悩みは決して外から来るものではなく、自分の心から湧くものである。
それ故に、その悩みの原因を見る必要があるのですが、
それは自分の目によっては、容易に見られるものではない。
(松原致遠著『わが名を称えよ』97ページ)
自分の眼を自分の眼で見ることができないように、自分の心を自分の眼で見ることは出来ない。仏の眼(信心)を頂いて、見させていただくしか方法はないのでしょう。見るとは、離れて観察することですから、自分の心がつくる世界を離れなければなりません。すなわち、自分の心を離れた処(さとりの世界=浄土)から、自分の心のつくる世界(迷いの世界=穢土)を見るのです。それゆえ、自分の心を離れた処へ出ることを“往生”と言うのです。
あれ?「頭に湧いてくる思いをとらえて、いいとか悪いとかいう評価をいっさいしないで、ただ見ているだけ」を続けるても、その悩みの原因はみえないし、自分の目によってもみれないですね…
っていう疑問がでたあたりで、
「憶念の念仏」では、全休先生の「仏はわたしをどう見ておられるのだろうか」の念仏をする事が
善導の「衆生仏を憶念すれば仏もまた衆生を憶念したまう」の言葉の通り、仏の眼から見た自分が見えた瞬間、あなたは自分の心を離れるでしょう。仏があなたのことをどう見ておられるか、それが解れば、あなたも仏です。ということであり、答えということになるんでしょうね
慧海の理解で内観の念仏を勝手にまとめると…
1.自分の心を観察すること
→ ろんな思い、感情、気分が次から次と湧き水のように湧いているのに気づきます
2.頭に湧いてくる思いをとらえて、いいとか悪いとかいう評価をいっさいしないで、
ただ見ているだけにします
→ 悩みの原因まではみえてこないようです
3.「仏はわたしをどう見ておられるのだろうか」と憶念の念仏 をする
→ 自分の心を離れて、仏となる… 悩みの原因もみえてくるのでしょう…
ということになるかと思います
ちなみに、慧海は2の半ばで迷子になっている状態です
慧海にとって、悩みの原因をみるには、自分の記憶やら心やらの声を引っ張りだすことで、慧海の本心や過去に植えつけた自動思考に気づくことで、だいたいが解決してしまったからです
慧海の体験した不思議体験の一つの影響で、慧海の頭には、慧海の現状は慧海の心(記憶と妄想)で作り上げてきた勝手な世界での結果だという認識があります。慧海の外に慧海が認識している世界はないのです。
たとえば、慧海の認識の中には他人の心というものがありません。自分の心と同じように他人にもあるだろうと慧海が思っているという事だけがあります。そんな慧海の心すら、慧海が作り上げているのですから…
今の慧海は慧海の世界から抜け出ていません
どこまでいっても、慧海の世界が続いていることだけが今の認識です
ダメダメなことに、今の慧海では
「仏はわたしをどう見ておられるのだろうか…と慧海は感じるか」
となってしまうような気すらします…または妄想が補ってしまうか…
慧海の五感や意識を超えたところにあるものに気づくまではダメなのか…
それとも、今この感じているものが、慧海のものでない事に気づくまでは…
不思議体験と知識が、慧海に素直さをけずっていく…そんな気すらしてきますw
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