2012年2月11日土曜日

弥陀の願船の上で迷子?

頭が騒がしいのと、運動不足なので、散歩をしていた
何分かたったあたりから、足の裏で大地を踏む感覚を取り戻し始め
そして、体全体で歩いている感覚が戻りだしてきた

最近忘れたたナァこの感覚…と思いならも歩いていると、
キン と音のようなものがして、騒がしかった頭が急におとなしくなった
頭に溜まってた血が体に落ちたような、そんな感覚もあった
急に頭と肩が軽くなった

頭はなにやら動きつつも、そのまま歩き続けていると、ふと思った

この身体が感じている今だけが真実で、この騒がしい頭は妄想なんだ

ああ、なるほどねぇ
なんて思いつつも、そのまま歩き続けていると、
頭と身体か別々に勝手に動いている感覚がでてきた
今までは、頭と身体の反応を主体的に観察している感覚でいたのだが、
今回は、主体的ではない感じで、頭と身体でまったく別のことをしている
慧海の中に慧海が二人いるみたいな感じであった

で、身体の方でいうと、冬の寒い風を頬と耳にあて、冷えを感じつつも
この天地自然の中で、慧海はもう、どうにもならない
自然のままで、イツ果てようと問題ない
だから、もう何をしても大丈夫 みたいな感覚でいる
生かされているというか、今は生きているというか…そんな感じだ
その感覚の上で、頭は別物として、感じている感覚に言葉を与えて
ああでもないこうでもないと考えている

そんな頭が面白い事に気づいた

少し前にこのブログのサブタイトルにこんな事を書いた
「弥陀の願船はどこに行けば乗れるのでしょうか?
 そこに行き着く為に、陸路を迷いながら旅してるんですw」

どうだかはわからないが、慧海は既に願船に乗っているのかもしれない

慧海は既に仏を忘れられないし、この自然の一部的な感覚は賜りものだろう
そうすると、誰かに導かれて知らぬうちに願船に乗せてもらっていたのか?
それに気づかず、弥陀の願船の上で迷子になっているんじゃないのか?

いまだ、浄土・彼岸には到着していない弥陀の願船の上で
どうしたらよいのかと、迷っている
頭の中に引きこもり、船の上に陸路を探してさまよっている

そんな妄想が沸き起こってきた
そんな妄想も楽しみつつ、足の裏の現実を踏みしめながら散歩をしていた

未だ歓喜地を知らぬ(と思っている)が、この足裏を感じている限り、
慧海はそのままで何があっても大丈夫なんだろうなぁ

そんな感じがしている

南無阿弥陀仏

2012年2月7日火曜日

南無阿弥陀仏とは:追記

インフルエンザが治ったら、こんどは蕁麻疹が…全身痒い…

数日前に南無阿弥陀仏について記事をかいたら、
全休先生が、「お念仏がでない」で何故念仏ができないかを書いてくれていました
全休先生の言葉がグサグサと刺さってきますw


このままじゃ、念仏する人が減って、阿弥陀様が暇になっちゃいますねぇ
今の日本仏教で救われる人ってどの位いるんですかね?
「助けて」と言う先を知っているだけ、慧海ら無信心門徒は幸せかと

2012年2月6日月曜日

食べるを観察

慧海は、隔離ということで、この数日食事も寝室でとっています

ベットの上にしかいないのにお腹はちゃんとへるんです

酒もないですし、誰かと話をするわけでもないですから
ささっと食べ終わっちゃうんですが、一人な分頭の中が見えてきます

食事をしているのに、食事と関係の無い事ばかり考えて、
なぜか、イソイソとたべているんです
まるで、空腹に耐えられなかった所にやっと食事にありつけたような
そんな感じで胃に流し込むんです
それでいて、頭の中はまったく別の、たとえばさっきまで読んでた
本の内容について考えているんです

で、満腹になった気がしない

そりゃそうですよw
頭の中じゃ食事してないんですし、ささっと食べたら
体だって食事した事にならないんですからね

一応、何を口にしているのか、どんな感じの味と歯ごたえかは認識していますし、
ろくに噛まないで飲み込んでいる事も気が付いてはいるんです
なので、頭の中がまったく別のところに行っている認識は殆どなかったんです

たしかに社食で一人でたべていると、仕事の事を考えながら
食べていることは気づいてましたが…びっくりです


で、いそいそと食べる必要もないので、食べる事に意識を向けて食事してみました

自然と噛む量がふえますし、どんな味、歯ごたえかがより詳しくわかります
そして、舌がよく動くことに気づきます
噛むためには噛んで歯から出てきたものを頬と舌がもう一度歯の間に戻してました

両方の歯で噛む場合、慧海の場合、舌は右の歯に食べ物を押し込んでから、
左に移動して押し込み、噛むときは舌先がちょっと浮いているみたいです

食べ物の味が変わることはないですが、それぞれの食べ物の
味と香りがすることに改めて気づきます

頭が何か考えることに違いはないですが、目の前の食べ物の事
を考え、舌の動きを感じたりする方が食べた気になります

1回だけじゃなく、毎日の食事をもっとゆっくりと味わいつつ
よく噛んで頂きたいものです

最近、胃腸もよくないので、良く噛まないといかんなぁと思っていたので…w

あ、そういえば東京駅の寺カフェ6日までだ… インフルで行けなかった~(TxT)

2012年2月5日日曜日

南無阿弥陀仏とは

インフルは熱がさがっても数日隔離が基本
急にできたこの入院患者のような暇な生活で佛書を読みつつ考えてみた


今更ではあるが、慧海は「南無阿弥陀仏」という言葉がわからない

住職は「なんまんだぶつ がわかれば勉強なんていらんよ」というのだから、
普通の衆徒門徒にはわからんのだろう

慧海がわからんのは、そういった難しそうなことではない

なんで「我が名を称えよ」といわれて「南無阿弥陀仏」なのか
「我が名」は「阿弥陀」じゃないか と

南無とは帰命である
帰命は全てをお任せすることだ という

それ、名前じゃないじゃん


南無阿弥陀仏とは阿弥陀の本願を名号とした とか言うのもある
このままじゃ、さっぱりわからん
本願の心を名詞化して、それも南無阿弥陀仏だということか?

逆向きの表現だと
一切を救うという本願を信じ、救いたまえと弥陀仏にお任せする、
その心を言葉にしたのが南無阿弥陀仏だとか
既に救われた、報恩の心を言葉にしたのが南無阿弥陀仏だという

これだと、名前ではなく誓いの言葉みたいな感じがする

やっぱり南無があるから、名詞にならない感じがするのだ


で、現実ではどうかとかんがえてみた

慧海が誰かに「困った事があったら僕を呼んで」という
実際に困った事があったら「慧海さんちょっと助けて~」とか呼ぶだろう

ああ、そうか

呼ばれる側は、呼べとしかいわないが、呼ぶ側は名前だけ呼び捨てしない
上司からなら課長とか部長とかつけて呼ぶだろう

慧海=名前=阿弥陀
さん:部長=敬称?=仏
助けて=気持ち=南無

ということになるんじゃないのかな?
そうみると、南無が入っていることが普通だな


南無阿弥陀仏は本願の心の名詞化という事の法は...
本願の心となると、弥陀仏側になるんだろう
そうすると南無という心は、お任せします ではなく、任せてくれになる

ああ、なるほど。 昨年の法語カレンダーにあった
「帰命とは本願招喚の勅命なり」 とはこの事なんだな

佛の擬人化は誤解を招くので、あえて慧海で表現すると
「慧海がなんとかすっから、全部任せろ!」
ということになる

たぶん、そういうことなんだろう


で、言葉を頭でわかってみても、問題となる全部お任せします
の心がわからなきゃ、南無阿弥陀仏がわからないw

頭で理解できなきゃ、なんまんだぶつ が口にできない時点で慧海は
お任せできてないって事だろうね
しょせん、自力から出てないってわかってる。でも、なんかすっきりしたw


では、次は本願を頂きたいものだなぇ
17、18、19、20 あたりと、必到滅度の願とかかな?
言葉通りにみると余計にわからなくなる真宗
大谷派の先賢の言葉があって、やっと日本語として聞ける
これが染み込むようになるには、何年かかるやら...

南無阿弥陀仏の懸念がなくなるのに4年以上かかったんだからねぇ
それも頭で理解しただけで、それでいいとすら思っているんだから…

慧海の信心獲得は、まだまだ先ってこった

心の底から、南無阿弥陀仏と言いたいものだねぇ...

2012年2月3日金曜日

インフルエンザ

インフルエンザにかかって会社を休んでいます

熱が下がると暇なんですが、頭を働かせる気にはなれず、
スマフォでブログかいてます

慧海は今回、初インフルです
子供の頃から幾度か高熱をだしたことはありますが、検査技術の問題か
インフルエンザ感染症と診断されたことはありませんでした
子供や家内が感染してても、うつった事はなかったんです


リレンザを処方され、昨晩吸入しただけで朝には熱が下がってました
解熱沈痛剤使っちゃったもんだから平熱以下になっちゃってます
扁桃腺で高熱出すよりあっさりしたものです
今の技術はすごいですね

こういった敵を倒す技術はさすが西洋文化といったところでしょうか

東洋医学的な見方をすると、
慧海の体はインフルエンザウィルスを利用して高熱を出す必要があった
ただの風邪では力がたりないのでインフルエンザ風邪になった
ということになります

ここしばらく滅入っていた気分が、高熱のお陰か晴れやかで、
お腹もすきますw
癌すらも消すインフルエンザですからね
すごいもんです

でも、あっさり殺菌しちゃいましたw

逆に低体温状態で、喉がとても痛いので
また熱がでるかもしれません
今度は扁桃腺風邪として...

人の体は不思議なものですね