2013年1月3日木曜日

念仏が気持ちいい


昨晩は、スマホのブラウザで書いてたので、編集操作で表現したい事が
イマイチかききれませんでした。

と、いうか、今感じている事が記事に書ききれそうにないのですが、
残しておきたいので、書いておきます。

一言でいえば、念仏が気持ちいいのですよ。


自分のものじゃない念仏
捧げる念仏
無心の念仏

慧海自身を念仏に乗せてマルッと献じてしまって
慧海が消え世界の中に溶け込んじゃったような念仏です。

恥ずかしい言い方ですが、愛しい人に「愛している」と言葉を送るような気持ちよさ
お世話になった人に、心の底から感謝を伝えるような気持ちよさ
必要とされる気持ちよさ
この世に愛される気持ちよさ


なにもできない慧海は、念仏する事でのみ居場所が得られたようです。
いらない子慧海が、救うから念仏せよと求められ、それに答える形で
やっと必要とされた。認められた。生きる意味があった。

これが、救われたということなんだろう


2007年の4月頃に、いままで慧海が慧海だと思っていたものが崩壊し、
自己実現の為に生きてきた慧海は生きる意味がわからなくなりました。
休職中ということが、さらに、世の中に慧海を必要としない事を理解させます。

生きる意味も、必要性もない、生きる価値もない慧海

誰かに認めてもらいたくて、必要とされたくて、人とは違う事をしてきた。
努力し、勉強し、媚び、戦い等をしながら、私という人を発信してきた。
描いた自分が演じ切れなくなって、不必要な自分が嫌で空回りして、病んで…

ただ必要とされたかったんですね。
でも、他人に認めてもらう努力が無駄だと感じ、落ち着くところもなく
自分の醜さ、意地汚さと向かい合う日々を5年続けてきました。

でも、今はやっと落ち着いた気分です。


これが頭の作ったまやかしかは、時がたたないと慧海にはわかりません。
慧海自身、既に何を書いているのかよくわからない感覚です。
気持ちよさに駆られて指が動いているだけです。念仏酔いですかね?w


智慧の光に照らされて慧海が見えるようになった気もしませんし、
彼岸に渡った感じもよくわかりません。

慧海が感じているのは、慧海が慧海のままで落ち着いていられる事

決してこの世は慧海を害さない
もう、なんか、大丈夫って感じ

慧海もこの世に祝福と感謝と慈悲を伝えたい
とりあえず、念仏という形で…

 お寺の行事やら、得度やらもどうでもよくなっちゃったなぁ…
それ自体、居場所を作りたかっただけなんだって良くわかるから…


心が苦しい仲間たちが念仏を称えられますように…
南無阿弥陀仏

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