2012年5月25日金曜日

同じ問い


全休先生の5/24の記事、試行錯誤を重ねていますで読者からのお便りを紹介されてました。

これは、慧海のメールか?と思うほど、同じ思いをした経験があります。

2011年1月8日のメールとのことなのと、言葉使いが慧海とちがうので、
他人なのは間違えないですし、慧海が同じようなメールをお送りしたのは
全休先生が、濁川と名乗られている頃の話・・・

やっぱり皆さん同じように悩むのですね
ご同朋なのだなぁと感じました


念仏しろと教わって、念仏してみたが救われたと感じないのは、
念仏の仕方が間違っているのか?
自力だからか??勉強がたりないのか???
でも、「よき人」はそうは言ってないし・・・ うむぅ・・・

ということなんでしょう


先日本で、この悩みこそが、浄土教の大事な点だ という事を読みました。
歎異抄の9章で出てくるのも、同じ問いであり、信巻と化身土巻の話だとか・・・。


この問いの先に、きっと何かがあるのでしょう
考えではなく、この問いの答えを感じ取れ時は、既になにかに気づいているのでしょう


どうやらこの先は、私と佛との問題な気がします

2012年5月3日木曜日

不思議な満たされた感

前の記事に書いた、梅の花を見に行った時の事です

小雨の降る中、一人で車を走らせていました
運転をしながら、あれやこれやと考えていたと思います

ふとした瞬間、運転している自分を感じました
そして、なんだか良くわからない、満たされた感に包まれました
ゆったりした感じで、口がアルカイックスマイルをしているのがわかります
なんだか、視界すら明るくなった気がします
…雲が薄くなって、明るくなったのかもしれませんが…w


な~んだ、そのまんまでいいんじゃん

そんな言葉がふと浮かんできました
あまりにも、ゆったりした感じがしたので
南無阿弥陀仏と口にしてしまうほどでしたw

良くわからない、ゆったり感、満たされた感をもちつつ
いつものように、頭が作り出した感覚だろうと気にしないでいました

そんな事のあった少し前に、苦しいと感じているときには、頭の中に意識が向いていて
自分で肩に力をいれて、息を浅くしているだけだったと気づいたので、
苦しいと感じたら意識して肩の力を抜いて意識を頭からはずすと、
勝手に息が抜けて何に苦しんでいるのかすらわからなくなる事に気づいたんです
なので、その延長だろうと思っていたんです

肩や足の裏に意識する・・・意識がかるく別のところにあると、苦しくないようです
常に念仏っていうのは、どっかに意識のアンカーを挿しておく事なのかもしれないなぁ
なんて慧海は思うんですが…どうですかね?
kirinn さんが、コメントで「丸ごとお念仏」という言葉を使われてましたが、
なんかこれは、全身で念仏ってしてて、丸ごとっぽい なんて思ったりもしてましたw


そんな感じですごしていたんですが、ここ数日になって気づいたんです
怒っているようなんですが、まったく怒りに苦しめられていないんです

どうやら口調は怒っているらしいです
でも、本人は怒っている気がしないんです

腹立たしい事は多々あり、気にいらない事も多々あります
なので、文句もいいますし、拒絶もします
なのに、いままでのような苦しさがなく、いつもどおり
頭が騒がしいだけなんです

仕事はGW前で、バタバタとしてても苦しくならない
苦しく感じても、呼吸が浅いだけ・・・

そして、ふとした瞬間にはそんな頭の騒がしさもうすらいで、
ゆったりと満たされた感につつまれていたりもします

ただ、ボーっとしているだけなのかも知れませんけどね

そんな感じで、ここ最近は日々の生活が楽になりました


余談ですが、先日、ずっと欲しかった桜の鉢植えを入手しました
時期が今なので、八重桜ですけど…やっぱり桜もいいですねぇ~w