2011年12月4日日曜日

門徒講座11

今回で年内の門徒講座は終了
序を含めて12回だったが、全部出席したことになる

皆勤賞はでなかったけど、法然親鸞展のチケットもらったり
750回忌の記念品もらたりもしたし、真宗聖典ももらった
浄土三部経はしばらく借りた状態でもらったわけではないが…

11回目の門徒講座は、龍樹の2回目
高僧和讃をみながらの説明だった
本日の住職は調子が良かったようで、約2時間ペース良く話しをされていた

この1年、何を学んだという事は殆どかいてこなかった
知識という意味では、細かくは色々としった
・本師の反対語は人師である
・龍樹は釈尊入滅から600年後あたりに生まれた
・正信偈の各章の区分け
なんてあたりだが、一番学んだのは、学ぶ姿勢だろうか

自分の考えと違うものは間違っていると思ってしまうものだが、
その違う考えの中から学んでいくのだということを知ったきがする
どんな人の説でも学ぶ事ができる という事を住職が言っていたか
きっと、違いがあれば、問いとなったり、自分の慢心をみたりと色々だろう

だんだん、自分の論を口にすることもできなくなってくる
なにが良いとか悪いとかわからないのだから、意見をいうのではなく
意見を聞くしかできないのだろう と思うのだ

といいながらも、ついつい自己主張してしまい、反省するのだが…


亭主師の11/30の記事「行けている」にある、自分が行けているのか
と、いうことは慧海はずっときになっていた
行けたらわかる という記事はずっと前からあったが、
ず~っとよくわからなかった
だから誰かに、行けたんだね って言ってもらえればいいと思う所があった
行けてないのに、行けてるフリをしてもわかる と一言にあるのだから
わかっているなら、行けてるとか、まだまだ とか教えてくれればいいのにと

でも、それも言えなくなってくるのかもしれない と最近は思う

今は慧海は行けているのだと思う
上はまだまだあるのだろう ということはあるが、行っちゃったんだと思う
でも、気づいた物事であれば、1、2年前とそんなに変わらない
その頃に誰かに「行けたねぇ」と言われてたら、そこで止まったのかもしれない
きっとそういう事が一杯ある

今の感覚になるまでに、多くの人に世話になり、迷惑をかけた
きっとこれからも世話になり、迷惑をかけるのだろう
他人が救われねば、自分は救われないというのが大乗の思想だというが、
自分が救われねばやはり他人に何かなんてできないと慧海は感じる

慧海は救われて、苦悩がみれるようになった
じゃ、他人を救えるかと言われると・・・慧海は何もできない
そういう世話になった人を救うなんてできないのだ
慧海にできるのは、しっかり苦悩しろと言い、お勧めのサイトを教える位だ
他人を救うのは慧海じゃない、それは、その彼の中の佛の仕事だ
慧海にできるのは、ただ聞くだけ


すこし前から慧海はカウンセリングに興味がある
他人の話をただ聞くということは難しい
カウンセリングという事を勉強して、ただ聞くという技術を勉強してみたい
ちゃんと聞いて、その彼が自分の佛の声をきく時まで応援してみたい

寺に通ったせいか、そんなふうに考えるようになった


今月は18日が年末のお磨きで、忘年会もあるそうだ
その日が最後のお寺さん通いだろうなぁ

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