2014年1月13日月曜日

全休先生ありがとうございます


全休先生が年末に書いた”慧海とタバコと救い”について記事を書いてくれました。

先生にとりあげて頂くのは、3回目位だったでしょうか?質問ふくめると・・・5回目位?


慧海の中に何か思うものがあり、あえて言葉にし、残しています。
その言葉の中に何か思うものがあったから、そこに言葉を加えてくれるのだろうと思います。
同朋として声をかけていただける、そういう事がありがたく、とてもうれしいです。

ホントありがたいことです。


以下が全休先生が追加してくれた言葉です。
過去に取り上げて頂いた際の記事がよめなくなってしまったいたので、
同様の事を回避するため、失礼ながら、全文を引用させて頂きました。
  すべてのものは、愛着と瞋憎の火によって
  迷妄・流転という火燃をあげて燃えている。
  もしこれらすべてのものから厭い離れて
  愛着(欲)を解脱することができるならば、
  そのときこそ真の正覚に達したものである。

  (火燃経)


 慧海さんの12月28日付のブログを拝見しました。「救い」とは何だろうというテーマですが、「やっとコレで愛しかったタバコと別れられます。もう、ただのタバコです」という表現がとても面白い。「ただのタバコ」になるのに八年間かかったというのです。

 坊守さんの考える「救い」とはどういうものなのか、この記事だけではよくわかりませんが、慧海さんは記事の中で「ひとつ執着がなくなりました」と述べているので、執着がなくなることを「救い」と理解していることがわかります。

 仏教では、思い通りにならないことを「苦」といい、思い通りにするための努力を世間では評価しますが、仏教では思い通りにしたい「思い」の方を問題にします。わたしたちはなんでも思い通りにしたいのではなく、興味・関心のないものはどうでもいいのです。

 自分にとり大切なもの、価値あるもの、意味のあるもの、つまり「執着」するものが人それぞれに違っていて、思い通りにしたい執着が人それぞれの苦悩をつくりだしています。慧海さんの言うように、タバコを吸わない人にはタバコが吸えない苦しみはないのです。

 そういう意味で、わたしたちは「苦しみ」の裏側にある「執着」に気づいて、その執着はどこから来るのかと、さらに内観を深めるとよいでしょう。思わせぶりな言い方で恐縮ですが、執着するから悩みは深いが、執着がなくなれば「ただのタバコ」になるのです。

 南無阿弥陀仏

 慧海さんのブログを読んで

 ◇南無阿弥陀仏との対話 №27

執着があると、思いにとらわれて、苦しくなっていきます。
逆に、執着がなるなると、苦しくなくなるという事を感じています。

執着がなくなる→思いにとらわれず、ありのままに見える→苦しくない。

というような感じでしょうか。
それと同時に

ありのままにみえる→否定的にならない→心が穏やかになっていく

というのもあるように感じます。

阿羅漢に到達すると感動する事もなくなるらしいとお寺でよく言われます。
思いにとらわれなくなっていくと、そうなるような気もしなくもないですが、
執着がうすまっただけで、こころが落ち着くのだから、きっとその話は間違いだと思います。
テーラワーダの記事か何かで執着がなくなった結果として慈悲がうまれるという事を
読んだ事もあるので、そうなんだろうと思います。
むしろ、あるがままに感動しつづけるのかもしれません。まぁわかりませんが。


頭でどうこうしてみようとも、しなかろうとも、既に如来のお心の中です。
それでどうにかなっちゃたりなんかしません。
だからいくらでも悩むことができます。妄想することができます。
そしてブログに書く事で、思いを見る事で、悩みを忘れていきます。

ありがたく、かたじけないことです。

帰命尽十方無碍光如来

2014年1月11日土曜日

”逆恨み”を紐解く


年初1回目の記事ですんで… 今年も宜しくお願いいたします。


慧海が認識している現在最大の執着は、一時期の上司達に対する逆恨みです。
慧海に非があり、その結果の上司の判断をうらんでいるので、逆恨みです。

どんなことがあったか慧海目線で振り返ってみました。

1.開発リーダをしていたが、プロジェクトを無事完了させられなかった。
  →慧海の仕事の部下に引き継げと、「技術職」をやめるよう指示 
    → 出向し「営業支援職」に変更

2.営業部門との協調と支援を依頼
  →案件もってきたら考えるということで、うけいれられず

3.技術部門に戻りたいと相談
  →大型の案件といっしょになら戻す と回答

・・・ この後、病んで、休んで、復職 ・・・

4.技術部門に戻り、昔の「技術職」のような仕事で貢献したいと相談
  →会社の方針が変わったので、いままでの慧海は不要と宣告された。
    仕事の仕方をかえるか、出向して営業支援をするかを提示 →出向を選ぶ

5.部署異動後、キャリアプランについて面談
  →考え方は否定されなかったが、それが活かせる部署ができたら戻すと回答
    部署はつくられることはなかった
    →その後、色々あり「技術職」に戻る事をあきらめた。

6.グループ会社全体がWin-Winな関係を作れる仕事がしたいと意見
  → 自分が所属する会社の利益が最大限になるようにしろ と回答
    → 出向が解除され、また新たな領域の仕事へ・・・
       上司はお客さんに「なぜかうちの部署にいる技術者です」と紹介する

あえてあげてみましたが、こうすることで、その頃の考え方がよくみえてきます。

・「技術職」という仕事に対する執着
 →その頃のまわりからの評価や期待、権限に対する執着
・ 自分を認めて欲しいという欲望と必要とされなくなった無力感
・会社に対する甘え

自分の欲求、プライドが満たせていない事と、いじけ根性の問題ですね

プライドを守るために上司が悪いと過去に決め付けた為、
その頃の事を思い出すたびに、
無思考で、嫌悪感があらわれ、上司が悪いとなってました。
役職ある立場での発言でしょうから、逆恨みと表現してました。

お客さんと後輩はみてましたが、上司や幹部をみて仕事をしてはいませんでしたので、
会社がそういう役割の社員を必要としなくなっていた事に気づかなかったんですね。
必要としないものを売り込んでいたのだから、当然の対応だったんですね。


なぜ、こんな事を紐解こうとしはじめたかというと・・・

今、営業系企画部門から新商品の開発にあたっての協力依頼をもらっています。
「技術職」の頃の考え方を必要としている言われています。

その依頼をしてくれている人たちは、お客さんをよく見ている人たちで、
自社の方向が変わる前に一緒に仕事をした事がある人たちでした。

必要としていただけるのも、ものづくりさせてもらえるのもとてもありがたいです。
なのに、その仕事を積極的にやろうとしだすと、なにかが頭を横切り、急に
やる気を失うというか、「やるな!」 と無意識にストップがかかる感じがします。
そんな事がしょっちゅうあるので、心の中を覗いてみたというわけです。

結果、わかったことは2つです。


1つは、プライドを満たすための仕事の仕方を拒絶しているみたいです。これは、上に書いた、逆恨みと思っていたものを思い出して再評価した結果です。
気づいていない煩悩には駆られ、呑まれます。でも煩悩で動くと、苦しくなるんです。
苦しくなると、頭の中をみはじめて考えていた事を止めちゃいます。
再評価済みなので、同じ事がおこるかは様子見ですね。

もう1つは、トラウマってヤツだろうと思います。
拒絶・否定され社内で孤立する恐怖があります。
同じ状況になったらどうしよう というのが怖いんじゃなく、
過去の記憶としての恐怖がストップをかけるんです。
他にも、病気になって不整脈もでて、「会社に殺される」と思った記憶と
その時の、やべぇ死ぬのかも って思った恐怖があります。
休職中には生きている意味がわからなくなって、死にたくなってもいます。
これらが一連の流れの中にあって、 逃げろ、やめろ、と叫ぶようです。
たぶん、その時の恐怖感は再現時に内観できていればおさまると思います。

残る問題は、心身を削るかのようなものづくりをもう一度やるのか だと気づきました。


色々と思いがさわぎだします。

明日という無を切り開くには願が必要だと藤元先生の本にありました。

新しいものを創造するにも願が必要です。

慧海は、誰の為に、何の為に働くのか…生きるのか…

生活のみの為ではない、夢や欲望の為でもない。ましてや会社の為でもない。

安易に答えをだすものではなさそうだ。
こういう事を問いつづけるしかないんだろうなぁ。

うん。内観の念仏が足りないなw

南無阿弥陀仏