2011年4月3日日曜日

門徒講座3

どんよりした精神状態のまま、2週間ほど過ごしていた

会社にとりあえず行き、蛍光灯をきった通路側の薄暗い自席で
PCをながめつつ、時間をすごし、日によっては電気の付かない
家にかえり、キャンプ用のランタンつけて、気力のないまま酒を呑む

そんな感じで、慧海がいまでもしっかり病人であることを認識されられつつ
昨日、義父の七七日法要が終わり、今日はお寺の門徒講座で2日連続お寺参り

七七日なんで、お寺の3Fに納骨も行ってきた
本堂で法要して、そのままお骨もって1分で納骨…w
実に楽なもんだ


さて、門徒講座3回目は、四法印と四諦と八正道の話

今回は婦人会の方々が一気にへって4人、男は得度した人と僕の2人だけ
婦人会の方々には難しかった ということなんだろうか…

今回、難しいし、こういう話はつまらないんだよ
と住職は何度も言っていた
次回から日本仏教の話だから、面白くなるとも…

慧海には四法印や四諦、八正道は実に面白いと思うのだが、
住職や、お寺関係者はあまり関心がないようだ
講座後に話をきくと、はじめから真宗の勉強ということで、やってるから
学校でも釈尊の話は言葉だけで、内容はさらっとながしてしまうものらしい
だから、四法印や四諦八正道についてほとんど考えてもこなかったらしい

言葉から感じのは、苦というものと向き合ってこなかった感じをうける
我々には仏陀や親鸞のような苦はわからん というようなことも言う
僕らの感じる苦は、彼らとは比べ物にならないと…
なにかを思って、そういう見解になっているのだと思うのだが…
住職がまだまだ救われていないのだな と感じてならない

まちがった表現かもしれないが、仮に救われている状態に段階があるとして
・・・二十願から十八願までの段階のように…
住職の言葉をきいていると、僕は彼より救われているのではないだろうか…
と感じる 主観的すぎて怪しいもんだが・・・

まちがいなく、僕の方が知識はないし、僕自身救いはどこだ?ともがいている
しかし、住職達の言葉は「阿弥陀様に救われる」と言ってはいるものの、
救われたい または 救われた と思っているのだろうか と思う

そのままでいいというのが真宗だ という門徒の言葉をきくが、
自我を否定することなく、そのままでいい というのでは何もかわっちゃいない
自我の否定、苦悩と懺悔、それをそのままでいいと肯定する他力があって
正しく苦悩をみつめつつ、これでいいんだなぁ なんて思うんじゃないかなぁ

本願ぼこりでも救われると歎異抄にある といって、自らを省みなかった
ならば、救われる事とはなんなんだろうか… やっぱ、よくわからんや



全休先生の記事を読むと、ショックをうけることが多々ある
亭主師の記事も、さらっと痛いことを書いてある
真宗の先生方や鈴木大拙師等の本も、ただの哲学書や単語解説とは違う
たとえば、中村元先生とか、ユンギアンの河合隼雄先生が書くような
仏教の話は上の方々の言葉とちょっと違う

同じような話をしていても、学問か説法かは、大きく違うのだよ…


今のお寺じゃ、本当に苦悩している人を救うことはできないのだろうなぁ…
何か慧海にできないものかなぁ…

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