2014年12月12日金曜日

一人称に見る自分の心


わかったと思えば、何かを自分の中に作り上げたということ。

佛を頭の中に取り込んじゃダメだということも、わかっていること。

とはいっても、世間の法にそまれば、頭の中になんでも取り込みたくなるものです。

そうやって、頭の中の自分がつよくなると、慧海の一人称が「俺」になります。
相手が親しくないと使いませんが、俺と言っている時は感情的です。

通常は「僕」を使います。
遠慮するときは「私」を使います。
ブログの時だけ「慧海」を使います。
慧海という一人称は、客観的になっているような気がします。

日々心の声はききますが、ブログを書くときは声を言葉にかえます。
頭にでてくる言葉を書いているので、何を書くかは殆どきまってません。
なので、慧海にも気づかない事が言葉として目の前に綴られます。

しばらくリアルに呑まれて無気力でブログもかけてませんでした。

ブログに頭の中を書き出すと、自分の頭の世界に穴があきます。
どれだけ慢心し、殻を作っていたかがわかります。

ブログ書いていたら、やっぱりブラウザ落ちちゃいました。
リアルにもどったので、今日はもうかけませんね。

PCなんとかしようっと・・・

2014年9月18日木曜日

布教?

先日、喧嘩の仲裁的な感じで、会社の人宛にこんなメールをおくりました。

自分の考えが正解で、それを理解しない、阻害する行為は会社に損害を与えたいと思っている
というふつうの定年前サラリーマンの方です。


~~~~~~~~~~

お疲れ様です。

すいません。余計なことをします。

主観に基づくチョイスで、学んだ事を書きます。

何かに気づいていただければ幸いです。


■正しさ

正しいということは、誰がみても正しいと思われますか?

数学ならそうですが、論理式の世界以外では、正しさというものはあいまいで、主観的なものだと理解しています。

社会において正しさを表現するには、前提を明確にし、論理的な基準をつくった上でしか正しさを表せません。
ビジネスにおいては、万人における正しさはないと言ってもよいと思います。

自分が正しいと信じるやり方、目的、ゴールなどは、すべて主観的なものです。

論理式的には、正しさは正しくありません。


■「バカの壁」

バラバラの正しさの上で、自分の信じる正しさを貫くには、正しさの共有をする必要があります。
それは、極論すると、相手を自分の正しさに取り込むことだと思います。

相手と共有するには、同じことが理解できないとなりたちません。
説明しても、同じことを理解することはできません。

養老孟司氏の「バカの壁」にありますが、話せばわかる、説明すればわかるというのは幻想です。
知っている事しか理解できないのが人間です。
知らない人が知るには、体感したり、思考したりして、気づくしかありません。

そうなると、同じような問題意識をもって過ごしてきた人にしか、共有はうまれないということになります


■正しさを貫くことは

同じ問題意識がない人に、自分の信じる正しさを共有させようとすることは、エゴです。
自分の欲望です。わがままですらあります。

それが例え、会社にとって、社会にとって良いと考えられるものであっても、自分のエゴでしかありません。
原発の賛成/反対の対立とおなじようなものです。

同じ意見を持たない人には、理解できないし、意見すらいえません。

正しさを貫くことのもっとも問題な点は、自分の正しさが共有できない人を敵対視することです。
敵対したり、侮蔑したり、拒絶したり、と怒りの対象となります。

その感情自体が既に人間の煩悩、本能のままです。
正しさを貫こうとする思いも、煩悩、本能です。

本能の話ですので、あえて言えば、猿山のボス対決と変わりません。


■全ての答えは自分の中に

世界平和の為に戦争するような思考をするのが人間です。
なぜそんなことになるのかは、外側の理論、思考でみても偽善の言葉だけで意味がありません。

心の奥底にある、欲望、怒り、無関心、それらに付属する、プライド、嫌悪、自己の常識に気づくことだけが自らを安んじることができ、他人と争うことをしなくてすむようになります。

自分を知れば、他人が見えます。

孫子にはこうあります。
「故に曰く、彼を知り己れを知れば、百戦して殆うからず。
 彼を知らずして己れを知れば、一勝一負す。
 彼を知らず己れを知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。」


■苦しみの連鎖

例え嘆きの愚痴をこぼしても、心の中まで怒りでおおってしまったら自分を傷つけるだけです。
自分の苦しみは他人を刺します。
刺された人も苦しみます。相手の苦しみがまた自分を刺します。
苦しみの連鎖です。




僕は、お世話になった人が、親切さと正しさゆえに、苦しみ嘆いている姿をみたくはないのですよ。

と、いう僕の欲望を解消する為に、不快な思いをさせるメールを記させて頂きました。

大変申し訳ございませんでした。


~~~~~~~~

このメールの後、自己観察の方法としてRAINメソッドを紹介したり、
会社がヤバくなるのも努力の結果だという事を、「イノベーションのジレンマ」の引用で説明しました。

当然ですが、理解は頂けてないようですが、会話の間に「あいつらは!」という言葉があれば、
「彼らは彼らで…」と言えるベースにはなったかと思ってます。

こんなのは処世術だと思いますけどねw

2014年8月18日月曜日

役に立たなきゃ捨てるのか?


虫垂炎になりました。

尿管結石慣れがあるからか、急性虫垂炎じゃないからなのか、
普通の胃炎かと思って1日耐えて過ごしたら、痛みが引かず、
臍右下に移ったので病院に行ったところ、虫垂炎でした。

炎症はひどいけど、即手術は必要なさそうということだったので、
抗生物質による治療を選択し、入院が必要とのことでしたが、
食事をとらず、ポカリのみとし、毎日通院を条件に帰宅しました。

入院すると、それだけで体力とられるので治療が一緒なら家がいいですよw

夏休みが終わるので、会社に虫垂炎で休む旨を連絡したところ、
部長は、虫垂切除をしない選択が気に入らないご様子。
再発するかもしれないし、虫垂はあってもなくてもかわらないのに
なぜ切除しないのかということなのでしょう。

その部長、小さな胃がん(転移してないから胃がんモドキかも?)を発見し、
手術して一度死に掛けたような人です。
不安はどうしても排除したいタイプなんですね。

そんな人からすれば、虫垂は切り捨てるのが当たり前なのに、
慧海がそうしない事が判断ミスに見えるご様子です。
慧海からすると、虫垂は会社における慧海のように感じています。

慧海は入社した会社が統廃合を繰り返し、今の会社名は3つめです。
会社も変わり入社したときから23年たちますので、仕事の仕方も変わりますが、
慧海の仕事の仕方はあまり変わってません。
2つめの会社名の時にミスもあり、出向になってますが、
会社には慧海がやりたいと考えていた仕事はなくなったとのことでした。

虫垂と同じく、必要なくなったって事だなぁと。

そんでもって、精神いっちゃったんで、会社からすると腫れ物です。
炎症起こした虫垂と一緒です。

いつ再発するかわからない。
あってもなくてもかわらない。

慧海の事ですねw

ふと思い返すと、部長は慧海が再度炎症起こさないように
気を付けながら使っているのがわかります。
本当は切り捨てたいのでしょうね。

その部長に限らず、多くの日本人が「盲腸は切ればいい」と
考えいるように思います。
慧海もそう考えていましたから。

最近は切らないケースが多いそうです。
薬でも手術でも結果をみるとかわらないだそうです。

人も身体も今じゃ米国の方が生かそうとする時代。
古い米国かぶれの日本は、効率と言って非効率な事をしているようです。


損得じゃないよ。
効率じゃないよ。
もっとあるとおもうのですよ。
もっと真剣に考えなきゃいかんと思うのですよ。


悩ましくともいたしかたないですね。
わが身の思い通りになる範疇は自力をもちいて
それ以外の思い通りにならない事は他力にお任せする。
それが他力より頂いたものですので。


余談ですが、この記事かくのにブラウザが7回落ちました。
慧海PCも慧海同様壊れていますw

2014年7月13日日曜日

科学という宗教



kirinさんのつぶやきに
ストレスのピーク時に、心を落ち着かせる4つの思考法 - キャリア女性に役立つサイト
http://www.cafeglobe.com/2014/07/039221rain.html
 というのがありました。

ストレス状態から立ち直るための「RAINメソッド」 というものを紹介しているサイトでした。

中でリンクされてますが、慧海は女性じゃないのでこっちも紹介しておきますw
押しつぶされそうなストレスに立ち向かうための「RAIN」メソッド
http://www.lifehacker.jp/2014/06/140624_rain_method.html
このRAINメソッド、何かと思ったら坐禅とか、内観の話じゃないですか。

宗教の分野として継承されてきたものが、科学的なものとして表現されているだけなんだと思うのですが、この科学的というのが、今の世の中じゃ大事なんですよね。
神や仏というとうそ臭いといい、心理学だ科学だと言って発表された、とか言うと、詳しい事もしらずに正しいと思い込むような、科学信者が現代人だからです。

内容は、慧海も全休先生や亭主師のサイトから学んだ事と大差ないし、
このメソッドにあるような方法で、鬱症状から抜け出すこともできたとは思います。

そんなRAINメソッドみて思ったのは、こんな事です。
①ストレスで思いに悩まされている状態で、これがやれるもんならやってみろw
②自分から離れ過ぎたら、虚無感におそわれて死にたくなるけど大丈夫か?

まず、自分を信じて頑張ってる人がその思いを手放すことができるだろうか。
思いが自分だと信じている人は、思いと同一でないことが理解できるようになりますか?

そして、思いからはなれてしまったら、自分の過去が価値あるものと受け入れられますか?
価値がなくなり、虚無感におそわれ、死にたくなったのは、慧海の経験談です。
その時は、宗教ではなく、自己の観察をして、思いが私ではないと知った時でした。

宗教の入り口から入ると、自分の思いから離れた先があるように思います。たとえば「生かされているのだなぁ」とか思うとか、お任せすることとかです。
それは科学にはありません。

そこまで突き詰めないでも楽にはなるので、
必要になってRAINメソッドやってみるといいです。
 

2014年7月11日金曜日

体が風邪をひきたがる


昨年あたりまでは、健康系の本をいくつもよみました。

結果的に、病気は自分の体が治すものという事を学びました。
そして、風邪というのは、体調を整えるために体がそれらの菌などを受け入れる
という考えも学びました。

正しいとか正しくないとかはどうでもよくて、慧海からすると、病気になるほど、
体が正常ではないということを、体感的にうなずけてしまったのだから、
理屈はどうでもよくなってしまいました。

たとえば、むくむというのは、日常のなかで気づくものです。
それが何日も続くと、体調が悪くなってしまいます。
お腹がすかないとか、吐き気がするとかで症状がでてきます。
それでも体に負担をかけると熱をだします。

慧海は熱を出すと食事をとらなくなります。
温かい飲み物をのむだけで、食事はとりません。
熱が出るような時はお腹もすかないので、特にこまりません。

そんな感じで、今回の風邪も食べないで過ごしました。

結果、血圧もひくくなって、降圧剤をのんだらやばそうな数値になりました。
1週間野菜ジュース生活をしたら、血圧が正常値になりました。
今日、主治医にきいて、降圧剤ものまなくてよくなりました。

数ヶ月前の体重と比べて10kgほど体重も減りました。
体を壊すたびに体重がへってます。不健康な痩せかたですね。
きっと、その体が維持しにくかったんでしょうね。

今回の風邪でさらに食べ物をよく噛むようにもなりました。

体はなるようになってます。体は自然のものなのだなぁと感じます 

2014年6月22日日曜日

西洋的教育


慧海の飲み仲間に帰国子女がいます。

彼の娘は、日本で生まれ、日本で育っている小学生ですので、
「皆が…」という事をいい、皆と同じであろうとするようです。
その娘にかれは、こういって教育するそうです。

あなたは誰ですか?
そうですね。○○□□さんですよね?
○○□□さんは、世の中の誰でもない○○□□さんですよね?
○○□□さんは、そのお友達ではないですよね?
○○□□さんとして、そのお友達とどうおつきあいしていくかを考えなきゃいけません。
友達は、自慢をきいてもらう為とか、一緒にいる為に居るわけでもないですね?
○○□□さんは、どうしたら良いと思いますか?
まさに道徳です。
自我の育成だと感じました。
こうやって、「私」をつくっていくんだなぁと関心しました。
自分を強くえがき、自分を抑制し、他者に親切であるように訓練されていくようです。

こうやって育てた娘は、
「私は○○△△と◎◎の娘、□□です。お父さんが心配するような事はありません!」
と発言したんだそうです。

ちなみに彼は、ドラゴンを倒し財宝を手に入れる事を夢見るタイプだそうです。
四季の花々が咲きほこる場所で人々が仲良く踊るような夢はみないそうです。
日本の逸話で、龍を倒して宝と姫を手に入れるのはヤマトタケル尊位ですからねぇ。
西洋には西洋の、東洋には東洋の思想がそれぞれあるのだとつくづく感じます。


慧海は、「”私”は自分がつくってきた虚像」であり「全ては認識の問題」と感じてしまった事で
今までの価値観を失って、頼るものがなくなって・・・勉強をすることになりました。
自分で自分を作りそこにとらわれる自我を我執というのだと後でしりました。

今は偽西洋文化ですので、我執ばかりが育ちます。
西洋の宗教、逸話で育たない私たちは自我が我執にしかならないのかもしれません。

2014年6月11日水曜日

老化を受け入れられるか?


42歳ですが、老眼が始まりました。

元々視力は良く、20代は、2.0でした。
機械化されて、1.5までしかわからなくなりましたが、今でも1.5はあります。

でも最近、近いところの焦点があいません。
つめを切ろうとすると、ぼやけます。
実家で老眼鏡をかけてみたら、焦点が合う事がわかりました。

目の筋力の低下だといわれると、なんか努力して低下をおさえたくなります。
また、目の筋力低下にともなって、斜視がでてきました。

ちょっと気を抜いた目をすると、左目がどっかちがうところを向いてしまいます。

斜視の人の目をじっとみるのは悪い気がしますが、話をして目を合わせれば気づくものです。
僕もきっと、そういう感じで気を使われる日がくるのでしょう。

髪の毛が薄くなっていったり、足腰がよわくなったり・・・

色々とでてくることだと思います。

健康の為にも筋力をつけたいところですが、老化は受け入れるしかありません。
だからといって、寝て過ごすわけにもいきません。
どこまで抵抗して、どこは受け入れればいいのか・・・

これから学んでいくことなんでしょうね

2014年6月4日水曜日

誕生日は苦しみの始まり


昨日は、慧海の誕生日でした。

誕生日は有給取得推奨日になっているので、休みをとってましたが
仕事の事があって、アセアセ、イライラした休みになってしまいました。

せっかく誕生日なのに

家内はそういうのですが、なんだか頭が騒がしい。

蝋燭に火をともし、静かに手を合わせて念仏をしてみると、頭の騒ぎがすこし落ち着きます。
そうこうしていると、ふと思いました。
一切皆苦、生老病死…

ああ、誕生日って苦しみの始まりだったんだ
じゃぁ、誕生日に家でイライラしてるのもおかしな事じゃないじゃんw

誕生日は特別な日です。

生まれてきた事に特別な意味なんてありませんが、
ヒトとして生まれ、大切な事を知り、人になり、
苦しみの人生を満足しながら死んでいく、そういう事を体験できる
そういう事の始まりの日です。

喜ばしい事です。

ありがとうございます。


追記

頭の騒がしさから逃げる為の様々な行為に走ることよりも
静かに手を合わせたほうが、頭は静かになります。

欲求、煩悩からくる苦しみから逃げる事をせず、
それらと共に人生を歩むとしましょうw

2014年5月31日土曜日

スルスルかけるペン


亭主師の、太字ポールペンでスルスル書くという記事をみて思い出しました。

力を入れないでスルスル書く道具である万年筆を、ダイブ前から会社の人に薦められてました。


慧海には「私のこの一本」みたいなコダワリをもった万年筆好きな人たちが
飲み仲間の同僚にいます。
彼らは「一本会」と自分たちを名乗り、お気に入りの一本を持ち歩き万年筆のよさを伝えます。

そのよさを教わり、使ってみようかと思うのですが、つかってみたこともないので、
どういうものをチョイスすればよいのか悩みます。
ボールペンでいえば、極細が好きで、太いのが嫌いなのですが、
一本会は太字派ばかりでなかなか参考になりません。

ベテランのアドバイスもきいてみたいのですが、一本会 会長は、震災の関係で
仙台に異動してしまって、気軽に万年筆探索にはいけない状況でした。

その一本会 会長が6月から東京勤務に戻ることになりました。

異動して、ご両親の生活安定に向けては良かったんですが、
仕事の関係で、適応障害を起こし、休職してしまいました。

今回復職にあたって、東京の部署に復職ということになったようです。

壊れて、休んで、自分の頭の声が聞こえるようになって・・・復職。
慧海と同じ方法ですが、メンタルヘルスには有効な手段のようです。

戻ってきた彼から万年筆のうんちくをききながら、酒を呑むのもよさそうです。

もしかすると、壊れる前よりコダワリがなくなってしまっているかもしれませんが・・・





2014年5月30日金曜日

正しいという間違い


記事がつい長くかいちゃうので、短く分かりやすくかきたいものです。


自分が正しいって信じている人との会話は疲れます。

正義の人はそのルールに合わない人を受け入れません。
受け入れないだけか、攻撃します。

なぜなら、相手が間違えているからです。

正しい事をするという欲望にかられて、間違った事に嫌悪します。
そして、自分を振り返る事がありません

こういうのを、貪欲・瞋恚・愚痴 の三毒というんでしょう。


誰かがルールを破ったとかで、注意しようと思ったら、自分自身に要注意です。

それは、正義という名の煩悩に支配されただけかもしれませんよ?w

2014年5月27日火曜日

奴隷でいいんじゃない?


「お客様は神様です」

日本の商業文化を代表する言葉ですよね。

CSといって顧客満足度を高めようという事を多くの企業がやってますが、
そのCSの大家は日本の商業文化をヒントにCSを考えたらしいです。

そんな日本の商業文化は、どんどん消えていってしまうように感じます。

日本の労働というか、多くの行為は、神事と密接な関係にあるらしいです。
農耕系でも狩猟系でも、神様からの頂き物という考えがあり、神様に仕える行為だと。
だから、根本的に仕事をする事が好きな民族なんだそうですよ。

それに対しキリスト教系の文化では、労働は原罪にたいする罰だと考えるようです。
また、羊飼いな文化においては、労働者は羊と同じだそうです。
犬に追わせて、狙ったとおりの道を歩ませて、育てて、食う。
そういう文化だそうです。 偏っった意見でしょうけどねw

そういう文化の違いをグローバル化という事で統一しようとする動きもあります。
ユーロのように統一しちゃうと、各地の差が吸収できなくなって困る事になるそうですが、
なぜか統一という理想を追い続けるようです。

そういう思想に侵略されると、企業の中でも統一を始めて、結果、君主が現れます。


「あなたのお客様は誰ですか?」

こういう質問は企業内では良くきくことばです。
特に間接部門で問われると、悩む質問です。

統一化君主がいるところでは、お客様は君主様になるようです。

彼が満足するものをもっていかなければ、自分の評価が下がる…。
社畜という言葉もありますが、まさに奴隷の根性です。

ご主人様のご機嫌とって、期待に答えていれば、食事の心配はない。
安定した暮らしが奴隷にはあります。元々働くのが大好きな民族ですから、神様のためじゃなく、君主のために働く
それだけの違いなんですよ。
 セッセとはたらいて、お給料を少しでも多く、周りの人より早く偉くなって…



慧海はそういう生き方が苦しくて出来なくなってしまいました。
ホント苦しい。
もういや・・・。
おなじ仕事なら、目の前で苦しむお客様に仕える仕事がしたい・・・。
でも、ローンや、家計を考えると、奴隷以外の道を選ぶ勇気はありません。

何が正解とかはわかりません。慧海にわかろうはずもない事でしょう。
その現実から、逃げ出さず、受けていくしかないのだろうと思います。
慧海の思いが、慧海を苦しめても、唯、今を頂きながら生きるしかないのでしょう。
違う道に行くときは、そういう風になっていくものなんだと思います。

2014年5月23日金曜日

ありがたい と思う


昔の慧海は「ありがとう」という事を滅多に言わない人だったんです。

無駄に高いプライドを持っていたので、感謝という気持ちが薄かったんでしょうね。
感謝を感じたとしても、照れくささと負けた感でやっぱり口にはしてなかったです。

慧海に限った話じゃなく、今は世の中が、だいたいそんな感じですよね?


仕事上の言葉やメールでも同様で、儀礼的な感謝の言葉を使っても、
ありがたいなぁ と思って使う事なんて滅多にないんじゃないですかね?

人は自分の事しか考えない生き物ですから、他人と利益が合うときだけ
他人にとって利になる事をしてもらえるものだと思うのですよ。


そんな人が、どん底に落ちて、地に足がつくと、天の高い事を知ります。

元居た場所まで這い上がるうちに、いろんなものが剥がれ落ち、
頭が下がる思いを多々してみれば、世の中こんなにありがたかったのかと思い知らされます。

そうすると、自然に「ありがたいな」って思うんです。

慧海に何かするのに、利があったのかもしれない。
慧海に何かしたら、その人が利を得ると期待された訳ですよ。
慧海をそのように評価し、認めたわけですよ。
それ自体、ありがたい事ですよね。

慧海は、他人の目を意識して行動すると辛くなりますので、
他人に心地よくなる事を意識して行動はしていません。
むしろ腹をたててもいいだろう行動をしています。

そんな慧海にですよ!

そんな慧海に何をみたんだ?と思うものもありますが、実にありがたい事だと思います。

皆様、本当に、ありがとうございます。

2014年5月21日水曜日

希望が厄災


ギリシャ神話のパンドラの箱って話で、以前は、

厄災の詰まった箱をあけてしまって、世の中に様々な災いがばらまかれたけど、
最後に希望が残った。よかったよかった

というように理解してました。

今思うのは、希望という厄災にしてやられた って思います。

そもそも、プロメテウスはなぜ希望を封印したんでしょうね。
彼は希望の危険さを知っていたんじゃないかと考えたくなります。

なぜ希望だけが残ったのか・・・希望はうまく人の元に入り込んだんですよ!w
人に巣食う希望・・・これが人を苦しめていくんです。

人生から希望が失われたと感じた時、希望が絶望に変わるんです。
絶望は希望の裏の顔ですので、絶望だけでは存在しません。

妄想による未来の希望に逃げ込むから、現実に絶望するのでしょう。
希望も欲望も、みんな妄想。

ちゃんと地に足つけて、今に意識をむけてれば、先々の事はお任せして
すごしていれば、厄災に悩まされる事はない無碍の道が待ってます。

病気にならなかったり、泥棒に入られなかったり、もちろんお金持ちになったりは
しませんけど、それに悩まされなくはなります。

それが喜ばしいと思えないから、誰もが希望を持ちたがるんでしょうけどね。

あ、そういえば、「天国は行きやすいのに、だれも行きたがらない。
人は好んで地獄にばかり行きたがる」みたいなことを街頭の聖書宣伝で言ってました。

みんな大好き希望の世界!

2014年5月20日火曜日

前向きは辛そう


慧海がお仕事でお世話になっている人で、よく怒り嘆いている人がいます。

自分の努力と正しさが伝わらない虚しさ、
そして自分が評価されない怒りというように感じてました。

それでも、自分の正しいと思う事をやり続けています。
伝われば大きな成果をだしますが、伝わらない事が多々あります。


その方は、相手の幸せの為と信じて、一所懸命考え、伝わるように文書を書き
正しいと信じた事を堂々と正攻法で熱く語るんです。

伝わると信じているんです。
相手はわかってくれると信じているんです。
それをやらなきゃ、自分は責任を全うせず、逃げていると考えているようです。
全体最適で、多くの人がどうやったら楽に仕事ができるかと真剣に考えています。

本当に、前向きでいい人なんです。ですけど・・・辛そうです。

本人は気づいていらっしゃらないので、辛いとは思っていないようですが、
相手に届かなかったとわかったときの姿は慧海にはとても辛く見えます。
わかってくれると信じ、期待しているのでしょうね。
わかってもらえないのは自分の努力が足りないのだと・・・


今や慧海は、後ろ向きで無責任ですので、伝わらない事を前提に考えますし、
うまくいかなくても、そのなかでよかった点を報告します。

怒らず愚痴らず、冷静に対応すると、前向きだというイメージをもたれます。

前向きに頑張っている人が愚痴って後ろ向きにみえて、
後ろ向きにサボっている人が、前向きに見える。

そういう世の中みたいです。

皆様、くれぐれも自分の立ち居地はどん底に置かれるのがよろしいかと存じます。
全てがありがたい事になりますからw

2014年5月19日月曜日

もっと軽くいこう


今年に入って、1件/月しか記事を書いていません。

ずっと、愚痴を書き続けて、最近はちょっと深く考えたつもりの愚痴を書いて、
そんな文書と共に、自分をみつめてきました。

このブログは今まで「慧海は救われるのか」といったような事に対する、
色々な気づいた事をぼやいてきたブログでしたが、今となっては
救われるのかとか、既にすくわれているのか などという事に悩みません。
難しい事を学ぼうという気もなくなってきました。

このままだと、何も書く事がなく、慧海の旅の記録が終わってしまいます。
ちょっと気分を変えて、 慧海の日々に入り込んだ仏教的な、
メンタル的な、そういう何かを書いていこうかと思います。

ツイッターよりは長く、という程度に気軽な心の話を書きたいものです。

ご縁がありましたら、お付き合いください。

2014年5月4日日曜日

5月になっちゃいました


色々と思いつくものがありつつも、文書化しないでいたら5月になっちゃいました。
とりあえず、4月を振り返ってみます。

3月31日が社長答申で、それにむけての資料作りが大変でした。

で、4月1日は、有給をとって桜をみに地元をフラフラと数時間・・・
青空と桜に癒されて、ノンビリ期初をすごそうとおもっていたら、
4月2日の会議で、慧海が2年ほどでまなんだ知識を文書化することが決定。
期初はノルマがきまるまで楽できるはずが、まったく楽にならなくなりました。

4月2日は、仕事の後お客さんでもあるG猫氏他と花見。
酔った拍子になぜかタバコを1本吸ってしまいました。
クリスマスで問題ないっておもっちゃったんでしょうね。
薄いナァとか口にしながら、普通に一本吸い終わる頃から目が回り始めました。
そういえば、酔った時のタバコは目が回るということをすっかり忘れてました。
目が回り、酔いがまわり、その場で嘔吐。
土の上でまだよかったとか思いながらも、まったく動けず寝ゲロ状態・・・。
クリスマスに執着がなくなったので、拒絶もしなくなってしまってました。
心身共に、タバコはもういらない そう刻み込まれた出来事でした。

一度気の抜けた体を騙し騙し、知識の文書化を実施・・・。
ストレスやら、水分と塩分過多やらで、案の定、報告日には風邪をひき、
報告が終わったあとは風邪でお休み。
胃腸がもうダメダメで、急性胃炎か何かで12時間ほど転げまわる始末。
尿管結石の痛さは長くても1時間ですが、軽い尿管結石の痛さが12時間続くと
精神的にも相当ダメージを受けました。
おかげで、今までどれだけ意識しようとも良く噛むということができなかったのに、
今では、よく噛まずに飲み込むのが怖くて、今までの3倍は噛むようになりました。
つい飲み込もうとするのを2回はやめて、噛み直すので多分3倍ですw
定食を食べ終わる時間が女性と同じ位の時間がかかったのは驚きです。

仕事関連の読書もしました。以下の3つの本はとてもよかったです。
・日本軍の敗戦を分析した失敗の本質・正しい選択をしているはずが会社をダメにするというイノベーションのジレンマ、
 それを個人に応用した最新刊イノベーションオブライフ
・産業革命の本質をとらえた第3の波
復職後、仕事に関する本をあまり読まなかったんですが、4月は7冊ほど読んでしまいました。
なぜか1980年あたりの本が多かったですが、勉強になりました。
やっと、そういうことが理解できる下地ができたということでしょうかね。


その間に、お寺の勉強会やら、お花祭りやらもありました。
住職や副住職のお話に不安を感じました。私たちのお寺は大丈夫かな?ww
慧海自身は仕事に疲れた結果、念仏やら、読経やら、仏書やらに戻っていくあたりが、
どれだけリアルに振り回されても佛から離れていかないところまできているのだなぁと感じました。

ホント、慧海が望もうとも、望まなくとも、なるようになっていくものだと、改めて感じます。

もう念仏するしかないですねw

南無阿弥陀仏

2014年3月30日日曜日

3月終わっちゃいます


リアルが忙しくて、しばらく更新してませんでした。
忙しいというか、迷走していたというか鬱々してたというか…。

11月あたりで過去を許容し、しばらくは問題なかったんですが、
仕事やら家やらで、未来やら損得やらをかんがえはじめると、
やるべき事をやるようにしていたつもりが、慧海の中にあった、
色んなものが暴れだし、たいへんな事になってました。

でも、どんだけ大変な事になっていようと、やるべき事はやるしかなく、
慧海が悩んでいようとも時は進み、なるようになっていくので、
ただただ、毎日思いついた事をやっているだけで、無事解決していくのであります。

復職して6年たち、今年は新しいテーマで仕事もして、
社長答申のための文書下書きをする位には、俗世に戻れています。

それでも、負荷をかけてはいけないと上司が言うのですから、
メンヘルをやってしまうと、ずっとそういう部分が残るんでしょうね。

ちょうど、アニメ宇宙兄弟の最終回付近をみてて、やっぱり、
PDや引きこもりといったメンヘラは、健常者として扱われなくなるよなぁ~
なんて思ったものです。

慧海はまだ会社に残れてます。
自分の思いを追わなきゃ飯とローンを返す分位のお給料をいただけます。
一つ一つやれる事を歯車として実施していけば、奴隷としてでも働くつもりがあれば、
なんとかなるのかもしれません。
ただし、会社を急に休んではいけません。風邪でもメンヘル扱いになりますから…
休みたければ、ちゃんと有給申請を出して休めばいいだけの話なんですからね。

そんな感じで、慧海はリスクとして扱われながらも、会社に活用していただいています。
いろんな欲求やら不満やら疲労やらがありますが、なんとかやりくりできました。
元々得意としていた仕事の仕方である、少し先の仕事事情を読む事もやってます。
避けていたビジネス書とかも、今のテーマをやるために読み出しました。

天命に安んじて人事を尽くす。

今、慧海にやれる事をやるだけです。
やらなくてよさそうなら、やりません。

最近は佛について学ぶ事も、考える事も殆どありません。
慧海が佛について考えなくても、佛が慧海を考えているのでしょう。

リアルの問題でどれだけ悩もうとも、イライラしようとも、
眠れないような苦悩をすることはありません。

考えている事なんて、自分のことばっかり、損得ばっかり…
そういう考えをしているときは大抵苦しいと感じています。
でも、それがリアルを生きるための条件。
それが俗世の共通語。

やっとそんな世界で、普通っぽく生きていけてます。


2014年2月3日月曜日

鏡だらけ


昨日はちょっと早いけど梅をみにいってきた。
八重寒紅梅?だかが何本か咲いていた。

最近は人の感情の乗った声が痛々しくきこえて苦しい。
花みて、そのあたりを散策するだけで、

おやつを取られたと無く子供
抱っこしてくれないと無く赤ん坊
足の裏を拭かれて吠え付く犬
子供に怒る父親
 そういう声がきこえ、イラっとしつつ耳をふさぎたくなる自分がいる。
思うようにならないと怒る音が、慧海の中の不満を刺激するのだろう。

痛い
苦しい

感化されないようにしていれば苦しくはないだろうし、
聞こえても頭の中でとりあわなければいいと思っていたが、
嫌悪感とかは、思考の前に現れる。
引きずらないようにはできても、とめる事はできない。

外界の関心を捨て、自分の思いの中に引きこもれば、痛くはないだろう。
誰もがそうしているし、少し前まではそうしていた。

今でも慧海は思いの中にいるはずなんだが、
外界がそんな慧海を映し出すのだよ。
渇望と不満と逃げの姿を見せ付けるのだよ。

仕事飲み会に行けば、周りがそうだし、酔った慧海も渇望と不満の言葉を吐く。
自ら毒を吐き、その毒が膨れ上がって、それを自らが飲む。

飲み会もアニメも漫画も、今や慧海を映す鏡。
経典や仏書のようにドライじゃない分、醜さがよく現れている。

死ぬまで慧海は慧海から逃げられない。
自らの業を背負って、見るもの、聞くもの、様々なものから、
自らの醜さを見せ付けられ、指摘されつづけていくのだろう。

慧海の感情の眼でみれば、この世はこんなにも苦しい世界だった。


どこか、そんな慧海から離れているものがなければ、
苦しすぎて生きてはいけない。
離れているものは、何物にも影響されず、ただ地に足をつけて、
まわりの濁流にのまれることなく、そこに在る。

彼のいる所までいけば、どこででも静かでいられる。
これも思いの中に引きこもっているってことなのかな?



みんなが笑顔でいられるなら、苦しみの姿をみないですむのになぁ。

2014年1月13日月曜日

全休先生ありがとうございます


全休先生が年末に書いた”慧海とタバコと救い”について記事を書いてくれました。

先生にとりあげて頂くのは、3回目位だったでしょうか?質問ふくめると・・・5回目位?


慧海の中に何か思うものがあり、あえて言葉にし、残しています。
その言葉の中に何か思うものがあったから、そこに言葉を加えてくれるのだろうと思います。
同朋として声をかけていただける、そういう事がありがたく、とてもうれしいです。

ホントありがたいことです。


以下が全休先生が追加してくれた言葉です。
過去に取り上げて頂いた際の記事がよめなくなってしまったいたので、
同様の事を回避するため、失礼ながら、全文を引用させて頂きました。
  すべてのものは、愛着と瞋憎の火によって
  迷妄・流転という火燃をあげて燃えている。
  もしこれらすべてのものから厭い離れて
  愛着(欲)を解脱することができるならば、
  そのときこそ真の正覚に達したものである。

  (火燃経)


 慧海さんの12月28日付のブログを拝見しました。「救い」とは何だろうというテーマですが、「やっとコレで愛しかったタバコと別れられます。もう、ただのタバコです」という表現がとても面白い。「ただのタバコ」になるのに八年間かかったというのです。

 坊守さんの考える「救い」とはどういうものなのか、この記事だけではよくわかりませんが、慧海さんは記事の中で「ひとつ執着がなくなりました」と述べているので、執着がなくなることを「救い」と理解していることがわかります。

 仏教では、思い通りにならないことを「苦」といい、思い通りにするための努力を世間では評価しますが、仏教では思い通りにしたい「思い」の方を問題にします。わたしたちはなんでも思い通りにしたいのではなく、興味・関心のないものはどうでもいいのです。

 自分にとり大切なもの、価値あるもの、意味のあるもの、つまり「執着」するものが人それぞれに違っていて、思い通りにしたい執着が人それぞれの苦悩をつくりだしています。慧海さんの言うように、タバコを吸わない人にはタバコが吸えない苦しみはないのです。

 そういう意味で、わたしたちは「苦しみ」の裏側にある「執着」に気づいて、その執着はどこから来るのかと、さらに内観を深めるとよいでしょう。思わせぶりな言い方で恐縮ですが、執着するから悩みは深いが、執着がなくなれば「ただのタバコ」になるのです。

 南無阿弥陀仏

 慧海さんのブログを読んで

 ◇南無阿弥陀仏との対話 №27

執着があると、思いにとらわれて、苦しくなっていきます。
逆に、執着がなるなると、苦しくなくなるという事を感じています。

執着がなくなる→思いにとらわれず、ありのままに見える→苦しくない。

というような感じでしょうか。
それと同時に

ありのままにみえる→否定的にならない→心が穏やかになっていく

というのもあるように感じます。

阿羅漢に到達すると感動する事もなくなるらしいとお寺でよく言われます。
思いにとらわれなくなっていくと、そうなるような気もしなくもないですが、
執着がうすまっただけで、こころが落ち着くのだから、きっとその話は間違いだと思います。
テーラワーダの記事か何かで執着がなくなった結果として慈悲がうまれるという事を
読んだ事もあるので、そうなんだろうと思います。
むしろ、あるがままに感動しつづけるのかもしれません。まぁわかりませんが。


頭でどうこうしてみようとも、しなかろうとも、既に如来のお心の中です。
それでどうにかなっちゃたりなんかしません。
だからいくらでも悩むことができます。妄想することができます。
そしてブログに書く事で、思いを見る事で、悩みを忘れていきます。

ありがたく、かたじけないことです。

帰命尽十方無碍光如来

2014年1月11日土曜日

”逆恨み”を紐解く


年初1回目の記事ですんで… 今年も宜しくお願いいたします。


慧海が認識している現在最大の執着は、一時期の上司達に対する逆恨みです。
慧海に非があり、その結果の上司の判断をうらんでいるので、逆恨みです。

どんなことがあったか慧海目線で振り返ってみました。

1.開発リーダをしていたが、プロジェクトを無事完了させられなかった。
  →慧海の仕事の部下に引き継げと、「技術職」をやめるよう指示 
    → 出向し「営業支援職」に変更

2.営業部門との協調と支援を依頼
  →案件もってきたら考えるということで、うけいれられず

3.技術部門に戻りたいと相談
  →大型の案件といっしょになら戻す と回答

・・・ この後、病んで、休んで、復職 ・・・

4.技術部門に戻り、昔の「技術職」のような仕事で貢献したいと相談
  →会社の方針が変わったので、いままでの慧海は不要と宣告された。
    仕事の仕方をかえるか、出向して営業支援をするかを提示 →出向を選ぶ

5.部署異動後、キャリアプランについて面談
  →考え方は否定されなかったが、それが活かせる部署ができたら戻すと回答
    部署はつくられることはなかった
    →その後、色々あり「技術職」に戻る事をあきらめた。

6.グループ会社全体がWin-Winな関係を作れる仕事がしたいと意見
  → 自分が所属する会社の利益が最大限になるようにしろ と回答
    → 出向が解除され、また新たな領域の仕事へ・・・
       上司はお客さんに「なぜかうちの部署にいる技術者です」と紹介する

あえてあげてみましたが、こうすることで、その頃の考え方がよくみえてきます。

・「技術職」という仕事に対する執着
 →その頃のまわりからの評価や期待、権限に対する執着
・ 自分を認めて欲しいという欲望と必要とされなくなった無力感
・会社に対する甘え

自分の欲求、プライドが満たせていない事と、いじけ根性の問題ですね

プライドを守るために上司が悪いと過去に決め付けた為、
その頃の事を思い出すたびに、
無思考で、嫌悪感があらわれ、上司が悪いとなってました。
役職ある立場での発言でしょうから、逆恨みと表現してました。

お客さんと後輩はみてましたが、上司や幹部をみて仕事をしてはいませんでしたので、
会社がそういう役割の社員を必要としなくなっていた事に気づかなかったんですね。
必要としないものを売り込んでいたのだから、当然の対応だったんですね。


なぜ、こんな事を紐解こうとしはじめたかというと・・・

今、営業系企画部門から新商品の開発にあたっての協力依頼をもらっています。
「技術職」の頃の考え方を必要としている言われています。

その依頼をしてくれている人たちは、お客さんをよく見ている人たちで、
自社の方向が変わる前に一緒に仕事をした事がある人たちでした。

必要としていただけるのも、ものづくりさせてもらえるのもとてもありがたいです。
なのに、その仕事を積極的にやろうとしだすと、なにかが頭を横切り、急に
やる気を失うというか、「やるな!」 と無意識にストップがかかる感じがします。
そんな事がしょっちゅうあるので、心の中を覗いてみたというわけです。

結果、わかったことは2つです。


1つは、プライドを満たすための仕事の仕方を拒絶しているみたいです。これは、上に書いた、逆恨みと思っていたものを思い出して再評価した結果です。
気づいていない煩悩には駆られ、呑まれます。でも煩悩で動くと、苦しくなるんです。
苦しくなると、頭の中をみはじめて考えていた事を止めちゃいます。
再評価済みなので、同じ事がおこるかは様子見ですね。

もう1つは、トラウマってヤツだろうと思います。
拒絶・否定され社内で孤立する恐怖があります。
同じ状況になったらどうしよう というのが怖いんじゃなく、
過去の記憶としての恐怖がストップをかけるんです。
他にも、病気になって不整脈もでて、「会社に殺される」と思った記憶と
その時の、やべぇ死ぬのかも って思った恐怖があります。
休職中には生きている意味がわからなくなって、死にたくなってもいます。
これらが一連の流れの中にあって、 逃げろ、やめろ、と叫ぶようです。
たぶん、その時の恐怖感は再現時に内観できていればおさまると思います。

残る問題は、心身を削るかのようなものづくりをもう一度やるのか だと気づきました。


色々と思いがさわぎだします。

明日という無を切り開くには願が必要だと藤元先生の本にありました。

新しいものを創造するにも願が必要です。

慧海は、誰の為に、何の為に働くのか…生きるのか…

生活のみの為ではない、夢や欲望の為でもない。ましてや会社の為でもない。

安易に答えをだすものではなさそうだ。
こういう事を問いつづけるしかないんだろうなぁ。

うん。内観の念仏が足りないなw

南無阿弥陀仏