機の深信 と 法の深信 という言葉がある
機法一体とかいう言葉もあって、
両方の深信が必要みたいな書き方がされている
慧海の理解で表現すれば、
機の深信 というのは、煩悩だらけの慧海は助からん と気づくこと
法の深信 というのは、慧海は(弥陀仏に)救われた と気づくこと
ということになる
慧海には、法の深信がよくわからない
それはダイブ前から認識できていた
弥陀仏に心のソコから助けを求めることができないからだろうか?
東は機の深信を、西は法の深信を大事にする とか言う言葉も見たことが
あるが、宗門の問題ではない事もわかっている
今日、春秋社刊 中村元著「温かなこころ」を読んでいて、
温かなこころ=慈悲 という言葉がかかれていた
それをみて、なぜ慧海に法の深信が育たないのかに思いあたるものがあった
慧海には温かなこころが足りないからだ
慧海は弥陀仏の智慧と慈悲が、機法と対比されると思っているのだが
利己的すぎて、慈悲がないのが慧海だ
そんな利己的な慧海の姿ばかりが見えてくる(機であり智慧?)ので、
地獄が我が棲家という心にはなっていくのだが、
それでも救われていく(法)という明るさは慧海には感じ取れない
機法一体にならないから、信心がない
信心、悟りがないから慈悲が育たない
人が嫌いだし、温かいこころがないから、慈悲の芽がない?
なんてことを感じなくもない
慈悲がないから布施をするなんてことも、なかなかできない
ケチな慧海でもできそうな無財の7施というものが、同書P39 ~にあった
1.憎まず、好ましい眼差しをむけるだそうだが、これすらできるか難しい
2.嫌な顔つきをしないで、にこやか、和やかな顔をする
3.荒々しい言葉ではなく、やさしい言葉をかける
4.身をもって尊敬の態度を示す
5.よこ心をもって、他人と和らいでよいことに努める
6.座席を譲る
7.他人を泊める
人間的に未熟なんだと反省せざるをえない
テーラワーダには、悟ってないやつに真の慈悲はない
みたいな言葉があったが… 慈悲の心とは難しいものだ
慧海が救われれば、慈悲の心にも目覚めるやもしれない
そうなれば、心の底から友人たちに「自分の為に内観(念仏)をしなされ」
と言えるんだろうなぁ~
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