2010年10月26日火曜日

仏を妄想しないように読む

全休先生の「仏が見ておられる」に
一念とは一瞬の体験であり、信心を得るとは智慧が生ずることです。智慧とは煩悩が見える眼であり、むこう側からこちら側を見る眼で、凡夫に属する眼ではありません。憶念とはわたしを見る仏の眼の中にわたしがいるということであり、わたしの眼でわたしを見るのではない。よって、わたしが仏を忘れようと、仏はいつもわたしを見ておられます。
とあった

を、これは慧海への回答か?なんて思ったりしつつも、
この手の言葉は読み手の力量を問われているように思える

何が力量かというと、仏を妄想しないで読めるか という意味での話だ

仏の眼とは?
仏はいつもわたしをみておられるとは?

そのまま読めば、自分の外に仏なるものを想像し、
その仏の眼の話をしているように読めてしまうだろう
それでは、仏道ではなく外道となってしまうのだそうだ

じゃどう読むのだろうか
先生の過去の記事にあるように、仏を智慧と読むことで、「仏の眼」とは「智慧の眼」と読みかえられる
じゃ、智慧がいつも私をみてる というのはなんじゃらほい?
それは、その上の行にあるように「智慧とは煩悩が見える眼」と書いてあるのだから、「煩悩が見える眼はいつもわたしをみている」ということになるんだろう
じゃ、仏は何をみているのか…そりゃ、煩悩の見える眼でみえる私とは煩悩以外にないではないかw
煩悩とは、三毒やら分別知やらと読み替えられる訳で、端的に言えば慧海のような凡夫以下のヤツの心のことなであり、ああ、慧海のことか! とか思ったあなたの事だ!w

そうするとなんだ、「わたしが仏を忘れようと…」ってことは、自我としての私が煩悩を見る眼を忘れようとも…ってことになってだなぁ… これまた先生の過去記事にあるように、見られる私(自我?)から見る私(真我?)になるってことで、私が私を見るのではなく、私が私を見るのだ って言葉は一緒じゃん!w

信心の獲てないヤツは仏道を語る資格がないんで、
そろそろ黙っとけつ~こった

まぁ油断無く自分の心をみておけ って事しかできんのだよ!
今の慧海には私の目で私の心を油断無くみるしかないってこった

慧海のあたまにゃ、
仏に逢うては仏を殺せ 祖に逢うては祖を殺せ だ!



…やっと届いた、わが名を称えよ を読みながら聞法しようっと

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