2013年1月3日木曜日
期待の念仏
眠れなかったので、座ってみた
何となく念仏でもと口にしてみた
口にしながら、如来は慧海をどうみるかと気になった
念仏を口にしながら考えるでもなく頭が動く
如来は慧海を救うと本願で誓われた
如来は慧海を信じている と感じた
何を信じてるんだ?
あ、そうか
慧海が念仏すると信じているんだ
そして、今がまさにそうじゃないか
この念仏は如来からの勅命、如来への返答なんだなぁ
口にしている念仏が自分で口にしている感覚をうしなった
念仏は私のものじゃないんだなぁ
慧海が慧海でいる感覚がなくなった
慧海のものでない念仏は皆の幸せを願うかのような心もちがした
まいったなぁ、もう念仏するしかないじゃないか・・・
そういやぁ衆生が念仏しないと本願が成立しないんじゃないかなぁ
そうすると衆生の慧海の念仏が如来をへて衆生に帰るんかなぁ
だから博愛的な気分になるのかなぁ
亭主師が最近よく書かれる「祝ってやる!」を思い出すなぁ
そんなこって慧海を救ってくださいという念仏ではなく
ただなんとなく口にする念仏でもない念仏を知った気になる出来事でした
2013年1月1日火曜日
明けおめ 2013
明けましておめでとうございます
年末は昼間バタバタと家の事などして、
夜はイマイチ体調がすぐれず、PCを立ち上げる事もなく寝てしまう
そんな生活をしてました。
ここ最近は、頭を見ようとか、思いを捨てようとかに意識することもなく、
全休先生や亭主師の記事や本を読んでは、そういうものなんだなぁ と思い、
体が重かったり、やる気がなければ、疲れているんだなぁ と思う、
そんな、普通の毎日をすごすようになりました。
たまに、これでいいのか?と思いますが、
何ができるわけでもないし、心の問題で苦しくなったりもしてないので
何もせず、普通に生活しています。
普通といっても、頭の中の声は聞こえたままですし、
念仏やら仏書を読むのもそう思ったから行動しただけ。
意識してやってた事が意識しなくなったという感じです。車の運転に近い感覚ですかね?
思い通りにしたい事があれば、そのように動くし、
結果、思い通りにならなければ、腹をたたせる普通さです。
腹がたったままなのも気分が悪いので、頭の相手をちょっとして
しょうがないと諦めてもらったりするような普通さです。
腹がたった時に、思い通りにしたかったのだと初めて認識するんですけどねw
慧海は、智慧の光をいまだしりません。
知りたいとは思いますが、知ろうと何かをする気はなくなりました。
秘法があって、それを教えてもらっても、どうしようもないでしょうねw
念仏しかないと教えてもらっても、その念仏すらできないのですから、
他の秘法もできやしないでしょう。
知るご縁があれば知るでしょうし、
ご縁がなければ寂しいですが、知らぬまま死ぬだけかと
今は、そんな慧海です。
余談ですが、
昨年、よく知る同級生が他界していました。
どうやら鬱だったそうです。
鬱の話をきくと、他人事とは思えないのですよ。
運良くこういう道にきて、とりあえず元気にキチ○イしてますけどねw
こんな慧海のブログですが、本年もよろしくお願いいたします。
南無阿弥陀仏
2012年12月19日水曜日
生き物だもの
風邪をひけば、体が重くなる
低気圧が近づけば、気分が滅入る
お腹が空いたり痛みがあったりすればイライラする
満腹になれば眠くなる
特に悩みが無くても、体に引っ張られて気分は変化するもの
気分に引っ張られて、頭は勝手に悩みを作り出す
頭が理解できる理由がないと、頭が落ち着かないから
その思考を放置しておこうと頑張ったりすれば、それも頭の思惑どおり
頭は考えるのが仕事だから
だから頭に理由を与えておくと悩みにならない
理由は、体が必要としているから
なぜ体が必要としているかは、知らないし無理に考えない
生きてるからしょうがない って 位で終わり
無気力な日々を送っていたものだと感じていたが、体が必要としていたらしい
無気力はよくない→また病気かも→なんとかしないと…
みたいな事になって、余計に息苦しくなって無気力になったのだろう
やる気が起きないのも、昔に比べて欲求が弱くなったのもあるようだ
アレが欲しいとか、コレがしたいとかがあまりない
あいつムカつくとかも少なくなったかな?まぁ攻撃されればムカッとするがw
そういうのが無気力な状態だからだと考えてしまったのだろう
体は体で勝手に仕事している
頭も頭で勝手に仕事している
そういうものらしい
慧海は今日も生きている
2012年11月24日土曜日
自業自得の世界
急いでいる訳ではないが、余裕がある訳でもない
歩行者信号が点滅しはじめた
走るのも嫌だが待つのも嫌だ
走って少しでも早く行くか、それとも次を待つか…
慧海には対象外の事について朝礼で話がある
関係ないじゃないかと不満がでる
慧海は対象外なんですよと他人に言いたくなる
そんな気分に従って、別のことをするか、
全体にあわせて、同じことをするか・・・
ただ何気ない毎日は、選択にあふれている
何かを決め、何かを選択しつづけて過ごしている
いろんな感情や関わりによって、選択しているつもりが、
実はそれしか選べない状況になっているのかもしれない
それでも本人は決めたつもりで選択している
選択した認識がなかろうとも選択しているものも多い
足を一歩前に出す選択
言葉を発する選択、考える選択・・・
あれこれ一々認識して選択してなんて動いていられないから
脳や体がかってに動いてくれる
そうやって、知ってか知らずか、何かを選んでは
その選択の結果が次の状況を生み、次の選択をする
選択しない選択でも、時は進み何か次の選択が必要になる
選択した結果がどうなるかなんてわからない
でも、それは自分が選択した結果。
そうするしかなかったとしても、
だれかの選択の結果によるところが大きかったとしても…
それを自業自得の世界というのだろうか
無限選択地獄とでもいうのだろうか
そんな世界で、正解を求めたら、苦しくていきていけない
でも正解を求めることをやめられない
決断し選択すると煩悩がみえる
より良い結果をえたい、望む結果を得たい、正解を得たいと
そもそも、正誤なんてないのだろう
自分にとって良い結果か悪い結果かを正解不正解というのだろう
ならば、選択した結果をただ受け取っていくしかないのだ
今の自分とむきあいつつ、その状況をただ頂いていくしかないのだ
慧海の煩悩によって選択されたものだったとしても…
そんな風には思う
西を求めてみたら、火と水の河に阻まれ、
渡る道を見つける事ができず立ち止まっていました。
戻ることもできそうにないので、あきらめて、河に飛び込むことにしました。
最初よりも、火も水も勢いがなくなったような気もするので…
火と水の濁流にのまれつつ、なんとか生きていこうかと思います
運がよければ、濁流が彼岸に渡してくれるかもしれません
やっぱり元の岸に上がって西を眺めるかもしれません
しょせん頭で考えている事ですので、妄想とかわらないのでしょう
そんなもんでも、とりあえず、河に入ったつもりです
渡れないと立ち止まっているより、気分はいいですw
自らを洲とし、法を洲として、流されながら生きていくとしましょう♪
なむあみだぶ
2012年11月20日火曜日
過去を振り返ってみた
先日、「自分でやった方が早い病(リンク)」
※リンクがまちがっていたので修正しました。すいません。
という本を図書館で読んでみた。
まさに慧海はこのタイプだ
色々と痛いところをグサグサとさしてくる本だ
先日泥酔した飲み会で、社外の人が「40になってそんな事言ってちゃ…」
なんて事を言われたが、何に対していわれたのかよく理解できなかった
この本を読んで、世間の上司は40の社員にどういう事を望むのかをしった
まさに、40にもなって だな
慧海の中ではいまだ30の頃と何もかわっていなかった
10年前、30の時に開発のリーダをやって、失敗して、社外に派遣になった
病んで、自社に戻って休職、そして復職
復職したものの、会社が求める人材ではなくなっていたので居場所がない
なのでまた派遣
他所は知らないがうちの会社では派遣に部下が付く事は少ない
だから一人で仕事をしてればよい
気が付いたら40
仕事面では何一つ成長のないまま40になっていたのだ
どこか自社に戻って昔の仕事のやり方で仕事すればいいと思っていた
それが必要ない人材である事に気づかないまま40なのだ
よくよく心をみてみると、今の状況は、他人のセイと思っている慧海がいた
思い出してみたら、プロジェクトが失敗してもいいから
終わらせる決断をしたのは慧海自身だった
今の派遣先に居る事も、今の仕事の仕方も慧海が決めた事だ
失敗の責任をとらさせて当たり前だった
今の派遣先から戻れないのも当たり前だった
30代の頃の考え方のまま、会社に兵隊はいりませんか?と聞いても
病んで無理の利かない頭でっかちな兵隊が必要なわけもなかった
兵隊なら若くて成長ある良く働く兵隊の方がよい
病気と日々の生活のことだけ考えてきたから、
仕事の事をすっかり考えないままになっていた
思考をみてきた感じでは、心の鎧がすこしずつなくなて
頭の中が10、20代の頃並みにまでシンプルになってきた
その結果、自己愛のみが顕著に感じられる
慧海が子供のころからもつ考え方が顕著に現れる
そういうものは、他人と接するときにわかる
そんな嫌になる慧海自身と、ちゃんと付き合っていかねばならないのだろう
ありのままの自分と向き合いつつ、他人と接していくしかないのだろう
とはいっても、努力してなんとかするのでもなく
ただ、流れに御任せして、起こった事を受け止めていくだけ
なんだけどね
流れに任せていたら、読んだ本をきっかけに昔を思い出して
こんな風に思いました ということでしかない のですよ
中身を見るサイトがあったのでついでに・・・
http://ji-sedai.jp/works/book/publication/jibunde/01/01.html
2012年11月19日月曜日
木彫り再開
寒くなってきました
休日、一人で家にいると外に出る気もしません
丁度かまぼこの板があったので、
久々に彫刻刀で木彫りをし始めました
義父が他界する前に彫っていた仏像は木が小さすぎて、慧海の腕では
これ以上は彫れない状態になってしまい、それっきり彫ってませんでした
今度は簡単なものでいいので、完成できるものをと思いつつ、
板で何を彫ろうかと考え、以前子供と行った資料館にあった
板碑なるものを彫ろうと思い立ちました
板碑は埼玉県に多く、地元の資料館によく展示されています
南無阿弥陀仏と名号がかかれていたり、キリークの梵字が書かれているもの、
阿弥陀佛や阿弥陀三尊が彫られていたりします
釈迦如来のものもありますが、阿弥陀仏ものが多いように見受けられます
供養の為に作ったとされるので、阿弥陀仏が多いのでしょう
で、南無阿弥陀仏と彫ることにしました
下書きして、蓮台も書いてとなるとカマボコ板ではちょっと小さく、
漢字が潰れてしまいます
キリークでは、わが名を称えよ とならないので名号を彫りたい
ちょっと考え、南無阿弥陀仏は全部音の当て字なので、
平仮名で彫ってみる事にしました
佛だけは既に音からはなれているような気がしたので、
なむあみだ佛としてみました
…
佛が潰れて読めないし、「だ」とくっついてしまいました…
仏の字か、ぶ にしておけばよかったかな と反省・・・
そして蓮台もイマイチうまくできません
板碑の写真をよく見てみると、葉のところだけうまく掘り込んでありました
もう一度資料館に行って、蓮台をよくみてみたいと思います
かまぼこ板ならまだあります
仏像彫りのレベルに近づけるよう、ちょっとずつ木彫り経験を積んでいきたいものです
彫っていると時間があっという間に過ぎます
楽しいのでそれだけでもいいかと思いますが、
見せられるものでもないですが、ブログにのせてみるのもいいかもしれません
載せるためには完成させるというこになりますから…
下手でも完成させたものを、いくつも作る。 クリエイターの基本かとw
2012年11月16日金曜日
信じるのではないらしい
先日のことです
声明的に念仏を口にし、ふと思い出し
慧海を救うと言われても、信じられないなぁ…
如来にはどのようにみえるのだろう …
人の心でわかろうはずもないか…
と考えている頭をみながら歩いていました。
信じられん
信じられん
そういう言葉がうずまく中、
聞こえるかのように、ポンと言葉がでてきました
信じてる
… あ!
その言葉が浮かんで、
ホンワカとした気分になりつつ、
瞬間的に思いました。
慧海が如来を信じてなくても
如来は慧海を信じてるんだ!
そう思ったのもつかの間、
また思考が作り出したものだろうと思い
すぐにホンワカ気分は抜けて、駅へと向かう道だけになりました
でも、どこか安心した感じです。
2007年4月に、慧海の中で何かが壊れ、全てを疑って過ごしてきましたが、
慧海を信じる如来というのは、信じたい気がします
日々みるともなく見ている頭ですが、何があっても不思議じゃありません
ただ、御任せして過ごしていくとしましょう
なむあみだ佛
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