2010年11月28日日曜日

それしかない

慧海に信はない
信仰心もない

だからこその念仏の道だと思いたい

どこぞやにいる阿弥陀様とやらがなんとかしてくれるとは思っていない

慧海が慧海を救わずして誰が慧海を救うんだ?

それが慧海の努力でなせることではないとは思うが
誰かに助けてくれと願って助けられるとも思っていない

…いや、助けてくれと願えば助かると思っていた時期もあった
でも、色々としているうちに、それは違うと思うようになった

誰かがなんとかしてくれたりなんてしない
自分の問題を解決するのに外に何か求めてもなんともならない

なので、外にある阿弥陀様とやらがなんとかしてくれるとは思っていない

事件は現場でおきているんじゃない
事件は己の頭の中でおきているんだ


それでも念仏往生の道はあると思いたい

矛盾しているようでもあるが、慧海の色々あった中の一つには
弥陀仏は慧海の中にある というのもあったりする

屁理屈をこねるならば、慧海の自我が空じられれば、
それは慧海ではないのであろう?
空である間だけでも、それは阿弥陀如来なり大日如来なりであろう?
であれば、慧海の中の弥陀仏が慧海を救うのはあるかもしれない
慧海も未来において無上仏…


でも、自我を空じる事ができなきゃダメじゃん
それができてりゃ、とっとと彼岸に渡っているんじゃね?
慧海のしってることで言えば、念仏、懺悔して、
慙愧の念で過ごすことで自我はちょっと静か って事くらいか…?


だとすれば、ただ念仏する以外に何があろうか

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