2011年1月4日火曜日

一人称慧海

最近はブログでの一人称に「慧海」を使っている

自我の叫びを表現するときだけ「俺」だったり、一般的な自己を表現するのに
「自分」をつかったりはしているが、私や僕の意味では「慧海」だ

仕事でも、この文体で経験や主観に基づく文章を書いていると
つい「慧海」という一人称を使いそうになってしまうときがあるw

一人称を慧海にしたのは、ただの思いつきではあるのだが、
そもそもこの名前は、リアルで生活する僕ではなく、
佛弟子として帰依した仏教徒としての、ある意味誓いのような名前だ

飛躍した表現でいえば、将来佛になるとすれば、それは僕ではなく慧海である
とすると慧海は修行中の菩薩の名前ということになる… 言いすぎだなw

とにかく、僕と慧海は同じであって同じではない

実際に慧海として文書をかいていると、意外と客観に立ちやすい
三人称の文書を書いているかのような感じだ

俺はどうしたいのか ではなく 慧海はどうしたいのか

なのだ
これだと、自分の煩悩を自分のものではないように見ることができるのだ

慧海は慧海であって慧海ではないのだよ なんて思うw


こんな風に、ブログで慧海は、慧海は と書いていた為か、
ふとした瞬間に、頭に

慧海…それでいいのか?

と問われてみたり、もっとシンプルに

慧海!!

と呼ぶような言葉が湧き上がる事がある
だれに問われているんだ?誰に呼ばれているんだ?
とちょっと不思議におもったりする

ふとした瞬間 ということだと、
とつぜん 「な~んま~んだ~ぶぅ~~」
と鼻歌のように念仏が口からでることがある

ちなみに、この念仏の節は勤行の時の節ではない
法事か葬式の時にきいた住職が称える念仏の節な気がするが…わからない

住職の念仏というと、法要の最後に住職が小声で称える
「なまんだぶなまんだぶなまんだぶなまんだぶ
 なまんだぶなまんだぶなまんだぶなまんだぶ」
というのもなぜか耳に残っている
多分10回いってるんじゃないかと思うが8回程度のリズムで耳に残っている
その8回のリズムでふとした瞬間に慧海は念仏を口にする事もある
祖母が称えていた念仏が8回+2回だったからかもしれない

慧海の名を呼んだり、問われたり、念仏を口ずさんだりするのは
どれも自力ではないなぁ なんて思うこともある

他力がわからんから、よくわからんけどねw

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