2011年10月1日土曜日

「信」って信じる事と違うと思う

新聞にどっかの仏教系新興宗教が娘に修行をさせて殺してしまった記事があった
修行だから虐待じゃない という親のコメントと、
千日回峰行は修行であって虐待と言わないじゃないか とその宗教の人の
コメントが書いてあった

釈尊は苦行は必要ない と言ったとかいう
であれば、苦行は釈尊の佛教ではないか とか思う

こうすれば私は幸せになれると、信じ込んでいるんだろう
宗教というと、こういった盲信してしまう人の話がおおく、
宗教はあぶない なんて事をいわれるようになる
残念だが、しょうがないことなんだろうなぁ


慧海は、なにかを信じてる宗教者は何かが違うんじゃないかって思う
信仰といい、信心といい、信 と言うが、何かを信じなさい
という意味での言葉ではない
むしろ、何かを信じ、何かに依存するような事を禁じている

こういう言葉は、曽我量深先生の本にも、
全休先生(濁川先生の頃の?)記事にも、
亭主師の記事にもそういう事が書かれている
だから正しいというのも、正しくはないと思うが、
慧海の頭の中をみてきて、感じたの事の一つとしてそう思うのだ

極論すれば、お経に書いてあるから正しい と信じることも
違うんじゃないか って思っている

とは言っても、慧海の思いを信じる事が正しい とも思わない


誰かの本に、信 という言葉の説明として
悟った事を信という みたいな意味の言葉があったように思う
その言葉を見たとき、何でそれを「信」なんて言葉にしたのかと思った
違う言葉なら、誤解はしにくかったかもしれない…
まぁ信って言葉が何を指そうとも、人は月をさす指をみて月をみないと
いうのだから、しょうがないんだろうね

その辺に売ってる佛教とかの本では、月をさす指についての話を
している位だものね


慧海の側からは、何一つ信じるものなど無いのだよ

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