2015年11月8日日曜日

考えられなくなる光


不可思議光 如来

門徒には阿弥陀仏の別名という知識があると思います


無量寿 不可思議光
アミターバ アミターユス
いつでも どこでも

アが否定
ミタが計る
アミタで計測できない=自分の中に取り込めない=自我の外

そんな知識が慧海の中にあります

また、光によって自分の中の影がみえるとか
真っ暗な思いの中にさす救いの光とか
そんな知識も慧海の中にあります


全部思考です
全然不可思議になってません



先日、憂鬱な気分でお客様先に向かっている時のことでした

やることと言い訳と愚痴で頭の中が騒がしく、気分の波に引きずられ逃げだしたくなってました
時間に余裕があったので、途中にあったベンチにすわって陽に当たることにしました

目をつぶって太陽をみると、目に良いとか書いてあったな・・・

そんな事を思い出し、目をつぶって太陽をみました
瞼の裏を通して真っ赤な光が見えます

あったかいなぁ

そう感じるだけで、さっきまでの頭のぐちゃぐちゃが静かになってました

光から目を背けないと思考できません
何度やっても光をみた状態では暗くぐちゃぐちゃとした思考がとまります

不可思議光?

考えることができなくなる光
考えられない=愚?

愚になって念仏する・・・


光から目を背けてそんな事をかんがえては、また強烈な光をみて考えを吹き飛ばされる


この1年ぐちゃぐちゃ考えて、なにかをいいきかせようとしてる慧海でしたが、
慧海の思いなんて、光に吹き飛ばされる程度のものでした

ありがたいことです
南無阿弥陀仏


2015年11月2日月曜日

ただの愚痴


実にやってられない気分だ

自分たちじゃ仕様をお客様から聞くこともせず、設計もしやしないのに、仕様が増えただ、やりたくないだ、難しいだ、きいてないだと好き勝手いって、自ら考えることもしやしないじゃないか

だいたい、この仕様がきまってないことは、何か月も前からPMには話をしてあったんだぞ。担当割り当てないで放置して、ヤバイから仕様のヒアリング始めて、勝手きめられた納期をまもるべくやってるというのに、俺が依頼した仕様を決めるための開発は無視したままじゃないか。

仕様をきめるまで開発しないとかいって、仕様決まっている分だけでも作らせりゃ、あんなヒドイできじゃ仕様決めた後は画面設計もやらなきゃならないよ

半年以上前に書いた仕様は無かったことになってるし、都度説明したものも無かったことになっているよ。
理解できてないから何を言っても覚えちゃいない。
覚えちゃいないから、そんな仕様はしらないってことだろう。ホントバカらしくてやってられんよ

自分たちはお客様との間に立つ気がまったくないし、業務を理解する気もない。誰かがなんとかしてくれると思っているんかねぇ
このまま時間がたてば、誰かが何とかしてくれるとでも思っているのかねぇ

試行錯誤しないで、業務改善後の仕組みができるわけないだろう。どうやったらいいかがわからないから、頭かかえているんだっつ~の。仕様が落ちてくるのをまっているだけじゃ業務改善案件なんだから終わらないよ。
誰も彼もが最善の方法を求めて、手を動かすことをやめ、最悪な状態をつくっている。
自分のやり方が正しいと信じて疑いもしない。
お客様に価値を提供することをしようとしない。

慧海のやりたい仕事はお客様に価値を提供する仕事
お客様の課題を解決できる仕組みを提供する仕事
課題解決の為のお手伝いが仕事
システム作って納めるだけのことは慧海のやりたい仕事じゃない

彼らとは、やろうとしている仕事が違うのだから、折り合いをつけてやるしかないのだろうなぁ

彼らは僕の依頼することをやってくれるとは限らない。
多くが無視され、むしろ、依頼がおかしいと非難されるだろう。

会社自体がそういう方針なんだから、しょうがない
ウォーターフォール型で約束したシステムを約束した納期、金額で納めることが彼らの仕事。
業務改善にシステム構築を加えサービスとしてやっていくこと自体、彼らにとってもどうでもいいことなんだろう

慧海がやりたいと思う仕事は、いまのままじゃできない。
一人で全てを立ち上げるだけの気力もない。

今の案件が終わったら会社を辞めよう

迷惑が最小限になるよう、仕様書にかいてもらうことはしておこう。

でも、4月過ぎまではやめられない
あと4か月は我慢。

転職がしたい訳じゃない。部署によっては顧客起点が残っている。

営業の先輩達には早めに相談しよう
協会さんにも相談してみよう
社長にはどう伝えたらよいだろう…あの人経由かなぁ
定例会の皆様にはちゃんと謝っておこう


でも、もう頭がまわらないや
靄がかかったような、あの頃のような気分だ
つぶれないように、気を付けてこう


会社に必要とされないのは今わかったことじゃない
それを求めて生きることがむなしいこともわかっているはず
それでも求めてしまう。それほどまでに俗世が恋しい

仏教哲学を学び、俗世を知識で客観化してみても本性は欲の塊のまま。

仏教を杖にしないとたってもいられない慧海
全てをうしなってでも仏道を歩むような事もできない
もう仏教哲学をさらに学ぶ事もできない。学べば煩悩の知恵ばかりが増す

こうやってディスプレイに向かって不満をぶちまけるだけが慧海にできること

吐き出せば、それで頭がおとなしくなる

あとは眠る前に手を合わせて念佛すれば、ちゃんと眠れるようになる。


帰敬した頃と何も変わってない慧海がここにいる

どこまでも俺が俺が俺がの慧海が…


2015年9月27日日曜日

帰敬から8年



忙しい・・・

疲れた・・・

あのバカどもが・・・


そんなことばかり頭に浮かべて、
自分の殻作って引きこもって、
お客さんの前でだけいい顔して、
お給料もらうためと自己弁護して、
苦しい苦しいともがく日々。

生きるのって、面倒くさいなぁ
生きてたら、ずっと苦しいままだよ
子供は高校受験だし、まだまだお金いるから仕事しないといかんなぁ
でも、今の仕事つらいなぁ
転職しようかなぁ
あと何年我慢してればいいかなぁ
死にたいなぁ。
でも迷惑かかるからせめて早く死ねないかなぁ

苦しさが続くと、頭は、人生からの逃げを提案してくる。


こりゃヤバいと、そこから逃げる手段として念仏をする。
念仏すると、念仏は呪文じゃないと頭に浮かぶ。

心を制御しようとしたことに気づく。
思い通りしようと妄想の中で戦っていたことに気づく。
自分が正しくて、他人は間違っていると考えていたことに気づく。
すごい奴だと、あいつの言うとおりにしようという状況を望んでいたと気づく。
この思いが苦しみを生むのだから、やめようと考えたことに気づく。


娯楽に逃げても、
酒に逃げても、
妄想に逃げても、
教えに逃げても、
苦しみは形を変えてついてくる。
むしろ、逃げた分だけ増えている。

逃げたって駄目なんだよ

知っているよ
自分を大事にもったまま、どうこうしたってどうにもならないんだよ

知ってるよ
本当に苦しいなら、手放せばいい
なるように任せちゃえばいい
逃げるのをやめて、止まればいい
止まって、来るものをすべて受ければいい
受けるけど、なるように任せちゃえばいい
どうなるかは任せて、目の前のやるべきことをすればいい
他人事のように、自分に指示して自分でやればいい

自分が努力しなかったから
自分が無責任な行動をしたから
あの時、ああしなかったから

そういうことも手放せばいい
お任せすればいい

失敗したくない
損したくない
恥かきたくない
迷惑かけたくない
後悔したくない

そういうことも手放せばいい
お任せすればいい


知っているよ

その「知っている」が手放せないから苦しんでいるんだよ


如来のお育ては、どこまでも用意周到

ほんと参ります。
頭が下がります。

降参ですよ。
もう好きにしてください。

そんな感じの帰敬して8年たった慧海でした



2015年7月4日土曜日

我が世は苦しい


先日、家の通信環境を変更しました。

それにともなって、いくつかモノを買ったり、契約したりと手間が発生します。
そして、色々と慧海の想定にない事も多々発生しています。

何かを得ようとする時、自分の欲望と、それにかかる費用や作業等のコストを比べます。
かなえる欲望の量より、コストが低い時、購入を決定しますが、
購入後に、少しでもコストが増えると、嫌な気分になります。

これも怨憎会苦ってことでしょうね

愛別離苦…好ましいもの(+)が離れていく(-)苦しみ
怨憎会苦…嫌なもの(-)が近づく(+)苦しみ

人は、好ましいもの(+)が近づく(+)ことと、
嫌いなもの(-)が離れていく(-) ことを喜ぶものです。

好ましいものを得たはずが、そこから嫌なものが生まれる…
得なければ生まれなかった苦悩…

慧海のすむ世は、モノを買わないと生きていけない世界です。
何かを得よう、なにかを成そうとすると、必ず嫌な事を伴ってしまいます。
作為すればするほど、苦悩が増えます。

いたしかたなし と念仏しながら、
慧海にやれることを、ただやるしかありません。

嫌だ嫌だと苦悩の炎に焼かれる慧海をみつつ、やれる事をしていくと、
状況が慧海の想定よりも好転したりします。

一人で勝手に不満を膨らましていたのだなと、あらためて気づきます。

そして、また次の些細な嫌な事に苦悩しはじめますw

欲望の真っ只中で、全てを思い通りに我張っていた頃に比べて、
こういう苦悩に過敏に反応していると思います。

慧海が感じるこの世で生きる事は、ホント苦しいことばかりです


南無阿弥陀仏


2015年6月4日木曜日

処世術


慧海は、慧海がもっと思い通りになるように考える時、苦しみます。

慧海は、目の前のやるべき事にのみ向かっているとき、苦しみを忘れます。

慧海は、結果は自分の努力で得るものではないと納得しているとき、努力をする事ができます。

慧海は、やるべき事が終わって無くなっていくとき、安らぎを感じます。



慧海は、如来の法により、このような自分の反応を知り、日々の生活の中で、
苦しみと向き合って、おだやかに生きていく事ができています。

如来の法に遇わなければ、この欲望と怒りの無関心の世界で
どうやっておだやかに生きつづけていけるのだろうか



未来の心配よりも、今の自分の心を気にすべきです。
世界の心配よりも、世界に向けて思う自分の心に気づくべきです。


未来も世界も如来の領分です。
人が考えるその領分は、全て妄想の中の出来事です。

自分には自分の領分があります。
自分に遇えばわかります。法に遇えば分かります。

人にできるのは内観の念仏しかないのでしょう。
流れていく今を常に気づき続けるしかないのでしょう。

慧海はそのように教わり、信じられない念仏をとなえ、
佛が慧海をどうみるかを感じました。


苦しみに苦しみたくないならば、善き人の教えに従うしかないのですよ。
なぜなら、自分自身が苦しみの原因なのですから。

南無阿弥陀仏


2015年6月3日水曜日

今日は誕生日だった


書く事がなく、久々の投稿です。

最近は本願のしたで、日々なんでもなく、あるがままに過ごせるようになってきました。


前回の記事のあと、2月の全休先生の記事で、
「そうだった。慧海も念仏するためにいるのだった!」という事を思い出しました。

その前までは、信仰体験で感じた事もすっかり忘れ、
俺が俺がと日々をすごし、何でもかんでも、全部自分の思い通りにし、
自分しかできない仕事をして、成果をだして、
上司、同僚に認められたいという思いばかりになってました。

そんな思いにふりまわされてみたり、苦しんで、なんとかしようとして念仏したりと
思いを思い通りにしようとして、それでまた苦しんでました。

思いが出る事自体があるがままだと頂くことができませんでした。

畢竟依を帰命せよ

自分の思いでなく、如来の本願に答えて念仏をする慧海は、
如来を本願を拠り所に生活するだけだった。

慧海は、色んな思いに駆られて、いろんな事をします。
まわりの人がかかげる正義の自己主張にうんざりしながら、
今、慧海がやる事は何かを問いながら、愚痴をいいながら、やるべき事をやってます。

慧海に誰かを助けることはできませんが、何もしないでもいられません。
慧海にできることを、慧海の自己満足としてやってます。

自己満足でやっているのですから、誰かからお叱りをうけてもしょうがありません。
お給料が増えなくてもしょうがありません。
遊んでてお給料いただくんですから十分です。

自己満足なんで、やりたくない仕事からは逃げます。
自己正義主張大会の場に居ると、皆さんの苦しみが聞こえます。
慧海の仏教的な思考からくる思いもでてきます。とても苦しいのです。
なので、逃げちゃいます。で、お叱りをうけますw

こんな感じで、 普通に過ごせてます。
特に念仏を唱え続ける生活をしているわけでもなく、
祈ってみたり、信じようとしてみたりするわけでもありません。

ただ、自分の思いに気づけている事は多いと思います。
気づいているだけで、振り回されたり、イライラしたりしてます。
それをなんとかしようとしたりもします。
それでいて、どこか落ち着いていられるようになりました。

何を思っても、何を行っても、なんか、もう大丈夫かな って気がします。

そんな43歳の誕生日を迎えております。

南無阿弥陀仏

2015年2月17日火曜日

ただいま


2013年末までは仏書読んで、知った気になって、仏教知識に逃げ込んでいました。
それでいて日々の生活と信仰が乖離し、趣味の仏教となっていました。

2014年はちゃんと仕事をしはじめて、結果を得るために先々まで考える日々になり
ただ、自分にできることを精一杯やろうとしてみました。

結果、何でもかんでも自分がやることに思えて、苦しむことになりました。

今年に入って、御同朋の信巻についてのレポートをみさせて頂き、
自分とむきあいもせず、佛にお任せすることも忘れ、
次はどうする、次はどうすると、先の先まで考え、
今、自分が何をしているかもわかっていない自分にきづきました。

改めて仏書に触れると、見えてくるものが違ってました。
他人から評価とか、プロジェクトの成功とか、
そういう事に注力するんじゃなかったんですね。

力の置き所というか、重心というか、そういうものを間違ってました。
信仰の中で日々を生きる
なんかちょっと感じられるものがでてきました。

この先もお育てお任せです。

南無阿弥陀佛

2015年1月1日木曜日

1年をふりかえって


あけましておめでとうございます。

年末に記事書き始めて、気が付いたら新年でしたw


2014年は佛だなんだと言わない一年を過ごしました。

1月から自分で考える必要のある仕事になって、
あれやこれやと、毎日の欲と怒りにうんざりしながら
すごして、気が付けば1年になってました。

何度も不如意な事をなんとかしようとして苦悩し、
念仏が口からでない日々であったと思い出し、
一人静かに念仏を称えて、
あらためて自分ができる事をするしかないのだと
再認識することばかりでした。

あとは・・・ずっと調子悪かった気がします。

胃腸の具合が悪くなって、この1年で10kg体重が落ちました。
年賀状を4月の写真をみたら、顔がパンパンで驚きましたw

この年末、風邪を引いて微熱だしながらこの記事かいてます。


2015年は・・・どうなることでしょうね。
どうなるかわかりませんが、最低月1回は記事かくようにしたいですねw


本年も宜しくお願いいたします。