2013年12月20日金曜日
今月のお育て報告
前回書いてから、ひと月が過ぎてしまいました。
慧海はこのひと月、実にノンビリと過ごしています。
欲望のままに過ごしているのにノンビリです。
上司のむちゃぶりやバカな話にイラついているのにノンビリです。
風邪やら尿管結石やらに苦しんでいるのにノンビリです。
なんか、腹がすわったというか、
どこにも行きようがない感じというか…
なんかそんな感じで、自分と自分の回りの事に振り回されなくなりました。
救いを求め、あえぐように仏書を読む事もしなくなりました。
誰かに認めてもらおうとする気持ちも空虚になりました。
なんといえばいいのか…
心の問題、佛の問題を頭で考える事すらしなくなりました。
直感的にいろんな思いやら思考やらがでてはきます。
それは昔とかわりませんし、思いに思いをかぶせてみたりもしてます。
悪い心を隠し、良い人間を演じようともします。
ただ気づいているだけで、そのままやってます。
その場は気づいていても、一つ一つをどんどん忘れていきます。
思い出す必要があれば、思い出すときもありますが、それもその時だけです。
これが、 実に楽でいいんです。
全休先生のTwiiterで
「今起きているすべてのことに文句がない、このことを安心というのでしょう。」
という言葉がありましたが、そんな感じです。
心の問題を考えなくなったかわりに3つ変化を感じてます。
1.努力はすばらしいと思える
2.小説、漫画、アニメに感動できる
3.過去の心に振り回されていた自分を宿せる
この3つは実は1つのことで、自力を喜んでいるんです。
心の病になって、真宗を勉強して、自分をみつめて…
結果、世の中を悲観的にみて、努力とか感情とかを無駄なものと感じていました。
欲望を原動とした感情にふりまわされ努力する姿は自分のようで、嫌悪を感じていました。
そんな自分の姿を見せつけられて気づいたのは、佛教という思想に逃げていたということです。
佛教を頭でとらえて、そこに理想を描いて逃げていたんです。
わからない事に理屈をつける事をやめました。
心の問題、頭の問題を言葉で考える事をやめました。
わからない事が、わからないままになりました。
気がついたら、腹がすわってましたw。
慧海のリアルでは、慧海が仕事をしやすいようにいろんな人が動いてくれています。
拗ねて、後ろ向きな発言ばかりしているのに、なぜか、慧海の働き場所を用意してくれます。
逆恨みが消えた訳ではありません。
逃げ根性がなくなった訳でもありません。
格好つけて、できないことを無理してやろうとかいう気もありません。
働き場所を用意してくれた人に答えたいというような気もありません。
でも、拗ねて部屋にこもるのをやめて、「あそぼ」と誘ってくれている人と遊ぼうと思います。
佛教哲学は引きこもるには心地良いです。
でも、ちゃんと地面に足をつけて、人生を遊ばないと本当の佛教じゃないんじゃないかな?
今見れば、誰もが欲望に駆られ、飢えながら、あえぎながら、苦しみながら
「俺はここにいる」という事を知らしめんと、戦ってます。
組織職も、若手も、中堅も、少年も、老人も、それぞれが、とても苦しそうです。
現実だけでなく、そういう事を書くストーリもとても痛々しいです。
でも、それが悲しく、いとおしいと感じます。
自業自得だこのバカめと、イラつきながらも、泣けてきます。
そんな人たちが、慧海を遊びに誘ってくれてます。
そんな彼らと一緒に遊ぶためには、昔の慧海であり、
自分で勝手に否定し、捨てようとした自分が苦労無くできる
仕事のスキルを使うのが良いようです。
努力してできないことは無いと思っていた頃の慧海。
その頃に戻りたいと思って、戻れないなら忘れようと思った頃の慧海。
なんてことはない。
戻るとか戻らないとかじゃなかった。
ただやれる事をやれるやり方でやるしかない。
それが昔学んだスキルだろうが、最近まなんだスキルだろうが、
これから学ぶスキルだろうが関係ない。
しっかり大地をふみしめて、やれる事をやるだけ。
目の前でもがいている人と一緒にすごすだけ。
彼らの苦しみは全て慧海と同じ苦しみ。
慧海には誰かを救うことはできませんが、同じ苦しみを感じることはできます。
むしろ、慧海の苦しみを呼び覚ますために、彼らは苦しんでいるとさえ感じます。
諸仏の皆様には、本当にかたじけない事です。
苦しみの末に、その中の一人でも念仏を称える人になるのなら、
それは喜ばしいことだと思います。
「思いがそのつど成仏する南無阿弥陀仏」(By全休先生)
思いから抜け出すために思う事をやめる。
思いを弥陀に捧げる念仏。
頭でわかってから、5年がすぎました。
11月からは色々苦しみながらも、本当にノンビリですw
帰命尽十方無碍光如来
2013年11月16日土曜日
遅いPCは掃除しよう。遅い心も掃除?
子供用に古いPCを親父からもらって、使わせる事にしました。
最近の通信教育は、テストの回答をPCでみたり、動画で講座をみたりするので、
PCがあった方が便利。
居間の共有のPCをつかわせていたんですが、部屋で勉強させる為に、親父の
つかっていないPentiumMのXPマシンをもらってきました。
起動させてみると…遅い…
親父からも遅いよ といわれていたんですが、確かに遅い。
これじゃ、なにもできんので、使わないソフトを片っ端から削除しはじめました。
国産メーカのPCは、初期状態でいろんなソフトが入っています。
それらが、自動起動するから起動待ちもメモリ圧迫もします。
買ってきてすぐなら、それもあまり気にならないでしょうが、追加でソフトいれると
それが自動起動だったりするんで、おそくなってしょうがない。
そんなわけで、プロバイダ接続アプリやら、おまけソフトやらも削除して、
スタートメニューが1ページ分位ソフトを削除して、
メモリ使用量も起動時間も半分ほどになりました。
パターンファイルの更新できないウィルス駆除ソフトが一番重かったように感じます。
いまだ代わりのウィルス駆除ソフトをいれてないので、なんか探していれないと、
子供がどこでウィルス感染してくるか・・・。
まぁ、ひっかかってExeを起動しなきゃ、それほどヤバイ事もないのでしょうけど、
引っかかったら、どんなソフトをいれられるやら・・・。
ちなみに、XPです。
慧海のPCも共有マシンもXPです。
サポートなんてもともとないようなものですので、家で使う分には
まだまだXPで十分です。
MSとWindows98サポート切れの話しをした際に、
もう重大な障害がでないレベルだからサポートを切れると言ってました。
使えないとは言ってないんです。
でも何かあっても保証はできないので、OSのバージョンをあげてくれと言っている
のだそうです。
OSまわりで、MSになんとかしてもらった事のある一般ユーザは希でしょう。
仕事でやってると、たまにOS寄りの障害でパッチだしてもらうことはありますが、
普通にブラウザとOffice使ってる分にはお世話になったことはありません。
あれ?サポートきれたら、XPの再インストールとかどうなるんだろう?
古くても、私たちの仕事が変わらないので、そんなに影響はないのですよ。
適切に動くように掃除さえしておけばねw
PC同様私たちも、頭の掃除をしておく必要があるようです。
通常、私たちは同時に抱えられる仕事は2つまでだそうです。
単純作業は別ですが、何かの調査してレポート作るとかの仕事は同時期には2つまでです。
2つ以上あると、メモリ不足と同様に、あっちこっちやって、仕事がすすまないそうです。
2つ以上の仕事をこなすには、1つの仕事を分割して、ゴールを再分化し、
同時期には2つまでで片付けられるよう、スケジューリングするしかないそうです。
結果的に、1ヶ月で3つの仕事ができたりするのであって、一時期でくぎってみると、
2つしか抱えていない状態にしてあるのだそうです。
とは言っても、2つ同時にというわけではないでしょう。
今で区切れば1つしかできません。
それはPCも同じで、CPUも時間で区切って処理をしています。
時分割処理っていうやつです。
考えるのは時間で割れますが、考えた結果はどっかに持ってないとダメです。
頭の中と、机の上に書類をひろげたりするように、PCはメモリに情報を蓄えます。
それが一杯になるとおもくなりますし、机の上に情報をひろげるのも時間がかかります。
人は広げられる案件が2つ分
PCは性能次第…低い性能であれば、情報を広げなければいい
ということですね。
慧海は通常1つの仕事しか一時期には考えません。
2つめ以降は、スケジュールもやるべきこともメモにしてPCにかいてあります。
頭はできるだけ空っぽにした方が、ストレスが少ないですからね
Windowsじゃなく、DOS並みってことですねw
でも余計なことばかり考えてますんで、余裕もないです。
ワームに感染しているようなものかもしれません。
自分ワームが起動したら、それを終了させるウィルス駆除っぽい仕事に
もう一つの仕事分が割り当たっているのかもしれません。
季節の変り目は必ずといっていいほど風邪をひく慧海でした~
2013年11月4日月曜日
言語化は難しい
昨日は、お寺の勉強会でした。
初めて副住職が講師をされました。
話をするというのは、難しいでしょうね。
私のわかることしか話はできませんし、感覚でとらえた事は言葉になりません。
言葉にしてしまえば、理屈になってしまって感覚のままではなくなってしまいます。
話そうと思って、はじめて妄想であったと気づくこともあります。
副住職は、どんな事を思い言葉にしたのかはわかりませんが、
慧海には、逃げようとしている言葉にしか聞こえませんでした。
自分の言葉で感じた事を話されているので、悩んできた事を感じる言葉だったんですが、
その言葉の方向性みたいなものが、引きこもりになっているように感じました。
慧海と同じように…なので、ついイラっとしてしまいます。
そんな思いもそのままに頂いていくのが今の慧海ですw
ふと思い出して、亭主師の先頭ページにある豊徳寺さんの聞法の方法を再度読ませていただきました。
久々に読ませていただいたのですが、今は何をおっしゃっているのかを感じれました。
最初に読んだ頃は、あるがままにそのままに と今、今と意識したのを思い出します。
改めて読んで、ふとひっかかった所がありました。
自己の解決のところにこう書かれています。
4.つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるべし。この言葉の、清沢満之の「他力の救済」にある、
いつも自然の様子を思いおこすようでは、色々せんさくしなくてもよいと思いつつも、まだ自分への言い聞かせが残っているのです。徹底していないのです。 まだ、本当は不安なのです。まだ、お任せしていないのです。自分自身、納得がいっていないのです。つまり、「義なきを義とす」と知って、義なきようにはか らうのは、まだ義の立場なのです。
自然の様子を忘れ、忘れたことも忘れて、ただ、やるべき事をやり、すべき事をする。人の和を願い約束を守り社会を考えて 生活するのです。どんな思いが頭にわいてきても、その思いそのものになっていればいいのです。そのものになりきっていればいいのです。それでいいのです。
他力の救済を念ずるときと、他力の救済を忘るるときの言葉の逆のように見えます。
でも、いわんとしていることは同じように感じます。
自然の様子を思い起こすという事を、他力の救済を念ずる事と読んでしまったからでしょう。
むしろ、お任せすることが他力の救済を念ずると読むと同じだと感じれます。
慧海の感じた経験→仏書にその時の感覚とよくにた言葉を見つける→自分で言葉にする
→その言葉と違う言葉を仏書で出会う→理屈で考える・・・
言葉を捜してしまうあたりが、お任せできていないのか?とも思いますが、
人につたえようと思えば、言葉にするしかないわけです。
人に伝えるのは自慢したいからではありません。
慧海が頂いたものを世に還元したいんです。
どうしたらよいかわからないので、言葉にしているだけです。
言葉にすることは本当にむずかしい。
自然を教えるための阿弥陀の名であったというのは、本当に頭が下がります。
私たちはそんな先人と思いと智慧の中を生きて念仏する身としていただいたのだと
思うと、本当にかたじけない事だと思います。
慧海の思いなど関係なく、慧海に思いをわかさせて、行動させていく…
今はそれを慧海はお育てという言葉で表現してありがたがっています。
余談
ふと思い出して、十牛図をみてみました。
やっぱり文字を読んでしまいますが、誰かの説明よりも、タイトルと
その絵自体から感じる事の方が増えたような気はします。
(どんな意味かはあるていど覚えているからという理由もありますがw)
浄土教が名号にこだわった、先人の思いがわかるような気がします。
南無阿弥陀仏
2013年10月26日土曜日
一週間分の振り返り
仕事やら呑みやらで、ブログ書く時間がとれなかったりします。
なのでネタみたいなものをつぶやいておいて、あとで文書にしようかと思ってます。
色々とあるので、まとめてポンとw
■ 報恩講
20日は報恩講でした。
雨の中、それなりに人がいらっしゃいました。
報恩講の後、I師、S氏と飲みにいったんですが、副住職もなぜか一緒にという事に…
まともに話しをききましたが…
その時の感想のつぶやきが以下の2つです。
「今のお寺という俗世は、サンガってよべないんだなぁ。得度は入社、教師は課長。住職は支店長。帰敬は優良会員。会社なら顧客満足度を考えるが、お寺じゃ不要。やっと現実がみえてきた。」
「自分に属する事は自力でやれ。ニヒリズムに浸り、念仏信じたフリして現前から逃げるな。」
慧海はお寺に期待をしていたのですね。
でも、その実情はサラリーマンと一緒だったというのがやっとわかった、というのが一つ目のつぶやきです。
彼らは彼らのしがらみの中で、お寺に就職して仕事してきたんです。
門徒とちがって、仕事です。
苦しみがあって、そこから抜け出す答えを探していたら、仏教に、真宗に行き着いたというのとはマッタク違うんです。
そういう人たちに何かを勝手に期待して、勝手に要求していたんですね。
そういう中で就職しちゃった跡継ぎは、中途半端に勉強してニヒリズムに浸るようです。
慧海もニヒリズムでしたので、気持ちはわかります。
それが逃げだと気づくのは、逃げなくなってからです。
そんな風に思いました
■ ア・ミタ
アミタをしらべていたら、東海学園さんの図書館だよりに
日頃つかわれる「○○メーター」のメータもサンスクリットと共通のルーツで、共に「計量する」という他動詞の過去分詞、つまり「量られる」の意味です。サンスクリットのミタにアをつけたアミタ(無量) 以下略という風にかかれていました。
その事からかいたつぶやきが以下です。
「ア・ミタ=無量っていう風に認識してしまっていた。量る事ができないとは人の思いの外ってことだと気づいた。」
思いの外というか、人智を超えているというか…
私が認識しちゃったらダメだよっていう教えだったんだって事だとおもうんです。
認識できたら、私の自我というか思考のなかに概念化して佛を取り込んじゃうわけですよ。
しゃり様が、「わかったら凡夫の迷いだから気をつけなさい」 という事はこういう事をいっていたのかと感じたんです。
よく考えれば、歎異抄十章に「不可称不可説不可思議のゆえに」って書いてあるんです。
これをそのままに理解して、 不可称不可説不可思議なもの と定義してしまっていたんです。
人智の外という事を教えんが為の言葉を人智でとらえてしまった。
人智であれば、思いの中、思考の中、理屈の中、妄想の中、苦しみの中なんです。
「そういうものじゃない」と言葉で伝えたら、それはもう人智なんでしょう。
伝えようとしても伝わるもんじゃない そういうことなんだろうなぁと気づきました。
仏教って頭で理解するんじゃなく、感じ取るしかないんだろうなぁ
そんな風におもっていたら、歎異抄では異なるのは私だと言われてる事にいきつきました。
異なっていて、嘆かわしいのはたしかに慧海自身でしたw
■ 雑談
そうそう。亭主師が記事書かれてました。
第702話 俗世で頑張る
俗人とは何者か…毎日アセアセと生きる私たちの事ということでいいんですかね?
なんやかやで、365回分念仏つぶやいてます。
多分、念仏が入ってないのは2回以下だと思うので、まずは、一年分念仏つぶやきました。
この365回では色々ありました。
お育てですねぇ。
帰命尽十方無碍光如来
2013年10月17日木曜日
しゃり様への返信
しゃり様
お久しぶりです。
つぶやきに対するコメントありがとうございます。
ご助言ありがとうございます。
やはりお返事が書きにくいコメントですねw
しゃり様のメッセージをうけとれているかもしれないし、うけとれていないのかもしれない。
質問をしてみたいけど、質問する言葉はない。
出たり、入ったり…結果、門の外 そのとおりだと感じがします。
慧海のリアルは変化の時がきているようです。
諸行無常って話しではなく、世間的にいう変化の話です。
異動とか、仕事が変わるとか、引越しとか、事件とかの話です。
そんな、小さな変化がいくつも、何度も押し寄せてきています。
病気やら、趣味やら、宗教やらと言って、リアルから逃げる精神的引きこもり状態は
終わりを告げはじめてます。
世間様で、他力本願と言えば他人任せの無責任な事です。
世間様では自力の努力を必要とします。
なので、世間様に戻った慧海は自力を使用します。
自力は用いれば、その分、自我が騒ぎ立ててくる。自我が騒がしければ、念仏を忘れる。
とはいっても、一度感じた南無阿弥陀仏がさっぱりと消えたりはしないらしいです。
リアルを受け止め自力ですごしつつも、肩の力は入らない日々。
だから、出たり入ったり…。
上の文をかいていて、清沢満之師の言葉を思い出しました。
そもそも、ブログに何かを書いているようなときは念仏を忘れ、
念仏を忘れていないときは、ブログに書くような事がないのですよ。
どっちにしろ、慧海のはからいではないのでしょう
お育てのままに生きるだけかと。
帰命尽十方無碍光如来
お久しぶりです。
つぶやきに対するコメントありがとうございます。
ご助言ありがとうございます。
やはりお返事が書きにくいコメントですねw
しゃり様のメッセージをうけとれているかもしれないし、うけとれていないのかもしれない。
質問をしてみたいけど、質問する言葉はない。
出たり、入ったり…結果、門の外 そのとおりだと感じがします。
慧海のリアルは変化の時がきているようです。
諸行無常って話しではなく、世間的にいう変化の話です。
異動とか、仕事が変わるとか、引越しとか、事件とかの話です。
そんな、小さな変化がいくつも、何度も押し寄せてきています。
病気やら、趣味やら、宗教やらと言って、リアルから逃げる精神的引きこもり状態は
終わりを告げはじめてます。
世間様で、他力本願と言えば他人任せの無責任な事です。
世間様では自力の努力を必要とします。
なので、世間様に戻った慧海は自力を使用します。
自力は用いれば、その分、自我が騒ぎ立ててくる。自我が騒がしければ、念仏を忘れる。
とはいっても、一度感じた南無阿弥陀仏がさっぱりと消えたりはしないらしいです。
リアルを受け止め自力ですごしつつも、肩の力は入らない日々。
だから、出たり入ったり…。
上の文をかいていて、清沢満之師の言葉を思い出しました。
彼に在るものに対しては、唯だ他力を信ずべきのみ。我にあるものに対しては 、専ら自力を用うべきなり。而も此の自力も亦た他力の賦与に出づるものなり。
(清沢満之著 東本願寺発行 清沢満之の精神主義より)
そもそも、ブログに何かを書いているようなときは念仏を忘れ、
念仏を忘れていないときは、ブログに書くような事がないのですよ。
どっちにしろ、慧海のはからいではないのでしょう
お育てのままに生きるだけかと。
帰命尽十方無碍光如来
2013年10月12日土曜日
外から見る
昨日、会社帰りに築地本願寺の夜の法話会に初めて参加しました。
4月の異動で会社帰りのウォーキングコースに築地本願寺があるので
タイミングがあったら寄って、お西の正信偈の節をきいてみようと思っていたのです。
残念ながら、正信偈はなく重誓偈だったんですが、重誓偈にも軽く節がついているし、
そもそも、重誓偈をお寺で聞いた事もなかったので、新鮮に感じました。
先日も、築地本願寺で法事をされている方がいらっしゃったので、お経をきいていたのですが、
その際も阿弥陀経も正信偈もなく讃仏偈でしたので、やっぱり違うもんだナァと感じました。
法話の先生がおっしゃってましたが、福岡の古いご門徒さんでは法事は三部経を全部
あげていたそうです。3時間半かかるんだそうです。
昨今では、昭和の短縮版とやらで2時間になったとか、最近のご門徒さんでは阿弥陀経
だけというような感じで20分といった事をお聞きしました。
築地で、讃仏偈の前に仏説無量寿経と言ってたのは、大経の略式という事なんだなぁ
と理解しました。おもしろいものですねぇ・・・w
その法話会で2つ関心することがありました。
1つは、生活信条というものです。
昭和にできたものらしく、もちろん、大谷派にはありませんので初めて知りました。
驚きです。
残念ながら、直感的に嫌悪感を感じてしまいました。
慧海が勝手に想像する新興宗教のイメージがその言葉の中にありました。
きっと、本来持っていた浄土真宗本願寺系、俗に言う一向宗のもつ空気がこれ
なんじゃないかなと感じました。
一向一揆もおこるはずだと、感じました。
東は清沢満之師を筆頭に、曽我量深、安田理深といった先生方によって、
哲学的な理屈っぽさが組み込まれて、今の東の雰囲気なのかなぁと思ってます。
曽我量深師の歎異抄聴記の4ページに
当今は仏法について、ことにわが浄土真宗におきましては、内外のことがらにつきまして第二の再興を要する時期に再会していると思われるしだいであります。時代相応の真宗教学の再建ということが諸方にさけばれる
とあります。
昭和17年ごろの事だそうですが、その歎異抄聴記を読んで感じる事は、
昭和中期に示されたという生活信条とは大きく違うと感じたので、驚いているのです。
昔から信仰の強い地域では東も西もかわらないのだろうとも思います。
にわか門徒には、ホントびっくりしました。
2つは、法話をきいていた門徒さん(たぶんお坊さん)の振る舞いです。
法話の中で、「佛」「経」「釈迦」「阿弥陀」という言葉や、なるほどと思う言葉があると
「なまんだぶ なまんだぶ」と声をだして念仏するんです。
感謝の言葉として南無阿弥陀仏と念仏しろ
念仏は声にだしてしろ
という事は学びました。
とはいっても、静かに法話をきいている人々のなかで、数秒おきにまわりに
きこえる声で念仏をする姿は、汚い言葉で申し訳ないが、きもちわるい と
感じてしまいました。
でも、それが、ある種の信仰の姿であり、慧海も無宗教の人々からすれば、
おなじように気持ち悪い人なんだと気づきました。
そういう場所ですし、教わったとおりの事ですので、なにもおかしくはないはずなんです。
そうなんですが、背中掻きながら感情のままに念仏を口にしているようにみえる姿に
慧海は嫌悪感を感じてしまったんです。
慧海にとってはありがたい教えですが、まったく関心のない人からすれば、
それはうけいれがたい、嫌悪の対象になるのでしょう。
非アニメ好きの人からすると、アニヲタが嬉々としてアニメの話をするのと
同じ位ドン引きな姿なんだと思います。
子供向け美少女アニメのどのヒロインが良いと飲み屋で話す知人がいますが、
深夜アニメをみる人でも、その彼を否定します。
そういうのが好きでもいいけど、同好の人以外には、口にしてはいけないんです。
慧海にとって仏教というのは生活の一部化してしまっています。
心の観察とか、念仏とか、仏書を読むとかがまったく無い日は既にありません。
慧海にとって、仏教関連の話をすることは政治の話より普通の事なので
ちょっとしたきっかけがあれば、つい仏教関連の話がでてしまいます。
思い返せば、嫌な気分にさせた記憶がでてきます。
きっと気持ち悪いと感じたんだろうなぁ と改めて気づきました。
今度、お寺のI氏と、東の真宗会館に行って法話を聞く事になっています。
末寺とちがって、雰囲気が違うのかもしれません。
初真宗会館なので、ちょっと楽しみです。
2013年10月10日木曜日
全休先生からの回答2
10月8日に慧海は以下のようにつぶやきました
「欲望の衝動が襲うが、ただその衝動を感じるだけにする。色んな煩悩が薄まったように思うが、煩悩はまだまだ元気らしい。南無阿弥陀仏」
最近、公序良俗に反するような欲望や、自分の価値を認めさせたい欲望が
頭をかきむしりたくなるような衝動と共に襲ってくる事がよくあります。
ひどいのは仕事でお酒を呑んだ後ですw
通常は、無気力で無感動であり、これといった欲求もなく
なにが楽しみで生きているのかと問われても
答えられない頭で日々を送っています。
でも、頭の中は色んな思いに引っ掻き回され続けてます。
ちょっとした事で煩悩の炎に焼かれてます。
焼かれても苦しくはないので、むしろその焼かれっぷりを心地よく感じてます。
慧海は下品で傲慢で臆病な煩悩の虜だ
って思いつつ、この煩悩が生きているということなんだなぁ って感じたりしてます。
そう感じて、上のようにつぶやいたのでした。
そんな思いがある中、10月9日の、全休先生のブログ自分の変わりようで
以下のようにかかれていました。
此岸を離れて彼岸へわたす渡し船、迷いの岸を離れて悟りの岸へと近づいていく。なにから離れていくかといえば、自分の心から離れていく。自分の心から離れれば離れるほど「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」(歎異抄・第1章)と見えてくる。ああ、そうなのかと、またもや教えていただきました。
昔のように世の中に求めるものはないのに、なんで煩悩の衝動に襲われるんだろうと
不思議でした。
過去の慧海の姿が、いたるところに投影されている事を前回教えていただきましたが、
それと同じような何かかと思っていました。
そうではなく、彼岸に近づいていっているんですね。
如来の願船に乗るまでも色々ありましたが、願船に乗ってからも色々あるものですね。
酒を呑まずにいられなかった慧海が、今は酒をあまり呑みたいと思わなくなりました。
つきあいがなければ、家でも酒は呑みません。
アニメも暇つぶし程度の視聴になりました。
あまりにも平らな感情の日々に、また精神的に疲れてるのか?と疑った位です。
そういのも全部、お育てってことなんでしょうね。
帰命尽十方無碍光如来
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