2011年4月17日日曜日

経過観察

薬の副作用だか、”病気”と宣告されたことによる自己暗示だかで
体調と精神状態は悪い一週間だったが、陽にあたると少しよくなる
ここ数日は風がヒヤッとするときはあるが、日差しは初夏を感じるほどで、
昨日なんぞは、短パンで屋上にでて日光浴ができたほどだ

陽に当たると、どこかに飛んでいきそうな意識が返ってくる
逆に低気圧やら雨やらだと、意識がボーっとしてくる
屋内で光があたらない時間が多いと眠く無気力になる
…人間も動物なんだと認識させられる


仕事も暇でしょうがなかったが、4月に入りお客さんも動き出したので
仕事探ししなくてもやることがではじめてきた

机の座席は窓寄りに移り、蛍光灯をつけていなくても少し明るく
窓の先の空をちょっと眺めているだけでも頭のモヤが薄くなる

薬の副作用になれてきたのか、状況がちょっと変わったからか
再病みに反省し、ゆっくり頭のなかをみなおしたからかわからんが
とにかく、金曜あたりから気力がもどってきた

精神異常が顕著に感じられるのは、読書のようだ
異常だと本がよめないのだ
まず、本をよもうという気にならない
手にとっても、文字が頭にはいらないし、妄想がでてきて脱線する
ちなみに、マンガですら読めないのだ
前回の病後に読んだマンガの中には、ストーリをまったく覚えていない
ものがあって驚いた位だ…でもポイントだけ記憶にあったし
その時は読んだ気になってたんだろう…

そして異常であったと感じるものとして、全休先生のブログをの違いがある
異常前は頭で読んで反省しつつ、わかった気になるだけ
異常中は本同様読めない
異常後は身で読んで反省しつつ、楽になるような感じがする
直近だと、4/15も4/17も、ああ…と思う
4/11、12、13の記事もため息がでる。
こういうことを全休先生は普通に書くが、寺では決して聞けない内容だ


西洋文化による近代の発展の中には自我とキリスト教が中心にあるように思う
キリスト教はよくわかっていないが、日常生活と宗教観がずれてはいないのだろう
でも日本においてはどうだろうか
さらに言えば、慧海においてはどうだろうか
多畑を耕すように、狩猟にいくように自然と共に過ごしている時代とは違う
観念と言葉によって作られた世界
慧海はその世界で過ごすことが苦しくなってしまった
頭で仏教を学んでみても、世間に飲まれれば元の木阿弥

全休先生の言う「環境の支配を受けない自由な心境を確立するのが信仰」
というような信仰が慧海にはないないのだ
だからすぐ環境の支配をうける…


善智識たる全休先生に一度おあいしてみたものだ
思いの熱は文字より対面でのほうが感じられるもの
真宗は、「救われた人」にお会いせずには感じ取れないというものらしいし…

お仕事辞められた直後で、色々とお忙しいのだろうけど…


ちなみに、亭主師は意外とお近くで生活していらっしゃるようなので、
ご挨拶位はしてみたいのだが… 全休先生以上にNGだろうなぁwww

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