2014年1月11日土曜日
”逆恨み”を紐解く
年初1回目の記事ですんで… 今年も宜しくお願いいたします。
慧海が認識している現在最大の執着は、一時期の上司達に対する逆恨みです。
慧海に非があり、その結果の上司の判断をうらんでいるので、逆恨みです。
どんなことがあったか慧海目線で振り返ってみました。
1.開発リーダをしていたが、プロジェクトを無事完了させられなかった。
→慧海の仕事の部下に引き継げと、「技術職」をやめるよう指示
→ 出向し「営業支援職」に変更
2.営業部門との協調と支援を依頼
→案件もってきたら考えるということで、うけいれられず
3.技術部門に戻りたいと相談
→大型の案件といっしょになら戻す と回答
・・・ この後、病んで、休んで、復職 ・・・
4.技術部門に戻り、昔の「技術職」のような仕事で貢献したいと相談
→会社の方針が変わったので、いままでの慧海は不要と宣告された。
仕事の仕方をかえるか、出向して営業支援をするかを提示 →出向を選ぶ
5.部署異動後、キャリアプランについて面談
→考え方は否定されなかったが、それが活かせる部署ができたら戻すと回答
部署はつくられることはなかった
→その後、色々あり「技術職」に戻る事をあきらめた。
6.グループ会社全体がWin-Winな関係を作れる仕事がしたいと意見
→ 自分が所属する会社の利益が最大限になるようにしろ と回答
→ 出向が解除され、また新たな領域の仕事へ・・・
上司はお客さんに「なぜかうちの部署にいる技術者です」と紹介する
あえてあげてみましたが、こうすることで、その頃の考え方がよくみえてきます。
・「技術職」という仕事に対する執着
→その頃のまわりからの評価や期待、権限に対する執着
・ 自分を認めて欲しいという欲望と必要とされなくなった無力感
・会社に対する甘え
自分の欲求、プライドが満たせていない事と、いじけ根性の問題ですね
プライドを守るために上司が悪いと過去に決め付けた為、
その頃の事を思い出すたびに、
無思考で、嫌悪感があらわれ、上司が悪いとなってました。
役職ある立場での発言でしょうから、逆恨みと表現してました。
お客さんと後輩はみてましたが、上司や幹部をみて仕事をしてはいませんでしたので、
会社がそういう役割の社員を必要としなくなっていた事に気づかなかったんですね。
必要としないものを売り込んでいたのだから、当然の対応だったんですね。
なぜ、こんな事を紐解こうとしはじめたかというと・・・
今、営業系企画部門から新商品の開発にあたっての協力依頼をもらっています。
「技術職」の頃の考え方を必要としている言われています。
その依頼をしてくれている人たちは、お客さんをよく見ている人たちで、
自社の方向が変わる前に一緒に仕事をした事がある人たちでした。
必要としていただけるのも、ものづくりさせてもらえるのもとてもありがたいです。
なのに、その仕事を積極的にやろうとしだすと、なにかが頭を横切り、急に
やる気を失うというか、「やるな!」 と無意識にストップがかかる感じがします。
そんな事がしょっちゅうあるので、心の中を覗いてみたというわけです。
結果、わかったことは2つです。
1つは、プライドを満たすための仕事の仕方を拒絶しているみたいです。これは、上に書いた、逆恨みと思っていたものを思い出して再評価した結果です。
気づいていない煩悩には駆られ、呑まれます。でも煩悩で動くと、苦しくなるんです。
苦しくなると、頭の中をみはじめて考えていた事を止めちゃいます。
再評価済みなので、同じ事がおこるかは様子見ですね。
もう1つは、トラウマってヤツだろうと思います。
拒絶・否定され社内で孤立する恐怖があります。
同じ状況になったらどうしよう というのが怖いんじゃなく、
過去の記憶としての恐怖がストップをかけるんです。
他にも、病気になって不整脈もでて、「会社に殺される」と思った記憶と
その時の、やべぇ死ぬのかも って思った恐怖があります。
休職中には生きている意味がわからなくなって、死にたくなってもいます。
これらが一連の流れの中にあって、 逃げろ、やめろ、と叫ぶようです。
たぶん、その時の恐怖感は再現時に内観できていればおさまると思います。
残る問題は、心身を削るかのようなものづくりをもう一度やるのか だと気づきました。
色々と思いがさわぎだします。
明日という無を切り開くには願が必要だと藤元先生の本にありました。
新しいものを創造するにも願が必要です。
慧海は、誰の為に、何の為に働くのか…生きるのか…
生活のみの為ではない、夢や欲望の為でもない。ましてや会社の為でもない。
安易に答えをだすものではなさそうだ。
こういう事を問いつづけるしかないんだろうなぁ。
うん。内観の念仏が足りないなw
南無阿弥陀仏
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>内観の念仏が足りないな
返信削除他力念仏に不足いうとるんでしょうね。
内観は自力なれば、聖道の行き方。称名ひとつに万善万徳すべて収まっている(我ら凡夫には、祖師知識は専無観称名のススメ)
しゃり様
削除コメントありがとうございます。
どちらかというと、この時の慧海は自力の内観の話でしかないです。
私に在るものの事を考えるとき、慧海は自力になります。
そのまま自力にとらわれて、他力の救済を忘れ苦悩しはじめます。
忘れていた事に気づかされた時、また他力の救済を念じます。
ずっとそんな事を繰り返して育てていただいているんでしょう。
きっと自力を用いるのも、他力あってのことなんでしょうねぇ。
わかりませんし、わかる必要もありませんが。
ところで、「祖師知識は専無観称名のススメ」の言葉の意味がわかりません。
よろしければ教えてください。
ありがとうございました。
「専無観称名」専ら無観の称名
返信削除・「専」専心の専
・「無観」観でなく
・「観」観察、内観の観
称名念仏のススメ
(行巻)
光明寺の和尚の云わく、また『文珠般若』に云うがごとし。「一行三昧を明かさんと欲う。ただ勧めて、独り空閑に処してもろもろの乱意を捨て、心を一仏に係けて、相貌を観ぜず、専ら名字を称すれば、すなわち念の中において、かの阿弥陀仏および一切仏等を見たてまつるを得」といえり。
問うて曰わく、何がゆえぞ観を作さしめずして、直ちに専ら名字を称せしむるは、何の意かあるや。
答えて曰わく、いまし衆生障重くして、境は細なり、心は麁なり、識颺り、神飛びて、観成就しがたきに由ってなり。ここをもって、大聖悲憐して、直ちに勧めて専ら名字を称せしむ。正しく称名、易きに由るがゆえに、相続してすなわち生ずと。
↓
凡夫に観かなわず、専ら名字をならへ、と
(化巻)
「正」とは五種の正行なり
「助」とは名号を除きて已外の五種これなり
↓
読・観・礼・称・讃の五正行のうち、「名号」以外五つ(読・観・礼・称・讃)は助業であって正定業でない、と
(一念多念文意)
「観」は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり
↓
観とは願力しること
しゃり様
削除教えていただきありがとございます。
言葉でわかったとか、わからなかったと返せるものでもないので、
ただ、ありがたく先人の言葉を頂くとします。
ありがとうございました。