2013年10月26日土曜日

一週間分の振り返り


仕事やら呑みやらで、ブログ書く時間がとれなかったりします。
なのでネタみたいなものをつぶやいておいて、あとで文書にしようかと思ってます。
色々とあるので、まとめてポンとw

■ 報恩講
20日は報恩講でした。
雨の中、それなりに人がいらっしゃいました。
報恩講の後、I師、S氏と飲みにいったんですが、副住職もなぜか一緒にという事に…

まともに話しをききましたが…
その時の感想のつぶやきが以下の2つです。

「今のお寺という俗世は、サンガってよべないんだなぁ。得度は入社、教師は課長。住職は支店長。帰敬は優良会員。会社なら顧客満足度を考えるが、お寺じゃ不要。やっと現実がみえてきた。」

「自分に属する事は自力でやれ。ニヒリズムに浸り、念仏信じたフリして現前から逃げるな。」

慧海はお寺に期待をしていたのですね。
でも、その実情はサラリーマンと一緒だったというのがやっとわかった、というのが一つ目のつぶやきです。

彼らは彼らのしがらみの中で、お寺に就職して仕事してきたんです。
門徒とちがって、仕事です。
苦しみがあって、そこから抜け出す答えを探していたら、仏教に、真宗に行き着いたというのとはマッタク違うんです。

そういう人たちに何かを勝手に期待して、勝手に要求していたんですね。

そういう中で就職しちゃった跡継ぎは、中途半端に勉強してニヒリズムに浸るようです。
慧海もニヒリズムでしたので、気持ちはわかります。
それが逃げだと気づくのは、逃げなくなってからです。

 そんな風に思いました


■ ア・ミタ

アミタをしらべていたら、東海学園さんの図書館だよりに
 日頃つかわれる「○○メーター」のメータもサンスクリットと共通のルーツで、共に「計量する」という他動詞の過去分詞、つまり「量られる」の意味です。サンスクリットのミタにアをつけたアミタ(無量) 以下略
という風にかかれていました。

その事からかいたつぶやきが以下です。

「ア・ミタ=無量っていう風に認識してしまっていた。量る事ができないとは人の思いの外ってことだと気づいた。」

思いの外というか、人智を超えているというか…
私が認識しちゃったらダメだよっていう教えだったんだって事だとおもうんです。
認識できたら、私の自我というか思考のなかに概念化して佛を取り込んじゃうわけですよ。
しゃり様が、「わかったら凡夫の迷いだから気をつけなさい」 という事はこういう事をいっていたのかと感じたんです。

よく考えれば、歎異抄十章に「不可称不可説不可思議のゆえに」って書いてあるんです。
これをそのままに理解して、 不可称不可説不可思議なもの と定義してしまっていたんです。

人智の外という事を教えんが為の言葉を人智でとらえてしまった。
人智であれば、思いの中、思考の中、理屈の中、妄想の中、苦しみの中なんです。

「そういうものじゃない」と言葉で伝えたら、それはもう人智なんでしょう。
伝えようとしても伝わるもんじゃない そういうことなんだろうなぁと気づきました。

仏教って頭で理解するんじゃなく、感じ取るしかないんだろうなぁ
 そんな風におもっていたら、歎異抄では異なるのは私だと言われてる事にいきつきました。
異なっていて、嘆かわしいのはたしかに慧海自身でしたw


■ 雑談

そうそう。亭主師が記事書かれてました。
第702話 俗世で頑張る
俗人とは何者か…毎日アセアセと生きる私たちの事ということでいいんですかね?


なんやかやで、365回分念仏つぶやいてます。
多分、念仏が入ってないのは2回以下だと思うので、まずは、一年分念仏つぶやきました。

この365回では色々ありました。
お育てですねぇ。

帰命尽十方無碍光如来


2013年10月17日木曜日

しゃり様への返信

しゃり様

お久しぶりです。
つぶやきに対するコメントありがとうございます。

ご助言ありがとうございます。
やはりお返事が書きにくいコメントですねw

しゃり様のメッセージをうけとれているかもしれないし、うけとれていないのかもしれない。
質問をしてみたいけど、質問する言葉はない。

出たり、入ったり…結果、門の外 そのとおりだと感じがします。


慧海のリアルは変化の時がきているようです。
諸行無常って話しではなく、世間的にいう変化の話です。
異動とか、仕事が変わるとか、引越しとか、事件とかの話です。
そんな、小さな変化がいくつも、何度も押し寄せてきています。

病気やら、趣味やら、宗教やらと言って、リアルから逃げる精神的引きこもり状態は
終わりを告げはじめてます。

世間様で、他力本願と言えば他人任せの無責任な事です。
世間様では自力の努力を必要とします。
なので、世間様に戻った慧海は自力を使用します。
自力は用いれば、その分、自我が騒ぎ立ててくる。自我が騒がしければ、念仏を忘れる。
とはいっても、一度感じた南無阿弥陀仏がさっぱりと消えたりはしないらしいです。
リアルを受け止め自力ですごしつつも、肩の力は入らない日々。

だから、出たり入ったり…。

上の文をかいていて、清沢満之師の言葉を思い出しました。
彼に在るものに対しては、唯だ他力を信ずべきのみ。我にあるものに対しては 、専ら自力を用うべきなり。而も此の自力も亦た他力の賦与に出づるものなり。
 (清沢満之著 東本願寺発行 清沢満之の精神主義より)


そもそも、ブログに何かを書いているようなときは念仏を忘れ、
念仏を忘れていないときは、ブログに書くような事がないのですよ。

どっちにしろ、慧海のはからいではないのでしょう

お育てのままに生きるだけかと。


帰命尽十方無碍光如来

2013年10月12日土曜日

外から見る


昨日、会社帰りに築地本願寺の夜の法話会に初めて参加しました。

4月の異動で会社帰りのウォーキングコースに築地本願寺があるので
タイミングがあったら寄って、お西の正信偈の節をきいてみようと思っていたのです。

残念ながら、正信偈はなく重誓偈だったんですが、重誓偈にも軽く節がついているし、
そもそも、重誓偈をお寺で聞いた事もなかったので、新鮮に感じました。
先日も、築地本願寺で法事をされている方がいらっしゃったので、お経をきいていたのですが、
その際も阿弥陀経も正信偈もなく讃仏偈でしたので、やっぱり違うもんだナァと感じました。

法話の先生がおっしゃってましたが、福岡の古いご門徒さんでは法事は三部経を全部
あげていたそうです。3時間半かかるんだそうです。
昨今では、昭和の短縮版とやらで2時間になったとか、最近のご門徒さんでは阿弥陀経
だけというような感じで20分といった事をお聞きしました。
築地で、讃仏偈の前に仏説無量寿経と言ってたのは、大経の略式という事なんだなぁ
と理解しました。おもしろいものですねぇ・・・w

その法話会で2つ関心することがありました。

1つは、生活信条というものです。
昭和にできたものらしく、もちろん、大谷派にはありませんので初めて知りました。

驚きです。

残念ながら、直感的に嫌悪感を感じてしまいました。
慧海が勝手に想像する新興宗教のイメージがその言葉の中にありました。
きっと、本来持っていた浄土真宗本願寺系、俗に言う一向宗のもつ空気がこれ
なんじゃないかなと感じました。
一向一揆もおこるはずだと、感じました。

東は清沢満之師を筆頭に、曽我量深、安田理深といった先生方によって、
哲学的な理屈っぽさが組み込まれて、今の東の雰囲気なのかなぁと思ってます。
曽我量深師の歎異抄聴記の4ページに
当今は仏法について、ことにわが浄土真宗におきましては、内外のことがらにつきまして第二の再興を要する時期に再会していると思われるしだいであります。時代相応の真宗教学の再建ということが諸方にさけばれる


とあります。
昭和17年ごろの事だそうですが、その歎異抄聴記を読んで感じる事は、
昭和中期に示されたという生活信条とは大きく違うと感じたので、驚いているのです。

昔から信仰の強い地域では東も西もかわらないのだろうとも思います。
にわか門徒には、ホントびっくりしました。


2つは、法話をきいていた門徒さん(たぶんお坊さん)の振る舞いです。
法話の中で、「佛」「経」「釈迦」「阿弥陀」という言葉や、なるほどと思う言葉があると
「なまんだぶ なまんだぶ」と声をだして念仏するんです。

感謝の言葉として南無阿弥陀仏と念仏しろ
念仏は声にだしてしろ

という事は学びました。
とはいっても、静かに法話をきいている人々のなかで、数秒おきにまわりに
きこえる声で念仏をする姿は、汚い言葉で申し訳ないが、きもちわるい と
感じてしまいました。
 でも、それが、ある種の信仰の姿であり、慧海も無宗教の人々からすれば、
おなじように気持ち悪い人なんだと気づきました。

そういう場所ですし、教わったとおりの事ですので、なにもおかしくはないはずなんです。
そうなんですが、背中掻きながら感情のままに念仏を口にしているようにみえる姿に
慧海は嫌悪感を感じてしまったんです。
 慧海にとってはありがたい教えですが、まったく関心のない人からすれば、
それはうけいれがたい、嫌悪の対象になるのでしょう。

非アニメ好きの人からすると、アニヲタが嬉々としてアニメの話をするのと
同じ位ドン引きな姿なんだと思います。
子供向け美少女アニメのどのヒロインが良いと飲み屋で話す知人がいますが、
深夜アニメをみる人でも、その彼を否定します。
そういうのが好きでもいいけど、同好の人以外には、口にしてはいけないんです。

慧海にとって仏教というのは生活の一部化してしまっています。
心の観察とか、念仏とか、仏書を読むとかがまったく無い日は既にありません。
慧海にとって、仏教関連の話をすることは政治の話より普通の事なので
ちょっとしたきっかけがあれば、つい仏教関連の話がでてしまいます。

思い返せば、嫌な気分にさせた記憶がでてきます。
きっと気持ち悪いと感じたんだろうなぁ と改めて気づきました。

今度、お寺のI氏と、東の真宗会館に行って法話を聞く事になっています。
末寺とちがって、雰囲気が違うのかもしれません。
初真宗会館なので、ちょっと楽しみです。

2013年10月10日木曜日

全休先生からの回答2


10月8日に慧海は以下のようにつぶやきました

「欲望の衝動が襲うが、ただその衝動を感じるだけにする。色んな煩悩が薄まったように思うが、煩悩はまだまだ元気らしい。南無阿弥陀仏」

最近、公序良俗に反するような欲望や、自分の価値を認めさせたい欲望が
頭をかきむしりたくなるような衝動と共に襲ってくる事がよくあります。
ひどいのは仕事でお酒を呑んだ後ですw

通常は、無気力で無感動であり、これといった欲求もなく
なにが楽しみで生きているのかと問われても
答えられない頭で日々を送っています。

でも、頭の中は色んな思いに引っ掻き回され続けてます。
ちょっとした事で煩悩の炎に焼かれてます。
焼かれても苦しくはないので、むしろその焼かれっぷりを心地よく感じてます。

慧海は下品で傲慢で臆病な煩悩の虜だ

って思いつつ、この煩悩が生きているということなんだなぁ って感じたりしてます。

そう感じて、上のようにつぶやいたのでした。


そんな思いがある中、10月9日の、全休先生のブログ自分の変わりよう
以下のようにかかれていました。
 此岸を離れて彼岸へわたす渡し船、迷いの岸を離れて悟りの岸へと近づいていく。なにから離れていくかといえば、自分の心から離れていく。自分の心から離れれば離れるほど「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」(歎異抄・第1章)と見えてくる。
ああ、そうなのかと、またもや教えていただきました。

昔のように世の中に求めるものはないのに、なんで煩悩の衝動に襲われるんだろうと
不思議でした。
過去の慧海の姿が、いたるところに投影されている事を前回教えていただきましたが、
それと同じような何かかと思っていました。

そうではなく、彼岸に近づいていっているんですね。

如来の願船に乗るまでも色々ありましたが、願船に乗ってからも色々あるものですね。

酒を呑まずにいられなかった慧海が、今は酒をあまり呑みたいと思わなくなりました。
つきあいがなければ、家でも酒は呑みません。
アニメも暇つぶし程度の視聴になりました。
あまりにも平らな感情の日々に、また精神的に疲れてるのか?と疑った位です。

そういのも全部、お育てってことなんでしょうね。

帰命尽十方無碍光如来