2010年10月15日金曜日

やっぱり迷い

全休先生の「無分別智」と言う記事にこうありました

 内観の念仏をすすめています。内観とは自分の心を観察することで、禅宗などでいう瞑想(戒定慧の定)と同じことです。少しでも心を観察することができるようになると、いろんな思い、感情、気分が次から次と湧き水のように湧いているのに気づきます。胃が胃液を分泌するように頭という臓器は生理現象として思いを分泌するのです。ふだんは無自覚に生きていますから、いままでは気づかなかっただけです。まずは気づくだけでも大変な進歩です。気づいたら、次は、頭に湧いてくる思いをとらえて、いいとか悪いとかいう評価をいっさいしないで、ただ見ているだけの練習です。これが内観の念仏ですが、なかなか出来そうで出来ません。
そして、「宗祖の信心を疑う」と言う記事にこうありました
 信心の智慧とは“煩悩が見える”ということですから、いただいた智慧で見せていただいた煩悩(愛欲と名利)を親鸞はここで告白しているのです。これが「定聚のかずにいることを」喜ぶということです。信心(の智慧)のない人にはわからない。
慧海にわからない所の答えがこれであり、慧海のようなモノへのご指導であろうと思います

当然、これも頭でわかろうとしてもダメなのですよ

迷えば迷うほど、疑いが深くなります
疑えば疑うほど、頭に湧いてくる思いをみているだけにしていられなくなります

頭に湧いてくる思いと煩悩は一緒なのか?
煩悩をただ見ていられるようになったらどうなるんだ?
煩悩を見るだけでいたら、ある日「定聚のかずにいることを」喜ぶ状態になれるのか?
このままで自分は往生できるのか?

こんな疑問ばかりが頭に湧いてきている慧海ですが、この疑問が既に思いに分別をつけているということなのでしょうね…

疑問を捨てるぞ、もう迷わないぞ と決意して疑問が捨てられるわけじゃありません。慧海が知っていることは、疑問に感じている今、迷っている今を、ただ見て、ただ感じる事をするしかない ということだけです。
この疑問の答えは教えてもらえるものではないと感じているし、迷っているのは、智慧がなく、不安だからなんだろう ということも感じています。なので、この問題は往生しないかぎり、ず~っとつきまとうものだと感じています。往生して、智慧を得たら、安心をえて、疑問もなくなる という 裏表みたいなものなんじゃないでしょうか?
だから、どうしたら往生できるんだよ! とやっぱり堂々巡りをするわけです

困ったものです

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