2015年6月4日木曜日

処世術


慧海は、慧海がもっと思い通りになるように考える時、苦しみます。

慧海は、目の前のやるべき事にのみ向かっているとき、苦しみを忘れます。

慧海は、結果は自分の努力で得るものではないと納得しているとき、努力をする事ができます。

慧海は、やるべき事が終わって無くなっていくとき、安らぎを感じます。



慧海は、如来の法により、このような自分の反応を知り、日々の生活の中で、
苦しみと向き合って、おだやかに生きていく事ができています。

如来の法に遇わなければ、この欲望と怒りの無関心の世界で
どうやっておだやかに生きつづけていけるのだろうか



未来の心配よりも、今の自分の心を気にすべきです。
世界の心配よりも、世界に向けて思う自分の心に気づくべきです。


未来も世界も如来の領分です。
人が考えるその領分は、全て妄想の中の出来事です。

自分には自分の領分があります。
自分に遇えばわかります。法に遇えば分かります。

人にできるのは内観の念仏しかないのでしょう。
流れていく今を常に気づき続けるしかないのでしょう。

慧海はそのように教わり、信じられない念仏をとなえ、
佛が慧海をどうみるかを感じました。


苦しみに苦しみたくないならば、善き人の教えに従うしかないのですよ。
なぜなら、自分自身が苦しみの原因なのですから。

南無阿弥陀仏


2015年6月3日水曜日

今日は誕生日だった


書く事がなく、久々の投稿です。

最近は本願のしたで、日々なんでもなく、あるがままに過ごせるようになってきました。


前回の記事のあと、2月の全休先生の記事で、
「そうだった。慧海も念仏するためにいるのだった!」という事を思い出しました。

その前までは、信仰体験で感じた事もすっかり忘れ、
俺が俺がと日々をすごし、何でもかんでも、全部自分の思い通りにし、
自分しかできない仕事をして、成果をだして、
上司、同僚に認められたいという思いばかりになってました。

そんな思いにふりまわされてみたり、苦しんで、なんとかしようとして念仏したりと
思いを思い通りにしようとして、それでまた苦しんでました。

思いが出る事自体があるがままだと頂くことができませんでした。

畢竟依を帰命せよ

自分の思いでなく、如来の本願に答えて念仏をする慧海は、
如来を本願を拠り所に生活するだけだった。

慧海は、色んな思いに駆られて、いろんな事をします。
まわりの人がかかげる正義の自己主張にうんざりしながら、
今、慧海がやる事は何かを問いながら、愚痴をいいながら、やるべき事をやってます。

慧海に誰かを助けることはできませんが、何もしないでもいられません。
慧海にできることを、慧海の自己満足としてやってます。

自己満足でやっているのですから、誰かからお叱りをうけてもしょうがありません。
お給料が増えなくてもしょうがありません。
遊んでてお給料いただくんですから十分です。

自己満足なんで、やりたくない仕事からは逃げます。
自己正義主張大会の場に居ると、皆さんの苦しみが聞こえます。
慧海の仏教的な思考からくる思いもでてきます。とても苦しいのです。
なので、逃げちゃいます。で、お叱りをうけますw

こんな感じで、 普通に過ごせてます。
特に念仏を唱え続ける生活をしているわけでもなく、
祈ってみたり、信じようとしてみたりするわけでもありません。

ただ、自分の思いに気づけている事は多いと思います。
気づいているだけで、振り回されたり、イライラしたりしてます。
それをなんとかしようとしたりもします。
それでいて、どこか落ち着いていられるようになりました。

何を思っても、何を行っても、なんか、もう大丈夫かな って気がします。

そんな43歳の誕生日を迎えております。

南無阿弥陀仏