2010年12月31日金曜日

本年も大変お世話になりました

今年は病的な症状もなく、仕事もそれなりであったため、
心の観察を怠けていた結果、不調に陥り、
結果として、再度観察生活をやり直すことになった

切り替わりは、ちょうど濁川先生がお隠れになられるというあたりが
一番迷いまくり、全休先生として再出発されたあたりで、立ち止まり
慧海が土地の問題でブログの引越しを行って、やり直しが始まる

迷いまくりのこの年は、色々と期待やら欲望やらがあふれていて、
それが果を結ぶ前だったので、特に苦しさも無く聞法も忘れてきていた

過去記事をみかえすと
・何々を買った
・仕事が忙しい
・風邪を引いた OR 体調が悪い

というような事ばかり書いていて、心の問題は殆どかいていない

結果、不調に陥り反省するに至るのが今年だったように思う
何度も体調をこわしつつ、それでも生活は変わらず、
体調も精神的にもちょっとアレな感じになり……… 最終的には
11/6ブログから慧海が変わっているのだが、おわかりになるだろうか

11/5 に休みをとって家族で遊びに行く予定だったのだが、
風邪で1日寝ていることになった
久々に一人で布団に包まって、何もしない1日を過ごし
そこで自分との対話なのか妄想なのかが行われた
そして、やっとリセットされて11/6のブログになるわけだ

体調が悪くないと慧海は慧海でないのかもしれないw
病気等で気分が落ち、地面にまで落ちてこそ、両足が地につく…
慧海は一人で静かに布団にもぐっている時間が必要なのかもしれないw

その後、寝る時間を増やしたり、歩く時間を増やしたりすることで
慧海の中で少しずつ静けさが戻ってきた

今までは、信心も得られないし仏道も歩けず欲望のままに生きる道に
戻るんだろうかといった不安と、でも、なんかやってるうちに信心とか
獲られないかという変な期待みたいなものがあった

今の慧海は、宿善もない根本的にダメなヤツなんだから、
信心も仏も無く、タダやれることをやるしかない
という地点に立っている

我執がつよくて、ケチで、怠惰で、自尊心の高い凡夫以下なのだ
既に燃え盛る炎は時と共に鎮火し、後生の一大事という感覚も薄れた
もちろん、火が無いわけでもないし、後生の安心はない
なのに、助かりたいと思う気持ちが減ってしまった

既に、昔より楽にはなった
とはいいても、観察を止めれば、慧海は慧海の思いに呑まれて苦しむ
それでも、慧海はココまで楽にしてもらえたので、もういいや…

これで信心悟りの智慧など得られようはずもないだろう

こんな慧海でも、いままでで気づけた事がある
今まで教えていただいたことがある
これからも、教わり、気づき続ける生活はしたいと思う
そして、自分の観察は続けていくしかないのだと思う

それがなければ、普通に生活ができなかっただろう
キチガイの頭で社会復帰はできなかっただろう
今でも頭の中は異常なんだと思う

狂った頭を観察し、感じながら生活するという話を普通の人に話しをしたら
未来や過去とかの不安から気を紛らわしているようだと言われた事がある
普通の人にとっては今より、過去の反省と未来の希望が大切なのだから、
それを妄想としてしまうのは、普通ではないだろう

慧海にとっては未来や過去に思いをはせれば、いらぬ苦悩を増やすだけ
こんな感じで慧海は慧海の理屈でモノを考えているのだ・・・

そんな狂った慧海が慧海のまま、普通に生活する
すぐに期待したり欲望に取り込まれては怒りに駆られる
そんな無明な生き方しかできていないが、観察しながら生きていける

来年もこの身ひとつで、煩悩の林の中で遊びながら
観察から気づいた事を書き留めていければと思う

慧海のための慧海のブログでしかないが、
そこに同じような苦悩を感じたのなら、
慧海の愚痴が誰かのヒントになる…といいなぁw


今年最後に…

講談社刊 五木寛之著「親鸞 下」に「無戒」をこうかいてあった
無戒であるということは、仏法の常識や世間の常識など、それらのすべてにとらわれず自由に生きることをいう。あらゆる習俗、行儀を無視して、約束事にしばられずに生きることじゃ。 P19
慧海は、真宗には戒がない…それは戒が必要ないから とだけ思っていた
この五木氏の表現は、破戒ではなく、無戒ということ…
たぶん自然という事、ありのままという事を表現しているんだと思った
真宗門徒 慧海も無戒の宗派の徒として、自らに要らぬ戒を課せぬようにしたいなぁ

といったところで、本年最後の記事とさせて頂きます
乱文、駄文、長文にお付き合い頂きありがとうございます

来年も宜しくお願い申し上げます
良いお年を

南無阿弥陀仏

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