2013年11月16日土曜日
遅いPCは掃除しよう。遅い心も掃除?
子供用に古いPCを親父からもらって、使わせる事にしました。
最近の通信教育は、テストの回答をPCでみたり、動画で講座をみたりするので、
PCがあった方が便利。
居間の共有のPCをつかわせていたんですが、部屋で勉強させる為に、親父の
つかっていないPentiumMのXPマシンをもらってきました。
起動させてみると…遅い…
親父からも遅いよ といわれていたんですが、確かに遅い。
これじゃ、なにもできんので、使わないソフトを片っ端から削除しはじめました。
国産メーカのPCは、初期状態でいろんなソフトが入っています。
それらが、自動起動するから起動待ちもメモリ圧迫もします。
買ってきてすぐなら、それもあまり気にならないでしょうが、追加でソフトいれると
それが自動起動だったりするんで、おそくなってしょうがない。
そんなわけで、プロバイダ接続アプリやら、おまけソフトやらも削除して、
スタートメニューが1ページ分位ソフトを削除して、
メモリ使用量も起動時間も半分ほどになりました。
パターンファイルの更新できないウィルス駆除ソフトが一番重かったように感じます。
いまだ代わりのウィルス駆除ソフトをいれてないので、なんか探していれないと、
子供がどこでウィルス感染してくるか・・・。
まぁ、ひっかかってExeを起動しなきゃ、それほどヤバイ事もないのでしょうけど、
引っかかったら、どんなソフトをいれられるやら・・・。
ちなみに、XPです。
慧海のPCも共有マシンもXPです。
サポートなんてもともとないようなものですので、家で使う分には
まだまだXPで十分です。
MSとWindows98サポート切れの話しをした際に、
もう重大な障害がでないレベルだからサポートを切れると言ってました。
使えないとは言ってないんです。
でも何かあっても保証はできないので、OSのバージョンをあげてくれと言っている
のだそうです。
OSまわりで、MSになんとかしてもらった事のある一般ユーザは希でしょう。
仕事でやってると、たまにOS寄りの障害でパッチだしてもらうことはありますが、
普通にブラウザとOffice使ってる分にはお世話になったことはありません。
あれ?サポートきれたら、XPの再インストールとかどうなるんだろう?
古くても、私たちの仕事が変わらないので、そんなに影響はないのですよ。
適切に動くように掃除さえしておけばねw
PC同様私たちも、頭の掃除をしておく必要があるようです。
通常、私たちは同時に抱えられる仕事は2つまでだそうです。
単純作業は別ですが、何かの調査してレポート作るとかの仕事は同時期には2つまでです。
2つ以上あると、メモリ不足と同様に、あっちこっちやって、仕事がすすまないそうです。
2つ以上の仕事をこなすには、1つの仕事を分割して、ゴールを再分化し、
同時期には2つまでで片付けられるよう、スケジューリングするしかないそうです。
結果的に、1ヶ月で3つの仕事ができたりするのであって、一時期でくぎってみると、
2つしか抱えていない状態にしてあるのだそうです。
とは言っても、2つ同時にというわけではないでしょう。
今で区切れば1つしかできません。
それはPCも同じで、CPUも時間で区切って処理をしています。
時分割処理っていうやつです。
考えるのは時間で割れますが、考えた結果はどっかに持ってないとダメです。
頭の中と、机の上に書類をひろげたりするように、PCはメモリに情報を蓄えます。
それが一杯になるとおもくなりますし、机の上に情報をひろげるのも時間がかかります。
人は広げられる案件が2つ分
PCは性能次第…低い性能であれば、情報を広げなければいい
ということですね。
慧海は通常1つの仕事しか一時期には考えません。
2つめ以降は、スケジュールもやるべきこともメモにしてPCにかいてあります。
頭はできるだけ空っぽにした方が、ストレスが少ないですからね
Windowsじゃなく、DOS並みってことですねw
でも余計なことばかり考えてますんで、余裕もないです。
ワームに感染しているようなものかもしれません。
自分ワームが起動したら、それを終了させるウィルス駆除っぽい仕事に
もう一つの仕事分が割り当たっているのかもしれません。
季節の変り目は必ずといっていいほど風邪をひく慧海でした~
2013年11月4日月曜日
言語化は難しい
昨日は、お寺の勉強会でした。
初めて副住職が講師をされました。
話をするというのは、難しいでしょうね。
私のわかることしか話はできませんし、感覚でとらえた事は言葉になりません。
言葉にしてしまえば、理屈になってしまって感覚のままではなくなってしまいます。
話そうと思って、はじめて妄想であったと気づくこともあります。
副住職は、どんな事を思い言葉にしたのかはわかりませんが、
慧海には、逃げようとしている言葉にしか聞こえませんでした。
自分の言葉で感じた事を話されているので、悩んできた事を感じる言葉だったんですが、
その言葉の方向性みたいなものが、引きこもりになっているように感じました。
慧海と同じように…なので、ついイラっとしてしまいます。
そんな思いもそのままに頂いていくのが今の慧海ですw
ふと思い出して、亭主師の先頭ページにある豊徳寺さんの聞法の方法を再度読ませていただきました。
久々に読ませていただいたのですが、今は何をおっしゃっているのかを感じれました。
最初に読んだ頃は、あるがままにそのままに と今、今と意識したのを思い出します。
改めて読んで、ふとひっかかった所がありました。
自己の解決のところにこう書かれています。
4.つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるべし。この言葉の、清沢満之の「他力の救済」にある、
いつも自然の様子を思いおこすようでは、色々せんさくしなくてもよいと思いつつも、まだ自分への言い聞かせが残っているのです。徹底していないのです。 まだ、本当は不安なのです。まだ、お任せしていないのです。自分自身、納得がいっていないのです。つまり、「義なきを義とす」と知って、義なきようにはか らうのは、まだ義の立場なのです。
自然の様子を忘れ、忘れたことも忘れて、ただ、やるべき事をやり、すべき事をする。人の和を願い約束を守り社会を考えて 生活するのです。どんな思いが頭にわいてきても、その思いそのものになっていればいいのです。そのものになりきっていればいいのです。それでいいのです。
他力の救済を念ずるときと、他力の救済を忘るるときの言葉の逆のように見えます。
でも、いわんとしていることは同じように感じます。
自然の様子を思い起こすという事を、他力の救済を念ずる事と読んでしまったからでしょう。
むしろ、お任せすることが他力の救済を念ずると読むと同じだと感じれます。
慧海の感じた経験→仏書にその時の感覚とよくにた言葉を見つける→自分で言葉にする
→その言葉と違う言葉を仏書で出会う→理屈で考える・・・
言葉を捜してしまうあたりが、お任せできていないのか?とも思いますが、
人につたえようと思えば、言葉にするしかないわけです。
人に伝えるのは自慢したいからではありません。
慧海が頂いたものを世に還元したいんです。
どうしたらよいかわからないので、言葉にしているだけです。
言葉にすることは本当にむずかしい。
自然を教えるための阿弥陀の名であったというのは、本当に頭が下がります。
私たちはそんな先人と思いと智慧の中を生きて念仏する身としていただいたのだと
思うと、本当にかたじけない事だと思います。
慧海の思いなど関係なく、慧海に思いをわかさせて、行動させていく…
今はそれを慧海はお育てという言葉で表現してありがたがっています。
余談
ふと思い出して、十牛図をみてみました。
やっぱり文字を読んでしまいますが、誰かの説明よりも、タイトルと
その絵自体から感じる事の方が増えたような気はします。
(どんな意味かはあるていど覚えているからという理由もありますがw)
浄土教が名号にこだわった、先人の思いがわかるような気がします。
南無阿弥陀仏
2013年10月26日土曜日
一週間分の振り返り
仕事やら呑みやらで、ブログ書く時間がとれなかったりします。
なのでネタみたいなものをつぶやいておいて、あとで文書にしようかと思ってます。
色々とあるので、まとめてポンとw
■ 報恩講
20日は報恩講でした。
雨の中、それなりに人がいらっしゃいました。
報恩講の後、I師、S氏と飲みにいったんですが、副住職もなぜか一緒にという事に…
まともに話しをききましたが…
その時の感想のつぶやきが以下の2つです。
「今のお寺という俗世は、サンガってよべないんだなぁ。得度は入社、教師は課長。住職は支店長。帰敬は優良会員。会社なら顧客満足度を考えるが、お寺じゃ不要。やっと現実がみえてきた。」
「自分に属する事は自力でやれ。ニヒリズムに浸り、念仏信じたフリして現前から逃げるな。」
慧海はお寺に期待をしていたのですね。
でも、その実情はサラリーマンと一緒だったというのがやっとわかった、というのが一つ目のつぶやきです。
彼らは彼らのしがらみの中で、お寺に就職して仕事してきたんです。
門徒とちがって、仕事です。
苦しみがあって、そこから抜け出す答えを探していたら、仏教に、真宗に行き着いたというのとはマッタク違うんです。
そういう人たちに何かを勝手に期待して、勝手に要求していたんですね。
そういう中で就職しちゃった跡継ぎは、中途半端に勉強してニヒリズムに浸るようです。
慧海もニヒリズムでしたので、気持ちはわかります。
それが逃げだと気づくのは、逃げなくなってからです。
そんな風に思いました
■ ア・ミタ
アミタをしらべていたら、東海学園さんの図書館だよりに
日頃つかわれる「○○メーター」のメータもサンスクリットと共通のルーツで、共に「計量する」という他動詞の過去分詞、つまり「量られる」の意味です。サンスクリットのミタにアをつけたアミタ(無量) 以下略という風にかかれていました。
その事からかいたつぶやきが以下です。
「ア・ミタ=無量っていう風に認識してしまっていた。量る事ができないとは人の思いの外ってことだと気づいた。」
思いの外というか、人智を超えているというか…
私が認識しちゃったらダメだよっていう教えだったんだって事だとおもうんです。
認識できたら、私の自我というか思考のなかに概念化して佛を取り込んじゃうわけですよ。
しゃり様が、「わかったら凡夫の迷いだから気をつけなさい」 という事はこういう事をいっていたのかと感じたんです。
よく考えれば、歎異抄十章に「不可称不可説不可思議のゆえに」って書いてあるんです。
これをそのままに理解して、 不可称不可説不可思議なもの と定義してしまっていたんです。
人智の外という事を教えんが為の言葉を人智でとらえてしまった。
人智であれば、思いの中、思考の中、理屈の中、妄想の中、苦しみの中なんです。
「そういうものじゃない」と言葉で伝えたら、それはもう人智なんでしょう。
伝えようとしても伝わるもんじゃない そういうことなんだろうなぁと気づきました。
仏教って頭で理解するんじゃなく、感じ取るしかないんだろうなぁ
そんな風におもっていたら、歎異抄では異なるのは私だと言われてる事にいきつきました。
異なっていて、嘆かわしいのはたしかに慧海自身でしたw
■ 雑談
そうそう。亭主師が記事書かれてました。
第702話 俗世で頑張る
俗人とは何者か…毎日アセアセと生きる私たちの事ということでいいんですかね?
なんやかやで、365回分念仏つぶやいてます。
多分、念仏が入ってないのは2回以下だと思うので、まずは、一年分念仏つぶやきました。
この365回では色々ありました。
お育てですねぇ。
帰命尽十方無碍光如来
2013年10月17日木曜日
しゃり様への返信
しゃり様
お久しぶりです。
つぶやきに対するコメントありがとうございます。
ご助言ありがとうございます。
やはりお返事が書きにくいコメントですねw
しゃり様のメッセージをうけとれているかもしれないし、うけとれていないのかもしれない。
質問をしてみたいけど、質問する言葉はない。
出たり、入ったり…結果、門の外 そのとおりだと感じがします。
慧海のリアルは変化の時がきているようです。
諸行無常って話しではなく、世間的にいう変化の話です。
異動とか、仕事が変わるとか、引越しとか、事件とかの話です。
そんな、小さな変化がいくつも、何度も押し寄せてきています。
病気やら、趣味やら、宗教やらと言って、リアルから逃げる精神的引きこもり状態は
終わりを告げはじめてます。
世間様で、他力本願と言えば他人任せの無責任な事です。
世間様では自力の努力を必要とします。
なので、世間様に戻った慧海は自力を使用します。
自力は用いれば、その分、自我が騒ぎ立ててくる。自我が騒がしければ、念仏を忘れる。
とはいっても、一度感じた南無阿弥陀仏がさっぱりと消えたりはしないらしいです。
リアルを受け止め自力ですごしつつも、肩の力は入らない日々。
だから、出たり入ったり…。
上の文をかいていて、清沢満之師の言葉を思い出しました。
そもそも、ブログに何かを書いているようなときは念仏を忘れ、
念仏を忘れていないときは、ブログに書くような事がないのですよ。
どっちにしろ、慧海のはからいではないのでしょう
お育てのままに生きるだけかと。
帰命尽十方無碍光如来
お久しぶりです。
つぶやきに対するコメントありがとうございます。
ご助言ありがとうございます。
やはりお返事が書きにくいコメントですねw
しゃり様のメッセージをうけとれているかもしれないし、うけとれていないのかもしれない。
質問をしてみたいけど、質問する言葉はない。
出たり、入ったり…結果、門の外 そのとおりだと感じがします。
慧海のリアルは変化の時がきているようです。
諸行無常って話しではなく、世間的にいう変化の話です。
異動とか、仕事が変わるとか、引越しとか、事件とかの話です。
そんな、小さな変化がいくつも、何度も押し寄せてきています。
病気やら、趣味やら、宗教やらと言って、リアルから逃げる精神的引きこもり状態は
終わりを告げはじめてます。
世間様で、他力本願と言えば他人任せの無責任な事です。
世間様では自力の努力を必要とします。
なので、世間様に戻った慧海は自力を使用します。
自力は用いれば、その分、自我が騒ぎ立ててくる。自我が騒がしければ、念仏を忘れる。
とはいっても、一度感じた南無阿弥陀仏がさっぱりと消えたりはしないらしいです。
リアルを受け止め自力ですごしつつも、肩の力は入らない日々。
だから、出たり入ったり…。
上の文をかいていて、清沢満之師の言葉を思い出しました。
彼に在るものに対しては、唯だ他力を信ずべきのみ。我にあるものに対しては 、専ら自力を用うべきなり。而も此の自力も亦た他力の賦与に出づるものなり。
(清沢満之著 東本願寺発行 清沢満之の精神主義より)
そもそも、ブログに何かを書いているようなときは念仏を忘れ、
念仏を忘れていないときは、ブログに書くような事がないのですよ。
どっちにしろ、慧海のはからいではないのでしょう
お育てのままに生きるだけかと。
帰命尽十方無碍光如来
2013年10月12日土曜日
外から見る
昨日、会社帰りに築地本願寺の夜の法話会に初めて参加しました。
4月の異動で会社帰りのウォーキングコースに築地本願寺があるので
タイミングがあったら寄って、お西の正信偈の節をきいてみようと思っていたのです。
残念ながら、正信偈はなく重誓偈だったんですが、重誓偈にも軽く節がついているし、
そもそも、重誓偈をお寺で聞いた事もなかったので、新鮮に感じました。
先日も、築地本願寺で法事をされている方がいらっしゃったので、お経をきいていたのですが、
その際も阿弥陀経も正信偈もなく讃仏偈でしたので、やっぱり違うもんだナァと感じました。
法話の先生がおっしゃってましたが、福岡の古いご門徒さんでは法事は三部経を全部
あげていたそうです。3時間半かかるんだそうです。
昨今では、昭和の短縮版とやらで2時間になったとか、最近のご門徒さんでは阿弥陀経
だけというような感じで20分といった事をお聞きしました。
築地で、讃仏偈の前に仏説無量寿経と言ってたのは、大経の略式という事なんだなぁ
と理解しました。おもしろいものですねぇ・・・w
その法話会で2つ関心することがありました。
1つは、生活信条というものです。
昭和にできたものらしく、もちろん、大谷派にはありませんので初めて知りました。
驚きです。
残念ながら、直感的に嫌悪感を感じてしまいました。
慧海が勝手に想像する新興宗教のイメージがその言葉の中にありました。
きっと、本来持っていた浄土真宗本願寺系、俗に言う一向宗のもつ空気がこれ
なんじゃないかなと感じました。
一向一揆もおこるはずだと、感じました。
東は清沢満之師を筆頭に、曽我量深、安田理深といった先生方によって、
哲学的な理屈っぽさが組み込まれて、今の東の雰囲気なのかなぁと思ってます。
曽我量深師の歎異抄聴記の4ページに
当今は仏法について、ことにわが浄土真宗におきましては、内外のことがらにつきまして第二の再興を要する時期に再会していると思われるしだいであります。時代相応の真宗教学の再建ということが諸方にさけばれる
とあります。
昭和17年ごろの事だそうですが、その歎異抄聴記を読んで感じる事は、
昭和中期に示されたという生活信条とは大きく違うと感じたので、驚いているのです。
昔から信仰の強い地域では東も西もかわらないのだろうとも思います。
にわか門徒には、ホントびっくりしました。
2つは、法話をきいていた門徒さん(たぶんお坊さん)の振る舞いです。
法話の中で、「佛」「経」「釈迦」「阿弥陀」という言葉や、なるほどと思う言葉があると
「なまんだぶ なまんだぶ」と声をだして念仏するんです。
感謝の言葉として南無阿弥陀仏と念仏しろ
念仏は声にだしてしろ
という事は学びました。
とはいっても、静かに法話をきいている人々のなかで、数秒おきにまわりに
きこえる声で念仏をする姿は、汚い言葉で申し訳ないが、きもちわるい と
感じてしまいました。
でも、それが、ある種の信仰の姿であり、慧海も無宗教の人々からすれば、
おなじように気持ち悪い人なんだと気づきました。
そういう場所ですし、教わったとおりの事ですので、なにもおかしくはないはずなんです。
そうなんですが、背中掻きながら感情のままに念仏を口にしているようにみえる姿に
慧海は嫌悪感を感じてしまったんです。
慧海にとってはありがたい教えですが、まったく関心のない人からすれば、
それはうけいれがたい、嫌悪の対象になるのでしょう。
非アニメ好きの人からすると、アニヲタが嬉々としてアニメの話をするのと
同じ位ドン引きな姿なんだと思います。
子供向け美少女アニメのどのヒロインが良いと飲み屋で話す知人がいますが、
深夜アニメをみる人でも、その彼を否定します。
そういうのが好きでもいいけど、同好の人以外には、口にしてはいけないんです。
慧海にとって仏教というのは生活の一部化してしまっています。
心の観察とか、念仏とか、仏書を読むとかがまったく無い日は既にありません。
慧海にとって、仏教関連の話をすることは政治の話より普通の事なので
ちょっとしたきっかけがあれば、つい仏教関連の話がでてしまいます。
思い返せば、嫌な気分にさせた記憶がでてきます。
きっと気持ち悪いと感じたんだろうなぁ と改めて気づきました。
今度、お寺のI氏と、東の真宗会館に行って法話を聞く事になっています。
末寺とちがって、雰囲気が違うのかもしれません。
初真宗会館なので、ちょっと楽しみです。
2013年10月10日木曜日
全休先生からの回答2
10月8日に慧海は以下のようにつぶやきました
「欲望の衝動が襲うが、ただその衝動を感じるだけにする。色んな煩悩が薄まったように思うが、煩悩はまだまだ元気らしい。南無阿弥陀仏」
最近、公序良俗に反するような欲望や、自分の価値を認めさせたい欲望が
頭をかきむしりたくなるような衝動と共に襲ってくる事がよくあります。
ひどいのは仕事でお酒を呑んだ後ですw
通常は、無気力で無感動であり、これといった欲求もなく
なにが楽しみで生きているのかと問われても
答えられない頭で日々を送っています。
でも、頭の中は色んな思いに引っ掻き回され続けてます。
ちょっとした事で煩悩の炎に焼かれてます。
焼かれても苦しくはないので、むしろその焼かれっぷりを心地よく感じてます。
慧海は下品で傲慢で臆病な煩悩の虜だ
って思いつつ、この煩悩が生きているということなんだなぁ って感じたりしてます。
そう感じて、上のようにつぶやいたのでした。
そんな思いがある中、10月9日の、全休先生のブログ自分の変わりようで
以下のようにかかれていました。
此岸を離れて彼岸へわたす渡し船、迷いの岸を離れて悟りの岸へと近づいていく。なにから離れていくかといえば、自分の心から離れていく。自分の心から離れれば離れるほど「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」(歎異抄・第1章)と見えてくる。ああ、そうなのかと、またもや教えていただきました。
昔のように世の中に求めるものはないのに、なんで煩悩の衝動に襲われるんだろうと
不思議でした。
過去の慧海の姿が、いたるところに投影されている事を前回教えていただきましたが、
それと同じような何かかと思っていました。
そうではなく、彼岸に近づいていっているんですね。
如来の願船に乗るまでも色々ありましたが、願船に乗ってからも色々あるものですね。
酒を呑まずにいられなかった慧海が、今は酒をあまり呑みたいと思わなくなりました。
つきあいがなければ、家でも酒は呑みません。
アニメも暇つぶし程度の視聴になりました。
あまりにも平らな感情の日々に、また精神的に疲れてるのか?と疑った位です。
そういのも全部、お育てってことなんでしょうね。
帰命尽十方無碍光如来
2013年9月26日木曜日
全休先生からの回答
ここ最近、相手の心が聞こえるとか、外界の刺激が苦しいとか
書いていた問題について、全休先生が説いてくれました。
心の溝をさらえる
もちろん、全休先生が本当に慧海に向けてかいているのかは、わかりませんよw
でも、慧海が私の為に説かれたと感じるのは、慧海の勝手ですのでw
最近は、偉そうな知ったかぶりばかりして、苦悩を記す事もなかったんですが、
心の変化と環境の変化が重なって、自分をみせつけられてきました。
ただ自分がみえてくるだけなら、今までどおり頂けばよいのですが、
そうではないものが増えてきて、振り回されてきていました。
そんな慧海のまじめな苦悩記事に、全休先生が「あ~あ。苦悩しとるなぁ」と
いうことで、記事を記してくれたのでしょう。(慧海の妄想)
今回の全休先生の記事で、それが慧海がつくってきた罪によるものだと知りました。
他者だとおもってきたので、どうしてよいのかわからなかったんですが、
そこにみえるものが自己だとわかれば、同じように頂く事ができます。
自分の業は自分で背負うしかないですからね。
宿業ですねぇ~
全休先生、ありがとうございました。
で、苦悩から離れたからさっそく、知ったかぶりですw
慧海はすぐこれだ・・・w
聞不具足で戒められてる事ですよねw
コメントで、他者の心が聞こえるので、8願の他心通だろうと書きました。
他者から感じ取る言葉は慧海に向けた説法にも聞こえるので、
7願の天耳通という事にもなるのかもしれません。
ここでいう他者は、慧海の意識が認識している他者ではありません。
慧海の意識の外にある他者です。
他者本人の意思と関係のない他者です。
そういった他者の動きが縁となって、慧海に作用しているように感じます。
慧海のまわりにはそういう他者がいっぱいいます。
それを慧海は諸仏というのだろうと感じています。
全休先生の記事も、全休先生の思いとは違う形で、
慧海はうけとり、勝手に打ちのめされます。
記事を書いている全休先生は慧海の認識にある全休先生ですし、
コメントを書いたさいのTo全休先生も、存在する全休先生だと思います。
でも、記事を通して慧海に働きかけてきたのは、諸仏だと慧海は思ってます。
本願の一つ一つが、慧海を佛にたらしめんとする願いなので、
そこには、慧海の煩悩にかんする事がかかれているはずなんです。
ただ理屈を勉強してもわかりませんが、経験するとわかる事がでてきます。
お経というものは、わかった人が確認するために読むものだと、
亭主師から教わりました。
夢物語のようなお経が、仏書が、慧海をすくうための言葉だとわかる事が
とてもうれしく、また面白いんです。
あなたは救われたいのか
それとも知りたいだけなのか
と、しゃりさんに問われました。
グサっとささった言葉でした。
救われないと、知る事もできない。
蓮如さんの言葉じゃ、金剛の信心が最優先なんです。
蚤のキンタマ8つ割り程度の信心でも、なければ先に進めない
悩んでるなら、とっとと救われなさい!
自力無効を知るまで、自力をやってみればいい。
自力は無意味とか考えていても、他力のお世話になれません。
気が狂うような自力をすればいい。
それが19願に願われている事。観経で説かれている事。
自転車に乗りたければ、説明書読んでないで、自転車にのればいい。
今とはと考える暇もないくらいに今に意識をむけてみればいい。
念仏して何になると思いながら、念仏してみればいい。
如来なんて信じられんと思いながら、如来の眼にどううつるかに思いを向けてみればいい。
全部自力の話ですよ。
その先に、頭が下がる思いをするんです。
頭の中でこねくりまわしている間は、頭は下がりません。
頭が下がらないで、誰かに何かをお任せすることはできません。
ましてや、命を人生を如来にお任せする事なんて、まず無理でしょう。
だから念仏が口からでることがない。
というような事を僕は先生方に教わりましたw
そういえば、最近の全休先生は、言葉がお優しいですね。
なんど全休先生のブログ記事に刺し殺された事かw
お育てのままに…
帰命尽十方無碍光如来
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