2014年5月21日水曜日

希望が厄災


ギリシャ神話のパンドラの箱って話で、以前は、

厄災の詰まった箱をあけてしまって、世の中に様々な災いがばらまかれたけど、
最後に希望が残った。よかったよかった

というように理解してました。

今思うのは、希望という厄災にしてやられた って思います。

そもそも、プロメテウスはなぜ希望を封印したんでしょうね。
彼は希望の危険さを知っていたんじゃないかと考えたくなります。

なぜ希望だけが残ったのか・・・希望はうまく人の元に入り込んだんですよ!w
人に巣食う希望・・・これが人を苦しめていくんです。

人生から希望が失われたと感じた時、希望が絶望に変わるんです。
絶望は希望の裏の顔ですので、絶望だけでは存在しません。

妄想による未来の希望に逃げ込むから、現実に絶望するのでしょう。
希望も欲望も、みんな妄想。

ちゃんと地に足つけて、今に意識をむけてれば、先々の事はお任せして
すごしていれば、厄災に悩まされる事はない無碍の道が待ってます。

病気にならなかったり、泥棒に入られなかったり、もちろんお金持ちになったりは
しませんけど、それに悩まされなくはなります。

それが喜ばしいと思えないから、誰もが希望を持ちたがるんでしょうけどね。

あ、そういえば、「天国は行きやすいのに、だれも行きたがらない。
人は好んで地獄にばかり行きたがる」みたいなことを街頭の聖書宣伝で言ってました。

みんな大好き希望の世界!

2014年5月20日火曜日

前向きは辛そう


慧海がお仕事でお世話になっている人で、よく怒り嘆いている人がいます。

自分の努力と正しさが伝わらない虚しさ、
そして自分が評価されない怒りというように感じてました。

それでも、自分の正しいと思う事をやり続けています。
伝われば大きな成果をだしますが、伝わらない事が多々あります。


その方は、相手の幸せの為と信じて、一所懸命考え、伝わるように文書を書き
正しいと信じた事を堂々と正攻法で熱く語るんです。

伝わると信じているんです。
相手はわかってくれると信じているんです。
それをやらなきゃ、自分は責任を全うせず、逃げていると考えているようです。
全体最適で、多くの人がどうやったら楽に仕事ができるかと真剣に考えています。

本当に、前向きでいい人なんです。ですけど・・・辛そうです。

本人は気づいていらっしゃらないので、辛いとは思っていないようですが、
相手に届かなかったとわかったときの姿は慧海にはとても辛く見えます。
わかってくれると信じ、期待しているのでしょうね。
わかってもらえないのは自分の努力が足りないのだと・・・


今や慧海は、後ろ向きで無責任ですので、伝わらない事を前提に考えますし、
うまくいかなくても、そのなかでよかった点を報告します。

怒らず愚痴らず、冷静に対応すると、前向きだというイメージをもたれます。

前向きに頑張っている人が愚痴って後ろ向きにみえて、
後ろ向きにサボっている人が、前向きに見える。

そういう世の中みたいです。

皆様、くれぐれも自分の立ち居地はどん底に置かれるのがよろしいかと存じます。
全てがありがたい事になりますからw

2014年5月19日月曜日

もっと軽くいこう


今年に入って、1件/月しか記事を書いていません。

ずっと、愚痴を書き続けて、最近はちょっと深く考えたつもりの愚痴を書いて、
そんな文書と共に、自分をみつめてきました。

このブログは今まで「慧海は救われるのか」といったような事に対する、
色々な気づいた事をぼやいてきたブログでしたが、今となっては
救われるのかとか、既にすくわれているのか などという事に悩みません。
難しい事を学ぼうという気もなくなってきました。

このままだと、何も書く事がなく、慧海の旅の記録が終わってしまいます。
ちょっと気分を変えて、 慧海の日々に入り込んだ仏教的な、
メンタル的な、そういう何かを書いていこうかと思います。

ツイッターよりは長く、という程度に気軽な心の話を書きたいものです。

ご縁がありましたら、お付き合いください。

2014年5月4日日曜日

5月になっちゃいました


色々と思いつくものがありつつも、文書化しないでいたら5月になっちゃいました。
とりあえず、4月を振り返ってみます。

3月31日が社長答申で、それにむけての資料作りが大変でした。

で、4月1日は、有給をとって桜をみに地元をフラフラと数時間・・・
青空と桜に癒されて、ノンビリ期初をすごそうとおもっていたら、
4月2日の会議で、慧海が2年ほどでまなんだ知識を文書化することが決定。
期初はノルマがきまるまで楽できるはずが、まったく楽にならなくなりました。

4月2日は、仕事の後お客さんでもあるG猫氏他と花見。
酔った拍子になぜかタバコを1本吸ってしまいました。
クリスマスで問題ないっておもっちゃったんでしょうね。
薄いナァとか口にしながら、普通に一本吸い終わる頃から目が回り始めました。
そういえば、酔った時のタバコは目が回るということをすっかり忘れてました。
目が回り、酔いがまわり、その場で嘔吐。
土の上でまだよかったとか思いながらも、まったく動けず寝ゲロ状態・・・。
クリスマスに執着がなくなったので、拒絶もしなくなってしまってました。
心身共に、タバコはもういらない そう刻み込まれた出来事でした。

一度気の抜けた体を騙し騙し、知識の文書化を実施・・・。
ストレスやら、水分と塩分過多やらで、案の定、報告日には風邪をひき、
報告が終わったあとは風邪でお休み。
胃腸がもうダメダメで、急性胃炎か何かで12時間ほど転げまわる始末。
尿管結石の痛さは長くても1時間ですが、軽い尿管結石の痛さが12時間続くと
精神的にも相当ダメージを受けました。
おかげで、今までどれだけ意識しようとも良く噛むということができなかったのに、
今では、よく噛まずに飲み込むのが怖くて、今までの3倍は噛むようになりました。
つい飲み込もうとするのを2回はやめて、噛み直すので多分3倍ですw
定食を食べ終わる時間が女性と同じ位の時間がかかったのは驚きです。

仕事関連の読書もしました。以下の3つの本はとてもよかったです。
・日本軍の敗戦を分析した失敗の本質・正しい選択をしているはずが会社をダメにするというイノベーションのジレンマ、
 それを個人に応用した最新刊イノベーションオブライフ
・産業革命の本質をとらえた第3の波
復職後、仕事に関する本をあまり読まなかったんですが、4月は7冊ほど読んでしまいました。
なぜか1980年あたりの本が多かったですが、勉強になりました。
やっと、そういうことが理解できる下地ができたということでしょうかね。


その間に、お寺の勉強会やら、お花祭りやらもありました。
住職や副住職のお話に不安を感じました。私たちのお寺は大丈夫かな?ww
慧海自身は仕事に疲れた結果、念仏やら、読経やら、仏書やらに戻っていくあたりが、
どれだけリアルに振り回されても佛から離れていかないところまできているのだなぁと感じました。

ホント、慧海が望もうとも、望まなくとも、なるようになっていくものだと、改めて感じます。

もう念仏するしかないですねw

南無阿弥陀仏

2014年3月30日日曜日

3月終わっちゃいます


リアルが忙しくて、しばらく更新してませんでした。
忙しいというか、迷走していたというか鬱々してたというか…。

11月あたりで過去を許容し、しばらくは問題なかったんですが、
仕事やら家やらで、未来やら損得やらをかんがえはじめると、
やるべき事をやるようにしていたつもりが、慧海の中にあった、
色んなものが暴れだし、たいへんな事になってました。

でも、どんだけ大変な事になっていようと、やるべき事はやるしかなく、
慧海が悩んでいようとも時は進み、なるようになっていくので、
ただただ、毎日思いついた事をやっているだけで、無事解決していくのであります。

復職して6年たち、今年は新しいテーマで仕事もして、
社長答申のための文書下書きをする位には、俗世に戻れています。

それでも、負荷をかけてはいけないと上司が言うのですから、
メンヘルをやってしまうと、ずっとそういう部分が残るんでしょうね。

ちょうど、アニメ宇宙兄弟の最終回付近をみてて、やっぱり、
PDや引きこもりといったメンヘラは、健常者として扱われなくなるよなぁ~
なんて思ったものです。

慧海はまだ会社に残れてます。
自分の思いを追わなきゃ飯とローンを返す分位のお給料をいただけます。
一つ一つやれる事を歯車として実施していけば、奴隷としてでも働くつもりがあれば、
なんとかなるのかもしれません。
ただし、会社を急に休んではいけません。風邪でもメンヘル扱いになりますから…
休みたければ、ちゃんと有給申請を出して休めばいいだけの話なんですからね。

そんな感じで、慧海はリスクとして扱われながらも、会社に活用していただいています。
いろんな欲求やら不満やら疲労やらがありますが、なんとかやりくりできました。
元々得意としていた仕事の仕方である、少し先の仕事事情を読む事もやってます。
避けていたビジネス書とかも、今のテーマをやるために読み出しました。

天命に安んじて人事を尽くす。

今、慧海にやれる事をやるだけです。
やらなくてよさそうなら、やりません。

最近は佛について学ぶ事も、考える事も殆どありません。
慧海が佛について考えなくても、佛が慧海を考えているのでしょう。

リアルの問題でどれだけ悩もうとも、イライラしようとも、
眠れないような苦悩をすることはありません。

考えている事なんて、自分のことばっかり、損得ばっかり…
そういう考えをしているときは大抵苦しいと感じています。
でも、それがリアルを生きるための条件。
それが俗世の共通語。

やっとそんな世界で、普通っぽく生きていけてます。


2014年2月3日月曜日

鏡だらけ


昨日はちょっと早いけど梅をみにいってきた。
八重寒紅梅?だかが何本か咲いていた。

最近は人の感情の乗った声が痛々しくきこえて苦しい。
花みて、そのあたりを散策するだけで、

おやつを取られたと無く子供
抱っこしてくれないと無く赤ん坊
足の裏を拭かれて吠え付く犬
子供に怒る父親
 そういう声がきこえ、イラっとしつつ耳をふさぎたくなる自分がいる。
思うようにならないと怒る音が、慧海の中の不満を刺激するのだろう。

痛い
苦しい

感化されないようにしていれば苦しくはないだろうし、
聞こえても頭の中でとりあわなければいいと思っていたが、
嫌悪感とかは、思考の前に現れる。
引きずらないようにはできても、とめる事はできない。

外界の関心を捨て、自分の思いの中に引きこもれば、痛くはないだろう。
誰もがそうしているし、少し前まではそうしていた。

今でも慧海は思いの中にいるはずなんだが、
外界がそんな慧海を映し出すのだよ。
渇望と不満と逃げの姿を見せ付けるのだよ。

仕事飲み会に行けば、周りがそうだし、酔った慧海も渇望と不満の言葉を吐く。
自ら毒を吐き、その毒が膨れ上がって、それを自らが飲む。

飲み会もアニメも漫画も、今や慧海を映す鏡。
経典や仏書のようにドライじゃない分、醜さがよく現れている。

死ぬまで慧海は慧海から逃げられない。
自らの業を背負って、見るもの、聞くもの、様々なものから、
自らの醜さを見せ付けられ、指摘されつづけていくのだろう。

慧海の感情の眼でみれば、この世はこんなにも苦しい世界だった。


どこか、そんな慧海から離れているものがなければ、
苦しすぎて生きてはいけない。
離れているものは、何物にも影響されず、ただ地に足をつけて、
まわりの濁流にのまれることなく、そこに在る。

彼のいる所までいけば、どこででも静かでいられる。
これも思いの中に引きこもっているってことなのかな?



みんなが笑顔でいられるなら、苦しみの姿をみないですむのになぁ。

2014年1月13日月曜日

全休先生ありがとうございます


全休先生が年末に書いた”慧海とタバコと救い”について記事を書いてくれました。

先生にとりあげて頂くのは、3回目位だったでしょうか?質問ふくめると・・・5回目位?


慧海の中に何か思うものがあり、あえて言葉にし、残しています。
その言葉の中に何か思うものがあったから、そこに言葉を加えてくれるのだろうと思います。
同朋として声をかけていただける、そういう事がありがたく、とてもうれしいです。

ホントありがたいことです。


以下が全休先生が追加してくれた言葉です。
過去に取り上げて頂いた際の記事がよめなくなってしまったいたので、
同様の事を回避するため、失礼ながら、全文を引用させて頂きました。
  すべてのものは、愛着と瞋憎の火によって
  迷妄・流転という火燃をあげて燃えている。
  もしこれらすべてのものから厭い離れて
  愛着(欲)を解脱することができるならば、
  そのときこそ真の正覚に達したものである。

  (火燃経)


 慧海さんの12月28日付のブログを拝見しました。「救い」とは何だろうというテーマですが、「やっとコレで愛しかったタバコと別れられます。もう、ただのタバコです」という表現がとても面白い。「ただのタバコ」になるのに八年間かかったというのです。

 坊守さんの考える「救い」とはどういうものなのか、この記事だけではよくわかりませんが、慧海さんは記事の中で「ひとつ執着がなくなりました」と述べているので、執着がなくなることを「救い」と理解していることがわかります。

 仏教では、思い通りにならないことを「苦」といい、思い通りにするための努力を世間では評価しますが、仏教では思い通りにしたい「思い」の方を問題にします。わたしたちはなんでも思い通りにしたいのではなく、興味・関心のないものはどうでもいいのです。

 自分にとり大切なもの、価値あるもの、意味のあるもの、つまり「執着」するものが人それぞれに違っていて、思い通りにしたい執着が人それぞれの苦悩をつくりだしています。慧海さんの言うように、タバコを吸わない人にはタバコが吸えない苦しみはないのです。

 そういう意味で、わたしたちは「苦しみ」の裏側にある「執着」に気づいて、その執着はどこから来るのかと、さらに内観を深めるとよいでしょう。思わせぶりな言い方で恐縮ですが、執着するから悩みは深いが、執着がなくなれば「ただのタバコ」になるのです。

 南無阿弥陀仏

 慧海さんのブログを読んで

 ◇南無阿弥陀仏との対話 №27

執着があると、思いにとらわれて、苦しくなっていきます。
逆に、執着がなるなると、苦しくなくなるという事を感じています。

執着がなくなる→思いにとらわれず、ありのままに見える→苦しくない。

というような感じでしょうか。
それと同時に

ありのままにみえる→否定的にならない→心が穏やかになっていく

というのもあるように感じます。

阿羅漢に到達すると感動する事もなくなるらしいとお寺でよく言われます。
思いにとらわれなくなっていくと、そうなるような気もしなくもないですが、
執着がうすまっただけで、こころが落ち着くのだから、きっとその話は間違いだと思います。
テーラワーダの記事か何かで執着がなくなった結果として慈悲がうまれるという事を
読んだ事もあるので、そうなんだろうと思います。
むしろ、あるがままに感動しつづけるのかもしれません。まぁわかりませんが。


頭でどうこうしてみようとも、しなかろうとも、既に如来のお心の中です。
それでどうにかなっちゃたりなんかしません。
だからいくらでも悩むことができます。妄想することができます。
そしてブログに書く事で、思いを見る事で、悩みを忘れていきます。

ありがたく、かたじけないことです。

帰命尽十方無碍光如来