全休先生が年末に書いた”慧海とタバコと救い”について記事を書いてくれました。
先生にとりあげて頂くのは、3回目位だったでしょうか?質問ふくめると・・・5回目位?
慧海の中に何か思うものがあり、あえて言葉にし、残しています。
その言葉の中に何か思うものがあったから、そこに言葉を加えてくれるのだろうと思います。
同朋として声をかけていただける、そういう事がありがたく、とてもうれしいです。
ホントありがたいことです。
以下が全休先生が追加してくれた言葉です。
過去に取り上げて頂いた際の記事がよめなくなってしまったいたので、
同様の事を回避するため、失礼ながら、全文を引用させて頂きました。
すべてのものは、愛着と瞋憎の火によって
迷妄・流転という火燃をあげて燃えている。
もしこれらすべてのものから厭い離れて
愛着(欲)を解脱することができるならば、
そのときこそ真の正覚に達したものである。
(火燃経)
慧海さんの12月28日付のブログを拝見しました。「救い」とは何だろうというテーマですが、「やっとコレで愛しかったタバコと別れられます。もう、ただのタバコです」という表現がとても面白い。「ただのタバコ」になるのに八年間かかったというのです。
坊守さんの考える「救い」とはどういうものなのか、この記事だけではよくわかりませんが、慧海さんは記事の中で「ひとつ執着がなくなりました」と述べているので、執着がなくなることを「救い」と理解していることがわかります。
仏教では、思い通りにならないことを「苦」といい、思い通りにするための努力を世間では評価しますが、仏教では思い通りにしたい「思い」の方を問題にします。わたしたちはなんでも思い通りにしたいのではなく、興味・関心のないものはどうでもいいのです。
自分にとり大切なもの、価値あるもの、意味のあるもの、つまり「執着」するものが人それぞれに違っていて、思い通りにしたい執着が人それぞれの苦悩をつくりだしています。慧海さんの言うように、タバコを吸わない人にはタバコが吸えない苦しみはないのです。
そういう意味で、わたしたちは「苦しみ」の裏側にある「執着」に気づいて、その執着はどこから来るのかと、さらに内観を深めるとよいでしょう。思わせぶりな言い方で恐縮ですが、執着するから悩みは深いが、執着がなくなれば「ただのタバコ」になるのです。
南無阿弥陀仏
慧海さんのブログを読んで
◇南無阿弥陀仏との対話 №27
執着があると、思いにとらわれて、苦しくなっていきます。
逆に、執着がなるなると、苦しくなくなるという事を感じています。
執着がなくなる→思いにとらわれず、ありのままに見える→苦しくない。
というような感じでしょうか。
それと同時に
ありのままにみえる→否定的にならない→心が穏やかになっていく
というのもあるように感じます。
阿羅漢に到達すると感動する事もなくなるらしいとお寺でよく言われます。
思いにとらわれなくなっていくと、そうなるような気もしなくもないですが、
執着がうすまっただけで、こころが落ち着くのだから、きっとその話は間違いだと思います。
テーラワーダの記事か何かで執着がなくなった結果として慈悲がうまれるという事を
読んだ事もあるので、そうなんだろうと思います。
むしろ、あるがままに感動しつづけるのかもしれません。まぁわかりませんが。
頭でどうこうしてみようとも、しなかろうとも、既に如来のお心の中です。
それでどうにかなっちゃたりなんかしません。
だからいくらでも悩むことができます。妄想することができます。
そしてブログに書く事で、思いを見る事で、悩みを忘れていきます。
ありがたく、かたじけないことです。
帰命尽十方無碍光如来
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