全休先生主催の「歎異抄を勉強する会」が開かれるという記事が4/4にありました。
即、参加しょう! と思ったものの、会社だったので送れませんでした。
で、その後歎異抄を勉強する会のブログコメントの数々を思い出すと・・・
真摯に歎異抄を学んでいない慧海にご同朋とお会いする資格はあるのか?
という気になってしまい、今も悩ましい感じです
都内なので、参加できるし、全休先生のお話を聞いてみたい気もあるのですが
サイトをみると…皆さん歎異抄を読み、疑問を持ち、学ばれている
方々のようにお見受けできますので、ちょっと気後れしてしまっているのです
数年前の慧海なら、気後れすることなく、参加させて頂き、
わからん、わからん、教えてください と言っていたかもしれません
今だからこそ、気後れしてしまうんだと思います
「勉強会します。きますか?」
慧海は、この問いに答えられないでいるんです
ただの考えすぎと思うでしょうが、これは私への問いなのですよ
歎異抄というきっかけを通して、慧海自身が自らをみつめる念仏がないならば、
ただ書かれている事の「好きな言葉」を聞きにいくだけになってしまう
もしくは、皆さんにとっての好きな歎異抄を聞く事になってしまう
勉強するのは、歎異抄ではなく、慧海自身についてだろう
ならば、犀の角のように… とも思う
それとは別に、感情として、生全休先生のお話をきいてみたい
・・・学ぶとは何をか
さて、どうしようかなぁ
金剛の信心の無いものは口をつぐむしかない というのだから
黙って拝聴だけしにいくかなぁ…
うむむぅ
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