慧海は宮城谷昌光氏の中国本が好きである
中国古典の頃の話がおおく、名君や賢人等偉人の話だが、
偉人が偉人すぎなくてよい
上司や同僚、部下に苦しむサラリーマンのような
偉人の苦悩を描いているのがよい
病んだ時、本が読めなくなった
復職期には、仏書以外の本を殆どよまず
夢とか欲とか名誉の話が嫌になっていた
宮城谷氏の本も、お気に入りのARIAというマンガも
手に取ることができなかった
夢とかで表現する欲求行動がうんざりだった
元気になって、佛教勉強も進み、欲とかの煩悩との付き合いを
すこしずつわかりはじめてやっと宮城谷氏の本を再びとることができた
そして、先日読んだ本を読んでて気づいた
氏の本にでる偉人達の多くは、大事なところで
天に問う
天に任せる
天に従う
天をみる
ということをする
氏の書く偉人達はどこか我を離れたところがある
苦境に立っても天の采配や天の試練となるし、
私と天と先祖・国の問題として物事を捉える表現が多い
氏の中では老子の世界観か、日本人がもつ神道・佛教感なのかはわからないが
慧海には佛お任せしつつ、世間をちゃんと生きる人の例に感じた
昇進はしたい
給料は多く欲しい(領地は欲しい)
体調を壊すほどの仕事や嫌だ(戦で死にたくない)
あれや、これやと思い通りに物事をすすめたい
等などありつつ、
な~に天がみている
行いが天にあわなければ、物事がすすまないし、
天にあえば、そのようになっていくだろう
と、どこか結果をほっぽりだしているのだ
やるべき事はやる
やらねばならないと思うことを提案してやる
出来る限り頑張ってやる
それでどうかは、天のみぞしる
そんな感じのただ楽しく読んでいた、宮城谷昌光氏の本が
慧海の中で違う姿として映り始めた…
やっと、憧れもうんざりさも感じずによめるようになった気がする
時間つくって、もう一度読み直してみようかな
読めてなかった言葉が読めるようになっているかもしれないw
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