2011年9月10日土曜日

これが 御任せ ってことか

先日、会社の元同僚O氏とチャットしていた
その時に、慧海は流れに任せる事しかできないのだ
という事を書いていた
ああ、そうか 流れに任せていたのだな と改めて気づいた

流れとは、自然、縁起、時間 そういう流れだ
動いているようで動いていない
流れに任せているだけなので、慧海は止まっている
流れの外から眺めていれば動いているようにみえるが、慧海は止まっている
そういう流れだ

ブログを書き始めて勉強をしていた頃、宿業感というものをなんとなく
理解というか感じて、とても楽になった事があるが、
その頃、自分を客観視するという事について妄想していた事がある。

激流を小船でながされていく自分を上からみている妄想だった
小船の上でじたばたする慧海のイメージがあった
苦悩が減れば、小船にのってゆったり という感じにでもなると思っていた
そういう妄想だった

同じイメージで表現すると、
今は小船もなく、水の中にそのまま入って流れている感じだ
流れに逆らうことなく、あっちこっちに漂っている
流れが変化なって一喜一憂してみたり、石にあたって痛いと思ってみたり
障害物に不安になってみたりしつつも、ただ流れにまかせている
もがけば沈む という意識がある だからもがけない
だいじょうぶかよ~ とか、痛いナァ とか 言えるときに言うだけだ

いや、それも、また流れ次第かと思えば、慧海がただの流れであり、
小船の中にたまった水のようなものなのかもしれない
川の流れに影響され、中の水が波立っていく
川の水が入り込み、中の水が外にこぼれる
どこが慧海であるのかも定かでなくなりつつも、
小船の中の水が慧海なのだろうと妄想する

そんな慧海をみている慧海がいる
そんな感覚を感じている という認識をしている慧海がいる


彼岸に渡った感じは、わからない
浄土を見た感じは、わからない
佛に遇う感じは、わからない
光をみつけた感じは、わからない
信じるものにであった感じは、わからない
智慧を得た感じは、わからない
救われた感じは、わからない
それらの歓喜の感じもわからない

慧海は、いまでも蒙昧のままだ


ただ、もう、どうしようもないのだ と感じる
何もできないのだ と感じる

でも、この先何かあっても、どうにかなるんじゃないか とも感じる

だって、何もできないのだもの

何もわからぬ、何もできぬ それが慧海だったと思うのだから
ただ、なるように任せるしかないではないか

この世は、なるようになっている
この世は、なるようにしかなっていない

慧海も自然の一部として、なるようになっていればいい


あえて言えば、これを「御任せ」といい、
もしかすると、これが「他力」というのではないだろうか


しかしながら、御任せしてみたところで、煩悩は消えない
人だからしょうがない
煩悩は愚痴として口から出たり、ブログに出たりする
愚痴が出るからといって、苦悩しているかというとそうでもない

女性は「ただしゃべりたい」のであって相談しているのではない
というが、それと一緒で、口にするだけ 状態になっている気がする

何もかもが流れに任せているのだから、何だかんだと動いてるようでも、
本気で悩んでいないのだ

口にするしかないような流れだったのだ

口にする事で何かがかわるような、自分の意思のようなものを感じはする
じゃ、本当に慧海が何かしたから変わったのかはわからない
口にしない選択肢が本当に慧海に与えられていたのか?
選択肢があるように思えて、実は一つしか選べないようになっている
過去から続く色々な因縁があって、
それを選ぶ事が良いと思うようになっている
確かに選んだのは慧海かもしれない、口にしたのは慧海かもしれない
でも、そこまでに到達する思考が慧海だけのものではないと思うのだ

だから、苦悩したりしなくなった
残念に思ったり、悔しい思いをしたり、うれしい思いをしたりする
欲もあり、怒りもあるし、満足も不満もある
でも、ただそう感じている事に気づくだけなのだ

だから、足るを知る とかいう言葉すら必要ない
足る足らない、それすらも任せるしかないのだから


やる事があって、やれるなら、ただやればいい
考えなきゃいけないときには、ただ考えればいい
遊んでいい時なら、ただ遊んでいればいい

ただ、それだけ なんじゃないかな


感覚を記録しようと、余計な言葉をたくさんかいているが、
帰敬して丸4年がたとうとしている、慧海の現在の心境である

自然のままにすごしていきたいものだ
櫻のように…
空のように…

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