2012年2月5日日曜日

南無阿弥陀仏とは

インフルは熱がさがっても数日隔離が基本
急にできたこの入院患者のような暇な生活で佛書を読みつつ考えてみた


今更ではあるが、慧海は「南無阿弥陀仏」という言葉がわからない

住職は「なんまんだぶつ がわかれば勉強なんていらんよ」というのだから、
普通の衆徒門徒にはわからんのだろう

慧海がわからんのは、そういった難しそうなことではない

なんで「我が名を称えよ」といわれて「南無阿弥陀仏」なのか
「我が名」は「阿弥陀」じゃないか と

南無とは帰命である
帰命は全てをお任せすることだ という

それ、名前じゃないじゃん


南無阿弥陀仏とは阿弥陀の本願を名号とした とか言うのもある
このままじゃ、さっぱりわからん
本願の心を名詞化して、それも南無阿弥陀仏だということか?

逆向きの表現だと
一切を救うという本願を信じ、救いたまえと弥陀仏にお任せする、
その心を言葉にしたのが南無阿弥陀仏だとか
既に救われた、報恩の心を言葉にしたのが南無阿弥陀仏だという

これだと、名前ではなく誓いの言葉みたいな感じがする

やっぱり南無があるから、名詞にならない感じがするのだ


で、現実ではどうかとかんがえてみた

慧海が誰かに「困った事があったら僕を呼んで」という
実際に困った事があったら「慧海さんちょっと助けて~」とか呼ぶだろう

ああ、そうか

呼ばれる側は、呼べとしかいわないが、呼ぶ側は名前だけ呼び捨てしない
上司からなら課長とか部長とかつけて呼ぶだろう

慧海=名前=阿弥陀
さん:部長=敬称?=仏
助けて=気持ち=南無

ということになるんじゃないのかな?
そうみると、南無が入っていることが普通だな


南無阿弥陀仏は本願の心の名詞化という事の法は...
本願の心となると、弥陀仏側になるんだろう
そうすると南無という心は、お任せします ではなく、任せてくれになる

ああ、なるほど。 昨年の法語カレンダーにあった
「帰命とは本願招喚の勅命なり」 とはこの事なんだな

佛の擬人化は誤解を招くので、あえて慧海で表現すると
「慧海がなんとかすっから、全部任せろ!」
ということになる

たぶん、そういうことなんだろう


で、言葉を頭でわかってみても、問題となる全部お任せします
の心がわからなきゃ、南無阿弥陀仏がわからないw

頭で理解できなきゃ、なんまんだぶつ が口にできない時点で慧海は
お任せできてないって事だろうね
しょせん、自力から出てないってわかってる。でも、なんかすっきりしたw


では、次は本願を頂きたいものだなぇ
17、18、19、20 あたりと、必到滅度の願とかかな?
言葉通りにみると余計にわからなくなる真宗
大谷派の先賢の言葉があって、やっと日本語として聞ける
これが染み込むようになるには、何年かかるやら...

南無阿弥陀仏の懸念がなくなるのに4年以上かかったんだからねぇ
それも頭で理解しただけで、それでいいとすら思っているんだから…

慧海の信心獲得は、まだまだ先ってこった

心の底から、南無阿弥陀仏と言いたいものだねぇ...

0 件のコメント:

コメントを投稿