2010年12月31日金曜日

本年も大変お世話になりました

今年は病的な症状もなく、仕事もそれなりであったため、
心の観察を怠けていた結果、不調に陥り、
結果として、再度観察生活をやり直すことになった

切り替わりは、ちょうど濁川先生がお隠れになられるというあたりが
一番迷いまくり、全休先生として再出発されたあたりで、立ち止まり
慧海が土地の問題でブログの引越しを行って、やり直しが始まる

迷いまくりのこの年は、色々と期待やら欲望やらがあふれていて、
それが果を結ぶ前だったので、特に苦しさも無く聞法も忘れてきていた

過去記事をみかえすと
・何々を買った
・仕事が忙しい
・風邪を引いた OR 体調が悪い

というような事ばかり書いていて、心の問題は殆どかいていない

結果、不調に陥り反省するに至るのが今年だったように思う
何度も体調をこわしつつ、それでも生活は変わらず、
体調も精神的にもちょっとアレな感じになり……… 最終的には
11/6ブログから慧海が変わっているのだが、おわかりになるだろうか

11/5 に休みをとって家族で遊びに行く予定だったのだが、
風邪で1日寝ていることになった
久々に一人で布団に包まって、何もしない1日を過ごし
そこで自分との対話なのか妄想なのかが行われた
そして、やっとリセットされて11/6のブログになるわけだ

体調が悪くないと慧海は慧海でないのかもしれないw
病気等で気分が落ち、地面にまで落ちてこそ、両足が地につく…
慧海は一人で静かに布団にもぐっている時間が必要なのかもしれないw

その後、寝る時間を増やしたり、歩く時間を増やしたりすることで
慧海の中で少しずつ静けさが戻ってきた

今までは、信心も得られないし仏道も歩けず欲望のままに生きる道に
戻るんだろうかといった不安と、でも、なんかやってるうちに信心とか
獲られないかという変な期待みたいなものがあった

今の慧海は、宿善もない根本的にダメなヤツなんだから、
信心も仏も無く、タダやれることをやるしかない
という地点に立っている

我執がつよくて、ケチで、怠惰で、自尊心の高い凡夫以下なのだ
既に燃え盛る炎は時と共に鎮火し、後生の一大事という感覚も薄れた
もちろん、火が無いわけでもないし、後生の安心はない
なのに、助かりたいと思う気持ちが減ってしまった

既に、昔より楽にはなった
とはいいても、観察を止めれば、慧海は慧海の思いに呑まれて苦しむ
それでも、慧海はココまで楽にしてもらえたので、もういいや…

これで信心悟りの智慧など得られようはずもないだろう

こんな慧海でも、いままでで気づけた事がある
今まで教えていただいたことがある
これからも、教わり、気づき続ける生活はしたいと思う
そして、自分の観察は続けていくしかないのだと思う

それがなければ、普通に生活ができなかっただろう
キチガイの頭で社会復帰はできなかっただろう
今でも頭の中は異常なんだと思う

狂った頭を観察し、感じながら生活するという話を普通の人に話しをしたら
未来や過去とかの不安から気を紛らわしているようだと言われた事がある
普通の人にとっては今より、過去の反省と未来の希望が大切なのだから、
それを妄想としてしまうのは、普通ではないだろう

慧海にとっては未来や過去に思いをはせれば、いらぬ苦悩を増やすだけ
こんな感じで慧海は慧海の理屈でモノを考えているのだ・・・

そんな狂った慧海が慧海のまま、普通に生活する
すぐに期待したり欲望に取り込まれては怒りに駆られる
そんな無明な生き方しかできていないが、観察しながら生きていける

来年もこの身ひとつで、煩悩の林の中で遊びながら
観察から気づいた事を書き留めていければと思う

慧海のための慧海のブログでしかないが、
そこに同じような苦悩を感じたのなら、
慧海の愚痴が誰かのヒントになる…といいなぁw


今年最後に…

講談社刊 五木寛之著「親鸞 下」に「無戒」をこうかいてあった
無戒であるということは、仏法の常識や世間の常識など、それらのすべてにとらわれず自由に生きることをいう。あらゆる習俗、行儀を無視して、約束事にしばられずに生きることじゃ。 P19
慧海は、真宗には戒がない…それは戒が必要ないから とだけ思っていた
この五木氏の表現は、破戒ではなく、無戒ということ…
たぶん自然という事、ありのままという事を表現しているんだと思った
真宗門徒 慧海も無戒の宗派の徒として、自らに要らぬ戒を課せぬようにしたいなぁ

といったところで、本年最後の記事とさせて頂きます
乱文、駄文、長文にお付き合い頂きありがとうございます

来年も宜しくお願い申し上げます
良いお年を

南無阿弥陀仏

2010年12月28日火曜日

リアクションとかコメントとか

慧海のブログにリアクションを付けてくれる人がいる
リアクション主 ありがとう

実にありがたいことだ

この方はどうやらFireFoxを利用しているとログにでていた
アクセス件数がすくないので、たまたまそういう結果がみえた


今日、親会社の元同僚から、コメントがやっぱり入れられないと
クレームがきたw

コメントって、そんなに難しかったかな?
いまだ慧海がテストしたヤツいがいコメントないから
実際にどうなのかがわからないんだよね…

1.記事の下の「コメント」をクリック
2.コメントの記入者 を 「名前/UR」にする
  そうすると名前とURL入力のダイアログがでるので
  適当に名前だけ入れて「次へ」を押す
3.「コメントを投稿」 を押す… あれ?うまくいかない…わかった!
  「コメントを投稿」の前に「プレビュー」を押す
  そうすると文字確認が出るので、文字を入力して「コメントを投稿」を押す

コレでコメントが慧海のところに届くので、気づいたときにコメントを
承認する…てことになっていたのだが、スパム対策が無用っぽいので
今回チェック機能は止めてしまった。なのでスルーで投稿できるはず
… あれチェック機能はずしたら、プレビュー押さなくても
強制プレビューになって、うまくいっちゃった…w



ついでに、スクロールが遅いとかも言われたので、
表示件数を7件から7日分に変更…これで表示量がへるはず…

他にもバックリンク機能とやらをONにしてみたが…
これは無用だろうなぁ~ つかわれんかったら消すとしようw



新年に向けてチューニングしてみけど、元同僚よ
これでどうかね?w
それでもスクロールが遅いのなら、慧海の家のノートPCを買うがよいwww

2010年12月27日月曜日

慧海は鬱病じゃなかった?

岩崎学術出版社 神田橋 條治 著「精神科養生のコツ」

という本を読んだ
会社の同病の先輩の推薦図書だ
1999年5月初版のもので、今は改訂版とやらがあるらしい
お勧めは改定前の本とのことで、ちょうどよかった

この本は体(脳含む)が「気持ちいい」と感じることをするのがよい
という事がかかれている
頭の中でのことではなく、身体を意識しなさい ということだ
そして、脳も身体の一部という事で、心で気持ちいいのでなく
脳として気持ちいいということも書かれていた

その判断としてOリングテストをしてみて判断してみる という
他にも、気功とか漢方とか… 養生という観点で色々とかかれていて
面白い本だった
ただ、実践となると図書館で借りて読んだだけでは、ちょっと難しい
この本で紹介されている養生法を実際にやってみて、自分にとって
それが良いかを判断していかないとならないから…
つ~こって、また借りて読んでみたいと思う

ところで、この本の最後の方に精神科の病気について書いてあった
分裂、神経症、鬱、躁鬱等だ
そして、その判断は厳密にできるものではない とも書いてあった

問題は、そこにそれぞれになりやすい人の傾向とかが書かれていたのだ
それぞれを読むと…

あれ?慧海は神経症か分裂症か躁鬱…またはそれらの複合じゃないか?
どうも鬱病のタイプではないのだよ

よくよく考えてみると、鬱病という厳密な診断はされてなかったか?
休職時の病名は「高血圧症 兼 うつ状態」だった気がする
復職時には学会基準の番号付けされた病名がついていたけど…

う~ん
確かに差のすくない躁鬱はあった
高血圧は仮面うつとかいうが、神経症としての結果??

わからんが、うつ病と表現するのはやめて
精神科患者とでも表現するかw

2010年12月25日土曜日

「西求記」でググると…

西求記 と題してブログを新たにかいて3ヶ月目
先日会社で全休先生のブログをみようと「西求記」でググった
「全休」で検索しても全休先生のブログがみれないからだ

で、検索してみて驚いた
慧海のブログ「西求記」が一番上にヒットした
その下に、全休先生のブログリンクが2件ほど続いている
前のブログではそういうことがなかったから…
まぁショッチュウ名前も変えてたしねw

普通でない名前にしてよかったw

なんて思ったものの… このキーワードで検索するやつも
殆どいないんだろうなぁ… なんて思ったりもした

ちなみに、Yahooでは全休先生のブログリンクが4件ほどでてくるだけで
慧海のブログはヒットしないw



ネタがないので、こんな話で記事を増やしてみたw

最近は1日のアクセス数が一定数をこえると記事を書くようにしている
仕事が忙しくなるとブログもかかなくなるが、
書く時にはなんかしらの心身の観察と整理が入るから
忙しくてもなんか書いてみた方がいい でも毎日はネタ的にむずかしい
なので、ゲーム的に条件をつけてみていたりする

2010年12月22日水曜日

明日死すとも…

2011年だか、2012年だかには
地球滅亡やらこの世の終わりやらがあるらしいw

2011年は親会社の元同僚がそういうテレビがあったと言っていた
2012年はマヤの終末予言だかにあった…んだっけかな?w

それがどうした?

僕らは所詮イツ死ぬかわからぬのだし、
イツ死のうとも構わないではないかさ

来年だか、再来年だかに全員死ぬからと言われても、
日々の生活を変えて過ごすことなんてできない
余命何年と言われて、闘病生活するのとは違うし
闘病生活といっても、死ぬからといってヤケになって生きる訳でもないだろう

何もかわらないのだよ

イツ死んでもよい生活をすればいい とは思うものの
気がかりはあるもの

銀行の口座一覧だとか保険だとかをちゃんと書いておかないと
残った人に面倒をかける
あとは…HDD内のバカみたいに溜め込んだアニメデータを
残った人にあまり見られたくはない
なんとかして消したいが、生きている間に消えてはこまる

世の中全部が消えて、家も潰れてPCもぶっ壊れちゃえば
そういう心配もないのだがねぇ~w

イツ死んでもいいように、身辺整理だけはしておきたいものだな

2010年12月21日火曜日

湧き出る思いにつきあうな

先日、寝る前に急に明日の仕事の準備不足を思い出して
あれこれと考え始めてしまい、苛立ちと胸の苦しさを感じた

苦しいという感覚があると慧海の中では急にスイッチが入ったみたいに
その思考から離れた思考がでてくる事が多い
その夜もそうだった

頭は勝手に思考するもの

その知識はあったものの、その感覚が鈍くなっていたのだろう
久々に、実感として勝手に思考が始まって、それに引っ張られて
思考を継続し、結果苦しくなったという流れが感じられた
翌日も、生活しているなかで頭の中からでてくるものを軽く認識しつつ
軽く思いの衝動に引っ張られる感じをみている

以前は病的な衝動を感知するために、意識を向けて生活していたので
勝手に思考する頭から、頑張ってスルーする感じだったが
今回は、勝手な思考と思いをなんとなく感じて、ちょっと引っ張られてから

ああ、勝手に思考が始まった

っていう感覚でいる
それに気づけば、思いに付き合わされないですむ

気づいたときだけしかわからないのだから、
気づいてないときにはわからない
苦しくなればわかるけど、苦しくならなきゃわからない

でもまぁ頭が勝手に動いていることをわかって感じていれば

俺はこのままでいいのか?

なんて急に思ったとしても、まったく気にせず無視できる

そんな事より「今」が一大事なんだから…

2010年12月20日月曜日

続・不健康だ

いやぁ~ 急に寒くなったねぇ
朝晩のチャリでは耳と指先が冷えて痛いよ

ココ最近、ずっと調子が悪いまま、先日はドックを受診
お腹の不調もあったので、食事を抜いたり少なくしたりしていたので、
公的記録としては内臓脂肪もメタボも、昨年より大幅な体重増加もない
おおむね良好な数値でクリアした
血液以外の診察結果は、治療中の高血圧を除いて良好という結果でもあった

とはいっても、不定愁訴はそんな数値でみつからない

以前、胃カメラ飲んでもわからなかった原因不明の吐き気と胃の不調は
背中の指圧で治った
そして今も胃の調子が悪いし背中も凝っている
以前、ばっちり治してくれた治療院は潰れていて代わりも見つかっていない
プチ断食という手段は有効なんだが、
この時期にやると体があったまらないので、
つい昼にソバとかうどんを食べてしまう
それで胃がいたくなったりもする

お腹がすかないのに食べるのはよくないようだ…

今週は忘年会やらクリスマスやらで飲み食いするんだがなぁ~~

まぁだましだましやるしかないな

肩こりやら、ついでに筋肉痛やらで体中痛いが、
21時半~22時半の間には寝るような生活をし始めてから
疲労感はなんとかなってはきた
寝すぎなのか、熟睡している感じはすくないけど
朝、動けないという鬱的症状はなんとかなっている

そのかわり、平日の趣味の時間がダイブ削られている
あれも、これもとやろうと思っていたことが全然できていない
iTunes いれたり、プリンタ買ったり、年賀状作ったり…
そして、家と部屋の掃除も…

このまま今年は終わってしまいそうだな…
例年なら、この時期に仕事なんて殆どしないのに、今年は仕事もなくならない

こまったもんだ

2010年12月19日日曜日

何もできないのだよ

先日、知人から人生相談というか、愚痴というか悩みというか、
まぁそれっぽいのを聞いたというか聞かされた

困っていることはわかる
そして心の問題なんだろうな って感じた

何かいい事言おうなんて思ったものの、よい言葉も浮かばない

長々と説明する事が必要なのではない
ただ頑張れと励ます事でもない
ましてや否定や助言が必要なのでもない

今のまま苦しんで進んでよいのだよ
嘆く事はない
卑下することもいらない
仲間を羨むこともない

みんな同じように悩んで苦しんでいるんだよ
そこから逃げないで受け入れているかどうか だけなんだ
自分の足で立つということに気づいたかどうか だけなんだ


後になってそういうことを思ったものの、
その場ではただ聞くことしかできない
改めて、先日の愚痴の件だけど…って意見するような間柄でもない
その場の空気とノリでの愚痴なので、その場で一言
気が楽になる事でも言って上げられれば…なんて思うものの…
…その場で一言、なんて返事をするのがよいのだろうねぇ…

・大丈夫だ
・それでいいんだ
・悩めばいい
・みんな同じ

どれも微妙に違うし、相手に届くのかもわからない…

やっぱり、慧海にはただ聞くことしかできないのだろうなぁ

2010年12月15日水曜日

不健康だ

昨日は22時半に寝て、今朝は直行なんで、7時半起き
夜中に何度か目がさめた感じがある
目が覚めて、布団かけなおしてまたすぐねる
そういうことが何回かあったので、イマイチ熟睡感がない

でも早くねたので、すこしはすっきり感がある

肩こり、頭痛、胃の不調、背中のコリ・痛み、唇ヘルペス
おたふくのように首のリンパも腫れている

不定愁訴がいっぱいだ
実に良くない傾向だ


冷えると嫌なので異常な厚着をしてねているのが
夜中目のさめる理由なきはするが…

あとはビールと過食とよく噛まないこともよくない

悪いところを探してブツブツいってみてもしょうがない
出来る事をやってみて、よくなったらそれが良い事

心の問題といっしょだ
色々とやって、苦しさが軽くなったら、それがよいこと
もちろんその場だけの快楽ではなくてで…

一度

僕はもう大丈夫だろう

なんて思って不養生をしていたら、今の結果だ
あぶない あぶない

まだまだ、病人患者
一生病人患者

救われたら患者じゃなくなるのかなぁ…

2010年12月12日日曜日

慧海は自己中w

慧海にみえる世界は全て慧海によって歪められているという認識をしている

日々の出来事が気に入ろうが、気にいらなかろうが、それは全て慧海のせい
どこかの誰かを恨むのは筋違いであり、どこかの誰かがなんとかしてくれる
と期待するのもちがうと思っている

だからと言って、慧海の理想どおりに物事はすすまないのだが、
理想どおりにならない要因の中に慧海の思考があるのだと思っている


全ては慧海の世界の問題だったのだ


それに気づいてわかったことは、逃げられない ということ

慧海はいままで逃げて生きてきた

ネガティブな逃げはもちろん、ポジティブにも逃げの精神だった

後輩より仕事のできる先輩でなければプライドが守れない
だから勉強もしたし人より多く考えるようにもした
さらに、人のやらない分野を選んで仕事をした
だれもやらない事を早めに始めれば、その分野じゃ先行逃切りができる

もちろん、嫌なことから逃げてのサボりとかは子供の頃からだ

逃げてごまかして…

そんな自分をしっているからこそ目をそむけ、プライドばかり高くなる
真剣にやりきった事がないから、自信というものがない
不安を隠すかのように自尊心ばかり育つ


いまでもそんな心がなくなったりはしていないが、
それが慧海が作ってきた慧海の姿なんだから、そこから逃げる事はできない
それを否定して逃げる事なんてできないのだ

慧海の歪んだ自動思考は気づきさえすれば一時停止ができる

また逃げようとしている
またごまかそうとしている
また大きくみせようとしている
また周りのセイにしようとしている

そんな思いから逃げないし振り回されもしない

全部が全部、慧海の世界での出来事

慧海の外に世界はない
慧海の中にある世界は慧海が作っている

どうやったってこの世界からは逃げられないし逃げちゃいけない
だから慧海は外に佛を妄想することも拒否する
外にある佛に頼れば慧海はまた逃げ道をそこに作るだろう

自分の外を妄想し、外に意識を向ける事は妄想に逃げ込むことだ
他人も会社も世界情勢も全部外のこと
慧海の生活基盤には関係あるかもしれないが、慧海の精神活動には関係ない


同様に、未来も過去も妄想だ

妄想をするから楽しくなったり苦しくなったりする


とはいっても、妄想はとまってくれない
頭がかってに妄想するんだから…

だから妄想している自分の頭をみて、妄想によって心が動く姿をみていればいい

慧海の過去表現ではマゾな受身姿勢で、なるようになっていく姿を見続けるだけ
妄想に逃げず、今を見て、あるがままを受け入れていくしかないと思うとき
ああ、宿業なんだな と感じたりもす
それは、外に刺激を求めて生活していた頃よりも、刺激だらけの日々…

慧海は慧海のまま、どこまでも慧海と共に…


真理とやらも慧海の世界を見続けることで見えてくるんだろう
と慧海は思っている

2010年12月11日土曜日

最近のまとめ

いまひとつ仕事が暇にならない

期限ギリギリでの見積もりだとか
よくわからんデモの依頼やら自己顕示的なプレゼンやら…

ついでに忘年会も始まりだして、なんだか忙しい気分

ってなもんだから、その場その場の反応はみていても、
ゆっくり反省して、ブログを書くこともできやしない

今のところ、自分に振り回されて要らぬ行動や言動はしていないっぽい
YesやNoを自動思考の判断にまかせてはいないっぽい
ただし、飲酒をしていない時は…という限定はつく

最近は、外で酒を呑みだすと過食傾向にあるようだ
飲みすぎるというのもあるかもしれないが、感覚的には胃が重い
もう食べられません という状態になっている
酔った感覚の目がまわるとかよりも胃が拒絶する
酒が途中で呑めなくなるのは今でもあるが、食べ物は止まらない
当然食べすぎになって…リバース ってことになる

家で食事している分には問題ないが、家族で外食しても
なぜか食べ過ぎる
酒は家で呑む量とかわらないのに、過食はする

家でも晩飯が過食気味な気はする
食事を始めるまでは軽くでいいや と思うのに
ちょっと食べてビールを呑むと、もうちょっと食べたいという
気になって、ついつい食べてしまう

先日、子供が風邪を引いたので、晩飯が鍋焼きうどんだった
その時はそれで満腹になったし、ビールも350缶1本で十分だった

あったかく塩分のあるいっぱいの汁物と炭水化物…
そして体があったまった状態

慧海が満腹を感じるのに必要なのはこれなのかな?

胃が冷えている

確かにそんな認識はある
そんな状態で冷えたビールを食事の前に呑むからダメ?

でも夏あたりでもダメだったような気が…

体の反応と食事への欲求の感覚が認識できるまで
しばらく外での飲酒は控えないとダメかもしれないなぁ

飲んだら自制できてないんだから…

つ~こって
最近の反省でした

2010年12月7日火曜日

ああメンド・・・

凡夫に布施はできないねぇ
慈悲の心で行動なんて慧海にはできない

オレがワザワザしてやった

そういう感情が必ずついてくる
そういう思考の続きは大抵

ここまでやってやったのにあいつは

となってくる

慧海が勝手にやっているのだから相手がどういう
選択をしようとも文句をいうのは筋ちがいだ

なんて風にはなかなか思わない

一歩引いて、最低限のことだけしていると
してやったのに って事にはなりにくい
そのかわり、世の人々と距離を置くことになる

人の世で恨み妬みと喜びと自慢にいきるか
そことは違うレイヤーで自らを守って静かに生きるか

そういう選択が必要なのかねぇ

釈尊は人から離れない道を示したともきくがねぇ・・・
世と人と接すれば、汚れた自分がみえやすいからか?

実に騒がしく鬱陶しいのは世じゃなくて自分なんだけどね

2010年12月6日月曜日

英語の浄土真宗

真宗教団のカレンダーには日本語と英語で
一言かいてある

そこに Mahayana Buddhism という言葉があったので
調べてみたら、大乗仏教 のことだった

じゃ、浄土真宗はどれだ? と思ってカレンダーをみると

true essence of Pure Land (path?)

という文字が見られる

true essence なのか… とおもいつつ調べてみたら、

True Pure Land Buddhism とか Shin Buddhism

という言葉が見つかった

ちなみに、Pure Land Buddhism が浄土教 だ


海外の人に日本仏教はどう見えるのだろう…
きけるものなら聞いてみたいものだ

2010年12月4日土曜日

もう12月だった

11月は仕事がそれなりに忙しく、
日々のスケジュールをこなすだけで終わった

気が付けばもう12月

街はクリスマスイルミネーションに飾られて
楽しげな雰囲気をかもし出す

土日の休日は…大掃除と買い物でなくなるだろう

日ごろ掃除をしていない所を実にきたない
網戸やら換気扇やら…

こういう所ほど、きれいになると目に見えてわかって
達成感がある


日ごろ触れていない心の奥底も光をあてたら
汚れが際立つんだろうねぇ

光があたったら、達成感があるのかねぇ~

2010年11月30日火曜日

なんでもないのだよ

そのままで、いいじゃないか

慧海が慧海にならなきゃ、誰も慧海にはならないよ

そのままの慧海で全てを受け入れれば

何も特別悩む事も無いじゃないか


普通に悩んで、普通に苦しくて、それで楽しんで…

もだえ苦しみ、否定して死にたくなったりすることもない

なんてことはない

ちゃんと逃げないでいれば

なんでもないことだったんだよ

2010年11月29日月曜日

リアクション機能

リアクションという機能があるという紹介があったので付けてみた

選択肢は何がいいかに悩むところだが…
とりあえず、こんな感じにしてみた

これってどんな結果になっているかをまとめてみれるのかなぁ?


次は、アフィリエイトしてみようかなぁ
楽天からガジェット系とか本を紹介してみようかと思う

そんな感じ

追伸:

をを!
だれかリアクションしてくれた人がいたよ
予想外だったので驚いた
リアクション主 ありがと~~~

2010年11月28日日曜日

それしかない

慧海に信はない
信仰心もない

だからこその念仏の道だと思いたい

どこぞやにいる阿弥陀様とやらがなんとかしてくれるとは思っていない

慧海が慧海を救わずして誰が慧海を救うんだ?

それが慧海の努力でなせることではないとは思うが
誰かに助けてくれと願って助けられるとも思っていない

…いや、助けてくれと願えば助かると思っていた時期もあった
でも、色々としているうちに、それは違うと思うようになった

誰かがなんとかしてくれたりなんてしない
自分の問題を解決するのに外に何か求めてもなんともならない

なので、外にある阿弥陀様とやらがなんとかしてくれるとは思っていない

事件は現場でおきているんじゃない
事件は己の頭の中でおきているんだ


それでも念仏往生の道はあると思いたい

矛盾しているようでもあるが、慧海の色々あった中の一つには
弥陀仏は慧海の中にある というのもあったりする

屁理屈をこねるならば、慧海の自我が空じられれば、
それは慧海ではないのであろう?
空である間だけでも、それは阿弥陀如来なり大日如来なりであろう?
であれば、慧海の中の弥陀仏が慧海を救うのはあるかもしれない
慧海も未来において無上仏…


でも、自我を空じる事ができなきゃダメじゃん
それができてりゃ、とっとと彼岸に渡っているんじゃね?
慧海のしってることで言えば、念仏、懺悔して、
慙愧の念で過ごすことで自我はちょっと静か って事くらいか…?


だとすれば、ただ念仏する以外に何があろうか

2010年11月27日土曜日

気づけば楽なのだよ

欲望一杯で元気に日々を過ごしていると
色々とまわりに期待をしまくっていたりする

偉いんだから、この位はやってくれないと…
あんたの役割なんだから、やってしかるべきだと…

そんな思考をしていることに気づかないと
何で俺がこんな事すんだよ って思ったりする訳だ
この世で最も大切な俺様が他人様の怠慢のセイで損をする と…

俺様はいったい何様だ?

他人様にどうこう言えるような自分でないことがわかっていれば
身を慎んで、なるようになる事を受け入れていくしかないと気づかされる
自分にできることをタダ行うしかないのだと思い知らされる

俺様の為でもなければ、他人様の為でもない

ただ行う

それだけの事だとわかっていれば、それ以上でもそれ以下でもない

2010年11月24日水曜日

今日も不満がいっぱい

色々とイラつく事が多くてイラつくよ

あいつも、こいつも、自分の期待通りにならないからと
文句ばっかいいやがって…

って、そういう慧海もまた、期待どおりにいかないからと
イラつく一人であることがまた腹立たしい

理想どおりにいかないこの世のヤツらなんて、みんな死んじまえよ
そして、そんなこと考えてる俺も死んじまえよ

核だかなんだかで、一瞬のうちにぱっと世の中が消えちゃえばいいのに…


って、自我の下僕たる我々は、世の中を逆恨みして
全部を外部のせいにして、誰かがなんとかしてくれると依存して
生きているのだよ

それを反省したとしても、やっぱり自我の下僕たる我々は
全てを自分でなんとかできると努力し、その末に努力と能力不足を嘆き
さらなる強い自分になろうと自己啓発系本を読んで益々自我を強くする

自己啓発本には、以前から坊さんの書くものとか、仏教エッセンス
や心理学といったものも多々あるわけだが…
そんなのよんだって、結局不満は解消しないのだよ

残念ながら世の中は不満だらけ
慧海も不満だらけ

虚無主義的な慧海は、この不満を生み出している慧海の思考を
ただただ嘆くのみ

2010年11月22日月曜日

風邪がやっとなおってきた

風邪をひきはじめて3週間
いまでも、喉やら鼻やらの調子がよくない
それでもやっと治ってきた感じだ

ふと思い返すと、風邪引く直前は
やたらに寒いと感じていた
下っ腹が寒くて、腹巻を二重にしてみたり
寝具の重ね着をしてみたりしつつも
それでもなんか寒かった

先日呑みすぎて帰った日には
布団に入っているのに寒気がして
かるくふるえを感じた
体温を測ってみても、熱があるわけでもない
あまりにも寒くて、電気アンカを引っ張り出して、
背中やらお腹やらにあてて体を温めるくらいだ

今朝はやっと体が寒々とはしてなかった

ふと思い返すと、昨年くらいまでは冬の朝や異常に寒い思いをしていた
異常な冷え性状態だったのだろうか
夏もクーラーで背中とかを冷やしては、胃の調子を悪くしていた

風邪も鬱も冷えの病気と中国医療ではいうらしい
今年はやたらに風邪をひくのも、昨年に比べてウォーキング量が減って
ビールの量が増えたのと関係があるのかもしれないw

そして、この時期は日照時間がすくなく、冬眠状態になり
体も脳もペースダウンをする

冷えと冬眠と…

体の反応のままにしておくとまずいので、
積極的にお日様の下で、散歩とかしないとヤバイのかもしれない

2010年11月21日日曜日

まぁいいや

悟りたい
信心を獲たい

仏道を歩もうと思えば、やっぱりそれが欲しい
それがないとスタート地点ですらない とも言われる

そういうものなのかも知れないが、それすらわからない
わからないから知りたいと思う
でもそれが違うともいう
あれやこれやと頭で考えてもしょうがない

そして思った


悟れなくてもいいや

この身とお別れするまで、この身に起こることを
タダ見続けてすごすんでいいよ

今、ココにある慧海が、慧海の全てであり、それ以外は妄想
今の慧海に気づいていればいい

いまはそれだけで、十分な気がする

だから悟りとか信心とかを求める思いが妄想に思えてきた

だから、まぁ いいか と

何かあれば、どうにかなんでしょ
ヒントは既にいくつも頂いてきたのだから…

2010年11月18日木曜日

歯車

僕らはこの世の歯車だよ

誰かに回されて、また誰かを回す

それだけの事だよ

だから、俺がまわしたんだ なんて事はないし、
あいつのセイでこうなった ってのもない

僕は僕であって、僕でない
僕は全で、全が僕だったんだよ

ただ刻々と回ってりゃいい

2010年11月17日水曜日

自分の価値

サラリーマンしてると、期末から期初にかけて先期の
成果を書いたりすることがあると思う

それを書いているといつも思う
自分が役にたっていない ということを

期初に書いた事をちゃんと達成したことなんて殆どないだろう
他の人がどうだかはしらんが、少なくとも慧海はダメだ

それでも期末にやったことをむりくり成果として報告するんだが…
内心、これがバカらしくてしょうがない

で、ふと思った
今までの人生の成果報告を考えてみたら、なんの役にもたたない
そして、迷惑な人生を歩んできたものだなぁと
軽く考えてもそうなんだから、もっとまじめに振り返ってみたら
自分に価値などないということが思い知らされるんだろうな

内観道場とやらで反省しなくても、自分の反省はできそうな気がする
毎年期初の振り返りの頃に憂鬱な感じで自分の価値を大いに下げるように
人生の振り返りをして、自分の価値が無い事を正しく認識しておきたものだ

2010年11月16日火曜日

おちこぼれの心理

目的を達成した人
課題をクリアした人
ゴールに到達した人

こういう人たちは、一様に早くここまでおいで という
そこに到達した人は、手をだしてゴールに連れて行くことが
出来ない事も知っているのだろう。
だから、がんばってここににおいでというのだろう。

だからさぁ…
そこにいくにはどうすりゃいいんだよ

おちこぼれかには、そうしか思えない

妬みつつ、あきらめるやつもいるだろう
あこがれて頑張るやつもいるだろう

結局、自分でどうにかするしかないのかもしれないし
自分じゃどうしようもないって気づいた時に達成するのかもしれない


昨今、成果主義の社会なので、結果で評価だ って言葉をよくきく
実際に一緒に仕事すると、プロセスがめちゃくちゃな人もおおい
それでも結果を出すヤツもいれば、
プロセス良くても結果が出せないヤツもいる

どうすればいいかは当人にはわからない
でも、わかっている人にはわかっている

人を育てる事も、人に育てられる事も一様に難しい…

2010年11月15日月曜日

体調が悪いと…

体調を崩して、2週間とかになってくると
お約束的に、苛立ちと憂鬱さに襲われる

二週間分の土日がつぶれ、散歩も殆どしない
だるくて眠る時間が増える…

そして、部屋が散らかっている…

部屋の散らかり具合は心(頭)のちらかり具合 という

体調を壊すと、精神的にもすっきりしなくなるのだよ

因果業報 なんだな

2010年11月14日日曜日

仏さまは2次元

先日、子供が「仏様とかいって2次元みたいなものになんで頼る必要がある?」
みたいな事をいっていた

なかなかに面白い表現だ
仏とは智慧の事だ なんて理解のしかたは普通はないので、
アニメとかの空想キャラとかわらない訳だ

小学校高学年になると、神様仏様に感謝 みたいな子供っぽさがなくなるね
そしてだんだん中二病になって世の中全部バカに見えてくるんだよ
で、だれかと衝突したり失恋をしたりして、だんだんと見えてくるものがでてくる
それでも自分万歳で頑張って…ある日気づくんだよね ソレ に…

人ってのは同じ事を永遠と繰り返すんだね…
自分が一番バカであると知らないバカがあふれているこの世はバカばっか
→と言う慧海がバカ


某学会さんの新聞がご近所付き合いで家に届くことがある
彼らはこれを仏教というのだから、すごい事だよ

僕の勉強した仏教は
諸行無常、諸法無我 って事が書かれているんだけど、その新聞は
自分を信じて努力すれば何事もなせる とか
不変 だとか、永遠とか そういう言葉があふれていた
そして、笑顔の若者たちの写真が載っている…

真 では、偶像としての佛と死後の安楽を
禅 では、輪廻と、自分磨きをする事を見てしまいそう
難しいよね

お経というのは、暗号みたいなものだと思うときがある
暗号化された虚像の仏教はだれにでも見やすいが
そこに残してある教えを正しく学び、実践する ということはとても難しい

虚を実だと思って、言葉通りに信じてみたら…宗教教団の兵隊になっていた
なんてことにならんとも限らないように思える

この信ってことばだって、通常の信じる って言葉と違うんだから…


今日、サンタクロースってどうやってプレゼントを買うの?
って聞いてきた
なので、メルヘンな説明をして、そして、サンタクロースも2次元なんだよ
 っていう答えをしておいた
サンタクロースを信じれない人にはプレゼントは来ないから、今年からは
親がプレゼントを買うから ということになった

自我はどんどん育っていく

2010年11月11日木曜日

自営業さんの修行ブログ

全休先生の所にリンクされている「あるがまま・そのまま」というブログを、ちょくちょく見させてもらっては刺激をうけてます
で、慧海のブログのリンクにも勝手ながらリンクさせてもらいました

全休先生や亭主師は渡っちゃってる人ですが、そのブログ主である自営業さんはご同行って感じで同じように自分と向き合っている方です
慧海が怠けているときに、自営業さんが聞法を続けている記事を読むと、なんかヤバイなって思ったりする

自営業さんは、あの「聞法の方法」をかかれた井上さんとやり取りをされているらしく、井上さんの言葉がちょくちょくでてくる
やっぱり渡っちゃった人の経験に基づく言葉はシンプルで強く、あるいみわかりやすいと思う
自営業さんがもっている井上さんの言葉をどんどんオープンにしていってもらえるとご同行としてはうれしい


皆さん 50 Overな人たちなんで、若造慧海ではわからない世界を見てこられたのでしょうね…

慧海は慧海のペースでゆっくりするしかないよう なので

2010年11月10日水曜日

損得

慧海はこの損得という思いを超える事ができないでいる

それでも色々と反省して、損しなきゃいい程度にはなった

損か得かはあとでなきゃわからない
その場で得だと思って何かしてみても、後になったらもっと得できたとか
結局損する事になった ってなると、やっぱり腹立たしい

得しようという思いが強ければ強いほど、苦しむ事になる
じゃ、損得を完全にすてて、どうとでもなれ とできるか…
ってのも、今の慧海にゃ無理
何かを選択するときにの判断基準の一つには、
やっぱり損得の問題を考えてしまうのだ

最近思うのは、損はしないようにしよう という基準
仮に他者からみて損な状況にあっても、
本人が損したという思いがなければそこに苦しみはない

この支払いでコレが得られるのであれば妥当としよう
仮に期待はずれでも、まぁこの出費ですめばよしとしよう
まぁなんかあっても、支払いに対してココまではなんとかなるから大丈夫だろう
って感じだ

損か、得か なんてわかりゃしないことなのは 理解はしているさ
それでも出費せにゃならんとなると、日々アクセクと働く小僧としては
少しでも無駄な出費をしたくない

な~んて色々と考えておきながらも、
解約忘れた保険だとかで無駄に出費してたりするんだよね

家のローンだってリスク気にして固定金利にしたら
8年で200万しか返済できてないよ… 10年固定だったらもっと返せてた…
とかまぁ 色々損得考えても、思い通りになんぞいかんのだよ

カードの1%ポイント貯めてお得感を得ているくらいだからね

ソコに頭使うなら、何千万のローンの見直しとかした方がよっぽど
出費が減るんじゃないかねぇ

所詮愚か者は、目の前のエサの量で損得ケチつける程度 ってこった

2010年11月9日火曜日

過去記事も一ヶ月

ついでに、過去記事のアクセス記録もみてみた

10/15 に 163件というアクセスがあった
だれかが片っ端からクリックされたのかな?

あとはスパムコメントが6件と自動駆除が11件あったw
コメントできないような設定にしたはずなのに…
おかしいなぁ…

過去記事は日に10アクセス程度あるらしい
なにかでちょこりちょこりとヒットするようだ
まぁ以前からそのくらいの迷子さんがいたので、そういうもんらしい

そっちは検索のキーワードとかがでてるのだが
どういう事に関心があるのかがわかって面白い

こっちは…検索ワードはよくわからんが、そもそも
Googleとかから飛んでくるケースがまずない
なので、日に25人ほどいらっしゃる方々が不思議というのが慧海の感想

あ、そういやぁこっちはスパムコメントすらないねぇ
親会社の元同僚がコメントかけなかったって言ってたけど、
コメント禁止設定にはしてないんだがなぁ…


さて、2回分アクセス記録で記事ふやしたので、次は普通に記事かこうかな

2010年11月8日月曜日

一ヶ月たってた

このブログに引っ越して一ヶ月がすぎていた
LiveSpaceと違って、統計がとれていて面白い

一ヶ月で19記事投稿で、900View強
1日の最高値は57View
だいたい20~25Viewあたりが現在の平均って感じだが…

ちなみに全休先生のカウンターをみると、
2ヶ月で1.1万View となっていた

全休先生のところから来ていただいた方が150View強らしい
他のリンクもないし検索でもないっぽい
慧海の旧ブログからきた方は2Viewしかないw

いったいどこからいらっしゃるのだろう???


まぁとにかく、ひと月

だらだらとした駄文に付き合っていただいた方に感謝!


もっと短く、まとまった言葉をかきたいものだなぁ

2010年11月7日日曜日

善悪

どうせこの世はなるようにしかなってない
慧海がどうこうしたから、どうにかなったりしてはいない
じゃ、どうこうしても一緒だから何もしない って事じゃない

どうにもならんところで、なんかして、
予想のとおりにいったらおもしろいじゃないかさ

ただそれだけの話さね

どっちに転がろうがかまわぬ話なのだよ
こっちがいいとか、こっちがわるいとかが無いわけじゃないけど
じゃ、どっち?となれば、それもどうでもよかったりする

善でもなければ悪でもない

落ち着いて見てればわかることじゃんかさ

で、なにもしないでみてもいられないから、どっちかえらばにゃならん
平社員は自分の手足しか動かせるものないからさ

じゃ、面白そうだったり、楽そうだったりするのをやりゃいい
見得とか欲とかでてきたりもするけど、そいつらは相手にしないんよ

面白いとか楽とかって事になると、自分の経験だったり考え方だったりするんで、一概にコレとは決められないんだけど、他人には難しいものが、自分には楽だったりする事も多々あるわけだわさ
本人楽でも、他人からみりゃ大変な仕事にみえるってこと

まぁ、そんな感じでのんびり楽しくすごせばいいじゃん

でもね
意識しわすれると、この体は勝手に動いてるから注意せんとね

チャリの鍵や財布をどこにしまったかわからない
飲み会の2次会でお金をいくらはらったか…そもそもはらったのかすらわからない
エアコンとめたか?給湯器とめたか?家の鍵しめたか?

これらが常にわかってりゃ、誰に何をいってるかとか、体がどういう反応してるかとか、もちろん、自分がなに考えてるかとかが常にわかってるんじゃないのかねぇ?

正解はしらんが、コレが今に気づいている ってことなんじゃないのかなぁ?

これがわかってるだけで、慧海のような凡夫は、日々が楽さ

幸不幸の起伏がきえて、1点分苦しくて 1点分幸せ みたいな感じ
頭の中が騒がしくて、日々刺激にあふれているから、退屈でもないしね


慧海には何一つできやしない
それでいて、なんとかなって、慧海がしたことになる

それもコレも、慧海の預かりしらぬこと

ただ慧海はあそんでいただけ

2010年11月6日土曜日

風邪

また風邪をひいた

喉がいたく、唾をのんでもいたいので、
ひきはじめて4日目で病院にいって薬をもらった
薬を飲むと痛みとかは和らぐが、
体の調子は全体的に悪くなるきがする
だるくて、眠くて…

薬を飲んでも飲まなくても、風邪は治る
体がそういう風に動くのだから
ただ、うがいやら、体温やらにきをつけておけばよいだけだったりする

でも、喉がとても痛かったり、セキで眠れなくなったりすると
症状を和らげるために、薬を飲んでしまう
自然医療好きとしては、西洋薬を飲むのは嫌いだ
とはいっても、現状に耐えられないのだからしょうがない


悩みがあっても認識だけして、ほっぽとけば解消したりする
ほっぽっとかなくても、やるべき事をやればいいだけだったりする
でも、なんとかしたくなって、悩みをこねくりまわしたりする
そして、こねくり回したことで、また悩んだりする

慧海は最近思うのだよ

悩みをほっぽとけるならほっぽっときゃいい
ほっぽっとけずに、こねくりまわしちゃったのなら、またそれでいい

薬を飲もうが飲まなかろうが、どっちでもいいのだよ
風邪が治ろうが治らなかろうが、どっちでもいい
…いや、治って欲しいんだけど、でも治らんならしょうがないじゃないか

また風邪を引いた
きっとココ最近の不摂生に因があるのだろう と思う
だからといって、どうしようもない

歩きたければ歩くし、酒を呑みたきゃのむのだよ
おもちゃが欲しけりゃ、調べ回って飛び回って買うだけ

この世は遊んでいれば、楽しいよ
風邪を引いても楽しいよ
仕事でちょっとムカつくメールがきても、まぁ楽しいよ

腹が立てば、自分が相手にどう思っているかがわかるし
何かを欲すれば、自分の欲の際限のなさとちっぽけさがわかる

僕の周りの出来事なんて、風邪を引く程度の出来事だよ

自分でなんとかしょうと思い、自分でできた気になれる、
そんな程度のことしかないのだ

全ては慧海の心に写る現象

また風邪をひいた
薬を飲もうが飲まなかろうが、どちらでもいい

2010年11月1日月曜日

欲望いっぱい

0円携帯をGETするために色々と勉強した
そして、ミッションコンプリート!!

いや~
バカみたいな半月だわさ
自分の携帯さがしにいって、
子供用携帯を0円CB1万円でGET
色々と調べているうちに、別のヤツを0円GET
そうしたら、新規はもう契約できないってリミッターついちまった
で、MNPのテクニックやらなんやら調べて、結局家内に子供分を譲渡
という手続きなら費用も時間もかからず出来る事がわかって、急ぎ譲渡
その間、狙ってた製造中止モデルが大手で0円大放出…
在庫のあるところは1万円以上するし…

でも手続きおわらないと、新規の審査とおらないし…
でも、家族間譲渡は1日で処理完了と話をきいて、急ぎ予約に走ったが
大手は在庫なし との回答

だめもとで、0円情報をもらってた、片道1時間半かかる土地のショップに電話してみたら、明日入荷分があるから予約OKとのことで、無事0円入手
定期がうまいこときいて、片道330円ですんだのでまぁよかった
さらに今回は、郵便局の代行なんちゃら をつかったので後日2000円分のギフトブックが届くらしい

前の2台にも使えなくはなかったんだが、その時には情報不足で手続きをどうしたらよいかわからんかったんだよね~

ここ何年もPHSだったんで携帯購入は家内の分買うときにしかみてなかった
それも機種変だからどこで買っても殆ど変わらんしで、昨今の携帯購入事情がよくわからんかったんだが、今回少し理解した
やっぱ電話に何万もだせんよね
2年後または4年後にまた考えよっと

その前に、今のPHSを1万の解約金はらってやめるかどうかを考えねば…
新しいのでランニングも安い状態で入手できたからね


しかし、購入は始まりにすぎなかった…
スマフォは入手してから育てないとまともに使えないのよ~

今のPHSも育てるのに時間かかったんだが、今回も同様だ
メールやらなんやらも含めて持ち歩いて使えるようにするには
もうちょっと時間がかかる

こんどのヤツはMicroSDが簡単に引っこ抜けないから、ファイルコピーする方法だってなにか用意しないといかんし…

欲望と怒りが生まれて、満たされて消えて、また次の欲望と怒りが生まれる

こういうことを輪廻とかいうんだよね?w
苦しみから抜け出られるはずがないわな
苦しみを自覚できなくなったら、慧海はおわりだな~

2010年10月30日土曜日

わからぬなら黙れ

「わからぬなら黙れ」

という感じがしたので、数日黙ってみた

全休先生の昔の記事で、自力の1階、他力の2階 というような話が書かれていたことがあったのだが、1F をしっかりしないと、2F にはあがれんのだ というような話で、1Fの自力宗派がしっかりせんから、他力宗派の真宗が自力もやらにゃならん とか書いてあったように思う

慧海はまだまだ自力

自力たって、何かできてる訳じゃない
できやしないけど、何かしなきゃどうにもならない
だからやる

それだけの話

わかった人には、他力がわかるようだ
他力を感じれるまでは、自力の世界をがんばるしかない

中途半端に自分の思い通りにはならない事を知ったので、
昔のように自己実現とか言って、自分創造はもうできない

適当に逃げて、得意な仕事をさらっとやって、思いを放置する訓練でみにつけた、思いにのまれない感覚を処世術に面倒な仕事もそれなりにこなす
あとは趣味の時間と酒飲み時間で日々をすごす

そんな堕落生活を送っているのだから、自力の極みもわからんだろう

それでも、自分をみながら生活するしか ないのだよ

真理なんて、なにもわかりゃしないけど
自分の中にある勝手にうごくものを勝手にさせとくこともできんのだよ

足跡くらいは追い続けていかないとね

2010年10月26日火曜日

仏を妄想しないように読む

全休先生の「仏が見ておられる」に
一念とは一瞬の体験であり、信心を得るとは智慧が生ずることです。智慧とは煩悩が見える眼であり、むこう側からこちら側を見る眼で、凡夫に属する眼ではありません。憶念とはわたしを見る仏の眼の中にわたしがいるということであり、わたしの眼でわたしを見るのではない。よって、わたしが仏を忘れようと、仏はいつもわたしを見ておられます。
とあった

を、これは慧海への回答か?なんて思ったりしつつも、
この手の言葉は読み手の力量を問われているように思える

何が力量かというと、仏を妄想しないで読めるか という意味での話だ

仏の眼とは?
仏はいつもわたしをみておられるとは?

そのまま読めば、自分の外に仏なるものを想像し、
その仏の眼の話をしているように読めてしまうだろう
それでは、仏道ではなく外道となってしまうのだそうだ

じゃどう読むのだろうか
先生の過去の記事にあるように、仏を智慧と読むことで、「仏の眼」とは「智慧の眼」と読みかえられる
じゃ、智慧がいつも私をみてる というのはなんじゃらほい?
それは、その上の行にあるように「智慧とは煩悩が見える眼」と書いてあるのだから、「煩悩が見える眼はいつもわたしをみている」ということになるんだろう
じゃ、仏は何をみているのか…そりゃ、煩悩の見える眼でみえる私とは煩悩以外にないではないかw
煩悩とは、三毒やら分別知やらと読み替えられる訳で、端的に言えば慧海のような凡夫以下のヤツの心のことなであり、ああ、慧海のことか! とか思ったあなたの事だ!w

そうするとなんだ、「わたしが仏を忘れようと…」ってことは、自我としての私が煩悩を見る眼を忘れようとも…ってことになってだなぁ… これまた先生の過去記事にあるように、見られる私(自我?)から見る私(真我?)になるってことで、私が私を見るのではなく、私が私を見るのだ って言葉は一緒じゃん!w

信心の獲てないヤツは仏道を語る資格がないんで、
そろそろ黙っとけつ~こった

まぁ油断無く自分の心をみておけ って事しかできんのだよ!
今の慧海には私の目で私の心を油断無くみるしかないってこった

慧海のあたまにゃ、
仏に逢うては仏を殺せ 祖に逢うては祖を殺せ だ!



…やっと届いた、わが名を称えよ を読みながら聞法しようっと

2010年10月25日月曜日

知らない事が腹立たしい

昨日の記事を書いたあとに気が付いた

既にそのモノが欲しいのではなく、そのモノを期待通りに入手できない事に執着している自分の頭があった

仕事をしていて問題が発生した場合、問題を解決させる方策があればそれを実施してみて結果をみればいいと考えられる。しかし、その問題をどうやって解決させるかがまったく思い当たらないとなると、その問題は何が問題であるかから理解してからじゃないと問題解決作業に入れないのだ

よく上司とかには、余計な事を考えないで問題となっている現象を回避させるように仕事をしろといわれたのだが、1足りないから1足した みたいな対応は問題を解決したことにならないと思っているので納得がいかないのだ

で、物欲の話に戻すと

どこのお店でも同じ商品を同じ値段でしか買えないのなら悩まない
世の主婦の方々が、近所数箇所のスーパーの品質と値段に悩むのは
同じものが同じ値段でうっていないからだろう
そこに、損得の感情がのり、時間と労力はタダという感覚から
数件のスーパーをはしごして、肉と野菜を別々にかったりするのだ
この場合、どこのスーパーに行けばよい というのが解決方法だが
このスーパー情報がないと求めるモノを獲る事がむずかしい

慧海の物欲もにたようなもの

わが名を称えよ は そもそも売ってない
そういう売ってないもの 売り切れているものを買うとなると
定期的に情報検索をしなければならない
情報がみつからないと、長い時間ネットであれこれと
宝探しをすることになる

他にもPCやら家電やらの機械類は、特価商品がでる
それを探すしかないのだが、これもタイミング
機械類は、そもそもの規格がわからないとドレを買えばいいかがわからないので、それを勉強してからじゃないと、判断ができない
なので買う前に勉強しなきゃイケない
そんな中、安い! という商品がでたりすると、あせるのだ

最近は携帯電話を買ったりもしたので、これまた悩む
携帯はプランやら買換えやらで値段が全然違うし、メーカ色もそれぞれ違う
ミスれば2年縛りがまっているのだから、余計に悩む
長年つかうメリットがなくなった最近の携帯なので、2年毎に継続するか、他社切り替えするかを悩まないといけないのだ

ドコモはSIMのロックをなくす とかいううわさもあったので、端末とSIMを分けて考えられるようになるのかもしれないが…

そんなわけで、知らない状態で世間様のお得情報に振り回されて、あわあわ と踊ってしまったが、段々わかってきたら、手を打てそうなので落ち着きだしてきた

慧海は、分別の虜だなぁ

ところで、慧海の わが名を称えよ が届かない…
23日に発送し、一両日中に届くだろう というのだから今日位にきてるかとおもったのだが… 明日には着てくれるだろう…
わからない ということは不安である ということ
わかろうとしなけりゃ、不安はなくなるのになぁ

2010年10月24日日曜日

物欲が止まらない

欲しいモノができると、頭の中はいつも大騒ぎだ
いかにして得をしようかと頭はその事ばかり考える
手に入れたら手に入れたで、期待と違っていたりして
また大騒ぎだ
認知的不協和を解消させるため、あれやこれやとまた考える

欲する心を相手にしなければ、とても楽なのに…

わかっているのに、一度欲しくなると止まらない

今買うのが安いのか?
一ヶ月まったら値が下がるのか?
それとも在庫がなくなって逆に値があがるのか?
ドコで買うのが一番安いのか?
どこにその情報がある??

そんな事ばかり考えて、段々と
今動かないと損をするんじゃないか?
って気になり、何故それが欲しいのかじゃなく
どう買うかが問題になってくる
目的と手段を取り違えてしまう
それどころか、正気すら失ってくる事すらある
手に入れるまでは落ち着いて過ごせない

これは実際の買い物の話ばかりではない
評価であったり、機会であったり、改善状態であったり…

だんだん強迫性障害の状態に近くなっていく


僕が手に入れるべきものは、向こうからやってくる
向こうからやってこなかったのなら、必要のないもの

そう考えて過ごしていた時期は実に楽だった

世の中は、何かにとらわれたら最後
自分で抜け出すまで生死をくりかえす…

2010年10月23日土曜日

聞法は大事

全休先生の記事「無念無想で生きている」の
わたしたちが“自分”だと思っている思いや感情は自動機械のように自然に湧いてくるのであり、「全くわれわれが考えてやっていることではない」。自然に湧いてくるのだから、わたしの努力の結果でもなければ、自由意志で起こしたわけでもない。わたしたちは自由意志というものをかつて一度も起こしたことがなく、「人間というものは本当は無念無想で生きているのである」。仏になろうとしなくとも、そのままの仏なのです。
という言葉があった
ああ、宿業 ってことだな などと、知識として認識し、そして、
苦しい時にはこの宿業感にホっとした覚えすらある

なのに、先日読んだ時には、なにか認めたくないような、寂しいような、抵抗してみたくなるような、そんな感覚があって、それ自体もまた、認めたくないような気分だった

その翌日、「すでに救われている」で
宗教はすべての者を平等に救うという。なにかを信ずることで、あるいは特殊な経験を得たものだけが救われるのではなくて、すでに誰もが救われている、そのことに気づきなさいと教えます。あらためて救いを求めようとする、それが迷いというもので、求めることをやめれば、その瞬間が浄土の真っ只中です。

求める人の苦悩の滑稽さは、あたかも、道路の真ん中で腹ばいになって「溺れる、溺れる」と騒いでいる人のようです。「どこに水があるの、立ち上がりなさい」と教えてあげるのですが、気づいて立ち上がる人はほとんどいない。もし気づけば、その滑稽さに大笑いする違いない。
の記事をみて、ああ、そうか となんかすっきりした気になった
その日は地に足が着いているような、そんな感覚を強く感じた
さらに、「無念無想で生きている」の記事をみてもすんなりと、そうだな と思ったりするという、僕の立ち位置みたいなのが変わるような言葉だった

やっぱり全部自分の中での出来事なんだよね
しっかり地に足つけて、余計な妄想を交えず、ちゃんと見よう

救われた という部分が慧海にはイマイチ薄いが、地に堕ちて、やっと自分の足で立つことを知った
自分の足で立ち、自分の五感で感じることに意識を向ける事で、五感の知ることにどう妄想が入ってくるかを知った
そして、自分の妄想に乗っからないでいるにはどうしていればよいかを知った
これがわかっただけで、世の中を過ごすにはずいぶんと楽になる

残念な事に、知ったことは、よく忘れるw
慧海は3ヶ月ほど聞法を怠けた
結果、自分で感じたことすら忘れた

アレやらコレやらが欲しいとか、暇だけど新しい仕事すんのがめんどいな とかそんなことばかり考えてたり、あれやこれやとやることが溜まって、追われるように片付けていたりするのも、同じようにふわふわと地に足をつけずに日々を過ごす事になっている
そして、なんとなくアセアセ イライラとした日をおくるのだ

この記事をみて、ああ、そうだった と思い出したという感じだ 


「内観の念仏」の記事に
自分の心をよく観察して、いっときも油断なく観察できるようになれば、やがて、見られる心があなたなのではなく、見る眼があなたになる、そういう転換が起こるでしょう。
とあった
ブログ立ち上げ時の記事なんで引用させてもらっては無かったが、
この記事は実に慧海のような初心者向きな言葉だと思う
こうなるまで、何をしろ と書いてあるからだ

とはいっても、実際にやれるかは別
もちろん頑張ってみるのだが、油断無く観察がドンドンできなくなっていっている

観察する事に慣れというのがあるのかな?

元々油断無い観察ができていないが、感情のヤバそうなものだけは自動アラートが出るくらいの観察が最初の頃とちがって、強く意識することなくできている
逆に、観察している事を忘れる

車の運転で、ドコをみるか を意識してた最初の頃から、意識しないで色々みることができるのと同じような感じではあるが、頭が勝手に動いているという事なので、無自覚でいることをやめるべく観察してたはずが、また無自覚になるという事になって、本末転倒な状態なのだ

釈尊の教えが正しいかは実践してみて苦が減れば正しい と言う言葉を読んだことがある
であれば、実践した結果、楽になった部分はまちがっちゃいないんだろう

そのあたりも観察しつつ、地に足をつけていきてきたいものだな


こうやって、全休先生の言葉をよんでは、自分の事を振り返る
慧海にとってはこれが聞法の一部なので
あとは、日々?寝ながら?? 自分の心と体の声をきくだけ


新しいブログのエディタはイマイチだな…
入力領域が狭いからかな?
ちょっと運用方法も検討しよ…

2010年10月21日木曜日

色合い変えましたよ!

会社の元同僚が、新しいブログのタンポポブログを見た後に
白い画面みると目がおかしくなる!
とクレームがつきましたw

ええ、わかりましたよ!

と、いうことでバック変えました

これでどうですか?


今後、リアルでのブログの質問、苦情等は、酒飲みながらに限定ですよ!w
さぁ飲みに行かない同僚はどうされますか?w
なんなら、コメント書いてもらってもいいですよ!w

病んでなくなった人向けには、会社で話すネタでもないわけですしね

古本ゲットだぜ?

「わが名を称えよ」をよみたくて、なんどか検索していたのですが、
古本がみつかならいでいました

今日もふと思い出して調べたら…ありました!

・わが名を称えよ
・櫛谷宗則 編
・カバー・帯付 四六判 美本 使用感なし
・1989
・1.00
・2,500
・柏樹社

1500円位の本だったようですが…いたしかたないですね
まぁ使用感なし ってことでよしとしましょう

早速申し込んではみましたが、まだ入手できたかはわからないです
兵庫から送ってくるようですので、送料とかも付くんでしょうね…

楽天で月末まで限定の1000ポイントがあるので、
楽天ブックスでも1冊本を買おうかと思っているのですが…
コレという一冊にきめられませんね

全休先生のお勧め本の順番だと、浄土三部教の真実 が最初のようですが
蓮如の本も気になるけど、コレは図書館にあったのでまずは借りてみよう
かと思ってます
〈定本〉歎異抄も読んでないですね…

わかりもしないのに何冊もの仏書を読むより、1冊を何度もよんでみたいと
思ってますが…その1冊がこまります…

他にもあれやこれやと欲しいものがあって…

さてさて、どうしましょう

2010年10月19日火曜日

やめやめ!

4年目という事、新しいブログという事で、語調をデスマス調に変えて記事をかいてきた
慧海にとって、デスマス調は社会生活を送るときに使う言葉だ
先輩はもちろん、後輩でもデスマス調であったり、フレンドリーな言葉を使っている
慧海にとって、そこには一線があり、そしてデスマス調は外に向けた言葉なのだ

今回、ブログをデスマス調で書いていることで、自然と”発信”的な言葉となっている
気分的にも、スタンス的にも”発信”なのだ
”発信”しようとすれば、いい事を書こうと思うというのもあるが、
内から外に向かう思考の流れになっていた。
心の観察をしようっていう慧海のブログは基本、表面から奥底へという外から
内への思考の流れになっていたはずだ

その際にしようする言葉は慧海にとってはデスマス調であってはならんのだ
デスマス調は仮面のついた言葉であり、自己を監視しながら世間で過ごす言葉だ
心からでてくる言葉、素で考える言葉は世間体を気にしたり、
相手にどう受け取られるかをを気にした言葉ではないのだ
仕事の際もそうだが、考えるときはどこまでも、自己との対話であり
問いの連続でしかない
そこに発信という要素はない

ここ数回の観察記事は、思考が全然内側にはいってこなかった
感覚的には苦しさのない、迷いや疑問をそこに記している
だから、記事を書きながらも気づきがない
ある意味、アノ記事は全休先生に失礼だ と感じた

全休先生のブログは今は相互リンクを受け付けていないとのことだ
そんな中で、最初から(リニューアルしたから日付が違うが)リンクをして頂けて
いるのに、なんと失礼なことだろう…

認められたい そういう欲求が強くある
これは、慧海の甘えである

昔の上司のおかげで会社においては、その欲求はだいぶ薄まった
ブログにおいては、まだまだその心が残っていた
仏様が私をどうみるかではなく、全休先生は私をどうみるか という事が気になる
ということだ

苦しい時は必死だった
今は苦しさが気になるほどでもないのので、日々の観察が軽い
全休先生のところにリンクが張られた「自営業」さんの記事を読んだら
そこには慧海と同じように道を求める人の姿があった

何をしているんだ俺は…

知ったかぶって、きれいな言葉を並べる必要なんてない
慈悲の無い慧海がやることじゃない
急ぎ仏になること これ以外になにがあるというのか…

まとめようと思っていた うつ の話とかは、要望があった時に書くとしよう

つ~こって

まだまだ愚痴を記録しつづけるとしましょうかね~

2010年10月17日日曜日

答えを頂きました!

全休先生の「トラウマと父親の思い出 (4)」にはこうありました
  悩みは決して外から来るものではなく、自分の心から湧くものである。
  それ故に、その悩みの原因を見る必要があるのですが、
  それは自分の目によっては、容易に見られるものではない。 

  (松原致遠著『わが名を称えよ』97ページ) 

自分の眼を自分の眼で見ることができないように、自分の心を自分の眼で見ることは出来ない。仏の眼(信心)を頂いて、見させていただくしか方法はないのでしょう。見るとは、離れて観察することですから、自分の心がつくる世界を離れなければなりません。すなわち、自分の心を離れた処(さとりの世界=浄土)から、自分の心のつくる世界(迷いの世界=穢土)を見るのです。それゆえ、自分の心を離れた処へ出ることを“往生”と言うのです。

あれ?「頭に湧いてくる思いをとらえて、いいとか悪いとかいう評価をいっさいしないで、ただ見ているだけ」を続けるても、その悩みの原因はみえないし、自分の目によってもみれないですね…

っていう疑問がでたあたりで、

「憶念の念仏」では、全休先生の「仏はわたしをどう見ておられるのだろうか」の念仏をする事が
善導の「衆生仏を憶念すれば仏もまた衆生を憶念したまう」の言葉の通り、仏の眼から見た自分が見えた瞬間、あなたは自分の心を離れるでしょう。仏があなたのことをどう見ておられるか、それが解れば、あなたも仏です。
ということであり、答えということになるんでしょうね

慧海の理解で内観の念仏を勝手にまとめると…

1.自分の心を観察すること
  → ろんな思い、感情、気分が次から次と湧き水のように湧いているのに気づきます
2.頭に湧いてくる思いをとらえて、いいとか悪いとかいう評価をいっさいしないで、
  ただ見ているだけにします
  → 悩みの原因まではみえてこないようです
3.「仏はわたしをどう見ておられるのだろうか」と憶念の念仏 をする
  → 自分の心を離れて、仏となる… 悩みの原因もみえてくるのでしょう…

ということになるかと思います


ちなみに、慧海は2の半ばで迷子になっている状態です
慧海にとって、悩みの原因をみるには、自分の記憶やら心やらの声を引っ張りだすことで、慧海の本心や過去に植えつけた自動思考に気づくことで、だいたいが解決してしまったからです

慧海の体験した不思議体験の一つの影響で、慧海の頭には、慧海の現状は慧海の心(記憶と妄想)で作り上げてきた勝手な世界での結果だという認識があります。慧海の外に慧海が認識している世界はないのです。

たとえば、慧海の認識の中には他人の心というものがありません。自分の心と同じように他人にもあるだろうと慧海が思っているという事だけがあります。そんな慧海の心すら、慧海が作り上げているのですから…

今の慧海は慧海の世界から抜け出ていません
どこまでいっても、慧海の世界が続いていることだけが今の認識です
ダメダメなことに、今の慧海では
「仏はわたしをどう見ておられるのだろうか…と慧海は感じるか」
となってしまうような気すらします…または妄想が補ってしまうか…

慧海の五感や意識を超えたところにあるものに気づくまではダメなのか…
それとも、今この感じているものが、慧海のものでない事に気づくまでは…

不思議体験と知識が、慧海に素直さをけずっていく…そんな気すらしてきますw

2010年10月16日土曜日

逃げられない目

慧海が見上げる空、慧海が見つめる先に、想像の目をみる事があります
慧海をみるその目は慧海自身の心の奥底までもみる目です

本尊を見つめていた後、就寝した際にまぶたの裏に本尊の絵が残ってました
それをそのままみているうちに、本尊を見ている慧海と慧海をみている本尊が入れ替わったような感覚になりました。幽体離脱ってこういう感じ?っていうような
慧海がみる本尊の視線でみる慧海…それを見る慧海…

ああ、こりゃ弥陀仏から逃げられないはずだわ…

どっか別のところに弥陀仏がいて慧海をみてるんじゃなく、
今みてるこの目は慧海の目だもの…
自分からどう頑張ったって逃げたり隠れたりできないものなぁ…
その時にそう感じて、軽く脱力感と笑いがあったのを覚えています
翌日会社で忙しくするまでは、目の先にず~っと目がありました

これは過去記事にも書いた内容です。イツのことだったかは覚えてませんがw

なにやらやっていれば、ちょっと不思議な感覚体験なんて、よくある事ですよ
仏の眼とはこれか? これが悟りなんか? なんて思ったりもしましたが、思考の中から出てもいないし、宇宙と一体にもならないし、どっか別のところにも行かないし、なにも特別なことはないし、さらに、いつのまにか苦しみの渦中に入ってたりもしたので、やっぱりタダの不思議体験だった と思います

残念なことです

でも、その目がある間は、心が穏やかな感じがしますよ
逃げられないから、いい子にしている みたいなものかもしれませんし、もがきようもないので、脱力しますし、自分で自分を認めて、降参するしかないわけですし…そんな目です

大抵は、意識しないとでてこない目ですが、先日、会社の天井を見上げた瞬間に突然目を感じてドキっとしました。この目からは逃げられないかったんだっけ… ふと思い出して、なんとなくニヤっとしてしまった慧海でした。(それで思い出してこんな記事かいてます)
ここ最近、ちょくちょくその目にみられては、降参させられてますw

先日、博物館で阿弥陀像をみたら、八方にらみといって、常にこっちをみているようなつくりをしていました。弥陀仏は常に私をみているぞ という表現がここにされているのだな と感じて関心しましたw
その目をみながら懺悔してたら、たぶん慧海と同じ意識感覚になるんじゃないですかね?
…実際に同じような体験をした人(たしか真宗門徒)の記事を読んだ事がありますw


慧海の体験していることは、こんな感じの主観的で自力的な感じのものばかりですが、近いうちに、不思議体験自慢の記事を再度かいて、不思議体験でどんな事に気づいたのかを書いてみたいですね

2010年10月15日金曜日

やっぱり迷い

全休先生の「無分別智」と言う記事にこうありました

 内観の念仏をすすめています。内観とは自分の心を観察することで、禅宗などでいう瞑想(戒定慧の定)と同じことです。少しでも心を観察することができるようになると、いろんな思い、感情、気分が次から次と湧き水のように湧いているのに気づきます。胃が胃液を分泌するように頭という臓器は生理現象として思いを分泌するのです。ふだんは無自覚に生きていますから、いままでは気づかなかっただけです。まずは気づくだけでも大変な進歩です。気づいたら、次は、頭に湧いてくる思いをとらえて、いいとか悪いとかいう評価をいっさいしないで、ただ見ているだけの練習です。これが内観の念仏ですが、なかなか出来そうで出来ません。
そして、「宗祖の信心を疑う」と言う記事にこうありました
 信心の智慧とは“煩悩が見える”ということですから、いただいた智慧で見せていただいた煩悩(愛欲と名利)を親鸞はここで告白しているのです。これが「定聚のかずにいることを」喜ぶということです。信心(の智慧)のない人にはわからない。
慧海にわからない所の答えがこれであり、慧海のようなモノへのご指導であろうと思います

当然、これも頭でわかろうとしてもダメなのですよ

迷えば迷うほど、疑いが深くなります
疑えば疑うほど、頭に湧いてくる思いをみているだけにしていられなくなります

頭に湧いてくる思いと煩悩は一緒なのか?
煩悩をただ見ていられるようになったらどうなるんだ?
煩悩を見るだけでいたら、ある日「定聚のかずにいることを」喜ぶ状態になれるのか?
このままで自分は往生できるのか?

こんな疑問ばかりが頭に湧いてきている慧海ですが、この疑問が既に思いに分別をつけているということなのでしょうね…

疑問を捨てるぞ、もう迷わないぞ と決意して疑問が捨てられるわけじゃありません。慧海が知っていることは、疑問に感じている今、迷っている今を、ただ見て、ただ感じる事をするしかない ということだけです。
この疑問の答えは教えてもらえるものではないと感じているし、迷っているのは、智慧がなく、不安だからなんだろう ということも感じています。なので、この問題は往生しないかぎり、ず~っとつきまとうものだと感じています。往生して、智慧を得たら、安心をえて、疑問もなくなる という 裏表みたいなものなんじゃないでしょうか?
だから、どうしたら往生できるんだよ! とやっぱり堂々巡りをするわけです

困ったものです

2010年10月13日水曜日

知識があってもダメなんだ

慧海はブッディストではあるが、いまだ仏がなんたるかを知りません
信心悟りの智慧がこの身には宿っていないからでしょう

それでも楽になろうと、色々と知識ばかり入れてはわかった気になる生活をしています
すこしばかりの自己観察と、あれやこれやと知恵をいれる
そうすると、理屈だけが学べるんですよ
だって、一番大事な事は言葉になんかできないんですからw

最近では、知っていることだけを色々な言葉で何度も確認する
そんなことしかできてないんです
困りました…

そうやって、大事なところを理解できていないまま、
わかった人の言葉をみて、そういうものかと思うようになって虚しくするのは、
心理学を勉強して心を強くしようとしているのとかわらないのでしょう

そっち方面でなら、無駄に理屈をこねることだけができるようになってしまいました

心理学本やらビジネス書を読んで、自分の考えを理想的な姿にしていこうと
する事は、努力すれば誰でもできることのように思えます
実際にやってみて成功したという人もいるでしょう
でも、それは多分、本の中から違う気づきがあったからだと思います
物事の捉え方を自分の意思で変えるのは難しいんですよ
でも、物事に接する心の立ち居地みたいなものは、意外と簡単にかえられます
本にあるノウハウを学ぶのではなく、そこにある別のものが気づけば
心の置き所が変わります
気づいた分だけは楽になります

それは、仏書でも近いんじゃないですかね?

こうすればよい、ああすればよい そんな事ばかり学び、そんな事ばかり
考えていても、分別を超えたところは理解できないのだと、やはり知識では
わかっているのですけどね… この場合、知識は毒にしかならない とかききます

知識の先ではなく、努力の先でもない、何かを超えたところにある感覚 

あきらめて、苦悩の世界で過ごすしかできないのだろう なんて思いつつ
やはり苦悩の前ではあきらめられなかったりするのですよ

ただただ迷う そんな慧海です

2010年10月12日火曜日

失敗は大事

慧海は眼ができてない未熟者なので、気が付くとよからぬことになったりします
そして、失敗をしてしまいます

そりゃ、失敗なんてしたくないですよ
でも、そんな失敗をしたときだけは、しっかり自分の心と向き合えたりします
うまくいっている時は過信しているので、振り返ったりしないものですものね

自分の心をみていると、慧海は慢の煩悩の強さを感じます
無駄に高いプライドってヤツです
そんな慢の煩悩がいつまでも元気でいられると、他人の言葉を素直に聞くことすら
できなくなるし、他人を認めることもできなくなります
多分、この煩悩の裏にある慧海自身の認められたいという欲求があるのでしょう

先日、以前の上司の上司と話をしていた際に、
「お前は細かく指示をされて仕事をするのが嫌いで、苦手だが、
 お前をうまく使ってくれる上司の下で好き勝手やれる時に成果をだす
 そして、お前は周りにもっと大きなことができることを認めてもらいたがっている」
というようなことを指摘された事がありました

まさにそうなのですよ
部長以上の役職者だった方ですが、こんな平社員のことをよく理解してくれてるなぁと
今更ながら、もっと色々とご指導いただくんだった と思いました

その方から、会社で泣き研と呼ばれる研修に出られた事があるという話を
聞いたことがありました

僕ら人間は生きているうちに色々なことを学んで、素直に物事をみることができなく
なってきます
子供の頃のような素直な心で物事をみることにより、社会人としてステップアップ
しましょう というような研修なんですが、自分の子供の頃の記憶をふりかえったり、
親、兄弟とのかかわり方を振り返ったり、自分でみる自分や自分は他人をどうみるか
自分をみる他人は自分をどうみているか という事を作文したりと、
子供の頃から今までの自分をおさらいして、自分で作り上げた自分像を破壊するような
そんな感じの研修で、泣いてしまう人が多いので泣き研と呼ばれているそうです

この内容を聞いた時におもったのは、内観道場をセミナーっぽくしたものというイメージが
わきました
内観道場もこの研修も受けたわけじゃないので確かなことはいえませんが、
自分で自分の過去を見つめ直すという事は外から自分をみるのと近いのかもしれません
「今」の自分を「今」の自分が見つめるのは、「今」の自分がどれかがわからなくなります
みているのが自分か、考え事をしているのが自分か…
そしてすぐ脱線してしまい、自分を見失います
どうしたらよいか… それは慧海には答えられない話なので口を閉じるとしましょう

慧海は、なぜ心のソコから「ごめんなさい」がちゃんと言えないのか…
そのあたりを子供の頃の記憶をたどりながら、慧海の心の声をきいてみたいと思います

2010年10月8日金曜日

オクトーバフェスト!

先日、横浜のオクトーバフェスト に行ってきました

1杯1000円、1500円という値段ではあるものの、日ごろ飲む国産ビールとは
まったく違うのですよ

何が違うって…まず味が違うし、香りも違う
国産の地ビールでおいしいと感じたものばかりが売っている
そんな感じな訳です

ベルギービールを飲んだ時も、ビールってうまいナァ って思いましたが、
ドイツはドイツでやっぱりうまい訳です
とはいっても、輸入ビール意外にも、ドイツ的な製法の国産ビールもあるわけで…
日ごろ飲むことができないだけで、知らないところにおいしいビールがあるのですねw

あまりにもおいしかったので、この休みの間に再度横浜進出してきます!

5月に日比谷公園でオクトーバフェスト ってことでお祭りしてたらしいんですが、
今年の5月はビールのむ気温でもなかったし、5月にOctoberって言われても…って感じで
まったく関心をもっていませんでした

来年は日比谷にも出かけそうです・・・

今年の麦の収穫に感謝!!w

2010年10月6日水曜日

[再]慧海説 鬱との付き合い方1補

大事な事を書き忘れてました
 
治せる、治せない という話があるといことは、
 
「私は病気である」
 
という認識が先になければいけません
 
こと、鬱病等でいえば…
 
「私は精神異常者である」
 
という認識をもつという事に他なりません
 
脳の病気だとか、心の風邪だとかいって鬱病に対する嫌悪感のようなものや
精神科への抵抗を減らそうとしているのだとは思いますが、実際問題
我々鬱病患者は、自分の判断が既に一般的な判断ではなくなっている訳だし
普通じゃ理由にならない、調子が悪い ということで会社を休んだりしている訳です
 
我々の上司には対して人事部門からは、健常者とは違う扱い 
というのが明確に言い渡されています
下手な事して、自殺でもされても困るし…とか色々と理由があって、会社に残っている
訳ですが、実際問題として、仕事がまともに出来ていなかったりもします
本人がどれだけ仕事で頑張っているか関係なく、実は人事からは
「毎日会社にきているかをみろ」と我々の上司にはお触れがでていたりするのです
 
僕は良くなった
 
なんて思っているのは自分だけ
まわりは異常者としての評価をしています
そんな評価も含めて、自分が異常であることを受け入れましょう
 
そこがなければ、治す という事が始まりません
自分が正常だと思っていたら、何も治そうという気にはなりませんよね?
 
認知のゆがみやら、自殺念慮やら、普通だと思って生活していた頃には
無かったことがきっとあるはずです
辛いかもしれません
認めたくないかもしれません
でも、我々は異常なんです
 
それを認めて、はじめてまともになり始めるのです
 
勇気をもってください
自分の眼をひらいてください
そして、自分の足でたちあがってください
 
私は異常者である
だから治すのだ と
 
慧海説 鬱との付き合い方 1 補 終わり

2010年10月5日火曜日

【再】慧海説 鬱との付き合い方1 

慧海説 鬱との付き合い方 1 
 
1回目の内容は 「鬱病は治せます!」 という事について書きたいと思います
 
治ります ではなく、治せます であるところがポイントです
 
そして、ここでは鬱病…”病気”と限定して表現しまてます
慧海が治せますと表現している鬱病を、あえて限定させていただくと、
「抗鬱剤を服用しない状態」とさせて頂きます
そして、もう二度と抗鬱剤のお世話にならないようにする事をこの一連の記事の
目的とします
 
 
SSRIやら三環系やらの抗鬱剤を服用しないという意味では、
パニック障害や強迫性障害も同様だろうと考えてます
 
詳しくは後日書きますが、これらの薬で脳の状態を一時的にバランスを整えても
思考がいつまでも鬱病になろうとする状態であれば、薬の服用は完了しないからです
 
アドラー心理学が特に顕著ですが、心身症(鬱病含む)はあなたが望んだ、
病気になっているというのも、たしかにあるのです
特に、長い間心身症を患っているいる人には、心身症が治ってはいけない
心理的理由が隠れている場合があるのです
 
心理学者は色々と理由をつけてるみたいですが、簡単にいえば、拘りやら執着やら
思い込みやらといった、自分の内面に起因して現在の状況になっているんです
 
だからその内面の滞り…思考のクセに気づけば、鬱病の症状に呑まれなくなり
結果的に、抗鬱剤のお世話にならなくなる → 鬱病が治った ということになります
 
とはいっても、抗鬱剤を減らす判断をあなたが勝手にしてはいけませんよ
ちゃんと主治医の指示にしたがってください
医師によっては、抗鬱剤の服用をず~っと続けるように指示する事もあるようです
そのへんは、治したいという意思をもって、主治医とよく話しをしてみてください
今はまだ早いとか、あせるなとかのアドバイスを頂きながら、治療に専念しましょう
 
 
ほかならぬ自分の頭と体のことです
自分でなんとかしなきゃ、なんともならないんですよ
 
といったところで、一回目を終了とします
次回は、その自分でなんとかせにゃならん ということについて
もう少し書いてみたいと思います
 
 
あなたがあなたを救う為に、慧海の経験談がなにかのお役に立てる事を
お祈りしております
 
慧海説 鬱との付き合い方 1 終わり

2010年10月4日月曜日

【再】 慧海説 鬱との付き合い方序

抗鬱剤の服用が終了して丸2年がたちました
今でも鬱状態が無い訳ではないが、鬱状態自体は誰にでもあるもの
基本的には気力やら頭の使い方やらは復職前の頭にまでは戻っている感じです
とりあえず治った という見方をして、慧海の実践してきた事をまとめてみます
 
どこまで書けるかわからないけど、
このブログをみた、同病者の助けになる事を祈って…
 
~~~~~
慧海説 鬱との付き合い方 序
 
初回は、まず目次の意味も含めて、以下の4点をご理解頂きたいと思います
次回以降、この1~4について記事を書いてみたいと思います
 
 
1.鬱病は治せます!
  (たぶんパニック、強迫性障害も同様です)
 
2.鬱病は医者が治してくれるものではなく、自分で治すんです
 
3.鬱病は、たしかに脳の病気かもしれませんが、
  脳が病気になったのは、自分の日ごろの思考と行動
  に問題があったんです
 
4.日ごろの思考と行動を変えるための、知識とトレーニング
  を得れば、日々が普通に過ごせるようになり、鬱病が治ります
  (鬱気質を変えるのではなく、共に過ごせるようにします)
 
 
「ああ、なるほど、そうだね」
って思われた方は、既に病んでない方かもしれません
もちろん、この4つの内容を今の時点では納得できないという方もいるかと思います
そういう方でも、ご理解いただけるように書いていければいいな と思いますし
そうだね と理解はされているのに、未だ抗鬱剤が手放せない方にも参考になるような
事が書ければと思います。
 
特に4の知識とトレーニングについて、できるだけ効果のあった方法と
慧海が体験&ききかじった、認知行動療法の失敗ケースも書いてみたいと思います
 
 
とはいっても、あなたを救うのは、慧海ではなく、あなた自身です
 
 
あなたがあなたを救う為に、慧海の経験談がなにかのお役に立てる事を
お祈りしております
 
慧海説 鬱との付き合い方 序 終わり

2010年10月3日日曜日

引っ越してきました

WindowsLiveSpaceが閉鎖するので、こちらに引っ越してきました
釋 慧海(しゃく えかい) と申します

 WLSでは「慧海の西を求める旅の記録」というタイトルで
仏法を学びつつ、鬱病での休職から復職し無事に働けるようになるまでの
日々の苦悩と迷いと堕落と気づいた事を書き連ねてきました

未だ神経性?の高血圧があるので、通院生活ではありますが、
鬱病からは脱却し、2度と同じ状態にならない様、日々気を付けながら生活しています

鬱病で休職している時に、心理学と仏教を本やネットで学び、
2007年9月23日に、お手つきの寺である真宗大谷派得信寺にて帰敬式を受け
慧海という法名にて真宗門徒として、具体的に信心獲得に向けての生活を始めました

具体的には、リンクにある、全休先生(当時は濁川先生)と鬱陶しい亭主師のページにある
言葉を読み、自らを振り返り、書いてあることを書いてあるとおりにどう実践するかを
試行錯誤し… 未だ、コレという体感なく、東の岸で西への白い道を見つけられずにいます
// そのへんに関心があるかたは、リンクにある過去ブログをごらんください

これから書くであろう記事も仏教の話をメインに、鬱等の心身症の話と、
タダの日記を予定しております

読まれる方にとって、面白みがあるものではないと思いますが
ご縁がありましたらしばらくの間、お付き合いよろしくお願いいたします

南無阿弥陀仏