昨日は、お寺の勉強会でした。
初めて副住職が講師をされました。
話をするというのは、難しいでしょうね。
私のわかることしか話はできませんし、感覚でとらえた事は言葉になりません。
言葉にしてしまえば、理屈になってしまって感覚のままではなくなってしまいます。
話そうと思って、はじめて妄想であったと気づくこともあります。
副住職は、どんな事を思い言葉にしたのかはわかりませんが、
慧海には、逃げようとしている言葉にしか聞こえませんでした。
自分の言葉で感じた事を話されているので、悩んできた事を感じる言葉だったんですが、
その言葉の方向性みたいなものが、引きこもりになっているように感じました。
慧海と同じように…なので、ついイラっとしてしまいます。
そんな思いもそのままに頂いていくのが今の慧海ですw
ふと思い出して、亭主師の先頭ページにある豊徳寺さんの聞法の方法を再度読ませていただきました。
久々に読ませていただいたのですが、今は何をおっしゃっているのかを感じれました。
最初に読んだ頃は、あるがままにそのままに と今、今と意識したのを思い出します。
改めて読んで、ふとひっかかった所がありました。
自己の解決のところにこう書かれています。
4.つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるべし。この言葉の、清沢満之の「他力の救済」にある、
いつも自然の様子を思いおこすようでは、色々せんさくしなくてもよいと思いつつも、まだ自分への言い聞かせが残っているのです。徹底していないのです。 まだ、本当は不安なのです。まだ、お任せしていないのです。自分自身、納得がいっていないのです。つまり、「義なきを義とす」と知って、義なきようにはか らうのは、まだ義の立場なのです。
自然の様子を忘れ、忘れたことも忘れて、ただ、やるべき事をやり、すべき事をする。人の和を願い約束を守り社会を考えて 生活するのです。どんな思いが頭にわいてきても、その思いそのものになっていればいいのです。そのものになりきっていればいいのです。それでいいのです。
他力の救済を念ずるときと、他力の救済を忘るるときの言葉の逆のように見えます。
でも、いわんとしていることは同じように感じます。
自然の様子を思い起こすという事を、他力の救済を念ずる事と読んでしまったからでしょう。
むしろ、お任せすることが他力の救済を念ずると読むと同じだと感じれます。
慧海の感じた経験→仏書にその時の感覚とよくにた言葉を見つける→自分で言葉にする
→その言葉と違う言葉を仏書で出会う→理屈で考える・・・
言葉を捜してしまうあたりが、お任せできていないのか?とも思いますが、
人につたえようと思えば、言葉にするしかないわけです。
人に伝えるのは自慢したいからではありません。
慧海が頂いたものを世に還元したいんです。
どうしたらよいかわからないので、言葉にしているだけです。
言葉にすることは本当にむずかしい。
自然を教えるための阿弥陀の名であったというのは、本当に頭が下がります。
私たちはそんな先人と思いと智慧の中を生きて念仏する身としていただいたのだと
思うと、本当にかたじけない事だと思います。
慧海の思いなど関係なく、慧海に思いをわかさせて、行動させていく…
今はそれを慧海はお育てという言葉で表現してありがたがっています。
余談
ふと思い出して、十牛図をみてみました。
やっぱり文字を読んでしまいますが、誰かの説明よりも、タイトルと
その絵自体から感じる事の方が増えたような気はします。
(どんな意味かはあるていど覚えているからという理由もありますがw)
浄土教が名号にこだわった、先人の思いがわかるような気がします。
南無阿弥陀仏
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