2013年7月18日木曜日

自然を信じて仏を信じず

日本というか、東洋思想というか、まぁそういう感じのものに

陽極まれば陰に転ず

と言う考えがあるかと思います。

陰陽が循環するという考え方で、陰が極まっても陽に転ずると考えです。
1が全てで、全ては1 みたいなものとセットにして、大極の考え方になってるかと思います。

慧海にとっては、これも自然という事に感じます。


僕ら真宗門徒は自分がいかにダメダメかという事を常に観察しながら生きます。
学んで、内観の念仏して、それでわかる事は、どこまでもダメダメな自分です。

自ら望む訳でもないのに、どん底にまで落ちていく。
途中で引き返そうと思うものの、それもできず、自分を見続け、どん底まで突き進む。

どん底で気づくのは、こんな私は救われる訳がないという事じゃないかと思います。

そんなダメダメな自分が受け入れられなくて、法とやらが救ってくれると信じて、
あれやこれやと考え、教えを探します。

でも、答えなんて見つかりません。
結果、どん底でダメダメな自分を受け入れた時、陰が陽に転ずるのでしょう。
ダメダメなままで落ち着けるようになるんです。
底辺にいるのに、心は縛られず、慈愛の心すら湧いてくるんです。
これが救いかとおもったりしますが、これも自然なる錯覚でしょう。

勘違いして、どん底から少しでも這い上がっちゃうと、途端に縛られ、
欲と怒りの中に戻ってしまいます。
仏様にお救い頂いたなんて考えてる時は、どん底にいないんです。

結果的にダメダメな自分と向き合うだけの生活に戻ります。
逆に、どん底しか落ち着けなくなっているように思います。

慧海は結果的に仏様を信じていない状態に戻りました。
何かを外に求める事は必要なかったんですよ。
ああ、なるほど、「あるがまま、そのまま」 ってこういう事かって感じるんです。

何も信じてませんよ と言いながらも、どこか信仰めいた感覚があるので、
それは何かと自問したら、自然という事に行き着きました。

人間は自然なんだなと気づきます。
Natureの「しぜん」じゃないです。なるようになってる的な「じねん」です。

自然と一体になるっていう事じゃないんです。
華厳みたいに、宇宙と一体なんて妄想めいた話じゃないんです。
無我です。Noアートマンです。何かと一体にって話しじゃないんです。

私たちが「なるようになっていた」っていう事です。

色んなモノや人が、慧海を慧海たらしめているんです。
慧海個人が認識するモノや人は妄想と代わりませんが、
慧海の認識しないところにある、モノや人の働きが慧海を慧海たらしめるんです。
そんなあたりが、諸仏というものなんじゃないかと感じてます。

当たり前ですが、お寺の仏像が佛じゃないんですよ。
それを彷彿させてしまう、「南無阿弥陀仏」という称名じゃなく
慧海の周りの諸仏を感じる「帰命尽十方無碍光如来」
という称名を使ってみようかと思う今日この頃です。

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