2010年10月23日土曜日

聞法は大事

全休先生の記事「無念無想で生きている」の
わたしたちが“自分”だと思っている思いや感情は自動機械のように自然に湧いてくるのであり、「全くわれわれが考えてやっていることではない」。自然に湧いてくるのだから、わたしの努力の結果でもなければ、自由意志で起こしたわけでもない。わたしたちは自由意志というものをかつて一度も起こしたことがなく、「人間というものは本当は無念無想で生きているのである」。仏になろうとしなくとも、そのままの仏なのです。
という言葉があった
ああ、宿業 ってことだな などと、知識として認識し、そして、
苦しい時にはこの宿業感にホっとした覚えすらある

なのに、先日読んだ時には、なにか認めたくないような、寂しいような、抵抗してみたくなるような、そんな感覚があって、それ自体もまた、認めたくないような気分だった

その翌日、「すでに救われている」で
宗教はすべての者を平等に救うという。なにかを信ずることで、あるいは特殊な経験を得たものだけが救われるのではなくて、すでに誰もが救われている、そのことに気づきなさいと教えます。あらためて救いを求めようとする、それが迷いというもので、求めることをやめれば、その瞬間が浄土の真っ只中です。

求める人の苦悩の滑稽さは、あたかも、道路の真ん中で腹ばいになって「溺れる、溺れる」と騒いでいる人のようです。「どこに水があるの、立ち上がりなさい」と教えてあげるのですが、気づいて立ち上がる人はほとんどいない。もし気づけば、その滑稽さに大笑いする違いない。
の記事をみて、ああ、そうか となんかすっきりした気になった
その日は地に足が着いているような、そんな感覚を強く感じた
さらに、「無念無想で生きている」の記事をみてもすんなりと、そうだな と思ったりするという、僕の立ち位置みたいなのが変わるような言葉だった

やっぱり全部自分の中での出来事なんだよね
しっかり地に足つけて、余計な妄想を交えず、ちゃんと見よう

救われた という部分が慧海にはイマイチ薄いが、地に堕ちて、やっと自分の足で立つことを知った
自分の足で立ち、自分の五感で感じることに意識を向ける事で、五感の知ることにどう妄想が入ってくるかを知った
そして、自分の妄想に乗っからないでいるにはどうしていればよいかを知った
これがわかっただけで、世の中を過ごすにはずいぶんと楽になる

残念な事に、知ったことは、よく忘れるw
慧海は3ヶ月ほど聞法を怠けた
結果、自分で感じたことすら忘れた

アレやらコレやらが欲しいとか、暇だけど新しい仕事すんのがめんどいな とかそんなことばかり考えてたり、あれやこれやとやることが溜まって、追われるように片付けていたりするのも、同じようにふわふわと地に足をつけずに日々を過ごす事になっている
そして、なんとなくアセアセ イライラとした日をおくるのだ

この記事をみて、ああ、そうだった と思い出したという感じだ 


「内観の念仏」の記事に
自分の心をよく観察して、いっときも油断なく観察できるようになれば、やがて、見られる心があなたなのではなく、見る眼があなたになる、そういう転換が起こるでしょう。
とあった
ブログ立ち上げ時の記事なんで引用させてもらっては無かったが、
この記事は実に慧海のような初心者向きな言葉だと思う
こうなるまで、何をしろ と書いてあるからだ

とはいっても、実際にやれるかは別
もちろん頑張ってみるのだが、油断無く観察がドンドンできなくなっていっている

観察する事に慣れというのがあるのかな?

元々油断無い観察ができていないが、感情のヤバそうなものだけは自動アラートが出るくらいの観察が最初の頃とちがって、強く意識することなくできている
逆に、観察している事を忘れる

車の運転で、ドコをみるか を意識してた最初の頃から、意識しないで色々みることができるのと同じような感じではあるが、頭が勝手に動いているという事なので、無自覚でいることをやめるべく観察してたはずが、また無自覚になるという事になって、本末転倒な状態なのだ

釈尊の教えが正しいかは実践してみて苦が減れば正しい と言う言葉を読んだことがある
であれば、実践した結果、楽になった部分はまちがっちゃいないんだろう

そのあたりも観察しつつ、地に足をつけていきてきたいものだな


こうやって、全休先生の言葉をよんでは、自分の事を振り返る
慧海にとってはこれが聞法の一部なので
あとは、日々?寝ながら?? 自分の心と体の声をきくだけ


新しいブログのエディタはイマイチだな…
入力領域が狭いからかな?
ちょっと運用方法も検討しよ…

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