2011年9月14日水曜日

宮城谷昌光氏の本2

文芸春秋社発刊の宮城谷昌光著「他者が他者であること」を読んだ

気になった言葉をちょっとだけ引用してみたい

---自分の写真は、へただ。
と、認めざるをえなくなった。あとから考えれば、そうした意識まで自分を突き落としたことが、よかったようだ。自分は写真がへただと思えば、写真のうまい人の話を素直にきけるし、月例の選評も神の声のごとくに心にしみる。心のどこかで、自分の写真はいいのに、他人は見る目がない、と恨みが残っていると、たぶん上達ということはできない。
P86-87

宮城谷氏が写真の投稿をしていた30代前半頃の事をかいているエッセイで
自信満々だった氏の投稿がかすりもしなかったという事から来る話だ
人は頭が下がらねば耳がそだたない と全休先生の記事を通して学んだが、
佛や天に問うような人は、なにかしらで頭が下がる思いを経験するのだろう
どこまで下がったのか、何に頭がさがったのか にもよるとは思うが…
佛や天や自然に頭がさがったら、この世で頭をあげようがない

この後、写真の話を書きつつ哲学的な言葉がでてきて面白い
亭主師の写真の記事もあり、慧海の気分もあり、何か写真に関する
流れがでてきているような気がする…

新しいコンデジを買いたい言い訳にすぎないかなw

次に、表題作 他者が他者であること というエッセイから

自分の存在がそれほどあやうく、無いにひとしいのに、他者はどうなのであろう・ここで少々わかりにくいことをいうが、それ以前の他者はいかなる者でも自分の内なる他者であった。自分の感性と理性とで包含しうる他者であった。ところがそれ以降の他者は自分の外なる他者で自分の安危にかかわりなく存在する者であり、理性ではなく悟性をそなえはじめて理解の糸口をみつけうる存在であり、そうでなければ感情によって多少の出入りはあるがまったく無関係な存在である。そういう他者がこの世に、この世界に、盈ちていて、おおかたは社会構造などによって無自覚に助けあって生きている。
P155
小林秀雄氏のいうような悟性という事がわかってきた事から書いた言葉のようだが、こういった言葉がでてくるとは思っていなかったので驚いた
慧海は、他者が自分の内なる他者であると気づくまでで、
外の他者には最近気づいたばかりだったので驚いたのだ
外の他者、外の世界を知識と妄想以外で認識する事は難しいと思うのだ

その後に、織田信長の焼き討ちと近所の家事は同じようなものだとか、
「他者がみえることと歴史がみえることとは、たぶんおなじことであり、
 それによって自己がみえる…」と書かれている。
歴史作家ならではの表現かと思うが、実に仏教的に感じてしまった

他者がみえることと縁起がみえることとは、たぶん同じ事では???

なんて思いながら読んでみた

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