2013年10月12日土曜日

外から見る


昨日、会社帰りに築地本願寺の夜の法話会に初めて参加しました。

4月の異動で会社帰りのウォーキングコースに築地本願寺があるので
タイミングがあったら寄って、お西の正信偈の節をきいてみようと思っていたのです。

残念ながら、正信偈はなく重誓偈だったんですが、重誓偈にも軽く節がついているし、
そもそも、重誓偈をお寺で聞いた事もなかったので、新鮮に感じました。
先日も、築地本願寺で法事をされている方がいらっしゃったので、お経をきいていたのですが、
その際も阿弥陀経も正信偈もなく讃仏偈でしたので、やっぱり違うもんだナァと感じました。

法話の先生がおっしゃってましたが、福岡の古いご門徒さんでは法事は三部経を全部
あげていたそうです。3時間半かかるんだそうです。
昨今では、昭和の短縮版とやらで2時間になったとか、最近のご門徒さんでは阿弥陀経
だけというような感じで20分といった事をお聞きしました。
築地で、讃仏偈の前に仏説無量寿経と言ってたのは、大経の略式という事なんだなぁ
と理解しました。おもしろいものですねぇ・・・w

その法話会で2つ関心することがありました。

1つは、生活信条というものです。
昭和にできたものらしく、もちろん、大谷派にはありませんので初めて知りました。

驚きです。

残念ながら、直感的に嫌悪感を感じてしまいました。
慧海が勝手に想像する新興宗教のイメージがその言葉の中にありました。
きっと、本来持っていた浄土真宗本願寺系、俗に言う一向宗のもつ空気がこれ
なんじゃないかなと感じました。
一向一揆もおこるはずだと、感じました。

東は清沢満之師を筆頭に、曽我量深、安田理深といった先生方によって、
哲学的な理屈っぽさが組み込まれて、今の東の雰囲気なのかなぁと思ってます。
曽我量深師の歎異抄聴記の4ページに
当今は仏法について、ことにわが浄土真宗におきましては、内外のことがらにつきまして第二の再興を要する時期に再会していると思われるしだいであります。時代相応の真宗教学の再建ということが諸方にさけばれる


とあります。
昭和17年ごろの事だそうですが、その歎異抄聴記を読んで感じる事は、
昭和中期に示されたという生活信条とは大きく違うと感じたので、驚いているのです。

昔から信仰の強い地域では東も西もかわらないのだろうとも思います。
にわか門徒には、ホントびっくりしました。


2つは、法話をきいていた門徒さん(たぶんお坊さん)の振る舞いです。
法話の中で、「佛」「経」「釈迦」「阿弥陀」という言葉や、なるほどと思う言葉があると
「なまんだぶ なまんだぶ」と声をだして念仏するんです。

感謝の言葉として南無阿弥陀仏と念仏しろ
念仏は声にだしてしろ

という事は学びました。
とはいっても、静かに法話をきいている人々のなかで、数秒おきにまわりに
きこえる声で念仏をする姿は、汚い言葉で申し訳ないが、きもちわるい と
感じてしまいました。
 でも、それが、ある種の信仰の姿であり、慧海も無宗教の人々からすれば、
おなじように気持ち悪い人なんだと気づきました。

そういう場所ですし、教わったとおりの事ですので、なにもおかしくはないはずなんです。
そうなんですが、背中掻きながら感情のままに念仏を口にしているようにみえる姿に
慧海は嫌悪感を感じてしまったんです。
 慧海にとってはありがたい教えですが、まったく関心のない人からすれば、
それはうけいれがたい、嫌悪の対象になるのでしょう。

非アニメ好きの人からすると、アニヲタが嬉々としてアニメの話をするのと
同じ位ドン引きな姿なんだと思います。
子供向け美少女アニメのどのヒロインが良いと飲み屋で話す知人がいますが、
深夜アニメをみる人でも、その彼を否定します。
そういうのが好きでもいいけど、同好の人以外には、口にしてはいけないんです。

慧海にとって仏教というのは生活の一部化してしまっています。
心の観察とか、念仏とか、仏書を読むとかがまったく無い日は既にありません。
慧海にとって、仏教関連の話をすることは政治の話より普通の事なので
ちょっとしたきっかけがあれば、つい仏教関連の話がでてしまいます。

思い返せば、嫌な気分にさせた記憶がでてきます。
きっと気持ち悪いと感じたんだろうなぁ と改めて気づきました。

今度、お寺のI氏と、東の真宗会館に行って法話を聞く事になっています。
末寺とちがって、雰囲気が違うのかもしれません。
初真宗会館なので、ちょっと楽しみです。

1 件のコメント:

  1. >変わったと思ったのは変わりたいと思っている自分の思い込みで、実は何も変わらず此岸にいるのかもしれない。

    そこへ気が付きましたか?!

    しばらくのあいだ、浄土の門を、頭一つ入れ覗き込んだり・後ろずさったりのご様子。
    眺めたり・見(観)たりしているうちは、後ずさりの門外。

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    末燈鈔(十)に、
     浄土のごういん決定すとおおせられ候う。これめでたく候う。かくめでたくはおおせ候えども、これみなわたくしの御はからいになりぬとおぼえ候う。

    また、末燈鈔(九)に、
     ききわけ、しりわくるなんど、わずらわしくはおおせ候うやらん。これみなひがごとにて候うなり。ただ、不思議と信じつるうえは、とかく御はからいあるべからず候う。おうじょうのごうには、わたくしのはからいはあるまじく候うなり。あなかしこ、あなかしこ。
     如来にまかせまいらせおわしますべく候う。あなかしこ、あなかしこ
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    「まいらせ」は、降参の「参」という字を使いますね。
    何かわかったり、○○したら、し「た」ら、アウト・・・。ご用心を

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