2011年5月5日木曜日

寝瞑想とかでウダウダやってみた

2日は休みをとったので、久々に一週間ゆっくりできた

藤をみにいったり、部屋を初夏仕様にしたり
壊れたマッサージチェアを修理したりしつつ
憂鬱さをじっとかんじてみる余裕がもてた

主観でみれば、あれやこれやとありはするが、
どれもこれもなるようになっていた
そこに、ああしたかった、こうしたかったと
主観をまじえるところに苦しさがある


自分の評価とか、立場とか、目標とか そういうものを
気にしだすと、慧海は必ず苦しくなる
昔は期末と期初の面談の時だけだったが、
近年は期初、期中、期末に面談、日々目標の充足はどうかと言われ
会社にとって、慧海の価値はなにか と問われる
入社したころは、それほどうるさくなかった
うるさく言い出してからも、大きな案件メンバーになってると、
細かいことは無視して案件対応で一杯だといいはってもいられた
仕事がなくなると…なにかしなきゃならなくなる…
…復職直後は、評価なんてあってないようなものだと知っていた
もうそろそろ…ってことになると、評価がでてくる

困っている人の手助けとかしていられればいいのになぁ なんて思う
が、そんなのは、サラリーマンとしては認められないのだそうだ

で、思い通りに物事をすすめようとか考えて、アクセクして…
思い通りにいかなくて苦しくなる
苦しさが続くと、病気に逃げる
頭が、体がそれが楽だと知ってしまっているから…
今回の異常がひどく出る前に頭の中がそっちに逃げようとしていたのを知っている
いろんな思考を全部みていた

で、ああなった

まわりの人の色々なかかわりと変化も見えていた
その先につづく今も理解できる
そこに不満をもつ必要などないはずなのだ…

なるようになっている…
宿業なんだろうなぁ…


日々の社会生活と、仏教的生活を統合できないでいる
日々に偏れば、苦しくなる
仏教的になれば、普通の社会人との会話ができない
ほどよく というのがあるのだろうか?
突き抜けてしまえば、問題ないのだろうか?

そのあたりはよくわからんが、この休みで気づいたことがある

慧海はそれなりにPCを思い通りに操れる
それはそれなりな知識と経験があるからだ と思っていた
ふと考えると、慧海がPCを操っているのではなく、
慧海はPCに操られているんではないだろうか?
慧海はPCが期待通りに動かない事をしっているのだ
それでもPCがなければ目的を達成することができない
だからPCが期待する操作を慧海は行っている
目的を達成させる為に、受身でいる
目的に合わない事でも…たとえばエラーとかでも…それなりに処理する

人も会社も思い通りにならない事はしっているのに
人や会社の期待する行動を慧海は行っているのだろうか?
使われるだけで損しそうだし…
評価と関係ない仕事が増えても困るし…
期初と期末で差がでると怒られるし…

目先の主観にとらわれる姿がすぐ出てくる…

上司やら会社やらの期待する行動がとれていたとすれば、
それが上にどうみえるかは、想像できるじゃないかw

自分の目を暗くして世界のゆがみを増やしてばかりいないで
個我が小さくなるような生活を社会で実践してみるしかないではないかさ

内観療法の元は真宗のある宗派の奥義
それを行い、また、期待できる社員にも行ってもらって
懺悔の生活を送りながら、会社を大きくした人もいるというのだから
たとえ悟りをえていなくても、仏教的生活と社会生活の両立はできるはず

むしろ慧海は仏教的生活が緩むことで、社会生活もおかしくなっている


慧海には自力が足りない
限界前に逃げる慧海だから、自力が尽きることがない
どうやらそういうことだと気づいた

十九願からでも二十願からでもいい
浄土にうまれさせてもらおうじゃないかさ
そこにいかなきゃ始まらないんだからさ

正解なんてしらんから、真宗が難しければ禅でも何でもやってみんべ
やれることしかできんのだから…

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