2013年1月26日土曜日
渡ったのだな
亭主師の記事に
「彼岸に渡ったら、渡ったのだとわかる」
ということが書かれていました。
でも慧海は、楽になったけど、どうもその感覚がわからないので、
やっぱり違うのだろうかと…誰かに判じてもらおうと思っていました。
昨日、会社に向かうべく銀座を歩いてポンと感じました。
渡ったのだと。
なにかストンと落ちたというか、落ち着いたというか…そんな感じです。
全部が、如来の思し召しなんですよ。
何一つ慧海の意図するものではないんです。
慧海自身は何も変わってません。何もわかっちゃいません。
なにもわかってないまま、本願以外、何も信じていないまま、ダメなままなんです。
なので、全部、真如の方からの働きとしか言いようがないですね。
本願だって、念仏だって、信じるしかない状態にさせらたのですから。
信じられ思われている身なんです。こっちはただ御任せするだけなんです。
もう感謝しつつ、念仏するしかないんです。
慧海は、ずっと何かを抑え続け、押し殺して、毎日を息をしているだけで苦しく、
それが普通だと思って過ごしていたのに、まったくそういう感じがないのですから
これを救われたと言わずしてなんというんでしょう。
復職してすぐの頃、何もかもを否定することしかできず、自分が生きている事も
この身体がある事も否定していた時、やたらと苦しかった事を覚えています。
その時は、自分の反応をみることだけに意識を向けていて、自分が存在する事は
否定できないんだって気づいて、少し楽になりました。
その後、何度もグルグルと迷って、自分の思い、欲求、感情を抑えてないと
ダメなんだって思って、ずっと押し殺していました。
その間、頭の中だけはみたまんま。
全休先生の記事じゃないですが、自分はろくな者じゃないですね。
自分は決して救われないと深く信じることを、機の深信というのだそうですが、
この5年でわかったのは、慧海は救われるようなヤツではないということ。
そのくせに、無自覚になって苦しみに気づかない日々を送ると、信を得たかのように慢心する
そんな日々を送って、色々と壊れて、やっと頭が下がった。
やっと佛の言葉に耳を傾けられるようになった。
傾け始めたら、運良く救われた。そういうことだったのでしょう。
もう、誰かに保証して頂く必要もなくなりました。
仮に慧海のは妄想だと誰かに言われようとも、
慧海は救っていただいた身であると言えます。
慧海にとっては、どうしようもない事実なんです。
生きている事を否定せずにはいられない慧海は、
如来によって生きる事を認められています。
それを感謝し、佛を憶念し、念仏するしかないんです。
ただそれだけです。
抑え込んで生活しなくなったもんだから、気力もでてきちゃいましたよ。
仕事もちこっと、がんばってみっかなぁとか
仕事向けの勉強でもすっかなぁとか
2月になったら、何箇所か梅みにいくかなぁとか
大分ふとったんで、すこし痩せるよう、運動してみっかなぁとか…
まだ死にたくないって気にもなったんで、身体のケアもしないとねw
のんべんだらりんと気負わずに、社会と闘ってみっかなぁ~
どうなるかは、弥陀におまかせでねw
あ、そうそう
全休先生のリンクにある、小太り爺さん様のブログひまわりに
慧海の記事の事を書いていただきました。
http://bloghimawari.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-d8ad.html
ありがたいですねぇ
こんな小僧の愚痴記事に目を通していただけるだけじゃなく、
慧海の出来事を喜ばしく思っていただけるんですからね。
ブログはじめた頃からは想像もできない事です。
改めて、ご同朋の皆様に感謝です
南無阿弥陀仏
2013年1月21日月曜日
こんなんでいいんかなぁ
先日、お茶のみ同僚O氏から
同じようなことばっか書いてつまらん
という感じの指摘をされましたw
そりゃそうでしょうねぇ
偶然起こった感覚をああだこうだと書いてるんですから…
まるで俺はUFOを見たぞと言わんばかりですねw
他人からすりゃ、ホラ話きくのと同じ位つまらんでしょうね
でも、慧海としては記録を残しておく事が大事なので…
読んで頂けている皆様、ごめんなさいねw
まぁ、慧海にとってはいままで想像していた理解とは違った感覚ですし、
物事のとらえ方も以前とちょっと違っちゃうような経験なんですよね
だもんだから、頭がソコに依存しているかのような状態なんですよね
あの時に感じた事、気づいた事はどういうことだったのか と
イマイチ表現できないし、書けば書くほど感覚とは違ってるような気がして…
でも、今まで、そういうものかと思っていた仏書等が、今は、なんかわかるような気がして…
でもやっぱり自分では表現できないし、やっぱり単なる不思議体験だったかとも…
いずれ、慧海の念仏も親鸞聖人の念仏と同じ念仏ですと
言えるようになるんですかねぇ
元々慧海の念仏じゃないんだから、同じなはずなんですけどねぇ…w
そんな感じで、意識がそっちにむいて、気になってはいるものの、
別の意識は、普通にドライに淡々と動いて、普通に生活してるんですよw
十牛図でいう牛に乗っている感じですかねぇ?家に帰った感じですかね?
いままで、苦しいナァ、なんとかならんかなぁと
ず~っと気にして、気にしないようにして、やっぱり気にして
少しずつ、自分の思い込みが壊れていって、気にしている事も
苦しい事も何もかもそのままに受け入れることにして…
と過ごしてきた慧海ですが、そういう苦しさがなくなってしまった結果、
これからどうしたらよいのかが、わからなくなったんですよ
奴隷から開放されて自由になったら、命令されなくて不安になった
っていう、そういう感じでしょうか?
もう苦しさと闘わなくていいのかな?
また一時的のもので、やっぱり苦悩に焼かれるようになるんかな?
終わりじゃなく始まりだっていう感じなのに、何が始まったかわからんのですよ
奴隷の例えじゃないですが、自由になった感じはします
本願を頼りに自由に(一人で?)生きていくんだなって感じですかね
それが始まりってことなんですかね?
結局、考えてわかるものでもないし
そういう事は御任せしちゃってるんで、
普通に生活するだけだから、悩む事も実はないんですけどね
どっかで、御任せしちゃダメって感覚が残ってるんでしょうねぇ
もう不思議体験の話は書かないようにしようと思っていたんですが、また書いちゃいました。
南無阿弥陀仏
PS
これ書いている時に、いっしょにSDにデータを移動させていました。
そしたら、SDカードライタがエラーを起こして、28G分データがきえてしまいました。
元データがあるのは半分くらいでしょうか…
ショックはあるんですが、いままでのような後悔の嵐には飲み込まれていません。
数年前なら、これだけで数日布団からでられなかったですから…
でも、やっぱりショックですよ
きになるものだけでも、なんとか再入手したいですね…
HDDにあるデジカメの写真だけはDVDに焼いておこう…僕が良くても家族が許してくれないw
2013年1月14日月曜日
帰命
全休先生の記事とか、御文とか、歎異抄とかみて気づきました。
おかげさまで、南無阿弥陀仏を知ることができたようです。
帰命がわかるようになったようです。
というか、南無阿弥陀仏も帰命もそのままに書いて頂けていたんです。
わからなかっただけで・・・。
先日感じたアレは、そのことだったのだと気づきました。
帰命してたんです。
帰命…先週慧海が書いた記事がそのままに帰命です。
ホント、びっくりするほど、帰命しちゃったましたw
あえて書きます。
(異議のあるかた、コメントください。たぶん気にしないですがw)
慧海は如来に救って頂きました。
慧海は信を得ました。
慧海は本願に、弥陀佛に帰命・帰依しました。
命(いのち)に帰(かえ)るとお寺で話しがありましたが、そういう感じじゃなかったんです。
帰命は、命(めい)に帰(き)すです。
命令の命です。帰するの帰すです。※言葉がわからない人は調べてねw
慧海の表現で言えば、弥陀佛の
「お前を救うから、お前は俺の命令通りに我が名を称えろ!」
が聞こえたので、もうなんともできんと思う慧海は、命令に従って、
あの方が望む用に全てを投げ出して念仏をしたのです。
理屈はないです。私心もないです。ただ答え、捧げたんです。
知らずに、慧海は念仏に、弥陀佛に帰依したんですね。
あとから色々と言葉を知ると、そういうことだったのかと気づかされます。
いや、もう、あの感覚が本物だとすると、慧海にまさか…って思いますが、
調べてみると、調べてみるほどに、あの感覚が本物に思えてしょうがないんですわ
わからなかったことが、わかるような気になるんですわ
ささげるしかないって感じたあの感覚が、本物かと思うと、
もう、ホントなにもできませんわ。頭さげて、ゆだねて、御任せして…
今でも思い出すと、本願に帰して、念仏するしかなくなりますよ。ホント…
これからは凡夫慧海は、本願のお心に感謝し、
佛のお育てに御任せして生きていくことになります。
そんなわけで、ここまでお世話になって人に感謝を記しておきたいと思います。
善知識たる、「全休先生」に感謝、「亭主師」に感謝。
慧海と真宗の縁を深めてくれたお寺の「住職」と「井上師」に感謝
慧海まで届けていただけた宿縁、釈尊と、弥陀佛と、宗祖、七高僧に感謝
問いを残してくれた、通りすがりの「しゃり様」に感謝
サンガたる、「kirinnさん」や、お寺の「朴峠さん」、「柴田さん」他に感謝
家族と、飲み仲間の、「水氏」、「G猫氏」、「照氏」、「S氏」、「U氏」に感謝
お茶のみサボり仲間の「O氏」と、痛い説教をしてくれた国立大学の某先生に感謝
ついでに、主治医やら、高校の仲間やら上司やら、日々お世話になっていた人に感謝
皆様に如来の願いが届きますように…
慧海はもう、自殺するような事なく、体の不調に怯えることなく、
他人様と違った感覚のまま、社会を慈しみつつ無関係にノンビリ生きていきます。
やっとスタート地点です。
なんか、いろんな事を感じますが、どうも言葉にできないですね…
伝えたいとおもいつつも、伝える事もできないとも思う…
慧海の記録の中から感じ取って頂ければ幸いです…。
ご縁ある皆様、これからもよろしくお願いいたします。
2013年1月13日日曜日
一週間過ごして
仕事始めから一週間が過ぎました。
まだ、不思議体験の影響が残ってます。
慧海の意識が2つに分かれたような感じです。
いままでの慧海の下にもう一人慧海がいる感じです。
慧海が今まで通り世の中にケチつけている下で
温かく見守ってるような意識の感覚があります。
その感じは他人様にもむけられるようで、
他人様の行動に不快を感じている下で
他人様を応援するような感覚があります。
人嫌いの慧海なんですけどね
あと、自分の行動に反省しなくなりました。
もっと損したとか失敗したと思うようなことがあれば
反省するかもしれませんが
今のところ、何をしてもそれでいい と言う気がしてます。
だから、毎日が楽です
仕事の事はもちろん頭も使いますが
ああすればよかった とかいう気にならないんです。
自分を良くみせたい と思う心がわかってる分
良く見せなきゃって思わないのかもしれません。
よくわかりませんが、これでいいな って思うので
あんま考えてません。
あとは、いつ死んでもいいかな って気になってます。
だから、ご縁が尽きるまで生きていようって思います。
毎日を楽しく生きていようっておもいます。
自分の思いに閉じこもって、生きる意味がないので
死にたいと思っていた事の逆ですね。
思いの中で生きていたいが為に、死にたくなるんですよね。
そんな風に今の慧海は感じます。
これらが信によるものなのかはわかりませんが
慧海の知識になかったところで
慧海の視界に何かが加わった気がします。
スタート地点に立てたのでしょうか?
やっぱり、思いが作った妄想でしょうか?
慧海に判断はつけられません。
もう、どっちでもいいです。
ただ、もう慧海の努力では、
本当に何もできないようです。
一週間過ごして、そう感じました。
気楽でノンビリとした気分のいい日々でそう感じました。
わからんことを考えてもしょうがないので
このまま、なるにまかせてノンビリ過ごしていたいと思います。
南無阿弥陀
2013年1月4日金曜日
もう落ち着いた
あらためて先日の記事をみると、なんだかよくわからないですね。
慧海自身、考えてるんだか念仏してるんだかよくわからない状態で、
急に気分のいい、おおらかなやさしい気分になったというか包まれたというか
よくわからないので、よくわからない事に思考を加えてみたり、
感じた記憶をかいてみたりしてみたのですよ。
頭が勝手に作りだすイメージなんだから、まぁよくわかりませんね。
でも、今、ココにいる慧海をしっかり認識できました。
今、ココで気持ちよく自分の事を忘れて念仏している慧海が…
今日念仏しても、もう同じ感覚は感じません。
とはいっても、南無阿弥陀仏と口にし、耳に入る感じが
先日までとは違う気がします。
あと、ずっと抑え付けていたような感じがなくなってて、気分がいいです。
正月休みで仕事してないからかもしれないですけどねw
まぁ、まやかしでも、念仏してるのが気持ちいいと体が覚えてしまったので、
できなかった念仏をする気にはなりましたね。
どんな形でもお育ていただいたってことでしょう。
ありがたいことです。
三が日もおわり、平常運転に戻し始めます。
このまま、ノンビリ、気分よく社会生活に悩めればいいんですけどねw
どうなることやら…
余談ですが、
亭主師のサイトが方向転換するとのことでしたが…
今のところ、慧海の得意分野に寄った記事が連投されています。
大晦日に放映した、猫物語(黒)をみたばかりでこの記事ですし…w
亭主師の中の中学生と大差ない慧海ですので、
そのまま楽しく読ませて頂いております。
方向転換で、内面を晒していく事にされたんですかね?
それとも、趣味的な方向に行く(戻る?w)んですかね?
楽しみです
物語シリーズの次は映画で傷物語(こよみヴァンプ)の公開ですかね~
それとも猫物語(白)ですかね~
全作アニメ化らしいですから…
2013年1月3日木曜日
念仏が気持ちいい
昨晩は、スマホのブラウザで書いてたので、編集操作で表現したい事が
イマイチかききれませんでした。
と、いうか、今感じている事が記事に書ききれそうにないのですが、
残しておきたいので、書いておきます。
一言でいえば、念仏が気持ちいいのですよ。
自分のものじゃない念仏
捧げる念仏
無心の念仏
慧海自身を念仏に乗せてマルッと献じてしまって
慧海が消え世界の中に溶け込んじゃったような念仏です。
恥ずかしい言い方ですが、愛しい人に「愛している」と言葉を送るような気持ちよさ
お世話になった人に、心の底から感謝を伝えるような気持ちよさ
必要とされる気持ちよさ
この世に愛される気持ちよさ
なにもできない慧海は、念仏する事でのみ居場所が得られたようです。
いらない子慧海が、救うから念仏せよと求められ、それに答える形で
やっと必要とされた。認められた。生きる意味があった。
これが、救われたということなんだろう
2007年の4月頃に、いままで慧海が慧海だと思っていたものが崩壊し、
自己実現の為に生きてきた慧海は生きる意味がわからなくなりました。
休職中ということが、さらに、世の中に慧海を必要としない事を理解させます。
生きる意味も、必要性もない、生きる価値もない慧海
誰かに認めてもらいたくて、必要とされたくて、人とは違う事をしてきた。
努力し、勉強し、媚び、戦い等をしながら、私という人を発信してきた。
描いた自分が演じ切れなくなって、不必要な自分が嫌で空回りして、病んで…
ただ必要とされたかったんですね。
でも、他人に認めてもらう努力が無駄だと感じ、落ち着くところもなく
自分の醜さ、意地汚さと向かい合う日々を5年続けてきました。
でも、今はやっと落ち着いた気分です。
これが頭の作ったまやかしかは、時がたたないと慧海にはわかりません。
慧海自身、既に何を書いているのかよくわからない感覚です。
気持ちよさに駆られて指が動いているだけです。念仏酔いですかね?w
智慧の光に照らされて慧海が見えるようになった気もしませんし、
彼岸に渡った感じもよくわかりません。
慧海が感じているのは、慧海が慧海のままで落ち着いていられる事
決してこの世は慧海を害さない
もう、なんか、大丈夫って感じ
慧海もこの世に祝福と感謝と慈悲を伝えたい
とりあえず、念仏という形で…
お寺の行事やら、得度やらもどうでもよくなっちゃったなぁ…
それ自体、居場所を作りたかっただけなんだって良くわかるから…
心が苦しい仲間たちが念仏を称えられますように…
南無阿弥陀仏
期待の念仏
眠れなかったので、座ってみた
何となく念仏でもと口にしてみた
口にしながら、如来は慧海をどうみるかと気になった
念仏を口にしながら考えるでもなく頭が動く
如来は慧海を救うと本願で誓われた
如来は慧海を信じている と感じた
何を信じてるんだ?
あ、そうか
慧海が念仏すると信じているんだ
そして、今がまさにそうじゃないか
この念仏は如来からの勅命、如来への返答なんだなぁ
口にしている念仏が自分で口にしている感覚をうしなった
念仏は私のものじゃないんだなぁ
慧海が慧海でいる感覚がなくなった
慧海のものでない念仏は皆の幸せを願うかのような心もちがした
まいったなぁ、もう念仏するしかないじゃないか・・・
そういやぁ衆生が念仏しないと本願が成立しないんじゃないかなぁ
そうすると衆生の慧海の念仏が如来をへて衆生に帰るんかなぁ
だから博愛的な気分になるのかなぁ
亭主師が最近よく書かれる「祝ってやる!」を思い出すなぁ
そんなこって慧海を救ってくださいという念仏ではなく
ただなんとなく口にする念仏でもない念仏を知った気になる出来事でした
2012年11月16日金曜日
信じるのではないらしい
先日のことです
声明的に念仏を口にし、ふと思い出し
慧海を救うと言われても、信じられないなぁ…
如来にはどのようにみえるのだろう …
人の心でわかろうはずもないか…
と考えている頭をみながら歩いていました。
信じられん
信じられん
そういう言葉がうずまく中、
聞こえるかのように、ポンと言葉がでてきました
信じてる
… あ!
その言葉が浮かんで、
ホンワカとした気分になりつつ、
瞬間的に思いました。
慧海が如来を信じてなくても
如来は慧海を信じてるんだ!
そう思ったのもつかの間、
また思考が作り出したものだろうと思い
すぐにホンワカ気分は抜けて、駅へと向かう道だけになりました
でも、どこか安心した感じです。
2007年4月に、慧海の中で何かが壊れ、全てを疑って過ごしてきましたが、
慧海を信じる如来というのは、信じたい気がします
日々みるともなく見ている頭ですが、何があっても不思議じゃありません
ただ、御任せして過ごしていくとしましょう
なむあみだ佛
2012年11月6日火曜日
慧海は何かできるのか
9月末と10月の記事に、しゃり様と名乗られる方からコメントを頂いております。
しゃり様がどのような方なのかはマッタク存じ上げませんが、
とても大事な事を指摘いただいたように感じています。
慧海は本当に救って頂きたいのか…
自分の努力によって自分が楽になる という考えが抜けないまま、
何一つ自分の思い通りになんてならない というようにも感じて
「今」を意識しながら、唯生きればいいか とも考えたりします
考えてどうにかなるなら、よいのですが、
考えにはまって苦しむのがオチです
「解脱の耳」と、しゃり様は書かれていらっしゃる
解脱の耳という言葉を聞いた事がなかったので調べてみたら
蓮如の言葉の中にあるようです
住職がよく言う「身で聞く」という言葉を思い出します
念仏を聞くのが大事だとも言います
浄土教は聞くのが大事なのだとも言います
自分の頭の声、身体の声を聞くという事はある程度意識してやってますが、
解脱の耳をすまして、何をきくのだろうか・・・と考えてしまいます
何をしたら良いか教わり、それを努力してみよう
そういう考えがでてきます
で、努力じゃないのだ、思考じゃないのだと思い、
また、努力もやめて、途方にくれるのです
先月より、途方にくれた挙句、念仏でもするしかないかと
思い立ち、毎日Twitterに念仏をつぶやきつつ、気が向いた時や
苦しさを感じた時に、本願を思い出して念仏をつぶやいてみたりしてます
ドックで、「心筋梗塞の疑い」と診断結果がでて、
明日にも死ぬる命なのだと感じたものの、いまだ胸の痛みもないまま、
左肩こりがひと月続くのは心臓のせいかと気にしつつ、
今日もなんとなく生きています
南無阿弥陀仏
2012年5月25日金曜日
同じ問い
全休先生の5/24の記事、試行錯誤を重ねていますで読者からのお便りを紹介されてました。
これは、慧海のメールか?と思うほど、同じ思いをした経験があります。
2011年1月8日のメールとのことなのと、言葉使いが慧海とちがうので、
他人なのは間違えないですし、慧海が同じようなメールをお送りしたのは
全休先生が、濁川と名乗られている頃の話・・・
やっぱり皆さん同じように悩むのですね
ご同朋なのだなぁと感じました
念仏しろと教わって、念仏してみたが救われたと感じないのは、
念仏の仕方が間違っているのか?
自力だからか??勉強がたりないのか???
でも、「よき人」はそうは言ってないし・・・ うむぅ・・・
ということなんでしょう
先日本で、この悩みこそが、浄土教の大事な点だ という事を読みました。
歎異抄の9章で出てくるのも、同じ問いであり、信巻と化身土巻の話だとか・・・。
この問いの先に、きっと何かがあるのでしょう
考えではなく、この問いの答えを感じ取れ時は、既になにかに気づいているのでしょう
どうやらこの先は、私と佛との問題な気がします
2012年5月3日木曜日
不思議な満たされた感
小雨の降る中、一人で車を走らせていました
運転をしながら、あれやこれやと考えていたと思います
ふとした瞬間、運転している自分を感じました
そして、なんだか良くわからない、満たされた感に包まれました
ゆったりした感じで、口がアルカイックスマイルをしているのがわかります
なんだか、視界すら明るくなった気がします
…雲が薄くなって、明るくなったのかもしれませんが…w
な~んだ、そのまんまでいいんじゃん
そんな言葉がふと浮かんできました
あまりにも、ゆったりした感じがしたので
南無阿弥陀仏と口にしてしまうほどでしたw
良くわからない、ゆったり感、満たされた感をもちつつ
いつものように、頭が作り出した感覚だろうと気にしないでいました
そんな事のあった少し前に、苦しいと感じているときには、頭の中に意識が向いていて
自分で肩に力をいれて、息を浅くしているだけだったと気づいたので、
苦しいと感じたら意識して肩の力を抜いて意識を頭からはずすと、
勝手に息が抜けて何に苦しんでいるのかすらわからなくなる事に気づいたんです
なので、その延長だろうと思っていたんです
肩や足の裏に意識する・・・意識がかるく別のところにあると、苦しくないようです
常に念仏っていうのは、どっかに意識のアンカーを挿しておく事なのかもしれないなぁ
なんて慧海は思うんですが…どうですかね?
kirinn さんが、コメントで「丸ごとお念仏」という言葉を使われてましたが、
なんかこれは、全身で念仏ってしてて、丸ごとっぽい なんて思ったりもしてましたw
そんな感じですごしていたんですが、ここ数日になって気づいたんです
怒っているようなんですが、まったく怒りに苦しめられていないんです
どうやら口調は怒っているらしいです
でも、本人は怒っている気がしないんです
腹立たしい事は多々あり、気にいらない事も多々あります
なので、文句もいいますし、拒絶もします
なのに、いままでのような苦しさがなく、いつもどおり
頭が騒がしいだけなんです
仕事はGW前で、バタバタとしてても苦しくならない
苦しく感じても、呼吸が浅いだけ・・・
そして、ふとした瞬間にはそんな頭の騒がしさもうすらいで、
ゆったりと満たされた感につつまれていたりもします
ただ、ボーっとしているだけなのかも知れませんけどね
そんな感じで、ここ最近は日々の生活が楽になりました
余談ですが、先日、ずっと欲しかった桜の鉢植えを入手しました
時期が今なので、八重桜ですけど…やっぱり桜もいいですねぇ~w
2012年3月25日日曜日
梅と桜の慈悲
そんな花のなかで、梅と桜から感じる慈悲について主観たっぷりで書いてみます
まず、桜ですが、耐える季節が終わり、始動の季節を喜び、励ますかのような
「がんばったね。またがんばろうね」というような慈しみを、癒しを感じます
暗い道を抜けきったような、明るさがあり、それでいて無常を教えるかのような
散りっぷりは、悲しみを感じます
あざやかに歓喜をあたえ、あっさり執着することなく素にかえる
そんな慈悲を慧海は桜、特に染井吉野から感じます
次に梅です
バラ属サクラ科の植物ですので、まぁ桜の親戚な訳です
梅は桜のような万人を圧倒的に魅了させる癒しではなく、
静かに、暖かく癒しをあたえるような感じをうけます
寒く暗い冬が終わりつげ春が始まることを伝えるような、
暗闇に出口を教えるかのような、そんな慈しみを感じます
咲く季節も2月末頃で、関東地方じゃ雪が降り、寒さが厳しくなるのが2月です
そんな2月の寒いけど真っ青な空の下に満開にさく梅は、
「あと少しだ、大丈夫だ、もうちょっとがんばろうね」と励ますかのようです
また、梅は桜とちがって、あっさりとは散りません
1枚1枚と花びらがおち、しっかり萎れていきます
その枯れても枝に残る様が、生に執着する人のようで悲しみを感じます
慧海は、桜が、特に散り際の花吹雪が舞う桜が大好きです
華やかさと、寂しさを一緒にかんじながら、
盛衰、生死が一緒であり、大きな木としては何一つかけることのない
そのままの自然を感じ、慧海もかくありたいと思うのでした
桜に比べて地味な梅に慧海はそれほど関心をもっていませんでした
とはいっても、ここ数年、地元の梅園に行っては梅と青空の写真をとってました
ところが、今年は、梅がなかなか咲いてくれません
感覚的には春が来ないのです
暗闇の中で迷子です
困ったもんですw
そしてやっと咲いたというので、梅をみてきました
午前中は雨だったのですが、14時過ぎから晴れてきて15時過ぎには真っ青な空です
ああ、これなんだな
青空の下、満開に咲く梅をみて、慧海の中でやっと春が始まりました
桜吹雪のような分かりやすく物悲しい無常の説法ではなく、
暖かさのなかで無常と慈悲を伝える梅の説法をやっと聴くことができました
桜とちがって梅をみにくる人にご年配者が多いのは、静かな慈悲が
しみるからなのでしょうかね?
今日、地元の梅園で遅い梅に癒されたので書いてみましたw
南無阿弥陀仏
2012年2月11日土曜日
弥陀の願船の上で迷子?
何分かたったあたりから、足の裏で大地を踏む感覚を取り戻し始め
そして、体全体で歩いている感覚が戻りだしてきた
最近忘れたたナァこの感覚…と思いならも歩いていると、
キン と音のようなものがして、騒がしかった頭が急におとなしくなった
頭に溜まってた血が体に落ちたような、そんな感覚もあった
急に頭と肩が軽くなった
頭はなにやら動きつつも、そのまま歩き続けていると、ふと思った
この身体が感じている今だけが真実で、この騒がしい頭は妄想なんだ
ああ、なるほどねぇ
なんて思いつつも、そのまま歩き続けていると、
頭と身体か別々に勝手に動いている感覚がでてきた
今までは、頭と身体の反応を主体的に観察している感覚でいたのだが、
今回は、主体的ではない感じで、頭と身体でまったく別のことをしている
慧海の中に慧海が二人いるみたいな感じであった
で、身体の方でいうと、冬の寒い風を頬と耳にあて、冷えを感じつつも
この天地自然の中で、慧海はもう、どうにもならない
自然のままで、イツ果てようと問題ない
だから、もう何をしても大丈夫 みたいな感覚でいる
生かされているというか、今は生きているというか…そんな感じだ
その感覚の上で、頭は別物として、感じている感覚に言葉を与えて
ああでもないこうでもないと考えている
そんな頭が面白い事に気づいた
少し前にこのブログのサブタイトルにこんな事を書いた
「弥陀の願船はどこに行けば乗れるのでしょうか?
そこに行き着く為に、陸路を迷いながら旅してるんですw」
どうだかはわからないが、慧海は既に願船に乗っているのかもしれない
慧海は既に仏を忘れられないし、この自然の一部的な感覚は賜りものだろう
そうすると、誰かに導かれて知らぬうちに願船に乗せてもらっていたのか?
それに気づかず、弥陀の願船の上で迷子になっているんじゃないのか?
いまだ、浄土・彼岸には到着していない弥陀の願船の上で
どうしたらよいのかと、迷っている
頭の中に引きこもり、船の上に陸路を探してさまよっている
そんな妄想が沸き起こってきた
そんな妄想も楽しみつつ、足の裏の現実を踏みしめながら散歩をしていた
未だ歓喜地を知らぬ(と思っている)が、この足裏を感じている限り、
慧海はそのままで何があっても大丈夫なんだろうなぁ
そんな感じがしている
南無阿弥陀仏
2012年2月6日月曜日
食べるを観察
ベットの上にしかいないのにお腹はちゃんとへるんです
酒もないですし、誰かと話をするわけでもないですから
ささっと食べ終わっちゃうんですが、一人な分頭の中が見えてきます
食事をしているのに、食事と関係の無い事ばかり考えて、
なぜか、イソイソとたべているんです
まるで、空腹に耐えられなかった所にやっと食事にありつけたような
そんな感じで胃に流し込むんです
それでいて、頭の中はまったく別の、たとえばさっきまで読んでた
本の内容について考えているんです
で、満腹になった気がしない
そりゃそうですよw
頭の中じゃ食事してないんですし、ささっと食べたら
体だって食事した事にならないんですからね
一応、何を口にしているのか、どんな感じの味と歯ごたえかは認識していますし、
ろくに噛まないで飲み込んでいる事も気が付いてはいるんです
なので、頭の中がまったく別のところに行っている認識は殆どなかったんです
たしかに社食で一人でたべていると、仕事の事を考えながら
食べていることは気づいてましたが…びっくりです
で、いそいそと食べる必要もないので、食べる事に意識を向けて食事してみました
自然と噛む量がふえますし、どんな味、歯ごたえかがより詳しくわかります
そして、舌がよく動くことに気づきます
噛むためには噛んで歯から出てきたものを頬と舌がもう一度歯の間に戻してました
両方の歯で噛む場合、慧海の場合、舌は右の歯に食べ物を押し込んでから、
左に移動して押し込み、噛むときは舌先がちょっと浮いているみたいです
食べ物の味が変わることはないですが、それぞれの食べ物の
味と香りがすることに改めて気づきます
頭が何か考えることに違いはないですが、目の前の食べ物の事
を考え、舌の動きを感じたりする方が食べた気になります
1回だけじゃなく、毎日の食事をもっとゆっくりと味わいつつ
よく噛んで頂きたいものです
最近、胃腸もよくないので、良く噛まないといかんなぁと思っていたので…w
あ、そういえば東京駅の寺カフェ6日までだ… インフルで行けなかった~(TxT)
2012年2月5日日曜日
南無阿弥陀仏とは
急にできたこの入院患者のような暇な生活で佛書を読みつつ考えてみた
今更ではあるが、慧海は「南無阿弥陀仏」という言葉がわからない
住職は「なんまんだぶつ がわかれば勉強なんていらんよ」というのだから、
普通の衆徒門徒にはわからんのだろう
慧海がわからんのは、そういった難しそうなことではない
なんで「我が名を称えよ」といわれて「南無阿弥陀仏」なのか
「我が名」は「阿弥陀」じゃないか と
南無とは帰命である
帰命は全てをお任せすることだ という
それ、名前じゃないじゃん
南無阿弥陀仏とは阿弥陀の本願を名号とした とか言うのもある
このままじゃ、さっぱりわからん
本願の心を名詞化して、それも南無阿弥陀仏だということか?
逆向きの表現だと
一切を救うという本願を信じ、救いたまえと弥陀仏にお任せする、
その心を言葉にしたのが南無阿弥陀仏だとか
既に救われた、報恩の心を言葉にしたのが南無阿弥陀仏だという
これだと、名前ではなく誓いの言葉みたいな感じがする
やっぱり南無があるから、名詞にならない感じがするのだ
で、現実ではどうかとかんがえてみた
慧海が誰かに「困った事があったら僕を呼んで」という
実際に困った事があったら「慧海さんちょっと助けて~」とか呼ぶだろう
ああ、そうか
呼ばれる側は、呼べとしかいわないが、呼ぶ側は名前だけ呼び捨てしない
上司からなら課長とか部長とかつけて呼ぶだろう
慧海=名前=阿弥陀
さん:部長=敬称?=仏
助けて=気持ち=南無
ということになるんじゃないのかな?
そうみると、南無が入っていることが普通だな
南無阿弥陀仏は本願の心の名詞化という事の法は...
本願の心となると、弥陀仏側になるんだろう
そうすると南無という心は、お任せします ではなく、任せてくれになる
ああ、なるほど。 昨年の法語カレンダーにあった
「帰命とは本願招喚の勅命なり」 とはこの事なんだな
佛の擬人化は誤解を招くので、あえて慧海で表現すると
「慧海がなんとかすっから、全部任せろ!」
ということになる
たぶん、そういうことなんだろう
で、言葉を頭でわかってみても、問題となる全部お任せします
の心がわからなきゃ、南無阿弥陀仏がわからないw
頭で理解できなきゃ、なんまんだぶつ が口にできない時点で慧海は
お任せできてないって事だろうね
しょせん、自力から出てないってわかってる。でも、なんかすっきりしたw
では、次は本願を頂きたいものだなぇ
17、18、19、20 あたりと、必到滅度の願とかかな?
言葉通りにみると余計にわからなくなる真宗
大谷派の先賢の言葉があって、やっと日本語として聞ける
これが染み込むようになるには、何年かかるやら...
南無阿弥陀仏の懸念がなくなるのに4年以上かかったんだからねぇ
それも頭で理解しただけで、それでいいとすら思っているんだから…
慧海の信心獲得は、まだまだ先ってこった
心の底から、南無阿弥陀仏と言いたいものだねぇ...
2011年12月10日土曜日
ブログ存続の危機?w
それをただ感じつつ今をすごしつているのが慧海の日常だ
その場その場ではなんか考えたりしているんだが、
その思考をどんどん捨ててっちゃうから、残ってない
「感情とお勘定は別」なので、できるお勘定だけすましてしまうと
感情とそれにまつわる思考はどっかにいってしまう
今まで慧海の苦悩の愚痴を書き続けたブログなのに、
苦悩が保持されていないので、その愚痴がなかなか記事にできないのだ
わからない、どうしたらいいんだ、これでいいのか
昨年まではず~っとそんな事ばかり考え、思考と感覚を色々としてみた
あるところからは、感覚の違いもわからず、それどころか鈍くなる
思考は学んだり気づいた理論が繰り返されるだけだった
色々やって、わからなくなって、にげて、欲に呑まれて苦しんで
で、やっぱりなんかしないとと思考と感覚をいじってみて…
その繰り返しは2年位だろうか…記事をよみかえせばわかるんだがw
そして今年の地震に端を発して、色々おかしくなって…全部捨てた
頭の中で死んだ これも記事にかいた
これが思考として最後にやったことだろう
その後はただ勝手になるようになっていっている
どう勝手になっていったかは記事に書いてない
気が付いたら御任せするだけになっていた
思いつきの言葉でそのあたりの説明を書くこともできるが、
慧海にとっては無意味なんで書いてない
記憶にあるのは、一時期、慧海に見えるものが全部仮のモノにみえていた
どれもこれも、あの世にもっていけるものじゃないなぁ
いつか消えてくものにみえるし、他人と自分も大差なくみえていた
で、今は自然のままにほっぽりっぱなしに生きている
先の記事で、「行けているだろう」と書いたが、実の所よくわからない
でも、先はあっても戻るところがないから「行っちゃった」と思う次第だ
だれかに、お前はマダだ と言われても、そうなんですか 困りましたねぇ
としか思わないし、お前はこっちに来たといわれても、
ああ、やっぱり来ちゃってたんですか どうしましょうとしか思わないだろう
行く事しか考えてなかったんで、行っちゃったらどうしたらいいかは
考えてなかったのだ
慧海にとって、心の観察=聞法=念仏で、常に念仏以外の何も知らん
なので説法もできん
全休先生と、亭主師の記事を読んで、自分の心の声をききなされ
それだけw
まぁ今のまましばらくは日々の出来事を書くだけかな~
このブログは自分の為に書き続ける という方針のブログだからね
あとは、心の観察で見えた、どうでもいい話とか書くかな~
2011年11月20日日曜日
2011年9月23日金曜日
ダラダラと気づいた事の記録
慧海は、上司が早退OKをだした時点でとっとと出た
それでもJRは全滅した後だが、まだ地下鉄が生きていたので、
地下鉄を乗り継いで地元付近まできて、家内に車をだしてもらって
普通に帰宅するような時間には家に着くことができた
帰れるようになるまで、会社で待っている事が慧海は耐えられない
地震による帰宅難民化と、その後の計画停電等で家を心配しつつ、
会社にいる事に苦しさを感じるようになってしまった
家の心配がなくても、仕事したくないんだけどねw
あ、23日だから、帰敬してちょうど丸4年目だ
そんな不真面目社員の慧海は、自律神経不調な感じになるだけで
逃げ出したい感情がわんさかでてくる
仕事をしたくない、サボりたい、とっとと家に帰ってしまいたい と・・・
でも心が逃げたいと言うからといって、実際にそれから逃げてしまうと、
体もそれに反応して不調になってきてしまう
逃げちゃいけないってどっかで思っているからなのだろう
だからといって、「逃げちゃダメだ」とどこぞやの人型決戦兵器に
乗せられるアニメ主人公のように心にいいきかようとすれば、
今度は心だけが逃げてしまい、その場にいて現実をみなくなる
つまり、心が逃げたらどっちにしろダメなんだろう
じゃ、逃げたくなったらどうするか
逃げずに耐えて、思いから「離れられる」ようにする
ということなのだそうだ
そのあたりを知りたい人は、亭主師の記事を片っ端から読んでみて欲しい
慧海はどうしているかをココに記録しておこう
1.まずは「止まる」
2.次に、逃げたい心の声を、じ~っと聞く。
逃げようとして、体がそわそわしている感覚を感じたりする
ただ、聞くだけで、ただ、感じるだけ
ラジオをきくかのように止まって聞きつづける
声を聞いて何か思うことがあったらソレも聞く
心の声に反応して、思考したり行動したりしないようにする
ただただ止まって聞くだけ
3.逃げたい衝動がおとなしくなってくるので、
普通に活動をはじめる
ただ聞くことができていないと、衝動が繰り返される
思考がつづいてしまうのであれば、腹式呼吸をしながら念仏する
腹式呼吸だけじゃなく、散歩も頭がおとなしくなるので良い
ちなみに、逃げたサボリと、休憩は別だ
体調・精神状態を見て、適度に休憩は必要だ
正規のルールにのっとって、ちゃんと休息をとるのだ
感情に流されての行動かどうか が違いだと思っている
そんな感じで、すごしてきた
で、今回、面倒な仕事をしてて気づいた
腹がたって、どうやって負かせてやろうか、ぶん殴ってやろうかと、
頭の中が大騒ぎしているのに…なんか苦しくない
燃え盛る炎の中から抜け出ているとは、この感覚か?
頭の中は実に騒がしい
それを唯聞いている
あまりにもうるさくて眠れそうにないので、
仏壇の前に坐って蝋燭をながめつつ、出てくる思いをじっくりききはじめた
その下に隠れている自分が正しいと思っている感情がでてきたので、
全部を御任せするように、無責任に捨て去った
そうしたら、頭の中のうるささがおさまって、ちゃんと眠る事ができた
さらに気づいた事
晩酌を欠かさなかった慧海が、今日は酒はいらないという思いが
でてくるようになった事だ
二日酔いだった日は飲まないというのはあったがそれとも違う
今日は烏龍茶でとか、ペプシドライでとか、炭酸水でとか…
飲んでも、350缶一本であとはお茶でよくなったり…
もちろん、飲みたければ飲む
休肝日とか禁酒、節酒とかを考えているのではない
酒が欲しいと感じないから飲まないだけなのだ
こういった事も、亭主師の記事の中にあったが…
慧海にはそういう事は無いだろうと思っていたので、不思議な感じだ
これが一過性のもので、また飲まずにいられないかもしれないが…
2011年9月10日土曜日
これが 御任せ ってことか
その時に、慧海は流れに任せる事しかできないのだ
という事を書いていた
ああ、そうか 流れに任せていたのだな と改めて気づいた
流れとは、自然、縁起、時間 そういう流れだ
動いているようで動いていない
流れに任せているだけなので、慧海は止まっている
流れの外から眺めていれば動いているようにみえるが、慧海は止まっている
そういう流れだ
ブログを書き始めて勉強をしていた頃、宿業感というものをなんとなく
理解というか感じて、とても楽になった事があるが、
その頃、自分を客観視するという事について妄想していた事がある。
激流を小船でながされていく自分を上からみている妄想だった
小船の上でじたばたする慧海のイメージがあった
苦悩が減れば、小船にのってゆったり という感じにでもなると思っていた
そういう妄想だった
同じイメージで表現すると、
今は小船もなく、水の中にそのまま入って流れている感じだ
流れに逆らうことなく、あっちこっちに漂っている
流れが変化なって一喜一憂してみたり、石にあたって痛いと思ってみたり
障害物に不安になってみたりしつつも、ただ流れにまかせている
もがけば沈む という意識がある だからもがけない
だいじょうぶかよ~ とか、痛いナァ とか 言えるときに言うだけだ
いや、それも、また流れ次第かと思えば、慧海がただの流れであり、
小船の中にたまった水のようなものなのかもしれない
川の流れに影響され、中の水が波立っていく
川の水が入り込み、中の水が外にこぼれる
どこが慧海であるのかも定かでなくなりつつも、
小船の中の水が慧海なのだろうと妄想する
そんな慧海をみている慧海がいる
そんな感覚を感じている という認識をしている慧海がいる
彼岸に渡った感じは、わからない
浄土を見た感じは、わからない
佛に遇う感じは、わからない
光をみつけた感じは、わからない
信じるものにであった感じは、わからない
智慧を得た感じは、わからない
救われた感じは、わからない
それらの歓喜の感じもわからない
慧海は、いまでも蒙昧のままだ
ただ、もう、どうしようもないのだ と感じる
何もできないのだ と感じる
でも、この先何かあっても、どうにかなるんじゃないか とも感じる
だって、何もできないのだもの
何もわからぬ、何もできぬ それが慧海だったと思うのだから
ただ、なるように任せるしかないではないか
この世は、なるようになっている
この世は、なるようにしかなっていない
慧海も自然の一部として、なるようになっていればいい
あえて言えば、これを「御任せ」といい、
もしかすると、これが「他力」というのではないだろうか
しかしながら、御任せしてみたところで、煩悩は消えない
人だからしょうがない
煩悩は愚痴として口から出たり、ブログに出たりする
愚痴が出るからといって、苦悩しているかというとそうでもない
女性は「ただしゃべりたい」のであって相談しているのではない
というが、それと一緒で、口にするだけ 状態になっている気がする
何もかもが流れに任せているのだから、何だかんだと動いてるようでも、
本気で悩んでいないのだ
口にするしかないような流れだったのだ
口にする事で何かがかわるような、自分の意思のようなものを感じはする
じゃ、本当に慧海が何かしたから変わったのかはわからない
口にしない選択肢が本当に慧海に与えられていたのか?
選択肢があるように思えて、実は一つしか選べないようになっている
過去から続く色々な因縁があって、
それを選ぶ事が良いと思うようになっている
確かに選んだのは慧海かもしれない、口にしたのは慧海かもしれない
でも、そこまでに到達する思考が慧海だけのものではないと思うのだ
だから、苦悩したりしなくなった
残念に思ったり、悔しい思いをしたり、うれしい思いをしたりする
欲もあり、怒りもあるし、満足も不満もある
でも、ただそう感じている事に気づくだけなのだ
だから、足るを知る とかいう言葉すら必要ない
足る足らない、それすらも任せるしかないのだから
やる事があって、やれるなら、ただやればいい
考えなきゃいけないときには、ただ考えればいい
遊んでいい時なら、ただ遊んでいればいい
ただ、それだけ なんじゃないかな
感覚を記録しようと、余計な言葉をたくさんかいているが、
帰敬して丸4年がたとうとしている、慧海の現在の心境である
自然のままにすごしていきたいものだ
櫻のように…
空のように…
2011年8月9日火曜日
酒におぼれる?
暑くなくても酒をのむのだが、暑いと家でも量が増える
暑いと、会社帰りに酒が呑みたくなる
そんな感じで酒ばっかり呑んでるから、頭が朦朧としているような気がする
色々と落としたり、なくしたりもしている
それも、いつなくしたかがわからない
社員証もなくしたのだが、いつからないのかもわからない
昼間の酒が無いときは、音楽やら動画やらで頭の中を酔わせているのだろう
最近は、色んなことを無自覚にやっている
だから自分が何をしているかがわからない
家にいるときは、自分が何をしゃべっているかもよくわからなくなる
頭の中に逃げ込んでいるような、そんな気がする
体の感覚が鈍くなる
食べ過ぎたりしてるのは、頭の中にいるからだろう
頭の中を見ようとしているときは、頭の中が騒がしいほどだった
最近は、それほど気にならない
色々と感情やら思考やらは動いているが、なんとなく気づいている程度で
特に気にしていない感じだろうか
怒りやらの強烈なのは、反芻しやすいのでちょっと注意はするが、
反芻しちゃうのをどうこうできない
でも反芻してイライラしてることに気づいていれば、
「いらついてるな~」って感じる程度で、辛い事にはならないですむ
基本的には、日々ボーっとしている感じだ
長時間同じことで悩まないし、いろんなことを覚えていない
脳みそが使われていないんじゃないかなぁ~
う~ん
今のところ日々楽な感じではあるが、堕落している気がするw