2014年2月3日月曜日

鏡だらけ


昨日はちょっと早いけど梅をみにいってきた。
八重寒紅梅?だかが何本か咲いていた。

最近は人の感情の乗った声が痛々しくきこえて苦しい。
花みて、そのあたりを散策するだけで、

おやつを取られたと無く子供
抱っこしてくれないと無く赤ん坊
足の裏を拭かれて吠え付く犬
子供に怒る父親
 そういう声がきこえ、イラっとしつつ耳をふさぎたくなる自分がいる。
思うようにならないと怒る音が、慧海の中の不満を刺激するのだろう。

痛い
苦しい

感化されないようにしていれば苦しくはないだろうし、
聞こえても頭の中でとりあわなければいいと思っていたが、
嫌悪感とかは、思考の前に現れる。
引きずらないようにはできても、とめる事はできない。

外界の関心を捨て、自分の思いの中に引きこもれば、痛くはないだろう。
誰もがそうしているし、少し前まではそうしていた。

今でも慧海は思いの中にいるはずなんだが、
外界がそんな慧海を映し出すのだよ。
渇望と不満と逃げの姿を見せ付けるのだよ。

仕事飲み会に行けば、周りがそうだし、酔った慧海も渇望と不満の言葉を吐く。
自ら毒を吐き、その毒が膨れ上がって、それを自らが飲む。

飲み会もアニメも漫画も、今や慧海を映す鏡。
経典や仏書のようにドライじゃない分、醜さがよく現れている。

死ぬまで慧海は慧海から逃げられない。
自らの業を背負って、見るもの、聞くもの、様々なものから、
自らの醜さを見せ付けられ、指摘されつづけていくのだろう。

慧海の感情の眼でみれば、この世はこんなにも苦しい世界だった。


どこか、そんな慧海から離れているものがなければ、
苦しすぎて生きてはいけない。
離れているものは、何物にも影響されず、ただ地に足をつけて、
まわりの濁流にのまれることなく、そこに在る。

彼のいる所までいけば、どこででも静かでいられる。
これも思いの中に引きこもっているってことなのかな?



みんなが笑顔でいられるなら、苦しみの姿をみないですむのになぁ。