解決のところにこう書かれています。

4.つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるべし。
 いつも自然の様子を思いおこすようでは、色々せんさくしなくてもよいと思いつつも、まだ自分への言い聞かせが残っているのです。徹底していないのです。 まだ、本当は不安なのです。まだ、お任せしていないのです。自分自身、納得がいっていないのです。つまり、「義なきを義とす」と知って、義なきようにはか らうのは、まだ義の立場なのです。
 自然の様子を忘れ、忘れたことも忘れて、ただ、やるべき事をやり、すべき事をする。人の和を願い約束を守り社会を考えて 生活するのです。どんな思いが頭にわいてきても、その思いそのものになっていればいいのです。そのものになりきっていればいいのです。それでいいのです。
この言葉の、清沢満之の「他力の救済」にある、
他力の救済を念ずるときと、他力の救済を忘るるときの言葉の逆のように見えます。
でも、いわんとしていることは同じように感じます。
自然の様子を思い起こすという事を、他力の救済を念ずる事と読んでしまったからでしょう。
むしろ、お任せすることが他力の救済を念ずると読むと同じだと感じれます。

慧海の感じた経験→仏書にその時の感覚とよくにた言葉を見つける→自分で言葉にする
→その言葉と違う言葉を仏書で出会う→理屈で考える・・・

言葉を捜してしまうあたりが、お任せできていないのか?とも思いますが、
人につたえようと思えば、言葉にするしかないわけです。

人に伝えるのは自慢したいからではありません。
慧海が頂いたものを世に還元したいんです。
どうしたらよいかわからないので、言葉にしているだけです。

言葉にすることは本当にむずかしい。
自然を教えるための阿弥陀の名であったというのは、本当に頭が下がります。

私たちはそんな先人と思いと智慧の中を生きて念仏する身としていただいたのだと
思うと、本当にかたじけない事だと思います。

慧海の思いなど関係なく、慧海に思いをわかさせて、行動させていく…
今はそれを慧海はお育てという言葉で表現してありがたがっています。


余談
ふと思い出して、十牛図をみてみました。
やっぱり文字を読んでしまいますが、誰かの説明よりも、タイトルと
その絵自体から感じる事の方が増えたような気はします。
(どんな意味かはあるていど覚えているからという理由もありますがw)

浄土教が名号にこだわった、先人の思いがわかるような気がします。

南無阿弥陀仏